”月いち高尾” 第三世代へ!  (47 関谷誠・伊川望・51 斎藤邦彦)

私(関谷)の本籍は生誕地である東京都文京区目白台、これまで住んだ地は国内外様々ですが、東京出身である事を自負しております。その東京の数あるシンボルの中で、未知の世界は「東京タワー」(勿論、「スカイツリー」も!)と「高尾山」でした。東京タワーは未だ制覇しておりませんが、「高尾山」は、2017年末、女川の牡蠣とワインでの忘年登山との「月いち高尾」の誘いに釣られたのが運の尽きでした。爾来、高尾の四季折々の自然、諸先輩方との気の置けないお付き合い、「天狗」での反省会等々に魅了され、本州西端の片隅に住みながらも、可能な限り、参加してまいりました。

ジャイさんを中心にKWV36年卒の「ナンカナイ会」の皆さんで2011年1月から始められた「月いち高尾」ですが、その趣旨について、『ナンカナイ会 その"ふみあと“』(2017発行)から抜粋してみます:

“いくら張り切ってみても加齢現象は我々の現実である。しかしアルプスはダメとしても、せめて低山でいいから、可能な限り、”山“に接したい。低山の代表選手である高尾山くらい、せめて月いちどでいいから、歩いてみないか。あまり期待せずに数人で呼びかけたプランは予想外に長続きしており、さらに最近、直近下級学年からの参加も増えてきて、これがナンカナイ会のみならず、シニアワンダラーの既定プログラムとして継続されそうな気配もしてきた。 この”月いち高尾“が予想外に長く続いたのは、場所と実施日を基本的に固定したこと、事前通知不要として完全に個人の当日の具合で参不参加を決めるようにしたこと(現在では事前エントリーが原則)、および途中から偶然に発見した居酒屋での打ち上げについては、それだけの参加も可としてハイク以外での会合機会としたこと、などが理由であろう。当初は同じところだけではつまらないのではという危惧もあったが、むしろ、季節を変え、ルートを変える事によって、いままで想像もしていなかった高尾山領域の魅力を発見することにつながったし、高齢者の登山に不安となる事故対応がすぐとれるという安全感も大きかった。  発足後6年を経て、他学年各位の参加が増えてきたことから、このWの企画運営を若い層に依頼し、シニアKWVers向けの広いプランにしたらどうか、という気運が生まれ、2017年1月から、その任を39年卒の堀川義夫に委託することとした。我々は今後も積極的に参加するが、より多くのOBにとって、有意義なプランとなってゆくことを期待している。”

2017年1月より、ジャイさんを引き継いで、39年卒の堀川さん、岡沢さんと40年卒の藍原さんで「KWVシニアワンダラーズの世代を超えての心のつながりを維持・持続してゆこう」とのこの集まりの基本理念に基づき、新型コロナという未曽有の禍に直面しながらも、5年にわたり運営いただき、継続されています。この「月いち高尾」の更なる継続・持続の為、堀川さんが傘寿を迎えられる事等々もあり、山行後の飲み会の席で、唐突に、後を頼むとの打診がありました。この集まりの基本理念は、長年、OB会活動に多少なりとも関わってきた私の思いでもありましたので、住まいが遠方であることや、近年、衰えが顕著な足腰の事などすっかり忘れ、飲んだ勢いもあり、引き受けさせていただきました。

千葉県柏に拙宅はあるものの、特養に入所している義母の側面からの面倒見は、当面、続きそうで、山口から首都圏に戻る目途は、今のところ、付きませんが、息抜きも兼ね、定期的に戻りますので、又、強力なサポートの47年同期の伊川さんもおり、2022年1月より、世話人代表として「月いち高尾」を運営させていただき、更なる世代を超えたワンダー仲間の参加を図ってゆく所存です。

なお、伊川さんと51年卒の斎藤邦彦さんに 協力していただき、「安全・安心」を第一とした楽しい集まりにしたと思います。皆様、よろしくお願い申し上げます。 以下、これからの ”月いち高尾” の進め方について確認させていただきます。ぜひ、多くの KWVers の新規ご参加をお待ちしますので、下記連絡先までご遠慮なくお申し込みください。”高尾なんておかしくて行けるか!” などと思っていませんか。 四季折々に訪れることで、(これこそが日本の山なんだ)ということを味わい、”古き友との新しき会合” を楽しみませんか?

2022年 「月いち高尾」の方針 確認事項・お願い等々

  • 月いち高尾のオーナーはナンカナイ会の皆さんです。
  • 事務局を以下の3名で運営します。

世話人代表  関谷 誠  (47年) sekiya@kba.biglobe.ne.jp         080-1289-2250

共同世話人  伊川 望  (47年) qkygj774@yahoo.co.jp           090-5541-5636

共同世話人  斎藤 邦彦 (51年) k.saito@amethyst.broba.cc

参加人数も毎回多くなりました。平均年齢も上がって来ました。体力に合ったコース分けも必要になります。ワンデリング内容の検討およびオーナーとの連絡他必要な活動を3人の合議で決めて行きたいと思います。

  • ワンデリングは自己責任の上で参加してください。
  • 参加希望の方は事前にエントリーしていただくことにします。事務局として全体の参加人数等把握しておき、安全面の配慮をいたします。 参加者は、原則、KWV三田会会員とその親族とします。
  • 天候等の事由で中止する場合は、原則、実施日の2日前の午後10時までにメール連絡します。
  • 参加申し込み時に、携帯電話番号等の事務局への登録をお願いします。(皆が高齢者です。決して強制ではありませんが、万一に備え本人の携帯電話番号と緊急連絡先などを登録していただきたいと思います)。
  • 山岳保険加入のお勧め。KWV三田会の行事には必ず保険を掛けています。年に数回、月いち高尾に限らずワンデリングをされている方にはお勧めです。年間4000円から5000円程度で加入できます。是非ご検討ください(山岳保険で検索すればいろいろな紹介があります。ネットで簡単に加入できます)。一般の傷害保険でもハイキング中の事故が適応されるものがあります(要ご確認)。
  • 打ち上げ・反省会を原則、”天狗” にて開催(酒量に関わらずワリカン)。

乱読報告ファイル(16)  日中戦後外交史   (普通部OB 船津於菟彦)

菅原さんの遠藤誉女史の自伝、「卡子(チャーズ)」(1984年、読売新聞社)を読んだ。極めて激しい衝撃を受けた。そこでこの本を再読してみて、当時の状況から現在の日中関係に至る経過をまとめてみた。ご参考になれば幸甚である。
日本と中国との全面戦争は1937年から1945年まで9年間も続き、終戦時(1945年9月)海外の日本の旧植民地及び占領地には662万人の日本人が残されていた。
ポツダム宣言により、一人残らず日本本土に引き揚げねばならなくなり、中国本土に162万人、満州に111万人、ソ連に162万人の日本人がいた。
中国本土では日本軍との組織的戦闘が終わって二ヶ月後もしない1945年10月11日から第二次国共内戦が勃発した。ソ連の後ろ盾を得た「中共」-中国共産党勢力-とアメリカの後ろ盾を得た「国府」-蒋介石の中華民国-が争った。そんな中菅原さんが書かれた遠藤誉女史の自伝、「卡子(チャーズ)」の事件が1948年に起きた。日本に引き揚げずに満州の新京(現:長春)に残り、チャーズに収容された人たちの虐殺である。それより前の1946年2月3日に「通化事件」が起きている。満州国時代の通化省通化市-現在の中華人民共和国吉林省通化市で日本人3000人が八路軍と新八路軍によって虐殺された、真相は未だ分からない。
戦後の外地からの引き揚げは命がけであった。ドイツもドイツ本土へ千数百万人もののき揚げがあったが、途中で死亡したドイツ人は210万人。1946年末までに日本に引き揚げた日本人は約500万人でドイツに競べれば生還率は高かったが、戦後一年以上経っても100万人以上の日本人が残留していた。
1950年6月25日朝鮮戦争が勃発して、状況は更に悪化した。
1949年10月1日 毛沢東は天安門の上で中華人民共和国の建国を宣言した。正式な国家として承認した國はソ連など少数にとどまった。
アメリカを始めとして世界の多くの國は台湾に逃げ込んだ蒋介石の「中華民国を正式な「中国」と見なした。外交の立役者は毛沢東、周恩来、寥承志-りょうしょうし-の三人。皆、抗日と反日。しかし、親日では無いが「知日」ではあった。
中華人民共和国としては国際社会にデビューする突破口は当時、日本だけだったが、その日本には連合国最高司令官総司令部(GHQ)はドイツ同様に日本を軍政を敷き、英語を公用語として占領軍の軍票を通貨として進める布告を9月3日にする予定であった。同じ占領でも、占領軍による軍政と現地政府を通じての間接統治では占領国の負担は雲泥の差であった。時の外務大臣岡崎勝男が占領軍のマーシャル参謀次長と直談判して、「布告」の差し止めを理を尽くして説得した結果、間接統治により「従属」を強いられたが、直接統治による「隷属」は免れた。
そんな環境下で「引き揚げ」をしなければならない、八方塞がりの状態のなかで、中立的な「赤十字社」を突破口とするチャンネルが切り開かれた。1950年に新中国は赤十字本社に「中国紅十字会」として国際的に承認された。日本は幕末の1867年パリ万博の折りに「赤十字社」の事を知り、1887年「日本赤十字社」として国際的に承認されている(ドイツの「赤十字社」はナチの組織と見なされ解体された)。しかし国交の無い新中国との「引き揚げ」問題は暗礁に乗り上げ進まない。新中国も何を決めるのもソ連の思惑があって、「中国共産党はソ連共産党中国支部」のような存在でも在り、国内も安定していない状態が続いた。
当時中国には徳田球一・野坂参三・伊藤律の亡命共産党の「北京機関」が存在していて、北京から日本の共産党を指導していた。新中国は日本赤十字社の他に共産系の二団体をこの交渉相手に指定してきている。そういった中で1953年3月中旬舞鶴から興安丸・高砂丸・白山丸・白龍丸の四隻が国交の無い新中国に第一次引き揚げ船として出港した。しかし、順調に進んでいた引き揚げ船も三月までの第三次線までスムースであったが、日本にいる中国人の帰国問題である(台湾の中華人民共和国はこの帰国に猛反対)。
それらの解決のため新中国は李徳全紅十字会会長を団長とする10名が「国府系」と「親中派」との対立の激しさの中での来日。李徳全は冷え切った日中関係に風穴を開けて、帰国し、周恩来は期待以上の成果を喜びその後、ソフトチャンネル外交工作を続けた。これがきっかけで1962年に日本は寥承志と高碕達之助とで「日中総合貿易覚書」を締結。いわゆる「LT貿易」の開始である。
日本と中国は古くは遣唐使とか「漢字」とか日本の文化の源を学び、戦後は日本が経済発展の「先生」となり、数々の投資と支援をしてきた。歴史在る隣国であり、その関係は深い。先人達が今では考えられないような環境下で繰り広げられた日中友好は今後も続けていく必要が両国にとって重要と思う。
そういった過去の歴史を認識して世界平和の為に日本独自の行動すべきだとこの本は示してくれている。
(編集子)小生は満州国の首都新京(長春)から1946年6月、母と姉との3人で引き揚げた。父は当時勤務先(鐘紡)で現地の責任者であり、兄は旅順高校に在学していたが新京へ引き返した父と合流、約1年後に帰国した。本稿によって今まで漠然としか知らなかった事情がよく分かった。高校時代から衰えぬ船津の博識に改めて敬意。

月いち高尾 2021年度最終報告     (39 堀川義夫)

 

2021年最後の月いち高尾の報告です。

今年3回目の月いち高尾が12月10日(金)に開催されました。コロナの蔓延の為、我慢の子でしたが、オリンピック前の6月と紅葉の時期の11月、そして今回の忘年会を兼ねた月いち高尾を開催することが出来ました。そして、今回をもちまして2017年1月から5年間事務局を務めてまいりました岡沢、藍原、堀川は新しい事務局を引き受けてくれた、47年の関谷さん、伊川さん、51年の斎藤さんにバトンタッチしました。至らない事務局でしたが、皆さんの温かいご協力で事故もなく終了できましたこと心から感謝いたします。未曽有のコロナの為後半の1年半ほどは、ほんの数回しか開催できませんでしたが、楽しい、素晴らしい経験をさせて頂きました。ありがとうございました。心から感謝申し上げます。

参加者

  • ケーブル利用班  高橋良子、吉牟田、深谷、中司夫妻 平松、町井、立川、岡沢、藍原、柏木、
  •          猪俣 12名
  • びわ滝コース   遠藤、矢部、三嶋、武鑓、相川、下村、安田、伊川、関谷、斎藤、羽田野   11名
  • 忘年会のみ参加者 船曳夫妻、岡、菅谷、堀川、浅野、川名  7名

★延参加者 30名  忘年会参加者29名

 

(編集子)36年度有志で始めたプランも同期生仲間は傘寿をもって事務局を堀川君に委嘱し、同期のワンデルングからOB会有志による世代を超えた集まりに育ててもらった。常連を代表して改めて同君に満腔の敬意と感謝をささげる。

発足時のメンバーだったドサこと川内三千雄に報告とともに冥福を祈る。

 

 

100名山 目前 剣山    (39 堀川義夫)

11月28日(土)昨日(27日)は、大分から小倉⇒(新幹線)⇒福山⇒(しまなみライナー)⇒今治と大移動をして、ニセコの宿で知り合った黒川さんに会いにやってきました。彼とは新婚旅行でアラスカに行くのをアドバイスしたのがご縁で、更に、私のアラスカ旅行の時デナリで同じホテルで会うことが出来た奇縁の人です。久しぶりに黒川さん、奥様そして二人の可愛いお嬢さんたちと楽しい夕食を楽しむことが出来ました。山で知り合った人に私は本当に恵まれています。

 

今日は朝からレンタカーを借りて一路剣山を目指します。100名山を完登することに今夏に決めてから、雨飾山、高妻山等天候で登れませんでしたが、西日本でぽっかりと残ってしまった剣山は、なかなか場所的にもこの山だけに行くにはコスパが悪すぎます。そこで、今回の国東半島のロングトレイルの帰りに立ち寄ることにしました。

幸い、天候に恵まれ、思ってもいなかった素晴らしい霧氷の中、のんびり楽しむことが出来ました。登山路は雪道でしたので、また、帰りのフライトの時間もあるため往復リフトを使用しましたが、リフトの終点から、わずか30分で山頂到着出来ました。多分下から登っても1時間半はかからないでしょう。標高19,55m 100名山91座目終了です。

この日は、今治から美馬IC 、そこから剣山を往復しますが、片道50kmで1時間少々、舗装はしているものの、道は大変神経を使う林道でした。最終地点への到着した徳島空港まで全走行距離は315kmで無事到着、空港ビルで一杯飲んで、飛行機に乗り込むと飛び立つのも知らないほど心地よく居眠り、そして爆睡、あっという間に羽田に到着していました。

エーガ愛好会 (105) パワーオブザドッグ   (34 小泉幾多郎)

久しぶりの映画館での鑑賞。

西部劇とは言うものの「ピアノレッスン」のジェシー・カンピオン監督・脚本作品でアクション要素一切なし、愛憎渦巻く人間模様とその果てという心理スリラーとでもいうべきか。英・豪・米・加・新NZ共同制作で舞台は1920年代西部開拓時代の遺風が色濃く漂うモンタナの地だがロケは、ニュージーランドで行われた。題名は旧約聖書詩編の一説「私の最愛の人を邪悪な犬の力から救い出してください」から付けたとのこと。

 牧場を営む対照的な性格の兄弟が主人公で、兄フィルは、TV「シャーロック」で新時代のシャーロック・ホームズを演じたベネディクト・カンバーバッチが扮し、威圧的で独善的な面はあるが、働き者で有能なリーダーであり、牧場で働く者は誰もが、フィルに敬意を示す。弟ジョージ(ジュシー・プレモンス)は温厚だが気弱な性格。ある日、牛の移動に際し、牧場の使用人一同と未亡人ローズ(キルスティン・タンスト)とその息子ピーター(コティ・スミット=マクフィー)が経営するレストランで食事をすることになる。ピーターは外科医を志すも。華奢で男らしさとは無縁、喧嘩等出来そうもなくカウボーイたちからはお嬢さんと馬鹿にされる。そんな中ジョージとローズはあるキッカケから親密になり結婚することになる。このように兄、弟その妻、その息子と性格の異なる4人の関係は濃密・濃厚な人間のドラマを生む素地を作っていくのだった。兄は溢れるカリスマ性、タフな精神、女々しいものへの嫌悪から、義妹になるローズを、連れ子のピーターをいじめぬく。ところがある日からフィルとピーターが親密になっていく。フィルの知られざる秘密ゲイ的嗜好がピーターによって明かされてきたのだ。最後は、材木の下にいる兎を獲ろうとして手に怪我をしたフィルにピーターが黴菌の付いた生皮を送り、フィルはその黴菌の感染がもとで、炭疽菌で死に至るのだった。フィルの野蛮なる日常に対し,連れ子ピーターの蜜やかな復讐の計略が淡々と進められたのだが、実際問題としてフィルの行為が死を与える程の悪行であるのか?と考えると疑問な点も残る。

あいずれにしても、善玉悪玉の単純な西部劇を観てきた年寄りにとって、このような美しく広大な風景の中に描かれる人間の負の感情、嫉妬、怖れ、怒り、嫌悪といった緊張感が漂い、暴かれる男らしさの正体、役者たちのアンサンブルの見事な効果等濃密な人間ドラマに見ていて息苦しくなったことも事実だ。

帰りに、久しぶりの西部劇を劇場で観たことの記念と内容的に疑問の点もあり、売店でプログラムを購入しようとしたが、この映画は、プログラムなしの映画で、ありませんとのこと。この映画ではプログラムは売れないとの判断なのか否か、意味不明。

(菅原)最近の西部劇は、「荒野の決闘」が、まるでお伽噺。新宿御苑の紅葉の方が遥かに馴染めます。

先日、CATVで見た「荒野のストレンジャー」(原題:High Plains Drifter。1973
年)。7月17日(ただし、年は不明)、NHK BSプレミアムでやったらしいので、先輩の卓抜な感想がある筈。従って、ここでは屋上屋を架すことはしない。
イーストウッドこと東森の2作目の監督作品で、初めての西部劇。これは、日本語の題名をもじると、何ともストレンジな西部劇。悪(保安官を殺した町民)が悪(東森)をもって悪(出所した3人組)を征する。例えば、「シェーン」で代表される清く正しく美しくとは凡そ縁のない西部劇。こう言うのをアンチテーゼって言うんですか(一度、この言葉も使ってみたかった)。

最後は定石どうり馬に乗って東森は去って行くのだが、ほかの町でまた悪さをしでかすのは間違いない。これがニューシネマなんですかね。と言うのが小生の感想ですが、先輩はどうお考えでしょうか?

(編集子)この作品もそうかもしれないが、小生もスガチュー君の感想に組するものである。映画という表現形態をとってあらわされるものが何かはもちろん固定的なものではありえない。だが西部劇、という、ま、滅びゆくジャンルかもしれないがそれが持つイメージはそっとしておいてほしいものだ。しかし世の中のエラーい先生方の評価はそういう原点には無関係であるようだ。ウイキペディアの本稿の執筆者がどういう人物なのか知る由もないが、解説の一部はこうなっている。

本作は批評家から絶賛されている。Rotten Tomatoesでは27個の批評家レビューのうち96%が支持評価を下し、平均評価は10点中8.5点となった。サイトの批評家の見解は「ベネディクト・カンバーバッチを中心とした輝かしいアンサンブルによって生命を吹き込まれた『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、ジェーン・カンピオンが、同世代の作家の中で、最も優れているうちの1人であることを観客に再確認させる。」となっている]MetacriticのMetascoreは14個の批評家レビューに基づき、加重平均値は100点中90点となった。サイトは本作の評価を「幅広い絶賛」と示している]。『インディワイヤー英語版』のデヴィッド・エーリッヒは、「『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、あまりにも早くいそいそと観客に牙を突き立ててくるので、エンドクレジットが終わるまで、あなたは自分の肌が刺されていることに気付かないかも知れない。しかし、この映画のエンディングが齎すゆっくりとした嚙みつきは、見る者に十分な傷跡を残すことには変わりない。」と表現し、映画の鋭さを賞賛した……..云々だよ、菅原君。

(小泉) 「パワー・オブ・ザ・ドッグ」のこと。西部劇の爽快さは期待できないことから、積極的にお勧めする映画とは言いませんが、感想の通りです。ベネディクト・カンバーバッチはじめとする俳優陣の演技力は中々なものと思われました。端的に言えば、西部劇の中に濃密な人間ドラマを取り込んだ映画。西部劇という神話、威圧的、独善的で男性らしさの象徴であるカウボーイが誇示する、リーダー的存在を、華奢で男らしさとは無縁のか弱いローズの息子ピーターが、じわじわと復讐を遂げるねちっこさ。本当に強い男とは誰なのか、といった逆転の発想とか、面白くはないが、無視するほどではないかと思われます。

(承前) ”トラトラトラ” の通信事情  (44 浅野三郎)

真珠湾の奇襲は現地時間1941年12月7日午前7時55分(日本時間同8日午前2時55分)で使用周波数は7635KHz(昔はkc・サイクルと表しましたが、現在はkHz・ヘルツと表記します)だそうです。そして搭載送信機は96式空3号無線電信機(写真参照)で出力150ワットとのこと。日の出を過ぎての現地時間8時近くでこの周波数帯の搭乗機からの信号が直接瀬戸内海の戦艦長門で受信できたか少々疑問です。ただし、高度にもよるのでしょうが飛行中の飛行機(エアーモービル)からの信号は思いがけず遠距離まで届きます。

これからは私見ですが、奇襲前に淵田中佐の搭乗機から松崎大尉が発信したのは
「全員攻撃せよ」を意味するト(・・ー・・)の連打だけ,攻撃終了後「奇襲成功」の意味のトラ(・・ー・・ ・・・)の連打だったのでは。

そして、旗艦赤城からの電文(写真)が呉の戦艦長門で受信されたのではと思われますが?(周波数等不明)なぜトラだったのかは山本五十六司令長官の生まれ年が寅(来年と同じ)との説もありますが、奇襲成功が「トラ」、失敗は「トサ」(・・ー・・ ー・ー・ー)、そして中止は「トム」(・・ー・・ ー)だったという話も伝わっています。

 

(編集子)ハムの世界での大先輩の解説を及ばずながら補足させていただく。 同じラジオでも短波と呼ばれる周波数になると電波は地球表面と上空にできる(季節や時間によって変わる)電離層と呼ばれる、いわば電波を跳ね返す鏡みたいなものの間で反射を繰り返すことでと遠距離まで到達する。インタネットの現代と違って、海底電線のない地点の間の通信は短波のラジオによることしかなかった当時、この短波帯の中でも始末のしやすかった7メガヘルツを使用する通信機が使われていたのは理解できる(周波数が高くなると部分品をはじめとして通信機の製作は難しくなる。当時の日本の技術や製造レベルから考えて戦闘機に搭載できるような通信機の大量生産はまだできなかっただろう)。現在、アマチュア無線の世界でもこの7メガヘルツ近辺の周波数は主要な戦場として使われているが出力150ワット、というのはそのアマチュア無線家の間では中級程度の技量を持っていないと使用できない(最上級のライセンスで使用される実質上の最高出力は1キロワットで、地方の放送局と同じくらい)。また電波を発射あるいは受信するためのアンテナにしても、航空機に搭載されるものは非常に能率の低いものに制限せざるを得ない(ハムの常識からいうと7メガヘルツを効率よく扱えるアンテナは原理上20メータの長さが必要)。こういうことから判断すると、浅野君が淵田機から直接ではなく、旗艦赤城かの転送だったのではないか、と疑っている気持ちもわかるが、ハワイから広島まで、この時間帯の電離層の具合から言って(7メガヘルツくらいだと、夜間のほうが電波は遠距離まで届く)この通信ができたのは(ハムの判断では)非常に幸運だったのでは、ということである。

(船津)門外漢ですから分かりませんが、二イタカヤマノボレは長波で送信されたとか聞いていますが。潜水艦から?

ボタン鍋で富士山を満喫しました   (44 安田耕太郎)

12月3日一泊で山梨県東部 道志村に位置する山梨百名山・鳥ノ駒山(とんのこまやま・1,210m)に登り、道志川渓谷を散策してきました。

170年前創建の養蚕農家を改築した藁葺き屋根の、「民宿100選」に選ばれたことのある民宿に泊まり、昔ながらの風情ある囲炉裏を囲み地元で狩猟された名物の猪肉煮込み(ボタン鍋)、鹿肉の刺身、岩魚などに舌鼓を打って堪能。
  鳥ノ駒山まで麓から標高差600m、登山中は25km離れた富士山の雄大な姿を満喫してのんびりとした17,000歩、4時間ほどのハイキングだった。夜間から朝は冷え込み気温は氷点下まで下がり、今朝は凍りついた地面を踏み締めて渓谷を散策した。遅い紅葉も愛でる幸運にも恵まれた。
オゾンを胸一杯吸って気持ちの良い晩秋のハイキングでした。
(菅原)浮世を離れ、男は黙って、ボタン鍋。

(保屋野)

鳥ノ駒山ですか・・・中々良い山ですね。

高幡不動尊の紅葉、私も一昨日行きましたが、今年の紅葉は色づきがイマイチですね。

今日は、来年2月に行く予定の同期蔵王スキーの宿予約をしたところ、主要な宿の多くが満室でビックリしました。やはり2年間の我慢が爆発したのでしょうか。何とか(少々高かったものの)予約はできましたが。ただ、コロナ第6波が来ないことを願っています。

エーガ愛好会  (104)  トラ トラ トラ !

昨日が8日だったからそうではないかと思っていたが、1日遅れて今日のBS劇場は トラトラトラ である。何回か見ているので目新しくはないのだが、新聞に出ている番組紹介が主演を マーチン・バルサム と書いているのにちょっと驚いた。バルサムが演じたのは当時真珠湾軍港の海軍指揮官だったハズバンド・キンメル大将で、陸軍指揮官だったウオルター・ショート中将(ジエイソン・ロバーツ)とともに戦後真珠湾の防衛の責任を追及されることになる人物なので、筋書き上、重要であることはわかるが、山本五十六の山村総ほかもっと重要な役を演じた名優が沢山いるのに、という意味である。しかし念のため例によってグーグルをあさってみて了解した。グーグルの紹介記事の一番上にバルサムが載っていたからである。欧州戦線の最大の山場ノルマンディ上陸を扱った 史上最大の作戦(原題の The Longest Day のほうがはるかにいい、翻訳タイトルの失敗作だとおもうのだが)でも大物俳優が多すぎて、彼らのメンツを推し量ってクレジットタイトルはアルファベット順にしてあったが、おそらくこの作品も同じことだったのかもしれない。

さてこの映画と同時に、昨日、今日と80年たった今、というタイミングでいくつかの秘話が掲載されている(読売新聞)。そのことを書きたい。

一つは当日、空母から発進した航空機群とは別に、ひそかに湾内に潜入した特殊潜航艇5隻のことである。この5隻の戦果がどれほどあったのか、詳しく書いた資料はまだ見たことはないが、乗組員10名はいずれも戦死したとされていて、当時国内に発表された記事では 九軍神 となっていた。うち1名が経緯はわからないが米軍の捕虜になっていたからで、死すとも虜囚の辱めを受けるな、としていた当時の軍指導部にとって、開戦当日に起きたこの事件はあってはならないものだったからだ。今回、この捕虜となっていた酒巻少尉のご遺族のたっての願いが報いられ、九人の仲間たちの顕彰碑のかたわらに同氏の記念碑が建てられ、80年たって仲間たちと会えることになった、という記事である。大戦で亡くなられた方は数知れないが、このような軍機とか政治的理由などでその最後が圧殺されてしまった方々はほかにもあるだろう。ただご同情申し上げるほかにできることはないのだが。

もうひとつはこの映画のタイトルになっている暗号電信、トラトラトラ を搭乗機から打電した松崎大尉の話である。大尉が当日の指揮官淵田中佐の搭乗機に同乗しこの歴史的電信を発信したということをご遺族が語ったという記事だ(大尉はその後マーシャル沖で戦死された)。この場面は トラトラトラ でも代表的なカットで、オアフ島まで敵に会うことなく潜入した、田村高広演じる淵田中佐が ”奇襲成功だ、トラ トラ トラ や!“ と絶叫する。この作戦のすべては攻撃部隊が現地防衛軍の準備ができないうちに奇襲する、という一点にかかっていたからだ。

この真珠湾攻撃が、日本の正式な宣戦布告の前におこなわれたことから、treacherous attack として米国民の怒りを買い、ルーズベルト大統領が政治的優位に立つことを可能にした(ルーズベルト自身日本との対決はやむを得ずとしていたが世論はまとまっていなかった)、というのは事実であったし、映画でも情報部のブラットン中佐(エドワード・マーシャル)は攻撃のあることを確信して上申したにもかかわらず大統領が拒否したことになっている。山本は在米経験からアメリカ人がフェアプレイを最高の仁義と考えていることを知り抜いており、攻撃以前に公式な通知が必ず米国に伝えられることを最後まで要求していた。映画にあるように, 現地大使館に文書は届いていたにもかかわらず、単なる事務的な遅れで提出が間に合わなかった。この通告が事前に届いていれば、真珠湾攻撃は正規な戦争行為であり、現実の戦果はともかく、”ジヤップは卑怯ものだ“ という汚点を歴史に残すことはなかったはずだ。しかし史実は面白いもので、映画の中でも上記した酒巻少尉らが、湾口を警戒していた米艦ワード号から攻撃を受けたのは実はまだ ”トラトラトラ!“ が実現していなかったので、この日米開戦の第一弾を放ったのは米国、ということになるのだという。

映画とは全く関係ないがもうひとつ、この トラトラトラ はハワイ近海にいた母艦赤城にあてたものだったが、それははるか離れた広島県呉にいた戦艦長門でも受信された。映画では興奮した通信士官が山本の席に飛び込んで、”長官、トラトラトラ であります!“ と報告する。しかし山本はじっと目をつぶったまま微動だにしない。部屋には一瞬、静寂が訪れる。おそらく山本の胸中には(すでに通告が事前に届かなかったことは伝わっていた)、来るべき戦争がいやがうえにも難しくなった、ということがわだかまっていたのだろう(右の写真はグーグルに長門、として載っているものだが果たして本物か映画用の代替か、小生にはわからない。本当の長門は戦後、米国軍による原爆実験に使用されて悲劇的な最期を遂げている)。

もう一つ、多少、無線交信に知識を持っている小生として、日本戦闘機の発信した信号が広島にいた長門に、ハワイ―日本間の、この時間帯の電波伝搬状況で届いた、という事実が興味深い。この当時、戦闘機に搭載されていた送信機の性能はどんなものだったのか、とか、周波数はどのくらいだったとか、このあたりの博識をもって知られる浅野三郎くんの解説を期待すること大である。また関連して史実で言えば、この山本五十六は2年後、南方戦線で米軍機に撃墜されて戦死するが、これも実は現地の司令官が山本の旅程を到着地に知らせるべく打った信号を米国司令部が受信、現地の戦闘機に迎撃させたというのが真実である。当時の米国の通信機の性能ならばかくありなん、と納得するのだが。山本機を撃墜した米国のパイロット、ランフィーア大尉の回顧をどこかで読んだ記憶もある。いずれにせよ、当時世界の通信・情報技術がもう少し進んでいたら、歴史が変わっていただろうと改めて感じる。

ここでまた、時代は大きにずれるが、レッドオクトーバーを追え で、潜水艦ダラス艦長スコット・グレン(このエーガでまたこの俳優が好きになったのだ)がレッドオクトーバーの艦長(なんせショーン・コネリーであります)に発光器でモールス信号を送る場面がでてくる。最初のコンタクトぐらいはいいのだが、実に複雑な情報を伝えなければならないうえ、電信手には任せられないので ”俺のモールスはさびついてるんだが“ と自嘲しながら送信する。モールス信号には個々の文字だけでなく、意味を持った略号(誰でも知っているSOS のような)があることはあるが、それでもあんな複雑な意思が、専門の電信兵でもなくて伝えられるのだろうか、これも電信の名手浅野君の意見が聞きたいが、このあたりがやはり、エーガはフィクションである、という当然のことなのだろうか。

日米開戦にあたって改めて決めてあったいくつかの暗号の候補から、淵田中佐が自分が寅年であることと、”千里を走る”という意味でこの暗号 トラトラトラ を選択した、ということで、その縁起がこの長距離通信を可能にしたのかもしれないが。ついでに言えば、最終決定に先立って北太平洋を進んでいた旗艦に開戦日の最終決定を告げた電文が ニイタカヤマノボレ であったことは良く知られている。当時、台湾の高峰新高山は日本の領土にあったのだ。

 

 

 

 

 

コロナワクチン3回目(ブースター)について    (44 菅井康二)

ワクチンの2回接種を終わり、3回目の接種(ブースターというらしいです)が話題になっています。ご覧になった方も多いと思いますが、東京新聞の記事抜粋をご参考までに。

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新型コロナワクチンを2回接種してから数カ月がたち、効果の低下が心配される中、ワクチンでできたウイルスを阻害する中和抗体がどのくらい残っているのだろうか。記者(54)=モデルナ製を接種=は月1回、取材で度々訪れる福島県の病院で自費で抗体の量(抗体価)を検査。傾向が見えてきたので報告する。(山川剛史)

◆これが「ブースター効果」か

 図の通り、抗体価の推移はジェットコースターのようだ。1回目接種後の1ミリリットル当たり約800ユニットから、2回目の接種後は約1万1000ユニットと13倍以上に急増した。「ブースター効果」とはこれかと実感した。数値は試薬によって大きく異なるが、同じ試薬を使った早期接種者のデータと比べると、上位の集団に入っていた。

喜んだのもつかの間、1カ月たつと半分以下に。また1カ月するとさらに半分近くまで低下した。

知人で横浜市在住の大学教員、鎌田素之もとゆきさん(48)=ファイザー製を接種=に同じ試薬の自費検査をしてもらっていたが、低下スピードは記者より速かった。

◆急減から緩やかに

ただ、表計算ソフトでグラフ化してみると、「1カ月で半減」の単純な直線ではなく、いったん急減した後は下げスピードが大幅に弱まったことが2人のデータに共通していた。「低空飛行ながら、しばらくは持ちこたえられそう」と少しほっとした。
本紙の産業医で、慶応大感染症学教室の長谷川直樹教授にデータを見てもらうと、「典型的なパターン。ワクチンの効果かどうかは分からないが、これまでコロナに感染してこなかったことは確かだ」。

◆未知の領域、個人差も大

抗体価がどれだけあればいいのか、変異株にも有効なのかも聞いたが、「はっきりしたことはまだ分かっていない。抗体があるに越したことはない。対抗手段はワクチンなどごく限られている」と話した。

そもそも人によってワクチンによる抗体の獲得状況は大きく異なる。記者の父親(87)にも2回接種後に同じ試薬による検査をしてもらったが、記者の5分の1の1ミリリットル当たり約2000ユニット。記者に病院を紹介してくれた福島県の白髭幸雄さん(71)は18分の1の約600ユニットしかなく、接種から約半年後の現在は約200ユニットまで減った。

日本でも3回目の接種が始まったが、医療従事者など早期に接種した人たちの抗体価は早かった分確実に下がっている。鎌田さんは「どういう人の抗体価が低いのか科学的なデータに基づき、3回目を進めてほしい」と話した。

嗚呼 80年    (普通部OB  船津於菟彦)

毎年12月8日になると太平洋戦争のことを書いています。今年は少し趣を変えて、傘寿を過ぎたわが人生を時代と共に振り返って見たいと思います。
ライカⅢbは1938年に作られました。日本は紀元2600年を二年後に控えお祭りムード。
しかし、その前年に日中戦争勃発!ドイツがロシアに侵攻。総ておじゃんに成り亜細亜で初めての東京オリンピックは返上。しかし、未だ米国と戦争状態になるとは誰も思って折らず、街は次第に物資が枯渇していたものの未だ未だ「今日は帝劇明日は三越」の時代でした。そんな1938年生をうけて、それはそれは幸せな人生を歩みました、と言いたいところですが!
                                                                                  ライカⅢbと生存競争中の坊やは日章旗の前掛け掛けて、父母は未だ歌舞伎を見てきたとか、雅叙園で宴会があったとかで、お土産を愉しめたときでした。(モノクロ写真をカラー化)
2041年12月8日。あれからもう80年経ちました。「油断」-ガソリンを断たれる-とか色々な制裁があったりして、あの大国に勝てると思い、無謀な戦いが始まってしまった。ハーバート大学に留学して、米国の経済的豊かさとか、「自由」など理解していたはずの山本五十六は短期決戦で、大東亜共栄圏から米国を従属させようとしていました。
下の写真は開戦25年に米国のタイム誌が作った、当日の新聞と開戦を伝えるラジオ放送のLPレコードです。この新聞の広告を見ても今と変わりませんね!こんな國に勝てるわけがありません。日本は「欲しがりません勝つまでは。贅沢は敵だ」の時代に突入。
米英蘭から中国から撤兵せよと迫られ、軍部は「勝った、勝った」で聞く耳持たず!国民も次第に戦勝に酔いしれていった。しかし、もう既に日本国内には資源・物資は枯渇し始め「欲しがりません勝つまでは」の時代に成り近くのお菓子屋さんへ行っても殆ど何も無く未だ珍しく干しバナナ何ぞが在り、買ってもらった記憶あり。米なども配給制になり、金属を総て「供出」家のトタン塀まで剥がして差し出していました。
学童疎開が始まり、父は子供のことを思い、自ら「都落ち」覚悟で信州に転勤し、。厳冬の総てが凍る上田市郊外の家を借りて「疎開」しました。
その翌年、国民小学校一年生に入学。戦闘帽に胸には名札。そして兄のお下がりの革靴にゲートル。入学式の日に校長先生から「今どこと戦争しているんですか?」と言う言葉に手お上げて「ハーィ米英撃滅」と答えたことを記憶しています。父のお陰で集団疎開して悲惨な経験はしないですみ、ガキ大将で野山を駆け巡っていました。冬は堆肥作りのために「落ち葉-カシャッパ」集め。夏は未だ一部養蚕をしているお宅もあり、その手伝いで桑畑で桑の葉取りとか、一日中か駆け回っていました。
その年の8月15日。暑い日でした。何やら天皇のお言葉があるとかで、正午から皆ラジオの周りに集まっていた。ラジオはよく聞こえなかったが、戦争が終わったと大人達は安堵の顔をしていました。何時もの手伝いであぜ道を一升瓶を抱えて山羊の乳をもらいにの農家に向かって、生暖かい絞りたての山羊乳を抱えて帰宅したことをありありと覚えています。
その夜から覆いを着けた電灯が明るく輝き、当時の田舎は一戸・一灯・一ラジオと言われ、電灯の長いコードを台所に持って行ったり居間に持って行ったりしていましたが、当家は父が電力関係だったため当時として豊富に電灯はありました四角い木の箱に両側に鉄板を建ててメリケン粉をふくらし粉と共に入れパンを焼くなんて言う事もしましたね。総て自給自足が当然でした。
兄弟四人が大学とか高校とかに入学の時期になり、偶然焼け残った東京の元の家に小学校4年の終わりに転校してきました。未だ配給続き、うどん一杯にも食券が必要でした。そして中学に運良く入学出来、国電と都電を使い通学致しました。未だ未だ何も無い事態でした。天現寺に仮住まいの学校へ通いました!当時の天現寺と定期券。都電は四谷三丁目から品川へ行く都電で!天現寺は車庫に成って居るため渋谷〜とか中目黒〜とか3本走っていました。
その後、日吉に移り総てが新しい所に遷り、化学少年として理科の先生の小僧役をかって出て、化学の備品とか暗室の引伸器。真空ポンプとか総て新品を購入して、届く度に開梱して設置しました。暗室ではフィルムの現像に入れ込みコダックの現像レシピ本を購入してもらい端から作り必要な「毒薬」も含む試薬を自由に勝手使わせてもらいました。朝学校へ行くと先ず化学の準備室で「純水」を作るためブンゼン灯に火を付けて大きなフラスコに水を入れるのが日課でした。その装置に使うガラス細工なども致しました。全く自由な校風でした。有難う御座いました。
もう先生方も総て鬼籍に入られろくに恩返しもお礼もしていないのが気になります。
137億年前。一秒もかからないうちにビッグバンで点が宇宙に成ったという。そして色々な変哲があり太陽系が出来たのは宇宙誕生から80億から90億年後である。この80数年なんか137億年を24時間にすると、宇宙誕生の時のように1秒も無い間です。こんな事を書いた本が話題に成っています。「137億年の物語」クリストファー・ロイド著 1968年英国生まれ。ケンブリッジ大学で歴史を学んだ後、サンデータイムス紙の科学記者として活躍。地球の歴史を文系と理系の両方の眼から見る本書を自分の子どもたちのために書下ろし、世界的ベストセラーです。

まぁそんな自由な校風でのほほんと10年間過ごし、文学部の建築史を谷口吉生さんに美術史は三輪福松さんの謦咳に接し、単位にも成らないのですが、そちらの方が真面目に出席しました。研究所と言う名称になりマスコミ界に多くの人材を輩出致しました。辛うじて落ちこぼれ者は新聞研究所卒業証書は戴きました。

青田買いの始まりで「商い屋」に就職。こおりを背負って歩き回ることは無かった物の時は新製品時代。重厚長大の当時花形の鉄鋼部門を担当させられ、当時鉄鋼製品の新製品が毎週のように鉄鋼メーカーが発売し、サー売れの時代でした。
あのNY貿易センタービルにも八幡製鉄開発のH型鋼が使用されています。売り始めたときは鉄骨材としては中々使ってくれず、建物杭に基礎材として売り込んだのですが、そんなことで鉄工所には良く通いいっぱしの建築士のように原寸検査とかに立ち会ったり、現場に行ったりで、そこらの一級建築士と渡り得るような感じでした。今から考えると恐ろしい。耳学問で原寸検査の時、これではボルトが入らないのではとか。現場でどうやって組み立てるのとか。入社した頃は未だ現金取引が当たり前で、建築会社は暮れには餅代とうことで二回支払ってくれたり優雅な時代でした。
そして世は重厚長大から情報産業へと移り変わり、通信の自由化に伴い第二の通信会社とか自動車電話会社とか国際通信会社とか、はたまた宇宙通信のため衛星の打ち上げとか!色々な新規事業に参画させてもらいました。

鉄鋼での新製品の売り込みと同じで回線問屋-海鮮問屋-と揶揄されながら通信回線を売りまくりました。振り返ると面白かったでした。今や昔ですね。

コロナで在宅勤務で会社・工場に出社しないでも経済が動いてく時代になってそれが当たり前になってくるような兆しがあります。
2021年東京オリンピックは開催できるかどうか危ぶまれては居ましたが、何とか無観客という無謀なやり方で終わりました。何れにしてもコロナウィルス蔓延旋風で世界の仕事の仕方が大きく変化して、企業もどう先を読むかによって収益が大きく変化しそうな時代になって来ています。
世界史の上でも2021年は大きな転換期に成って居るのでは無いか。新型コロナウィルス蔓延旋風の「お陰で」否応なしに働き方の改善か、冠婚葬祭の簡素化とか、生活様式もガラリと変わっていくと思います。
今や世界はGAFAの脅威だとか、中国のIT戦略とか争いの仕方も代わってきています。それぞれの分野で市場を席巻している企業です。そして自動車は電気で自動で動く時代へと変転しています。
この分野で日本はどう勝ち抜いていくのか。半導体で見一時は世界一でしたが、今やビリ。どうやら世界の「お客様」が何を求めているのか?を忘れて「商い屋」をやっているのでは。伊藤忠兵衞が反物を担いで、当時一番の商業都市堺へ売りに行き、そこで新しい物・田舎で必要とされる物を見つけ背負って帰る。そして堺で求めている物を自分の目で見て、それを又持ち込む。これが「商い屋」の原点だと思います。ソニーも小型ラジオやウォークマンの二ーズを米国で嗅ぎ取って販売したのに、今や総て後追い。これが80年の時間の結末とはね。
傘寿を記念して巴里旅行をしました。モンサンミシェルと憧れだったコルビジェのサボア邸なども観て参りました!写真はロアール河畔の古城の前でコンタックスⅠ型我が生年より前に作られたカメラを構えています。
(因みに来たるべき2022年-令和4年-は寅年。於菟とは「寅の事なり」と漢和辞典に出ています。年男です。森鴎外の息子さんに森於菟さんが居られ寅年です)