“とりこにい” 抄 (1)

山へ行く人の中には自分の山行記録や紀行文やその間の自分の思索などを書く人が多い。スポーツアルピニズム発祥の地である英国をはじめ、欧州諸国には早くからこの伝統があったし、日本でもかの大島亮吉や三田幸夫など日本における登山の先駆者たちから始まって、ご存知串田孫一や深田久弥、僕の好みで言えば上田哲農、などなど、数多くの先達の珠玉の作品がある。

ワンダーにはいってまもなく1年の初夏、当時4年生の金井さんに秩父へ連れて行ってもらい、すっかり秩父の雰囲気が好きになった。このことを金井さんに言ったら、そうか、それならこの人の本が気に入ると思うよ、と紹介されたのが 加藤泰三 ”霧の山稜” だった。なぜ金井さんが僕の好みをズバリ言い当てられたのか,今でもわからないが、第二次大戦で惜しくも散華した、新進気鋭の版画家と嘱望されていた著者の、抑えたユーモアのなかにある一種の諦観のようなものが僕の琴線に触れるものだったのだと思う。ベレー帽をかぶってダークグリーンのシャツが定番だった金井さんは物静かななかに人を惹きつける雰囲気を持った先輩として心に残っている存在である。

卒業して数年たって、きっかけが思い出せないが37年の村井純一郎と交友が復活して、彼から勧められたのが 山口輝久 ”北八ツ彷徨” だった。残念なことに村井は病を得てあまりにも早く旅立ってしまったが、かれの沈着冷静ななかに凛とした信条をもった生き方は、1年後輩にもかかわらず僕自身を見つめなおす機会を与えてくれたものだった。その後、同期で塾山岳部にいた山川陽一の企画で、その八ヶ岳山麓で著者の山口さんと一夕を過ごす機会があって、この本の中で特に僕の気に入っている 紅葉峠 という一文について、話をさせてもらったりした。

今夏、部屋を片付けていたら古いノートがでてきた。題名に とりこにい と書いてあり、このノートを書き始めたころの高揚感というか、今となってはむしろ気恥ずかしい気分にもなるのだが、そういうものを思い出した。

トリコ二-、という言葉がわかる人は今となっては僕らがおそらく最後の世代だろうが、昭和30年代ごろまで、本気で山登りをしている人たちが履いていた重厚な山靴は裏に鉄の鋲が打たれていた。用途によっていろんな種類があって、そのうちの一つがこう呼ばれていた。ちょうど僕らがワンダーにはいるころから、ビブラム(商品名だろうが今は一般名詞となっている)が山靴の常識になり、鋲靴(ナーゲルと俗称されていた)はほんの一部の人のものだった。僕の場合は35年卒の河合さん(40年卒デシこと国尚君の兄上)がこれをはいておられるのを見て、(へえ、この人はすごいんだ)と恐れ入っていた記憶がある。

ビブラムが鋲靴にとってかわるきっかけになったのが通称キャラバン、といわれたズック(この言葉もいまでは死語か)製の軽登山靴で、あっという間に鋲靴は姿を消したが,トリコニーの7番、というのだけが土踏まずの位置に打たれていた。ぎざぎざのついたL字型の鋲は、ふれ込みによると丸木橋を渡ったりするときの滑り止め、というのが定説だった。考えてみると、そのような時にこの鋲を利かすには横向きに歩かなければならなかったのではと今更に思うのだが、実用性がなかったのかどうか、ここからも鋲はいつの間にかなくなってしまった。しかしその運命に堪えて履く人を支えているち沈黙の存在、という意味で トリコニー という言葉は別の意味を持っていたのだろう。そのノートの扉に今となっては気恥ずかしい感じがするのだが、こう書いてある。

  靴の下で 泥をかぶりながら 

  いつも唄っているお前は いとしい トリコ二イ。

  さあ 聞こう 

  人には聞かせない お前の唄を

  いつまでも変わらない お前の唄を

  ひめやかに歌い続けてきた

  トリコ二ーの唄を

もう少し前だったらとても恥ずかしくて、それこそ人に聞かせることもできなかったが、ま、最終コーナーをまわりはじめた老人の懐古か回顧か、いくつかをシリーズで紹介させてもらうことにした。今回は前振りも長いので、うんと短いのを書かせていただく。

 

 仙水峠

 

 峠.。

 のぼりみちに

 ふとふれ合った心が

 また そっとよりそって

 くだりみちへ さしてゆく

 

“信玄棒道” 異聞

戦国時代、武田信玄が信濃攻略のため作った軍用道路といわれるのが ”棒道”である。現在もあちこちに原型とされる部分が残っているが、その一部でおそらく現用されている唯一の部分と思われるのが、小海線甲斐小泉駅付近から小淵沢カントリクラブの裏あたりまで 棒道ハイキングコース として管理されていて、その一部が小生のセカンドハウスの裏(というか軒先)を通っている。夏季はハイカーが良く通るし、地元の乗馬学校のレッスンの “外乗” も通ることがある。秋深くなると原生林の紅葉が実に素晴らしいプロムナードになる。昭和40年代くらいまでの八ヶ岳登山ガイドには、権現・編笠へのアプローチとして紹介されていた。時代考証があるのかどうか勉強していないが、往時には道しるべとして作られたとする観音像もあるし、短い距離ではあるが、僕の好きな散歩道だし、元気があればふもとまで朝刊を買いに往復するとほぼ50分、格好のトレーニングにもなっている。

この散歩ルートに異変が起きた。数年前から計画のあることは知らされていたが、我が家のすぐ下を通っている沢(古杣川の支流だと思うのだが)に合計3基の砂防ダムが建設(本日現在未了)されたのである。もちろん、ハイキングコース自体をふさぐようなことにはしていないが、正直、雰囲気がぶち壊しである。

いままでであれば、ただ憤慨し、環境破壊だのなんだのと難癖の一つも付けたいところだが、昨今の異常天候や各地での災害を考えると、やむを得ない予防措置かなと感じる。甲斐小泉駅からこの棒道ハイキングコースの起点までのあいだに三分一湧水、という小公園がある。八ヶ岳連峰の南を限る権現岳の山麓は多くの湧水があり、このあたりは清冽な小川やため池が多いのだが、いいことばかりではなく、沢筋を駆け下った土砂災害の歴史もある。その過去を風化させないために三分一湧水公園には惨事を伝える大きな石が展示されている。これだけの石を運ぶエネルギーがこのあたりの沢筋にはあるのだ、ということを明確に表していると思う。

現在進行中の工事は当初8月初めに終了ということだったが、この分では9月いっぱいかかるのではないかと思われる。この沢の下流が上記の写真にある惨事を引き起こした場所だと言われると、やむを得ないと納得する一方、地球温暖化の結果と思われる昨今の世界規模の異常天候のことを考えざるを得なくなる。この次来た時にはともかく、納得できる形に収まっていてほしいものだが。

 

2019 ナンカナイ会 夏の集まり

8月22日、恒例の夏の集まりを開催。参加人数は25名と盛況だった。

今回は大病を患い手術もあったジュク兄こと伊藤博隆が復帰。毒舌は相変わらず意気軒高とみた。また ”準会員” ヨコさんこと横山隆雄先輩も参加。これ又相変わらず、ご壮健とお見受けした(ただし写真撮影の時すぐ後ろにいたので観察したが見事な白髪も頂部ではわずかに一層、これをセットするのは結構大変だろうなあと感服)。

常連ではちびが通風再発のため受診、高橋良子は白内障手術直後とのことで不参加だった。ほかにも自宅療養中の連絡も5件あった。この世の中、わるいことばかりじゃなし、SNSとかメールとか (我田引水だが小生のブログとか)時空を超えて連絡できる時代になった。人間の基本は社会性にあり、とか、お互い、連絡しあって元気にやろうぜ。

 

朝日連峰W報告 (42 下村祥介)

大朝日避難小屋前のお花畑

8/4(日) 東京駅11:00発つばさ自由席に乗車。山形駅で降り、駅前でレンターカーを借りて月山ICへ。

そこで高速道路を下りて古寺鉱泉に16:00時ごろ到着。古びた(ひなびたと言うと少しイメージが良くなりますが)山小屋で一泊。夕食はイワナの塩焼きと山菜で、手の込んだ美味しい料理だった。

8/5(月) 5時起床、6時出発。小屋の裏から山道に入りジグザグ道を30分ほど行くと尾根筋へ。樹林帯の中のこの尾根筋を2本の小休止を入れながら2時間半ほど登って漸く一服清水へ。ここで小休止をし、かなり急な登りを行くと40分ほどで三沢清水に到着。この辺からニンニンの足がつるようになりぺースダウンしながら登行。古寺山への登りは相当つらかったと思う。

古寺山から小朝日岳のかなり急な巻道を経て熊越へ。ペースは遅いもののニンニンもつり止めの薬を服用しながら何とか銀玉水へ。ここでまた一休み。この辺まで来ると大朝日岳の避難小屋が見え、勇気づけられる。お花に慰められながら1時間ほどでようやく避難小屋へ。着いたのは15:30。コースタイム6時間のところを9時間半を要してしまったが、無事にたどり着けて先ずはホッと。

 小屋にはおよそ50名ほどの登山者がいて、それぞれ自炊。我々もホヤノ君持参の牛丼で夕食。ウイスキーが疲れた体に沁みわたった。19:00就寝。木の床に寝袋1枚。床が固くて夜通し寝返りばかり打っていたが、翌朝聞いてみると皆同じよう寝苦しかったようだ。

避難小屋まえで

8/6(火) 4時ごろ起床し、空身で約30分、大朝日岳山頂へ。まだ暗かったが月山と飯豊山、遠くに鳥海山が見え、最高の景色。やがて東から太陽が顔を出し始め写真撮影。ブロッケン現象も見ることができた。山頂には単独行の女性が2名。写真を撮ってもらいしばし佇む。

 朝食のおにぎりを食べて6時に下山開始。ニンニンの足も順調で12:00には古寺鉱泉に。急な坂道を下りながらニンニンはよくこんな急なところを登ったものだと改めて感心した次第。

 停めておいたレンターカーを転がし、途中の大井沢温泉で汗を流して、山形駅へ15:30到着。

(この後つばさに乗車したものの赤湯まで来たら線路が暑さのために曲がってしまい不通に。2時間ほど車中で待機させられた後、バスで福島駅へ。東京に着いたときは22:00を軽く回っていた)

 いろいろハプニングがあったものの、天気と仲間に恵まれた思い出深い山行になった。ホヤノ君はこれで99座を達成。あとは男体山だけということでまた付き合わされそうな気がしている。

大朝日のご来光が荘厳

2019 8月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

8月の月いち高尾は従来のスタイルで10時高尾登山口に集合。連日の猛暑は今日も35度を超えるとか?そして今日は納涼会を兼ねているので山は軽めに楽しんでうまいビールを期待して勇躍15名が参加しました。

でも、油断は禁物! 無理をせず個人の申告で5名はリフト・ケーブルカーに乗って頂上へ。10名は琵琶滝コース⇒稲庭尾根⇒高尾山頂上へと向かいました。納涼会は登山口駅に隣接したイタリアン「FUMOTOYA」でジャイさんもこの為にだけ参加され総勢16名でワイワイと楽しい時を過ごすことが出来ました。

今年は天気に恵まれ(雪の中の御陵参拝もありましたが)8月まで中止にすることがなく、8連荘達成です。昨年は7勝5敗でしたので早くも去年より開催回数が多くなりました。このまま、年末のBBQまで天候に恵まれ、楽しい「月いち高尾」が開催されますよう事務局として切に祈る次第です。

日時 2019年8月7日(水)

リフト・ケーブルカー組 船曳夫妻、岡、吉牟田、立川 以上5名

*ケーブルカーに2人とリフトに3人に分かれて一気に登る。10;40頃にケーブル山頂駅付近で合流。

歩き始めるとヒラヒラと蝶々が舞っている。旅する蝶「アサギマダラ」だ! なんだか得した気分。10分ほど行って、ベンチで小休止、カボちゃんの差し入れの梨をいただく、美味しいこと。感謝!

11:00に再出発、薬王院にお参りして、急な階段を登り、奥之院から頂上を目指す。

11:25高尾山頂到着。各自持参のレーションで小腹を満たしながら、本体到着を待つ。(記述:立川)

琵琶滝コース組 椎名、遠藤、深谷、翠川、町井、蔦谷、岡沢、堀川、武鑓、河合 以上10名

*10:10登山開始、快調に琵琶滝コースへ。でも、暑い!! 暑いだろうと沢筋の道を選んだが、沢も尾根も関係無いようで暑さであっという間に汗でぐっしょり。でも、休憩時に沢に降りると風があり気持ちが良い。

 椎名さんが快調に飛ばしすぎたかバテ気味なので岡沢に託し稲庭尾根に出て頂上に向かう。直下の225段の階段も全員一気に登り切り11:50、頂上でリフト・ケーブルカー組と合流。堀川が秘かに運び上げた大きな冷たい、冷たいスイカ(半分)を切り分け舌鼓。旨い!!(自画自賛)

2019夏合宿でのスケッチ (36 後藤三郎)

室堂でのスケッチ

夏合宿の4班で立山(雄山)に登りましたが本当にしんどい思いはこれが人生最後でしょうか。室堂でのスケッチを添付します。

今回の合宿は体調不良で大事をとって不参加に終わった。同行予定だったサブちゃんからのメール、一部転載。

 

19年8月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

8月の月いち高尾は従来のスタイルで10時高尾登山口に集合。連日の猛暑は今日も35度を超えるとか?そして今日は納涼会を兼ねているので山は軽めに楽しんでうまいビールを期待して勇躍15名が参加しました。

でも、油断は禁物! 無理をせず個人の申告で5名はリフト・ケーブルカーに乗って頂上へ。10名は琵琶滝コース⇒稲庭尾根⇒高尾山頂上へと向かいました。納涼会は登山口駅に隣接したイタリアン「FUMOTOYA」でジャイさんもこの為にだけ参加され総勢16名でワイワイと楽しい時を過ごすことが出来ました。

今年は天気に恵まれ(雪の中の御陵参拝もありましたが)8月まで中止にすることがなく、8連荘達成です。昨年は7勝5敗でしたので早くも去年より開催回数が多くなりました。このまま、年末のBBQまで天候に恵まれ、楽しい「月いち高尾」が開催されますよう事務局として切に祈る次第です。

 

日時 2019年8月7日(水)

リフト・ケーブルカー組 船曳夫妻、岡、吉牟田、立川 以上5名

*ケーブルカーに2人とリフトに3人に分かれて一気に登る。10;40頃にケーブル山頂駅付近で合流。歩き始めるとヒラヒラと蝶々が舞っている。旅する蝶「アサギマダラ」だ! なんだか得した気分。10分ほど行って、ベンチで小休止、カボちゃんの差し入れの梨をいただく、美味しいこと。感謝!

11:00に再出発、薬王院にお参りして、急な階段を登り、奥之院から頂上を目指す。

11:25高尾山頂到着。各自持参のレーションで小腹を満たしながら、本体到着を待つ。(記述:立川)

琵琶滝コース組 椎名、遠藤、深谷、翠川、町井、蔦谷、岡沢、堀川、武鑓、河合 以上10名

*10:10登山開始、快調に琵琶滝コースへ。でも、暑い!! 暑いだろうと沢筋の道を選んだが、沢も尾根も関係無いようで暑さであっという間に汗でぐっしょり。でも、休憩時に沢に降りると風があり気持ちが良い。

椎名さんが快調に飛ばしすぎたかバテ気味なので岡沢に託し稲庭尾根に出て頂上に向かう。直下の225段の階段も全員一気に登り切り11:50、頂上でリフト・ケーブルカー組と合流。堀川が秘かに運び上げた大きな冷たい、冷たいスイカ(半分)を切り分け舌鼓。旨い!!(自画自賛)

喫茶店とのつきあい (2)

結婚したてで恵比寿に住んでいたころ、地下鉄日比谷線がオープンし、家から六本木まですぐいけるので嬉しくなって夕食後、よく八恵子とふたりで”クローバー”に出かけて行った。この店もまだあるけれども僕らが通っていたころの上品さと丁寧さが薄れてしまっているのが残念だといいあっていたら、なんということか、業績不振で閉店したそうだ。大手のケーキメーカーが買い取ったが店の名前も変えてしまうという。いま、調布の端っこに住むようになって、近くを歩いてみつけたコーヒーの専門店 “さかもと” の店主がクローバーで修業したプロだったことを知り、それ以来、すっかりなじみになった。落ち着いた、大人の店である。この廃業に伴う裏話もここの坂本さんに聞いた。残念なことだがこの世の中浮き沈みはあきらめなければならないようだ。

今住んでいるつつじヶ丘・仙川近辺だが、喫茶店にかんするかぎり、この “さかもと” 以外気に入った店はない。調布まで行くと、いろいろと店はあるが、散歩ついでにミステリでも読もうかという時にはチェーン店にしては店員のしつけがいい ”ニューヨークカフェ”か、北口を出て線路に沿った道ををちょっと戻ったところにある”サンマロ”がぼんやりとし雰囲気でいい。また、甲州街道からつつじヶ丘の隣駅柴崎に入る路にある”手紙舎” は本やと軽食レストランとゆっくりコーヒーを出してくれるカウンターが調和して、静かな、ゆっくりくつろげる店である。本は幼児教育、美術、音楽、料理などのせまいジャンルに絞ってあって、週刊誌だのコミックなどでがやがやしていないのがまた、いい。コーヒーは各種そろえてあって、挽き方まで好みを聞いてくれる。

つつじヶ丘周辺では、前記 ”さかもと” のほかは駅まえのちいさなロータリーをへだてて、ご存知ドトールと最近になって進出してきた Piers というチェーン店があるきりだ。好みにうるさい浅海昭あたりにいわせればこういう店は馬鹿にされるのだが、僕が何となく居場所として悪くないな、と思うのは、コーヒーの味ではなく、まして若いころの甘酸っぱい記憶でもない。一種の社会観察の場としてで、そのような中に自分も生きているんだな、という一種の確認みたいなものができるからだろうか。

同じドトールでも青山だとか赤坂だとかいうところの店は、ビジネス人の一部みたいな、活発だが冷たい感じがするし、人の出入りも激しい。ここつつじヶ丘の店は言ってみれば停滞、といった感じがする。客はほぼ6割まで老人である。僕の滞在時間は長くて30分くらいだが、その間、店の空気は、まず、じっとしたまま動かない。観察するに、1杯のコーヒーを前にして、本を読んでいる人、黙って空を見つめている人、が半分くらいで、会話をしている人はちらほらとしかいない。一度、隣にいた上品な老婦人から、ここにはよくおいでになるのですか、と突然声をかけられたことがある。私、毎日来て、常連の人と顔見知りになって、今日もその人を待っているんですが、どうもお見えにならないみたいです、ということだった。見知らぬ人との会話だけが人生に残された楽しみなような言い方を聞いて、どう答えていいかわからず、用事があるふりをして席を立ったのだが、あとでそんな自分がみじめな思いになった。勇気を出して、愚痴か痛恨か亡くなった夫の追想か、聞いてあげる勇気がなかった自分が、である。

越してきて間もなくのころ、段ボールとの戦いで疲れはて、コーヒーでも、というだけでこの店に入り、窓際のカウンタに座った時のことを今でも思い出す。

ちょうど雨模様で、目の前の欅の木が(その後駅の改築で伐られてしまったのが悔しいが)揺れているのを見たとき、まったく唐突に ”嘔吐” の  “ブーヴィルは明日も雨だろう” という結びの一節が心に浮かんだ。サルトルがこの結びをどういうつもりで書いたのか、わかるすべもないのだからこの時の反応も言ってみれば一種の発作のようなことだった。年老いた人間が集い、何かを求めて、たぶん今日も期待したことは起きないだろう、と思いながら座っている。明日も雨か。そういうやりきれなさなのか、ひるがえって見れば究極の楽観なのか。著者がこの本の中で語ろうとした”実存“とかいう難しい概念の、ひょっとするともっとも原理的な解釈なのか、よくわからないのだが、それ以来、天気が悪くて暇があるとちょくちょくこのカウンタに座ることが多くなった。自分もまた、この人たちと一緒に時代を生きてきたのか、という感慨を改めることだけなのだが。

さらば愛しきアウトロー

不思議な映画だった。普通の映画なら見終わった後に、面白かったとかくだらなかったとか、凄かったとかなんとか、映写されたものに対していろいろな感情が湧くのだが、これにはそれがなかった。見た意味がなかったかと言えばそんなことはもちろんないのだが、考えてみると普通の映画にはその映画が切り取っている時代や世界や物語の背景などがあって、その中に自分をいわば投影してみている。見終わってみて、自分がその中にいない、いなかったことを実感して、改めてその映画を評価するのだが、この映画ではそれを見ている(いた)自分と見終わった自分との時間・空間的な隙間が感じられないのだ。つまり映画にあらわされた世界が自分の世界と区切られていないという気がする。

ロバート・レッドフォードは1936年生まれ、つまり小生と同い年(正確には数か月彼のほうが先だが)。アメリカが最高の時代に世の中に出て、ケネディからベトナム戦争をへてそれがもろくも潰えてしまった30年の空気を味わい、歴史が作られてゆく過程を目のあたりにしたある意味で同志でもある。そしてこれを最後に俳優稼業をやめる、と宣言して、自分がこれからどうしていきたいのか、それを画像にした、そういう映画なのだ。この映画には筋書きらしいものがない。タイトルから想像されるかもしれない悪人も一人も出てこない。活劇もなければお涙頂戴シーンもなければお色気話もない。じゃあ、なにがあるのか。

数日前のテレビで、かつて慶応野球部の最高のエースの一人だった天才投手志村が、”なぜプロに行かなかったのか” を語るのを見た。自分は野球が本当に好きだった。しかしいつかはそれと別れなければならない日が来る。その日を自分で納得して迎えたかったからだ、そしてそれが学生時代4年間の燃焼だったとわかったからだ、というのだ。感動した。それと同じ感動を、この映画は与えてくれた。レッドフォードが残る時間をどう生きるか、形はもちろんわからないが、それを費やしていく過程が自分に残された人生の燃焼のかたちと同じような気がしてならない。そんな気持ちにしてくれた2時間だった。

自分もいっぱしの映画ファンではあるが、こんな映画は今まで見たこともないし、たぶん、これからもないだろう。

 

”クラブハウス” 計画その後

ふとした思い付きの投稿に反応があったのに気を良くして、同志何人かに発起人になってもらい、プランを肴に何回か盃を重ね、素案ができた時点でこの趣旨について、いわばフィージビリティスタディとでもいうべき調査をさせてもらった。対象は昭和50年代以前の卒業生のなかから小生の知悉するかぎりで選び、合計263通発送し、6月末期限としたが7月14日まで来信があり、当日を最終として184人からご回答を頂戴した。厚くお礼申し上げる。

結果、このプランに賛意を表した人数は139人、反対2人、興味なし43人、であった。個人ベースの話であるから、回答の義務はないし、そもそも反対である人は回答しないはずと思って、はがきに ”反対” の選択肢を書かなかったらそのこと自体でえらく怒られた一件があった。反省。

さて、賛同票のなかで、運営費用を年会費のかたちで負担しよう、と言ってくれた人数は最終で45人である。いろいろな派生費用(安全、保険、ごみ処理、清掃)などを考えた素案を維持するにはこの人数だと当初予定した年会費では運営ができそうにない。月間2000ないし2500円、年にして2-3万円、というのが案だったがこれでも高い、というご指摘も多々あるので個人負担増額は論外となり、一方では賛同者からは期待の文面も数多いので、発起人グループで再度考えてみようという結論になり、お送りした原案は廃案に追い込まれた。

ご返事いただいた方にはできる限り全員に別途ご返事を差し上げたが、ここで状況と判断とを述べておく。

1.賛成票の非常に多くが、”かつての JIJI のような場所” と述べている。たしかに理想ではあるが、”かつて” われわれは勤め人であり、その帰り道に”銀座で一杯” というイメージがこころよく、中には ”客先接待伝票” を使ってくれた心優しきワルモノもいた。現在のほとんどすべての人はこのシチュエーションにはない。したがって、素案は基本的に気軽に安価で集まれる場所と機会を提供する、ことが狙いであった。このあたりの真意が良く伝わっていなかったのかという気がする。機会があれば、違う形で(たとえママがいなくても) JIJI再生ができるのではないか、というのがそもそもの動機なのだが。

2.賛成票の中に、OB会の事務局本部、という位置づけを持たせよ、というご意見もあった。そのほとんどが現在、個人事務所のご厚意で預かってもらっている部の歴史資料の保護に継続性の危惧を抱いておられるので、この件だけは別途、検討してもらえるよう、執行部には要請ずみである。

なお、仄聞によればこの資料保管場所を三国山荘にするという意見もあるようだが、小生個人として大反対である。たしかに ”我らが三国山荘にある”といえば聞こえはいいが、第一に物理的に問題がある(温湿度の差激しく文書の長期保存が不安、外部侵入者の危険あり)し、実質的に高年齢層のOBには浅貝まで行くことすら抵抗を覚えるようになっている現実から、この問題を提起されている方たちの ”気軽に部の歴史やOBたちの足跡をたどってみたい” という要求にこたえるには不向きである。 この案の背景には ”ま、とにかく保管しておけばいいだろう” 位の関心しかないのではないか。80年を超える部の歴史はもっと慎重に考慮されるべきであり、よき対案が示されることを願ってやまない。

3.1に関してだが、消極意見の中に ”我々の代ではすでになじみの場所があるから”という投稿もあった。このこと自体は素晴らしいことで、そのような場所のない人からすれば羨ましい限りだし、それをリプレースしようなどとは夢にも考えなかった。ただ、そのような場所が好ましいというのも、1にのべたような環境条件下にある、あるいはそれが続く、という前提があってのことだろう。後期高齢(!!)時代になればそれなりの前提が必要になるし、頂いた返事の中に、総人数が少く在京の”同期”がいない、という身につまされる話もあった。このような人たちにこそ、考えてもらえる機会だったのではと思うのだが。