エンディングマーク 

エーガ(英語映画になってしまうが)のおわりに出る END  の文字。これでこのエーガは終わり。これ以上はなし。はっきりしたひとつの終わり。エンド、というコトバはほぼ日本語にもなりかけている、意味明瞭な単語である。

しかし面白いことに同じように準日本語といっていい ハッピーエンド という英語は和製の誤用で、HAPPY ENDING といわなければならないのだそうだ。END と ENDING はどう違うのか。このあたりのニュアンスは小生ごときに分かるはずもないのだが、しいて類推すれば、ENDといった時には文字通りすべてが、自分の意志とは無関係に終わった、という客観的事実の確認であり、それ以上ではないのだが、ENDINGは言ってみれば終わりの始まり、というか、終わった、という事に対して、言い方は変だが何か主体的な感じ、つまり、自分が終わらせたのだ、というような感覚があるのではないだろうか。

今月末で、長いもので十数年、自分なりに楽しんできた府中カントリクラブをやめることにした。もともとはアンチゴルフ党だったのだが、四十を超えて数年した時点で、それまで全く自分とは関係のないと思い込んでいた営業部門への転身を命ぜられ、それと同時に上司から、これからは客先との付き合いで必ず必要になるからゴルフをやれ、という圧力がかかった。サラリーマンの悲しさ、あえて嫌ですとも言えず始めたゴルフだったが、始めてみればそれなりに面白くだいぶ熱を上げた時期もあった.。しかしもともと運動神経に優れていたわけでもなし、典型的なダッファで今日まで来た。今、別に辞めなければならない事情があるわけではないし、小生が初めてクラブを握った時からの師匠である会社の後輩A君やワンダーの友人からも、もったいないし、のんびりやればまだまだできるのに、という忠告が相次いだ。

忠告はありがたい。しかし、もし、このまま、一ダッファとして過ごしていても、いずれ、体は言うことを聞かなくなる日が来る。いつかわからないが、それは自分にとってのひとつの END だ。ENDING ではない。それがいやだった。

実は4年前、スキーをやめた。これもいろんな筋からまだやめるな、と言われたものだ。運動不得手の自分としても、都会の人間としてはまあまあのレベルだというひそやかな自負もあったのだが(一応、SAJ一級はもっていたのですぞ)、なによりもここ数年、雪、それも輝く新雪、それまで自分を高揚させてきた場面に、感動しなくなった自分に気がついた。ゲレンデで安全第一に、仲間との交流の場として、というスキーはもちろんあるし、その方がまともな考え方だという事はわかっていた。しかし、雪を見ても感動しなくなった、という事実がいやだった。つまり END ではなく自分の ENDING にしたかったのではないか、と、今になって理屈をつけているわけだ。

今の時点で、自分のライフワーク(ワークというのが適切かどうかわからないが、ま、目をつぶるまでにやり遂げたいこと)は三つ、ある。これを ENDでなく ENDING で終わらせたい。それがこれからの生きがい(この単語はきらいなのだが、ほかにいいコトバがみつからない)になるのだろうか。