”置き配とタブレット” 追論4  (在パリ 平井愛子)


面白い対話ですね。私のフランスの友人達が日本へ行って異口同音にいう事は、日本は道路も公共のトイレもチリ一つ落ちていないで清潔で信じられないほど綺麗だ ということです。犬の糞は大分良くなりましたが、場所によって違います。パリの歩道の所々に実は犬の用足しはここでするようにという印があるのです。その場所は時間によって自動的に噴出する水が道の下に通る下水道にゴミや何かを押し流すようになってはいるのです。でも私がパリに来た頃は、パリは上を向いて歩けないところだとつくづく思いました。もう20年か15年ぐらい前になりますが、犬の糞を飼い主は自分で処理するようポスタ-が張り出されてキャンペ-ンが一時よくされていました。そのポスタ-には車椅子の人が車に手をかけたその車輪に糞が付着しているという写真が印刷されていました。これが効を奏してか、今は随分綺麗になりました。実際犬を連れて散歩をしている人がちゃんとプラスチックの袋で取っているのを私も目撃していますので、随分変わりました。でも所によります。パリの中心や6区7区あたりは綺麗ですが、周辺地域はまだまだです。コロナで一時駅も道路もメトロの中も本当にきれいに掃除され、消毒液で電車のドアや皆が摑まる柱を拭いていたりしていましたが、また元の木阿弥という感じになってきました。清潔感や衛生心理が違うのですよ、日本とは。

でもオリンピックに向けてパリの美化運動は進んでいるようですから、期待はしたいと思います。

(編集子)平井愛子さんは、在パリ30年以上のキャリアウーマン。現在はフランス政府公認ガイド。安田君の元会社同僚の従姉妹で、音楽・美術・歴史・文化、人間の生き様などに関心深く、1年前からフランス便りYouTubeを配信継続中。

 

エーガ愛好会 (119) おとうと   (普通部OB 船津於菟彦)

あらすじは結婚してすぐに夫を亡くし、小さな薬局を営みながら、女手ひとつで娘の小春を育てた姉・吟子と、役者としての成功を夢み、無為に歳を重ねてしまった風来坊の弟・鉄郎の物語である。鉄郎は姉・吟子の夫の十三回忌の席で酔っ払って大暴れし、親類中の鼻つまみ者となっていた。以後吟子との連絡も途絶えていたが、娘のように可愛がっていた姪の小春が結婚することをたまたま知り、披露宴に駆けつけた。
歓迎されざる客を追い返そうとする親類を吟子は取りなし、鉄郎に酒は一滴も飲まないと約束させて披露宴に参加させた。しかし鉄郎は目の前に置かれた酒の誘惑に抵抗できず、あっさりと約束を破ったばかりか酔っぱらって大騒ぎを演じ、披露宴を台無しにしてしまう。その事件は、のちに小春の結婚が破綻する一因ともなる。結婚式での乱行に激怒した親類らが次々と絶縁を決め込む中、ただ一人、吟子だけは鉄郎の味方だったが、その吟子も、鐵郎の付き合っている女に150万円借金していてその女が吟子の所へ返済を言いに来て、有り金を総て銀行から下ろして、その女に渡している。この事件をきっかけについに鉄郎に絶縁を言い渡してしまう。鉄郎は悪態を吐いて出て行くが、 このときすでに鉄郎は死の病に取り付かれていた。居なくなった鉄郎の捜索願を出してたんです。で、予想は的中!! 鉄郎は大阪で倒れ、民間のホスピス「みどりのいえ」に引き取られたという鉄郎は、末期がんに侵されていた。面会を拒絶する鉄郎だが、吟子が想像するよりも元気な姿で過ごしている。口達者な鉄郎はみどりのいえでも、よく話を聞かせているという。支払いを心配する吟子だが、生活補助や国からの補助金で賄われていると所長から説明を受けるのだった。、。ここのホスピスの人人が笑いと人としての優しさに満ちあふれている。一つの季節を跨ぎ、みどりのいえから鉄郎の容態が悪化したという連絡が吟子の元に届く。互いの手首にピンクのリボンを巻き付け、存在を確認できるようにした吟子。鉄郎の容態が山場を迎えた頃、小春と亨も駆け付けたが、鉄郎は吟子たちとみどりのいえの人たちに見守られ息を引き取った
しばらくして落ち着いたころ、小春は亨との結婚式を控えていた。痴呆が始まった義母が「あの人だけのけ者だと可哀そう」だと鉄郎の心配をし始めた。これまで白い目で見られてきた鉄郎への優しさに吟子は涙をこらえ、小春は「今からでも呼ぶわ」と声高らかに返答をするのだった。
キャストの• 高野吟子:吉永小百合• 丹野鉄郎:笑福亭鶴瓶• 高野小春:蒼井優が何とも言えない好演。そして何時ものタンタンとした普通の生活を描く• 監督:山田洋次。
邦画らしいというと偏見はあるかもしれないが、とても穏やかに人の温かみを伝える物語である。東京が舞台ながら、人情劇が会話と目線で伝わるのは山田洋次監督の手腕によるものか、吉永小百合などの演者の実力か。淡々とした展開ながら、家庭における普遍的な問題がたくさん提起されている。ベルリン国際映画祭のクロージング作品に選ばれていることからも、世界共通の「家族像」が伝わる一作であることは間違いないだろう。
正に「家族」とは。とか人の「死」とは。「人情」とは。とか語りかけてくることを大声で言うのでは無く、山田洋次監督の独特との描き方で何気なく描いている。そし吉永小百合と笑福亭鶴瓶の好演が光。それをに何とも愛らしい蒼井優がカバーしている。
いい年をした大人の男が、大きな声で「お姉ちゃん!お姉ちゃん!!」と姉を呼ぶ。その屈託のない笑顔は、最期の時を待つまで変わらなかった。いい加減な弟を、腹立たしく思いながらも憎めず、常に心配している姉も、変わらなかった。家族のあり方なんて、仰々しいものではない。家族の本来の姿なんだろう。小生も4人兄弟でしたが既に三人は鬼籍に入り一人残されている!何となく寂しい。やはり「お姉ちゃん!お姉ちゃん!!」と言ってみたかった。

”置き配とタブレット” 追論3   (会社時代友人 齊藤博)

置き配というシステムは、新型コロナ禍で始まった緊急避難的な業務遂行方法だと思っている。つまり、Amazonを始めとする通販会社によって、その販売を継続させるために考えついた戦術に過ぎなかった。新型コロナ禍でこの方法が始まって、禍、すなわち難儀でなくなっても、この置き配は続くのだろうかと思う。

新型コロナ禍の前から、少子化という視点も含めて、宅配業者にとって、宅配すべき物品をどのように効率よく受取人に渡すかが問題になっていたように記憶している。たまたま降って湧いた新型コロナ禍で、追加コストをほとんど掛けずに、物品を受取人に渡す算段がついたのは、ラッキーだと思う。

私の住むマンションには25年前から宅配ロッカーというものがある。近くの駅にはヤマト運輸関連のPUDOステーション(Pick Up & Drop Off station)というものがある。これは佐川急便の宅配でも使える。近くにはコンビニがあり、宅配をコンビニで預かってもらうことも出来る。最近では戸建て用の宅配ロッカーもあるようだ。実にコンビニエントな都市生活になったものだ。我が家では、宅配のお兄ちゃんお姉ちゃんが暑いさなか荷物を届けてくれると、一杯の麦茶を出すのが恒例になっていた。配達員のご苦労をありがとうと言葉とともに伝えていたつもりであった。一杯の麦茶を出すのは、生産性と言うか効率の観点では最悪かもしれない。でも、私の周りにいる人と人とのつながりではないかと思う。

タブレット注文も、Giさんの仰るとおりだと思う。追加であるが、メニューでもタブレットでも、舐めて味がするわけない。どちらでも良いじゃないかと、お店にとっては集計の手間を掛けずにできるのが良いというわけなのであろう。自分の好みや、子供のアレルギーでの禁忌な物の問いかけも出来ない。色々と食事制限のある身にとっては、困る。北京オリンピックで天井から食事がおりてくるのに似ている。

皆さんのコメントとは違った角度でみて、置き配とタブレット注文は、SDGsと叫ばれていながら、反対方向の事に思う。売る側の論理だと思う。戦略と戦術を混同している日本の表面だけを捉える文化に見えて仕方がない。

蛇足であるが、犬猫の糞や尿の件では、小生の最近の保健所での経験から現状はきれいごとでは済まないと感じていて、もしかすると先進国の中で日本は最悪の部類に属すると思う。保健所勤めで受けた苦情の多くの部分は、放置された糞尿、鳴き声であった。私の最多訪問国のドイツやオーストリアではありえない現象で、日本はイギリスに似ていた。そのことについてご参考までに付記する。

しばらく前の良き時代は、多くの犬の飼い主は、本文のように、シャベルと袋を持って犬の散歩をしていたと認識していたが、保健所に勤めて色々と学ぶと、知らないことばかりで驚くことばかりであった。例えば、ブルドックは、自力で出産できずすべて帝王切開、ボクサーという犬は、それなりの長さの尻尾があるが生まれてまもなく切断するのが当たり前、など、知らないことばかりだった。
犬を飼う場合には、予防注射だ何だかんだで、多額の費用がかかるが、今時、そのような予備知識もない方が多いようだし、犬一頭あたりの価格は、安くても3〜40万円もするほどに高騰しているが、それでも、小さな犬を衝動的に買われる経済力を持った方が増えた。それにつれて保護犬を扱うNPOがたくさんできている。
犬猫は外で排泄するものと思っている方も多いようで、マンションの玄関や、近所の駐車場などの暗がりで排泄させる。散歩をして排泄させる場合でも、糞用の袋や尿を流す水を持参して散歩すべきだが、尿をしても、見せかけ程度の少量の水かけしかしない。金属製の電柱の根本が腐って倒れたニュースもあった。狂犬病予防法における犬の登録も、予防注射も罰則付きの法律があるということも知らない場合がある。最近では、うっかり道路の端や草の茂った所を歩くと、「うんのつき」となって、腹立たしさに保健所にしつこくクレームをつける方も増えてきている。区や市によるけれども、糞の始末は、区道であれば、区の清掃事務所が担当するが、私道や個人の敷地の場合は、所有者が行うのが一般的なルールとなっているし、ネズミや鳥、路上の猫の毛皮も同様である。
実は私は「ねずみ算式に増える」という話はネズミのことだと思っていたのだが、ネズミに対抗して猫もねずみ算式に増える。動物の世界では相対する種では、当たり前の話のようだ。

(編集子)齊藤さんは小生と同じ外資系企業勤務で、同じように文化の違いやらなにやらで悩みを語り合ったりした仲。親会社の関係で欧州での経験も豊富。医療関係の造詣が深く、最近は保険所で勤務の経験がある。

蝋梅鑑賞    (34 小泉幾多郎)

2月5日、蝋梅のことをネットで開くと早渕公園という所に60本程咲いているとあった。横浜地下鉄グリーンライン東山田駅から早渕川という川沿いに歩いて10分程度で到着。竹林の傍に咲いていた蝋梅をご紹介します。穴場なのか、階段を下りたわかりずらい場所に咲いているからか、ひっそりと咲いている感じで、土曜日というのに殆んど人に会わずじまい。

(飯田)早渕公園なる所の「蝋梅」の珍しい写真、楽しませて頂きました。
有難うございます。

ところで、日頃、疑問に思っていることを、この「蝋梅」の写真で思い出しました。植物が花を咲かせる主な目的は受粉であると小学校時代に覚えた知識で現在まで進化していない私ですが、「蝋梅」やこの寒い時期に散歩する道端に大きな花を沢山着けて咲く「寒椿」などは、何故、こんな寒い時期に咲くのでしょうか?いくら周りを見渡しても受粉に必要な昆虫類は全く飛んでないし、この年になるまで調べも人に聞きもせず疑問に思っています。
動物の進化論は今また流行りのダーウインを小さい頃に昆虫や動物が好きで
良く読みましたが、植物は綺麗だ!!と人一倍思うだけで、何故なのかは殆ど知らずに生きています。高山植物なら高地で生き残れる生命力があるからだと納得できますが、「寒椿」や「蝋梅」が何故、もっと昆虫や鳥が飛び交う春ではなくこの寒い真冬に満開の花を咲かせているのか、その目的を知りたいと「蝋梅」ならず、「狼狽」しながら伺う次第です。

(船津)何故あんな綺麗な色で花は咲くのでしょうか?「擬態」なども不思議ですね。ウィルスなとも分からない事だらけですね。どうやら光輝高齢者の「老化」は防げるような研究は進んでいるようですが、それでも死は無くならないそうです。生命の起源が分からないようで、懸命に解析中のようですね!遺伝子は殆どが解読されたようです。
哲学的な質問されると「ウヒャー」で「狼狽」してしまいます。さてさて。
「緋寒桜」もチラホラ寒風の中咲いています!紅梅・白梅」も満開に成ってきました!不思議ですね。でもチャンとムシが寄ってきていますね。
綺麗な女性を観ると「何故綺麗?」と思うのでしょうか。それぞれ本能なのでしょうね。意味の無い事無いのでそれぞれ「意味」があるのだと思います。悩むなぁ。

(編集子)フナツ兄、も一度、”平家物語” をお読みあれ。

”置き配とタブレット” 追論2  (36 大塚文雄)

本論を補足する意味で、小生現在執筆中の本から関係する部分を抜き書きしましたのでご一読ください。同書脱稿しましたが出版まではまだ少し時間がかかります。自分の経験から書いた主題はインタンジブルス(無形資産)ですが、本の題名に入るかどうかも分かりません(表紙は出版社が決める領域だそうです)。

 

日本は欧州主要三ヶ国と競いあっていて生産性はそれほど低くない

たしかに日本のGDPは長期にわたり良い数字ではないし、GDPを指数とする経済成長率も低くなります。そこに、日本国民一人当たりGDPは参加38ヶ国中の20位あたりが定位置というOECD情報が加わり(第十六章参照)、日本の生産性が国際的に低いと考える日本人が多くなりました。マスメディアでは常識扱いです。

これは欧米で何年も生活し、欧米人社員と仕事をしてきた肌感覚とは合いません。そこで、ADA思考法で2019年の順位表を読み込んでみました。日本の一人あたり名目GDPは、欧州主要三ヶ国(ドイツ・イギリス・フランス)と4万ドル台で競いあっていて、日本人の生産性がそれほど低いとは思えないのが結論です。

表①はOECD発表の上位22位までに絞り、人口と人口密度を加えたものです。1位から12位までには小人口・低人口密度の国が並んでいて、13位から22位までには人口5,000万以上の国が並んでいます。

表②は22位までを人口の多い順に並びかえたものです。人口5,000万人以上は7か国で、米国を除くと、一人当たり名目GDPが4万ドル台なのは日本と欧州主要三ヶ国(ドイツ・イギリス・フランス)だけです。

参考表③は人口一億人以上の13ヶ国の一人当たり名目GDPで、米国と日本が群をぬいていることが見てとれます。欧州主要三ヶ国と日本は50年間一人当たり名目GDP競争をしてきたのです。

 

 

 

 

 


1950年代に労働組合が「ヨーロッパ並みの賃金」というスローガンを掲げ、「追いつき追い越せ」が日本の流行語になりました。

グラフ①から追いつき追い越せたのは、25年後の1980年頃です。それからさらに25年後の2010年頃に、欧州主要三ヶ国が日本を抜き返したことがわかります。意識の外にあったとは言え、日本と欧州主要三ヶ国は50年の長きにわたり1人当たり名目GDP競争をしてきたことになります。

 

”置き配とタブレット” 追論     (44 安田耕太郎)

ブログ拝読しました。思わず大きく 膝をたたき ました。全く同感。言ってみれば、概ね同一民族による均質性の高い文化・習慣を歴史的に長らく維持し育んできた島国国家・日本の特長・美点を挙げられたと理解します。その多くは日本では当たり前な普通のことでも外国からみれば稀有な驚愕することのようです。

海外から初めて日本に来て驚いたと彼らが指摘することを追加すれば、一つには、現金が詰まった無数の “自動販売機“ が野放図に道端に設置されている事実。最近、自動販売機荒らしが報告されるようにはなったが(外国人の犯行だと目されている)、彼らにとっては信じがたい驚愕する日本の現実。この類の日本独自の美点とも云うべき事例をあげれば枚挙に暇がないが、2~3挙げると、海外から来日した取引先の外国人は、建物の工事現場を見て皆驚いていた。周囲を幕で覆い美観対策のみならず、安全面での対処法にも目をむいて驚く。犬の糞を踏まずに散策できる公園。海外旅行においては命・パスポート・クレジットカードの次に大事なスマホを紛失したが、本人の許に届けられ泣かんばかりに感激した外国人旅行者。彼らにとっては夢のような国。テレビで報告された事例では、紛失したあと帰国した外国人の母国にまで届けられたこともあった。

いわば温かい人間の血が通ったアナログ的な美点を誇りに感じるべき日本人は、現在、便利さ・効率性・労働生産性を追求するいわばデジタル的な会社経営のみならず社会運営を強いられているかのような呪縛に陥っているように見える。それが、社会の進歩と発展と直結していると錯覚するきらいがある。大間違いだ。

日本が挑戦すべきは、例にも挙がった日本のアナログ的美点・習慣を維持しつつ(無意識に維持され)、如何にして貧困化の流れを食い止め、経済発展・成長路線へ国を社会全体を方向転換させるかということに尽きる。安全、安心で裕福な住みよい社会が究極なゴールだ。言ってみれば、アナログとデジタルが究極的に効率よくブレンドしたハイブリッドな社会を目指すべきだと思う。二つは決して二律背反の矛盾することはなく、労働生産性を追求した結果、失業した労働者の仕事・職を確保する新たな雇用機会を新しい産業を興すことで吸収する必要があろう。時間は暫くかかるが、世界的に観て競争力のある付加価値を産む産業の育成、日本の産業構造転換・労働人口の適切な配置・分配、大きな新規雇用機会の創出などを達成せねば貧困化には歯止めがかからない。

日本の現状は、“ 貧すれば鈍す “、” 悪貨は良貨を駆逐する” のスパイラルに巻き込まれている気がして、更に危険が増幅する可能性も大いにありうる。上手く方向転換させなければ、結果はさらなる貧困化をもたらし、そして何百年と維持・運用されてきた長い歴史と文化の土台の上の成り立って来た、このブログ交信でも挙げた幾多の素晴らしい(世界を驚愕させる)日本の美点を犠牲にしかねないということだ。貧困、失業者に歯止めがかからず、“ 置き配” や “自動販売機” は盗難の危険が心配になる社会に決してしてはならない。政・官・産業界・民・教育界・家庭・・全ての関係者・国民にとって突きつけられ挑戦しがいのある課題であろう。

エーガ愛好会 (118) タワーリングインフェルノ  (HPOG  小田篤子)

キャストが豪華:  ポール·ニューマン、スティーブ·マックウィーン、ウィリアム·ホールデン、フレッド·アステア、フェイ·ダナウェイ、そして皆様がお好きな、「慕情」のジェニファー·ジョーンズも。
タイタニックの高層ビル版でオーナーの娘婿が、予算削減の為に、設計士の指定より性能の低い受電盤を使ったことで出火します。消防隊長のマックウィーンと設計士役のポール·ニューマンの活躍にハラハラドキドキ。
この出火原因を作り、我先に逃げようとした娘婿役はリチャード チェンバレン。昔TVドラマなどでとても人気があり、ハンサムで爽やかな素敵な人で私もファンでしたが、今回は一番嫌な役でした。前回の「悲しみは空の彼方に」のトロイ·ドナヒューのように。
先月、新聞に読者からの❬映画を巡る物語❭が4回連載されていました。そこに載っていた71歳の男性の投稿の一部分です。
” 70歳まで建設関係の仕事に従事した私の一番の映画は、就職間もない頃に封切られた「タワーリング·インフェルノ」です………建設技術者として安全な建物を考えるきっかけを作ってくれました……来賓の客が次々に命を奪われる場面が衝撃的で、脳裏に強く焼き付き… 人生の座右の銘として「安全な建物」の出発点となった作品です。
(安田)「慕情」コンビのジェニファー・ジョーンズとウイリアム・ホールデンの皺の増えた熟年振りには人間は歳をとるんだと染み染み知らされました。有名俳優の揃い踏みは懐かしく、彼等・彼女達の映画を思い出します。テレビドラマ「ベン・ケーシー」と人気を二分し「ドクター・キルデア」のチェンバレンを映画で見たのはこの一本だけ。アメフトの英雄、裁判中のシンプソンも出演していた。スパイ物テレビドラマ「0011ナポレオン・ソロ」のヴォーンも懐かしい。
「・・インフェルノ」に加えて、海の「ポセイドン・アドベンチャー」、橋梁のシーンが忘れ難いソフィア・ローレン、アリダ・ヴァリ、エヴァ・ガードナー、往年の三美女が一堂に揃ってパニックに陥る「カサンドラ・クロス」、これら三本の高層ビル・豪華客船・列車を舞台にした怖い映画はそれぞれ1974年、72年、76年の制作。更に豪快キャストのオリエンタル急行殺人事件」は74年制作。スリルを全面に押し出し、それに人間模様を描いた映画が多く制作された時代だったのですね、70年代は。制作費も半端ない大作揃い。ヴェトナム戦争も終焉(1975年)が近づき、アメリカンニューシネマの波も一段落した頃にこれらの映画が世に出たのは興味深い。「ゴッドファーザー72年 & 74年」、「フレンチコネクション71年」もこの類の仲間だったのでしょうか?
(武鑓)タワリング インフェルノ」は小生も懐かしく好きな映画の一つです。
1973年1月サンフランシスコに駐在赴任しましたが、丁度、その頃本作品を撮影中のようでした。ある晩、シスコのダウンタウンのCalihornia St.にあるBank of Americaのビルの側を通りかかったら、ビルがライトアップされ消防車も来ており大勢の人が集まっていました。映画撮影中とのことでしたが、その時は映画の題名もこんな豪華俳優が出ている映画とも知りませんでした。その後、映画が公開されて現地でも観たはずで帰国後も字幕入りで映画館やTVでも観ましたが、毎回退屈しません。
シスコを舞台にした映画は数多くあり、皆さんよくご存じのS.マックイーンの「ブリット」やC.イーストウッドの「ダーティーハリー」などはTVで上映される度に観て、家内からよく飽きないものと呆れられています。
(編集子)いやあ懐かしい名前ですな。ブリットで出てくる通りは覚えがあるところがあったし、ダーティハリーの何作目だったか、コイタワーと思しきあたりも出てきたな。いやいや。

”置き配” と タブレット

仕事を辞めて数年してから、一念発起してポケットブックを原文で読み始めた。その一つのきっかけがアマゾンの存在である。学生時代から社会人5年生くらいまでの間、年に数冊は原書を読むことにしていたが、その本はすべて丸善まで行かなければ買うことができなかったし、たまたま店にあった本を買ってくるだけだった。しかしアマゾンという仕掛けを知ってからはその便利さに完全にはまってしまって、月に一度くらいはポケットブックを届けてもらうようになり、最近は “置き配” という方法で本が届く。誠に便利であるし、配送業者にしてみれば時間と手間の削減、硬くいえば労働生産性の向上に効果があるのはよくわかる。

しかし考えてみるとこのような方法はその社会環境に左右される。言いかえれば、よく調べたわけではないが、世界広しといえども、”商品、家の前に置いておきましたよ“ で配達が済む国はわが国だけではないだろうか。届け物を玄関先においても盗難にあう心配をしないで済む国、工事現場に材料やら機械やらを置いて帰っても翌朝にはちゃんとある国、さらに最近夫婦して経験したのだが、どこへ置いてきたかも覚えていないスマホがきちんと戻ってくる国。犬を連れて散歩する人がシャベルに袋まで持って後始末をする国。欧州の先進文化圏にはほとんど行ったこともないので断言しないが、少なくとも米国には全く存在しない安心というものがこの国では至極当然のことになっている。そういう文化があるからこそ、”置き配“ による生産性の向上ができるわけだ。

”我が国の労働生産性は低すぎる“ ”先進国ではこんなことはない“ ”日本はだからダメなんだ“ 一連の識者と呼ばれる先生方は異口同音に発言される。労働生産性、とは要は付加価値、わかりやすくいえば売上金額をそれにかかわる人数で割った比率のことなのだから、その人数が減れば当然向上する。この手の議論には全く経験がないので判然としないのだが、生産性、を上げるために人手を減らす。そこまでは問題ない。しかしそこで ”減らされた“ 人の雇用はどうなるのか、その結果が引き起こす社会現象はどうなるのか、生産性とたとえば失業率とか犯罪発生率とかの関連、そのあたりについて、かの識者先生方のお考えはどうなのだろうか。

コロナ対策で始まった(と理解しているのだがどうもコロナが収まっても続くだろう)現象の一つに、レストランでのタブレット注文、というのがある。これも工数削減に確かに効果があるだろうことは素人目にも確かである。しかし、である。ま、仕事途中にかきこむランチならともかく、一息入れようかというつもりの場での一つの楽しみはやはり店の雰囲気であり、それが一番よくわかるのが店員さんの応対であり、何気ない会話であり、なじみになれば冗談の一つも交わす、というものなのではないか。それが無機質なタブレットに置き換わってしまう、この大げさに言えば喪失感(!)というか断絶というか、たまらなくつまらない。ここまでやるのなら、言ってみれば自動販売機の前にすわるのと同じではないか。

生産性の分母にあたる人数については、レストランの話はともかく、日本における雇用形態と関連があるのは当然で、アメリカ流の hire and fire が前提ではない。この日本的雇用形態についてもうんざりするほどの議論があるのは承知しているが、基本的に個人を尊重しながら社会の調和を考える日本文化は存在し続けるだろうししてほしい。”個人の自由“ を尊重するからマスクはしない、というような理屈ばかりの議論がまかり通る国では、結局, ”置き配“ は実現できないだろう。

 

 

 

エーガ愛好会 (117)   ミザリー  (44 安田耕太郎)

「ホラーの帝王」の異名を持つスティーヴン・キング原作の「Misery」(悲惨の意)の、1990年制作の映画。彼の人気小説「キャリー」、「シャイニング」、「スタンド・バイ・ミー」などに続くサスペンス ホラー・ストーリー。1994年には彼の原作「Rita Hayworth and Shawshank Redemption」(邦題:刑務所のリタ・ヘイワース)による映画「ショーシャンクの空に」(The Shawshank Redemption)が人気を博した。「ミザリー」も彼ならではと唸らせる。原作小

スティーブンキング

説の方が、映画より場面を想像して膨らませられるだけ、より不気味で怖かった。それでも映画も充分に怖い。彼がこの小説を執筆したのはロンドンへと飛ぶ機内で見た夢に出てきた話を基に一挙に書き上げた由。当時、キングはアルコールと薬物中毒の治療を受けていて、看護婦の世話になっていたところから、主人公の女性を看護婦とした、と言われている。

穏やかで人の良い中年女性役の多いキャシー・ベイツの怖く不気味な怪演が光る。オタクおばちゃんの演技がうますぎる。喜びで浮かれまくっている時のはじける笑顔と、いきなりサイコパス顔に豹変する落差が凄まじい。笑顔と恐怖の顔が繰り返され、次第に恐怖が増幅していく仕掛けになっている。正気と狂気、微笑み・優しさと恐怖の対比による相乗効果は特筆もの。ヒッチコック監督のサイコパス映画「サイコ」1960年で精神病質者を演じたアンソニー・パーキンスの役名はノーマン・ベイツどちらの ”ベイツ“ も不気味で怖かった。キャシー・ベイツ42歳時の映画で、アカデミー主演女優賞に値する好演だ。以後、出演機会が増え確固たる位置を占める女優となる。「タイタニック」、「ミッドナイト・イン・パリ」でも好演していた。

ベイツに翻弄される作家役を、「ゴッドファーザー」「遠すぎた橋」(A Bridge Too Far)などで豪放な役を演じた50歳のジェームズ・カーンが魅せる。彼の両映画出演写真添付。キャシー・ベイツの好演が全てのようではあるが、相手役を演じたカーンの演技も秀逸で、ベイツに対する恐怖や痛みの表現と逃れるための必死の行動があって「ミザリー」は成立している。カーン演じる作家は著作「ミザリー・シリーズ」で知られた存在。映画の題名「Misery」“悲惨“ と ”小説内のヒロイン名“ の両方を掛けている。巧妙だ。更に、アニーが可愛がるペットの豚の名前もミザリーだ。ファン心理からくるサイコパス女性の狂気を描き、異常なまでに作家を追い込み占有したい欲求に駆られ、それが裏切られた際の恐怖に満ちたヒステリーを演じたキャシー・ベイツには脱帽だ。彼女の狂気から必死に逃れようともがく作家との間の死闘ともいうべき攻防は見応えがある。

物語は、雪に閉ざされた小さな家の中で起こる密室に近い映画舞台設定は、ヒッチコックの「裏窓」1954年、オードリー・ヘップバーン主演の「暗くなるまで待って」1967年のサスペンス映画と同じだ。いやが上にも両主役俳優の名演技と演出が際立つ舞台設定だ。 映画の最後に近く主人公が小説を執筆していたシーンで、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番が流れていて、ホラーを和らげるかの雰囲気を醸し出すが、そのすぐ後にポールとアニーの命を懸けた血みどろの決闘が始まる。印象的な場面だった。

”遠すぎた橋”のジェームス・カーン

(保屋野)「ミザリー」、初めて観ました。ホラー&サスペンスというジャンルなのでしょうか。気違い女に監禁された作家が、いかに彼女から逃れられるか、という筋立てで、ハラハラドキドキ感もありました。

主役のキャシー・ベイツはこの気違い女の役でアカデミー主演女優賞をとったそうです。作家役のジェイムス・カーンも雰囲気のある良い俳優だとおもいます。出演はほぼこの二人だけ、という安上がり?の映画ですね。

私はホラー映画が苦手でほとんど観ませんが、この映画や「サイコ」はサスペンスの要素が強く、まあまあ面白かったです。さて、私がこれまで観た映画(少ないですが)の中で、最もハラハラドキドキしたものは「逃亡者」でしょうか。~テレビの方が面白かったですが。あとは「ポセイドン・アドベンチャー」や「恐怖の報酬」あたりかな。

(船津)安上がりの映画。気持ち悪さで引っ張っていく。何となくホラーでも無いしサスペンスでも無いしつまんねー映画。

エーガ愛好会 (116) シノーラ  (34 小泉幾多郎)

1900年のニューメキシコのシノーラという所を舞台に、土地所有権をめぐって繰り広げられるガンマンたちの死闘を描く。あの「荒野の七人」「OK牧場の決闘」等決闘3部作で名高いジョン・スタージェスの監督で、主演がクリント・イーストウッドというのだから期待は高まる。イーストウッドはマカロニウエスタンから帰還して10作目、「恐怖のメロディ1971」で初監督、「ダーティハリー1972」に出演、「荒野のストレンジャー1973」での西部劇初監督を控えての意気軒高の時期だけに、名監督との作品で何かを得たい気持ちがあったのではなかろうか。舞台や主演者から何となくマカロニウエスタン的色彩が色濃く感じられるが、それなりに楽しめた。小気味よい音楽で始まるが、音楽監督が「ダーティ・ハリー」等のラロ・シフリン。背景も素晴らしく、カリフォルニア州ローンパイン(アラバマヒルズ)にロケし、雪を頂く山々に囲まれた岩だらけの風景をブルース・サーティースが撮影と、スタッフはいずれもが一流の顔ぶれで占められている。

権力と結びついた名目だけの保安官(グレゴリー・ウオルコット)と街の支配者ハーラン(ロバート・デュヴァル)たちの気まぐれによって流れ者や弱者が制裁を受けるように、此処シノーラの街でもジョー・キッド(クリント・イーストウッド)は拘置所にぶち込まれた。メキシコ人も自分たちの住んでいた土地を訳の分からぬ理由をつけられ、牧場主たちに奪われてしまったことから、チャーマ(ジョン・サクソン)とその一味が乱入、土地の証拠物件を焼かれた仕返しに書類を焼いて砂塵の中に消える。ハーランは腕を見込んだキッドを含む凄腕ガンマンによる追撃隊を確保しチャーマ一味の後を追う。チャーマがいる岩山に囲まれた山村でのハーランのメキシコ人への迫害ぶりに、キッドは村の娘ヘレン(ステラ・ガルシア)と結託、メキシコ人側につくことに。最後正当な裁判を受けることを条件に、チャーマ、ハーランのそれぞれの一味をシノーラの街へ戻すことに成功する。残念ながら正当なる裁判が開けるような状態ではなく、チャーマ一味とハーラン一味との銃撃戦となる。キッドは列車を暴走させ、酒場にいるハーランの部下たちの中へ突っ込み、浮足立った部下たちをやつけることに。裁判所に入ったハーランに対し、裁判官の席に立ったキッドが、裁判官と死刑執行人としてハーランを撃ち殺すのだった。

雄大なロケーションとガンアクション、高性能ライフルでの遠距離射撃、機関車の酒場突入等クライマックスの見所も多く、イーストウッドの若々しく颯爽とした恰好良さ、ロバート・デュバルの悪役ぶりも堂に入り堪能したが、スタージェス監督の冴えがもう一つでした。イーストウッドからもマカロニ・ウエスタンのセルジオ・レオーネ、「ダーティ・ハリー」のドン・シーゲルのことは恩人ということを聞くが、ジョン・スタージェスについては聞かない。

(編集子)ロバート・デュバル はやはり ゴッドファーザー での初見参の印象が強く、どうもこの映画ではミスキャストではなかったかという気がする。ジャック・ヒギンズの名作 鷲は舞い降りた で準主役のラードル大佐を演じたところまでは記憶にあるが、往年のテレビシリーズ コンバット に出ていたとは知らなかった。ローンパインはカリフォルニア中部のサンジョアキンバレーに位置し、デスヴァレーとかマウントホイットニーなどへの入り口にある街で、パイン(松)は見かけなかった気がするし、むしろ ローン、という形容詞のほうが印象に残った、編集子の印象としては冴えない印象が残っている。