ウクライナ紛争ー戦争下のハム仲間たちよ、元気でいてくれ

オリンピックと並んで、世界中の仲間が友達、のアマチュア無線(ハム)の世界も国家の紛争となると残念ながらその機能を失ってしまう。すべての国は国家存続にかかわるような事態に立ち至ると情報管理の立場から、ハム局の活動停止を命じることができる。アマチュア無線憲章では、政治の話題は通信してはならない規定になっているが、これはあくまで正常の状態でのエチケットにすぎない。現在世界のアマチュアが使っている通信機やアンテナがあれば、その気になれば下手な情報部員よりは優れた情報を集める事だって可能なのだから、やむを得ない措置と言える。

日本アマチュア無線連盟関連のHPから関連記事を転載(44 浅野三郎君のご示唆による)してみよう。この記事は2月24日付けのもの。

ロシアによる軍事侵攻の懸念が高まっているウクライナ。ゼレンスキー大統領は2022年2月24日から30日間の「非常事態宣言」を発令した。対象地域は東部のドネツク州とルハンスク州を除くウクライナ全土。これにより同国では「抗議活動の禁止」「情勢を不安定にする可能性がある情報の作成および流布の禁止」などと並び、「アマチュア無線機の使用禁止」が政令で認められ、同国におけるアマチュア無線運用が事実上禁止される。ウクライナは東欧でもアマチュア無線局が多い国で、2000年のIARU統計では17,265局が免許を受けているという。

他方、ロシアのほうはまだ封鎖措置は取らず大国の度量?を示している。

さまざまなニュースが伝えられるウクライナ情勢だが、ロシアアマチュア無線協会「SRR/Russian Amateur Radio Union」は2022年3月3日、「SRRはIARU(国際アマチュア無線連合)とその加盟国の組織に訴えます」というメッセージを同協会のWebサイトで公表した。その中で「紛争でロシア国家がどの側にいようとも、SRRは紛争に巻き込まれた国のアマチュア無線家や無線団体に対して非友好的な措置をとったことはありません」「ウクライナでの事件に関連して、…SRRはアマチュア無線の伝統(慣習)に忠実であること、アマチュア無線を使った感情的な行動を控え、互いの交流を絶やさず、知恵と相互理解を示し、それによって状況の迅速な解決に貢献することを求めます」と述べている。

日本のハムにとって、極東ロシアは韓国や台湾と並んで最も近い外国であり、外国局との初交信がこのあたり、という人はたくさんいる。またウクライナは距離的には最も近いヨーロッパ(アマチュア無線の世界での定義)であり、交信もわりとたやすい。

小生が交信のたびに交換してきた交信証(QSLカード)の中から数枚を抜き出してみた。左側、ウクライナのディミトリ、右側、ロシアのセルゲイ。彼らがかつてのように声を掛け合うことができる日がくるのだろうか。その日まで、元気でいてほしいといのるだけだ。

エーガ愛好会 (129) 長江哀歌     (普通部OB 菅原勲)

3月17日、NHK BS3で、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)が監督した中国映画「長江哀歌(原題:三峡好人)」(2006年)を見た。この映画は、ご存知の通り、2006年ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得しており、蛇足だが、55年前には黒沢明が「羅生門」で掌中に収めているものだ。

実に久し振りだが、とんでもない映画を見てしまった。下らないとは言わない、しかし、途轍もなくつまらない見本のような映画だ。

話しは、別々の男女が、有名な三峡ダムを建設するために水没してしまった村に残した、男は妻を、女は夫を探し出す内容なのだが、その話しが、揚子江のようにゆったりとどころかモタモタモタモタして、締まりがない。主人公はと見れば、俳優ともども魅力がなく、感情移入が全く出来ない。と言って、気の利いたセリフがあるわけでも、笑いがあるわけでもない。始まって、余りにも退屈なので、40分ほどで眠り込んでしまった。そして、終わってみれば、こんな映画を大真面目に作ったことに、思わず大笑い。一言で言えば、隅から隅まで、ここにあるのは、当時の中国の田舎の度し難い貧しさだ。逆に言えば、この点を描くと言う点では、唯一成功したと言えるだろう。具体的には、例えば、季節もあろうが、ランニングシャツしか着ておらず、のべつ幕なしの喫煙、貧しい住宅と住環境、何から何まで貧しさがこびり付いている。救いは、イデオロギーに一切言及していないことぐらいか。

ナントカナントカの大賞なんてのが信用ならない、これもその典型的な見本だ。アカデミー賞だって、同じようなものだろう。

中国映画はこれが初めてだったが、ブルース・リーとかジャッキー・チェンなんかの香港映画の方が遥かに面白かった。でもこれも中国に吸収されてしまっては、あのハチャメチャ振りは最早期待できそうもない。

(菅井)ドラマティックな展開などとは無縁な小津安二郎監督作品は蒲鉾をアテに燗酒を嗜むような風情があって結構好きなのですが、そんな私でも「長江哀歌」は先輩方と同様で無理でした(^_^;)。ヨーロッパ人にはアレが受けるのでしょうか?そういえば欧米人にとって分かりやすいのでは?と思われるダイナミックな映画作りをする黒澤明監督よりもスタティックな小津安二郎監督の方が彼の地では(特に玄人筋)評価が高いようです。

 

(ウイキペディアより転載)

長江哀歌』(ちょうこうエレジー、原題: 三峡好人)は、ジャ・ジャンクー監督による2006年の中国映画である。三峡ダム建設により水没する古都に住む人々が描かれる。製作は上海フィルム・スタジオ英語版エクストリーム・ピクチャーズ英語版が共同で行った[2]

2006年9月5日に第63回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門でプレミア上映され、同映画祭の最高賞である金獅子賞を受賞した[3]

ミモザの花

 国際女性デーの8日、女の子に花を配るアレックスさん=ウクライナ西部リビウ(共同)

(関係記事転載)

 8日の国際女性デーは、ロシアの侵攻を受けているウクライナでは祝日で、クリスマス、復活祭(イースター)に次ぐ位置付けの重要な日だ。今年は非常時とあって祝賀行事は見られなかったが、西部リビウでは若者が「男性も女性もお互いに助け合わないと、難局は打開できない」との思いと感謝を込め、道行く女性に色とりどりのチューリップを手渡していた。地元の女性によると、旧ソ連時代は黄色のミモザの花束を男性が女性に贈ることが多かったが、近年はチューリップを1輪だけというのが主流。市場では、防弾チョッキを着用した若者5人がチューリップを約150輪、買い込んでいた。キエフと姉妹都市の京都ではキエフへ思いを込めて、伏見区産のミモザをウクライナの国旗色にアレンジした展示が、区役所で行われているという。

日本でミモザの有名な花言葉は「優雅・友情」などがあり、「優雅」という花言葉は、小さく丸いがたくさん咲いている様子から来ているという。 小さな雄しべが集まってポンポンと咲いている姿は、まさに優雅。

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(菅井)比較的最近知ったのですが、イタリアには3/8の国際女性デーを「ミモザの日」として身近な女性にミモザの花を送る習慣があるそうです。大分遅くなりましたが昨日我が家の近くで撮ったミモザの花をご覧ください。

(金藤)ミモザの写真ありがとうございました。春の訪れを知らせてくれるミモザ、私も大好きです。家には地植えにする場所がないので、鉢植えで2M位まで育ったミモザがありました。毎年、黄色の可愛い花をつけるのを楽しみにしていましたが、5年位前に虫が付いてダメになってしまいました。他所のミモザを見て歩きたいのですが・・・

(安田)ヤッコさん、我が家から200mほど離れたお宅のミモザが爛漫でした。写真をお送りします。

(在パリ 平井)ミモザは素敵ですね。今の時期南仏はミモザに溢れ、私も飛び切りミモザは大好きですが、私の住んでおります近くは、バラと藤の花が多くもう少し待たないといけません。
たっぷり咲き誇るミモザの生命力に心が広がる思いが致します。素敵なお写真ありがとうございます。

(船津)東京錦糸公園は「平和」な日々がお陰様で続いて居ます。白木蓮が満開です!櫻も間もなく開花すると思います(後ろの縦長長屋が我が家です)。

ウクライナに平和を!!!!

エーガ愛好会 (128) ドリーム  を見ました

(小田)NHK総合 1ch で、数学が得意な黒人女性達がNASAで活躍する映画「ドリーム」が放映されます。私が感動した映画です。よろしかったら、録画して観てください。

(保屋野)ミッキーさんご推薦の「ドリーム」観ました。.

人種差別がまだ色濃く残る時代に、黒人の女性天才数学者3名がNASAの宇宙開発で活躍する「アメリカンドリーム」(実話)です。当時の進歩的なNASAの科学者でさえまだまだ黒人への偏見が多い中、ケビン・コスナー演ずる「本部長」が白人専用と書いたトイレの看板を壊すシーンが印象的でした。また、後述するグレンがロケットに搭乗する前に、集まったNASAの職員にあいさつする場面で、他のスタッフが白人集団だけにあいさつしたのに対し、グレンだけが、黒人集団にもあいさつしていたのも好ましいシーンでした。

当時ソ連との宇宙開発競争が熾烈で、ロケットの軌道設計等に優れた計算技術が欠かせなかった時代、コンピュータの性能も低く、人力で超複雑な計算をする数学者達・・・、凄い、としか言いようがありません。そういえば、その後のASAの宇宙開発で、特にロケット軌道計算の分野で、女性が大活躍した、というテレビドキュメントが放映されてました。

エンディングは、グレンによるアメリカ初の地球周回有人飛行で、ロケット(フレンドシップ7)のカプセルが、上記女性数学者の一人の計算によって、無事着水するというハッピーエンドでしたが、改めて、人間の能力に人種間の差は無い、ということが再認識できました。

(船津)小田さんこの映画で色々な事が甦りました。先に書いたケープカナベラル後のケネディー宇宙センターを訪ねたことと、もう一つ会社に入ったばかりの頃周りの先輩達は算盤3級以上で中には多数桁の暗算も平気でやる人ばかり、コチトラ算盤なんか初めて触るぐらいでどうしようも無い、しかたがないので手回しのタイガー計算機を買ってもらった!その内に部屋に一台電導のモンローマテック計算機がやって来た。朝からその前に座って独占していました。たいしたことない掛け算と割り算でしたがね。それすら算盤では中々出来なかった。その後ずーっと経ってソニーの計算機とかが高価ですが出来てきた。しかし、天才的な女性達が宇宙開発を支えていたとはね!全く知りませんでした。凄いですね。そのやや高級なのこの映画にでて来ました。感激。

(斎藤)確か実話に基づく小説をアレンジして、黒人の問題に置き変えた脚本にしたと聞いています。
NASAは黒人差別はなかったし、今で言う自閉症やHDSD(注意欠如・多動性障害)の方たちで特異的な能力をった人達も集めていたとのことで、能力あるものに働いてもらうという方針をとっていたと聞いています。ただ、男女差別はあったそうです。
実際はどうであれ、映画の目指したところは、「人の能力を見極めて使ってい
く」姿を描いていると思っています。

(金藤) 原作は マーゴット・リー・シェッタリー 『ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち』英文 のようです。

1961年、ソ連はガガーリンが搭乗した人類初の有人飛行に成功。
宇宙開発で一歩遅れをとった米国では、アメリカ初の有人飛行プロジェクト
マーキュリー計画を成功に導くため NASAで陰ながら活躍していた優秀な黒人女性:  数学に天才的才能を持つキャサリン、管理職への実質を伴った昇進を目指すドロシー、エンジニアになるために必要な条件のクリアを目指すメアリー
3人の黒人女性が、人種差別や偏見がある中、優れた能力を発揮して活躍し、新たな道を切り開くストーリー。
実話を元に制作された映画だという事でしたが、保屋野さん 船津さんが既に書かれていらっしゃるように、トイレの有色人種使用禁止の看板を叩き壊すシーンは演出がオーバーだと思いながらもケビン・コスナーが演じる上司が即、行動するところにグッときました。飛行直前にマーキュリーセブンの一員、宇宙飛行士 ジョン・グレンがキャサリンに挨拶するシーンも実際にはなかった事でしょうが、この映画に於いては大切な良いシーンでした!
人種差別を受けながらも殆ど暗い部分がなく、前向きな姿勢が明るく描かれていました。ケビン・コスナーが優しい上司役でよかったです。

(ウイキペディアより転載)

1962年に米国人として初めて地球周回軌道を飛行した宇宙飛行士ジョン・グレンの功績を影で支えた、NASAの3人の黒人系女性スタッフ、キャサリン・ジョンソン、ドロシー・ボーン、メアリー・ジャクソンの知られざる物語を描いたドラマ。ソ連とアメリカの宇宙開発競争が繰り広げられていた61年、米バージニア州ハンプトンにあるNASAのラングレー研究所に、ロケットの打ち上げに必要不可欠な計算を行う黒人女性グループがいた。なかでも天才的な数学の才能をもつキャサリンは、宇宙特別研究本部の計算係に抜てきされるが、白人男性ばかりのオフィス環境は、キャサリンにとって決して心地よいものではなかった。一方、ドロシーとメアリーもそれぞれ、黒人であるというだけで理不尽な境遇に立たされるが、それでも3人はひたむきに夢を追い続け、やがてNASAの歴史的な偉業に携わることとなる。キャサリン役で「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」のタラジ・P・ヘンソンが主演し、ドロシー役を「ヘルプ 心がつなぐストーリー」のオクタビア・スペンサー、メアリー役を「ムーンライト」などにも出演している歌手のジャネール・モネイが演じた。監督は「ヴィンセントが教えてくれたこと」のセオドア・メルフィ。ミュージシャンのファレル・ウィリアムスが製作と音楽を担当。

 

(編集子)在職中、カリフォルニアへの駐在を2度経験した。第一回目は1967年、ベトナム反戦運動がサンフランシスコ近辺で噴き出したころ、HP社があったパロアルトは高速道路を隔てて東と西では全く違う町、イーストパロアルトはいわゆる黒人街で、まず白人の入らない領域だったが、ここの貧困を助けるために創立者のパッカードが採算を無視して小さな工場を開いていた。日本人も一度見たほうがいいだろうと思ったのだろう、連れていかれてただびっくりしたものだったが、2度目、1980年には人種や男女差別に対する変化が始まったころだった。Chairman、と言ったら、no, you must say chairperson  !  などとたしなめられて何が何だかわからなかったことを思い出す。あれから何年たったか、この国の悩みはつきないのが実態のようだ。

 

エーガ愛好会 (127) 南部の反逆者    (34 小泉幾多郎)

クラーク・ゲーブル主演で南北戦争と言えば、誰しもあの名作「風と共にさりぬ1939」を思い起こす。監督はラオール・ウオルシュ、タフなアクションやサスペンス等でハリウッド黄金期を象徴する巨匠の一人だ。西部劇も多く、40年代の「高原児1947」「追跡1947」「死の谷1949」といった作品は当時西部劇に新風を吹き込んだ異色作で、フィルムノワール的と言われている。特に西部劇には珍しく女優陣に目立った役回りを与えたことが印象に残る。順にジェーン・ワイマン、テレサ・ライト、ヴァージニア・メイヨ。この映画でも、ゲーブルよりも
女優のイヴォンヌ・デ・カーロに重点を置き女性一代記を演じさせている。残念ながら、ヴィヴィアン・リーに比較されると影が薄くなるのは致し方あるまい。

そもそも「風と共に去りぬ」を偲んでの作品を、ほぼ20年後に何故手掛けたのだろう。原作は「オール・ザ・キングスメン」でピューリッツア賞を受けたベストセラーの原作ロバート・ベン・ウオーレン。撮影は作品100本以上というルシアン・バラード。音楽は「風と共に去りぬ」のマックス・スタイナーとスタッフも超一流。確かに、イヴォンヌ・デ・カーロとヴィヴィアン・リーとを比較すれば敵わないが、ゲーブルは男盛りの「風」の39歳から老境の56歳でもまだまだ貫禄十分、奴隷市場での威圧する態度、決闘の相手がその自信ある形相に怖じ気づき逃げ出すやら、シドニー・ポアチェアが逮捕に表れた時、赤子から育て上げた経緯を喋る長いセリフ等々。

その今年1月没の若きポアチエは黒人の組頭を演じ、白人を殴りつけたことから北軍に身を投じ。赤子から世話になったゲーブルとの間で悩む姿を熱演したりの白人黒人の対立悩み等を浮き彫りにするところは、「風と共に去りぬ」がどちらかと言えば、甘いメロドラマが強調されていたとすれば、より刺激的で痛々しい感覚に溢れる社会派ドラマと言ってもよいかも知れない。

結局イヴォンヌは、表面的には白人だが、黒人を母に持つという悩める女性を演じ、奴隷市場で売りに出されるが、ゲーブルに高値で買ってもらえ、次第に愛するようになる。最初の恋人レックス・リーズンが北軍に志願、その後新しい恋人エフレム・ジンバリスト・ジュニアに愛されたり、南北戦争の激化に伴い紆余曲折するが、最後はゲーブルと共にボートに乗って帆船に乗るべく漕ぎだす。冒頭の合唱による旋律と同じ旋律が流れハッピーエンドで終わる。大いに楽しめたことからもっと脚光を浴びても良い作品と思ったのだった。終わってみれば、楽しい西部劇を観たような気分。

(飯田)この映画、何故か劇場公開時に映画館を渡り歩いて乱観した時期なのに、タイトルも印象が無く、今回多分初めて鑑賞しました。私は年齢と共に比較してランク付けするのを慎むことを心掛けていますので「風と共に去りぬ」等と
比べては観ませんでしたが、ストーリー展開、主演のクラーク・ゲーブル、オボンヌ・デ・カーロ、シドニー・ポアチエ、エフレム・ジンバリストなど、往年の俳優がそれぞれに味を出して西部劇というより、南北戦争時代の南部の奴隷制度下での主従の間の愛憎を、予想通り?のストーリー運びでEndingを迎える典型的なドラマとして大変楽しめました。

1950年代、60年代はこの種の映画や描き方が名作でもなくても主流であったことを改めて思い起こさせられた作品でした。

エーガ愛好会(126)  誰が為に鐘は鳴る

(34 小泉)
荘厳なる鐘の音で始まるスケールの大きな美しい主旋律である「大虐殺と愛のテーマMassacre and Love Theme 」が最後に再び鳴り響くまで、そのヴィクター・ヤングの切ない哀愁のこもる旋律に酔いしれたこと。冒頭から闇の中を列車の明かりが見え始めると線路に仕掛けてあったダイナマイトが爆発、最初から画面に釘づけ。共和政府の義勇軍の若者ゲーリー・クーパーが橋梁爆破の任務のため現地のゲリラの一団に合流、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンによる純愛。観念的には熱望しても実行となると難しいが、バーグマンの愛を受け入れることが彼女にとっての最高の幸福と信じたから、といった純愛は、この年齢になると恥ずかしくもなるような話だが、昔馴染みのクーパーとバーグマンという美男美女が演ずるからこそ劇中に入り込んで最後まで見てしまった。

(36 岡秀雄)                            最近は全く見ない映画を一生懸命見たけれど年には勝てず、途中コックコックリ居眠りしていました。若き日のイングリットバーグマンとゲーリークーパーはやはり素敵ですね、ラストに近いシ-ンは涙を誘うし、映画としては我々はこの頃の古い時代の物が情緒があり、後味が良いですね。長時間だけど良い映画を見る機会を与えていただき感謝。

(44 安田)                             シェイクスピアとほぼ同時代16世紀イギリスの有名な詩人ジョン・ダン(John Danne)の詩が映画の題名(For whom the bell tolls)だ。彼の詩の中の「鐘」は人が死んだときに鳴る「弔いの鐘」のこと。誰かの死は、自分自身も属する世界の一部が欠けることになり、知らない他人の死であっても、自分自身の損失だと訴えている。ヘミングウェイは、スペイン内乱の中で人知れず死んでいった一人の若者の死は、世界中の人に大きく関わる悲劇だと描いている。そのアメリカ人義勇兵の若者ロベルトをゲイリー・クーパーが演じ、フランコ軍の橋を爆破するため活動する山間部でイングリッド・バーグマン演じるゲリラの薄幸の美しい娘マリアに一目ぼれして死に至る3日間の束の間、二人は愛し合う。悲恋物語であり反戦映画だ。恋人のマリアだけでなく映画鑑賞者や本の読み手の我々もロベルトの死を惜しむべきだと。

名画「カサブランカ」の翌年公開であり、ゲリラの娘として短髪バーグマンの美しさ、特にクーパーを見つめる眼に魅了される。演技をしてないかのようないかにも自然体のクーパーの存在感が際立つ。男女二人のロマンスと内戦における反フランコ共和国軍のゲリラ戦を二つの軸として映画は展開するが、ロマンスとしては「カサブランカ」ほどの深みはなく、内戦のゲリラ戦の描き方も特筆するほどでもなかった。映画を引き締めていたのは、ゲリラメンバーの個性豊かな描き方、なかでもアカデミー助演女優賞を獲得した肝っ玉かあさんゲリラリーダー・ピラーと夫パブロの二人が出色であった。

(普通部OB 船津)                          あぁ1942年カサブランカ。1943年誰がために鐘は鳴る。映画って良いなぁ。イルザとリックそしてマリアとロベルト。どっちも素晴らしいキスシーン。負けたーぁ。若々しくウイウィしいバーグマンのあの瞳と白い歯。そしてリックと別れる前のあの泪の瞳。やはり原作者のヘミングウェイは「この役を演じるのはバーグマン以外にありえない」と言い切った。だけのことは在り。忘れ得ぬ顔。

そしてウクライナの戦場のを思い浮かべざるを得ない。
スペイン内乱はピカソのゲルニカ。キャパの倒れる兵士。そしてヘミングウェイのこの小説「誰がために鐘は鳴る」-「個人は人類の一部であり、他の人の弔鐘はあなたのためにも鳴っている」-no man is an island

(HPOG 金藤)                            スペイン内戦に義勇軍の一員として、鉄橋を爆破する任務のために山中に入り、ゲシュタポの協力を得て、すでに無駄だとわかっても、任務を成し遂げる。 命をかけて・・・

舞台となったスペイン北部の山中の景色もそれなりの場所でした。ゲーリー・クーパーだと格好良すぎるせいでしょうか、任務の深刻さが伝わってきません。イングリッド・バーグマンが可愛らしかったので、束の間の恋愛映画だったのですね。 ピラ−を演じたカティナ・パクシヌー 強い女性の存在感がありました。
現在緊迫するウクライナ情勢ですから、映画「誰がために鐘は鳴る」今観ると内容が軽く思えてしまいました。
(42 保屋野)この映画は昨年12/2に放映されましたが、当時あまり話題にならなかったようです。調べたら、私がチビ太あてに「正直つまらまかった」とコメントしただけのようです。今回の再放送で、皆さんの感想を楽しみにしております。

(編集子)慶応高校3年の時、学園祭(日吉祭)の実行委員というのになった。初めて女子高との共催、という形式が決まり、双方からたしか12,3人の委員が実行委員会というのを作って、結果はそれなりに評価されるものだったと思っている。実行委員のうち、男子校のメンバーがいわゆる秀才ばかりではなく、中には何が起こるかわからないので司法、という担当、いわば警備員みたいなものにはそれ相応の人材?もいたし、文学青年気取りのやつとかいろいろだったのに対し、女子高側はそろって才女の代表みたいな構成だった。だから(大体日本の場合、同じ年齢ならオンナノコがませているのは当然である)彼女たちの会話を聞いていると僕らにはとても進んだ(と当時は思ったのだ)知性的(に聞こえた)な話題ばかりだった。アンドレ・ジイドがどうしたとか、ラフマニノフのピアノがどうだとか、今思えば彼女たちも一所懸命に見栄を張っていたのかもしれないが、なにせ当時の高校生には女性の友人がいるという事自体がまだまれだったせいもあって、チキショー、と思いながら黙って聞いているしかなかったのだが、そのなかでよく、ヘミングウエイの 老人と海 が話題に上った。そうかい、そんなにいいのかい、と半分けんか腰?で読み始めたのが一連のヘミングウエイ作品だった。以来社会人になってもこのコンプレックスあがり?の感情が残っていて、今本棚をみると翻訳が出ているものはほとんど読んできたようだ。さらにハードボイルドにのめりこんでみると、HB文学の文体はそもそもヘミングウエイから始まっている、というではないか。それではと数冊原書にも挑戦してみたが、母国語でもないし文学のプロでもないものにそのようなことがわかるはずはなく、今日まで来た。

その中で、小生が一番気に入っているというか、うまく表現できないが共感するのが 海流の中の島々(Islands in the stream) である。そしてこの本の結末部分は 誰が為に鐘は鳴る の結末を彷彿させるというか、全く同じ、と言っていいほど似ている。ヘミングウエイは人間の死の瞬間を 真実の瞬間、と呼んだ。この短い一節が凝縮されているのがこの二つの作品のエンディングだと思うのだ。ヘミングウエイは自らのショットガンで自殺した、その銃口をみつめたとき、それは彼にとって真実の瞬間、だったのだろうか。

先日、石原慎太郎が亡くなった。ずいぶん前のことだが、あるテレビの対談番組で、自分は死ぬとき、ああ、俺は今死ぬんだ、と納得しながら死にたい、といったのを覚えている。小生は彼の人を見下したような言動が大嫌いで、作品もほんのわずかしか読んでいないのだが、このときは一種異様な感動を受けた。彼の訃報を読んだとき、慎太郎の真実の瞬間はどうだったのか、と思ったことだった。

 

 

スキーに行っていました   (42 保屋野伸)

ウクライナに関するご意見等、興味深く読ませていただいております。愛好会の皆さんは(奇人変人どころか)真面目な方が多いですね。

こんな折に私は、ワンゲルの同期8名と4日間、蔵王に行ってきました。(スキー、男性5名、観光、女性3名)天気も良く、樹氷も相当残っていて、久しぶりに楽しいスキー&旅行となりました。

糖尿病の話です    (会社時代友人 齋藤博)

犬や猫も、糖尿病になることをご存知ですか?2019年ですが、新聞にこんな記事が載りました。

”大阪市の天王寺動物園は28日、飼育していた国内最高齢のピューマ「ピコ」(雌、17歳)が死んだと発表した。死因は調査中。2018年夏ごろから慢性的な腎不全の治療を受け、12月には糖尿病と診断されていた。”

私が小さい頃、飼っていた犬や猫に、いわゆる「猫まんま」を毎日のように上げていました。猫は割と若くして死んでしまいました。
犬は、ジャーマンシェパードという大型犬で、飼いきれなくなって、親戚の工場の番犬として第2の人生を送っていましたが、泥棒に仕掛けられた毒エサを食べてあえなく死んでしまいました。食いしん坊だったのが仇になりました。どれも昭和30年代の話です。

ふと犬猫のことを思い出して、色々調べてみると、猫の場合は、慢性膵炎を基礎疾患とした、あるいは、薬剤誘発性の『2型糖尿病』になる場合が多いそうです。もしかしたら、自分の猫の死は「猫まんま」が何らかの原因になっていたのかもしれません。

犬の場合は、7,8歳くらいで発症する『1型糖尿病』が多いそうです。何らかのウィルス疾患などに罹患して発熱などの症状が出た時、体内の免疫細胞の活動が亢進するわけですが、このとき、免疫細胞が自身の膵臓のβ細胞を攻撃し、β細胞を破壊してしまった結果、1型糖尿病を発症するとされているようです。

鯉も糖尿病になると聞きましたが、詳しい資料は見つかりませんでした。
色んな動物が人間に飼われるようになり、人間と同じ環境で生活し、同じような食事をすると、人間がかかるのと同じような病気になるのでしょうか。

実は、昨年まで勤めていた仕事の関係で、田園調布動物病院の田向健一先生という方に出会い、著書を読む機会がありました。一頃、テレビで、フェラーリに乗る獣医として話題になった先生だと思います。エキゾチック・アニマルという言葉を初めて使った先生としても有名です。『珍獣ドクターのドタバタ診察日記: 動物の命に「まった」なし! 』 動物の病気がよく分かっていなかった頃から、動物の病気を探ってゆく姿がなんとも素晴らしく、感動した本でした。

ところで、皆さんは、1型糖尿病は生まれつきの病気だと思っている方はいませんか?昔はそのように言われていましたが、1型糖尿病は年令に関係なく発症しているようです。詳しい原因は分かっていないとのことですが、先程の、犬の糖尿病に書いたのと同じようにウイルス感染も重要な要因のようです。

今では、①劇症1型糖尿病、②急性発症1型糖尿病、③緩徐進行(かんじょしんこう)1型糖尿病と言う3種類の1型糖尿病に分類されています。

私の兄は平成7年に、ひどい風邪を引いた後に体調がおかしいと言って近くの都立病院に行って診察を受けたました。「立派な糖尿病だ。インスリン打たなきゃいけないな」と医師に大笑いして言われ、1週間後に急死しました。46歳でした。劇症1型糖尿病の存在が明らかにされたのは、それから5年後。大阪医大でこの病気が発見され、世界に報告されました。兄の血液検査などのデータを見ると、明らかにこの劇症1型だと思われるデータでした。

人の体を取り巻く環境についての科学は常に進歩しています。沢山の研究者により、いろいろな病気の実態がわかり、新しい治療法が確立されているのは、素晴らしいことです。上手いタイミングで助かった人は、ラッキーですね。兄は残念でしたが、実は、別の病気ですが、私はラッキー側の一人です。

3月10日に思うこと  (普通部OB 船津於菟彦)

77年前の今日。この眼下の錦糸公園に2万人弱の人々が空襲で亡くなられ、仮埋葬されたのだと今は誰も思わないと思います。
以前犬の散歩でこの錦糸公園を毎朝三周していました。
その時に、この写真の左奥のお宅に住まわれているご主人、犬に気軽に声を掛けてくれる方と偶然、東京大空襲の話をしたところ、なんとその方は現在と同じ場所に住んで居られ、当日は突然の空襲で錦糸公園の中にある防空壕に駆け込んだところ、既に満員では入れない。仕方なしに布団を被って物陰に隠れて居たという話を始められた。何時もの明るい笑顔ではあったが、「その防空壕に避難した人は殆どが死んでしまった」「自分は布団を被っていて何とか助かった」そして埼玉の方の知人を頼って逃げ延びたと。「その行く道道は焼け死んだ人ばかりだった」小学生の身にどんなに悲しい事で忘れ得ないことと思います。

77年前の3月10日は東京大空襲で僅か1〜2時間の間に東京の下町地区に米軍無差別空爆により10万人以上の方がお亡くなりになってしまった。この眼下の錦糸公園にも2万人弱の方が仮埋葬されたという。戦争はいつまで経っても無くなりませんね。

下の2枚の写真は同じ場所から見た風景です。
上は東京大空襲後の亀戸天神の石碑が建っている場所です!疲れ果ててしゃがみ込んでいる人と自転車で我が家の方向に走っている人が写されています。
下右の写真は現在の場同じ場所です。右側奥のやや霞が掛かったマンションが我が家です。
亀戸天神道標

77年間戦争にかかわらずに平和に暮らしてきた日本。

世界も当然部族とか宗教による紛争はともかく、世界大戦になるような戦争は無く済んできましたが、突然核兵器まで使用すること辞せずとロシアは侵略してきた。「元々俺の土地を奪回して何が悪い」の理論のようです。
今もキエフには最新兵器のピンポイントで攻撃できるロケット誘導弾が飛んでいることと思います。嗚呼!何時になったら「過ちは繰り返しません」と言う事が実現するんでしょうかね。

(東京大空襲)

1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町(したまち)地区に対する爆撃を中心とする、アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦。沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となった。
本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まった。日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B-29の爆撃圏に入ったからである。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷弾(しょういだん)爆撃を計画した。それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。B-29は1944年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。9か月に及ぶ空襲は、延べ4900機により130回に及ぶもので、38万9000余発の焼夷弾と1万1000余発の爆弾が投下された。
3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(1943年7~8月)で有名なルメー少将の指揮によって準備された。下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからである。午前0時8分から深川(ふかがわ)地区に始まったこの空襲の特徴は、夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたものであった。
2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB-29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロメートルが焼失、鎮火は8時過ぎであった。焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。死者は警視庁調査では8万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を10万人としている。
アメリカ軍はこの後、3月12日名古屋、14日大阪、17日神戸、19、20日名古屋、29日北九州、4月13日東京山手(やまのて)地区、15日東京・横浜・川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月末の空襲ともあわせ、東京の市街地の50.8%が焼失し、国民の恐怖は極限に達した。その後、空襲は地方の中小都市へと移り、最後の空襲は1945年8月15日午前1時、東京西多摩郡に対して行われた。
(編集子)今、頭の筋肉の健康のため、辞書と首っ引きで、エリッヒ・ケストナー(双子のロッテ、とか 飛ぶ教室 など少年少女向けの名作で名高い)の 私が小さな子供だったころ (Als ich ein kleiner Junge war)を読んでいる。いつ読み終えるかわからないが、作者が育った古都ドレスデンの、大戦前の思い出を書いた本である。この街は第二次大戦末期、連合軍による戦略爆撃のためにほぼ完全に破壊された。ウイキペディアの記事をコピーしておくが、古き良き時代が無慈悲に抹殺された歴史の汚点として、東京大空襲と合わせて記憶されていくことだろうし、今はロシア開国の歴史の出発点でもある古都キエフの安全を祈ることしかできないのだが。
(ドレスデン大空襲)ドレスデン爆撃(ドレスデンばくげき、Bombing of DresdenLuftangriffe auf Dresden)は、第二次世界大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍イギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍)によって行われたドイツ東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、市の調査結果によれば死者数は25,000人だとされる[1]