”デジタル社会” ということについて

先に AI という用語の氾濫について書いたが、また、デジタル化、という文言が目に付くようになった。スマホをこともなげに扱う小中学生などとスクリーンを眺めてため息をつく高齢者群とのありようをデジタルギャップ、などと漫画化するマスコミにも現在の社会的混乱をあおる責任があろうが、このような議論でデジタル、という本来は極めて技術的な用語が妙な形で独り歩きするのも気に入らない。本稿では、この”デジタル“ という単語を(学術的正確性はとりあえず無視して)、

”各種の技術的・社会的情報をコンピュータが処理できる形に作り直し(この過程が本来の意味でのデジタル化)、電子通信装置を経由してコンピュータにより所要の処理加工を行い、その結果を必要とする受益者に配信するしくみ“

と定義してみよう。                           そうするとこの定義が最も容易に理解できる仕掛けの代表が電子メールであって、ツイッターにせよフェイスブックにせよユーチューブにせよ、いろんなしかけの原点がこのシステムにあることは間違いない。小生がこのしかけのはしりとでもいえるものに遭遇したのは1980年代後半、勤務先のヒューレット・パッカードで、それまでのテレックスと国際電話に代わる社内の通信手段として自社開発のシステム(HPメール)が定着したときだった。当時HPでは、このようなシステムを持っているのは国防省とIBMとわれわれだけだ、と豪語していたものである。その後 パソコンの環境が共通オペレーティングシステムの出現や、イメージや音声を取り扱える マルチメディア対応などによって ”コンピュータ“ そのものがいわば日用品化していく。このプロセスをなんとか理解し得たのが(その時代にももちろん多くのマニアが先駆的なユーザとして存在したが)がわれわれ、つまり企業人生をちょうど世紀の変わり目あたりに終了することになった世代にあたっていて、いわゆるデジタルギャップなるものの線が引かれるのもこのあたりなのではないだろうかと思うのだ。

仮にEメールがデジタル化の出発点であると仮定し、その普及率を ”アドレスを保有し、日常的に使用している人の割合“ と定義すれば、小生の所属する大学ワンダーフォーゲル部同期生間でのそれはおそらく90%くらいになるだろうが(中に一人、俺は主義としてこの種のものは持たん、という頑固なのがいるので100%には絶対ならない)、この率は卒業年度が上がるごとに急速に下降している。SNSと総称されるいろいろなしかけやスマホで使われるいわゆるアプリなるものが、Eメール文化の延長上にあるとすれば、そしてそれへの対応に困難を感じることが デジタルギャップ なるものだとすれば、もちろん個人差はあるにせよ、このあたりの年代でギャップの境界線が引かれるように感じられるし、これを一般論として拡張してもそれほどの誤差はないだろう。

デジタルギャップ、という意味を、マンガ的に取り上げられるように単に新しい技術に対応できない人がいる、という程度の話だとすれば、それは時間の経過とともになくなっていくことだから、深刻に悩む必要はない。しかしその範囲を個人の話から社会全体のデジタル化、というレベルに引き上げると、我が国のレベルはほかの欧米はもちろん近隣諸国に比べても絶望的に遅れている。それを最も端的に見せつけたのがコロナ騒動の時に起きた、現場と監督官庁とのやり取りがファクスでしかできなかった、という事実だろう。なんでこのような遅れが生じたのかについてはいろいろな議論があるので深入りはしないが、そのことに覚醒した政府行政の協力な指導(というより火事場のナントカ、というほうが現実か)によって、これから国のデジタル化が急速に進むことは間違いないだろう。

このデジタル化、によって何が生じるのか。日常生活に直結した商取引とか決済とか、その経済効果が明らかなものや地域格差の是正とか医療行政の改善、などにについては加速度的に実現していくだろうし、多少のマイナスがあったとしてもその効果にはプラスの結果が期待される。しかし実務的な場面を離れて、それがわれわれの文化や伝統にどう作用するか、ということと、さらに個人が得る社会的情報の質、およびそれを正しく得ることが出来るかどうか、という意味でみた、デジタル社会に生じるインフォメーションギャップとその結果については十分考える必要があるように思う。

第一の点についてはこれからの将来の世代に引き継がれることではあるけれども、すでにいろいろと感じることが起きてきた。卑近な一例として昨今、レストランなどで注文をタブレットで行う、というプロセスを挙げてみよう。これはもともとは接触を嫌うコロナ対策の一部として注目されたが、たしかに店の立場で言えば、労働力不足対策、現場と調理場の直結、エラーの減少、会計処理の容易さ、などとプラス効果がならぶだろうから、おそらく今後とも定着していくだろう。しかし、我々はなぜレストランやコーヒーショップに行くのか。それがただ、食事をとるだけのことであればいいのだが、そのほかに、なにかのくつろぎや束の間の解放感を感じたり、友人と触れ合う機会、ということがその意味だとすれば、それを演出するのが店の実力であり、店の味、雰囲気、といったひとつの文化だろう。それは客とウエイター・ウエイトレスとの会話やバーテンダーのジョークや、料理についての知ったかぶり問答といった、人間のふれあいで生まれる。そう思っているうち、先日も誰でも知っている高級ホテルの席で、白いテーブルクロスの上にタブレットが出てきたときには肝をつぶしたというか、ある意味で情けなかった。効率改善のための”デジタル化”でまた一つ、文化が破壊された気がしたからだ。これはほんの一例だが、こういうことは今後、いろんな意味で起きていく。レストランの話で展開すれば、僕らが学生時代に愛した喫茶店、”気に入りの店” で音楽を聴き、人生を説きあるいは恋をかたる、という場所だったものががすっかり減り、代わりにはスピードと安価だけを追求し ”飲食する場所“ のチェーン店が鎬を削るようになってしまった。悪貨が良貨を駆逐する、というのは言い過ぎだろうし老人のひがみだろうが、”明治は遠くなりにけり“ 現象はこのデジタル化によって、不可逆的に加速するだろう。文明の発達拡大と文化の変容衰退、という事を改めて感じる。

この文化衰退論は多くの場合、会話の遊び程度でとどまる文化ギャップだろうが、今現実の世界で起きている情報の氾濫、フェイクニュース(フェイクでなく正しいのがある、という前提なのだがその基準がなんであるかすらわからなくなり始めている)、かたや一見正常に見えるマスコミの報道、そういうものが従来とはけた違いの量とスピードで入ってくるようになるし、その影響は主婦の毎日の買い物から一国の政府まで及ぶ。このことはデジタル化によって加速拡大するが今までももちろん存在した。僕らが学生時代、多くののあこがれであった、自由の国、豊かな国のはずのアメリカではすでにこの現象が出始めていたのだ。慶応高校には当時、選択科目だったが社会情勢や哲学の入門的なことを学ぶ講座があり、そこで購読したのがエーリッヒ・フロムという当時新進の社会学者が書いた 人間における自由 という本だった。この本を読んだことがきっかけになって、小生は経済学部へは進んだのだが近代経済学とマルクス経済学、なんていう当時の花形の講座でなくいわば亜流の社会思想史、というゼミに参加して、結局、卒論もこのフロムをテーマに選ぶことになった。その最大の理由はあこがれの国アメリカに存在する翳の部分に興味をひかれたからだ。

フロムが 匿名の権威 と呼ぶ、情報の氾濫によって大衆の意識が左右され、社会が変わっていかざるを得ない現代社会のありように共感を覚えたからでもある。当時、メディアといえば新聞・ラジオ・テレビしかなく、情報も一方的に伝達された。それでも一般大衆を動機づける、といえばポジティブに聞こえるが、知らず知らずのうちに(流行の言葉で言えば民意?)社会の方向性が決まっていく、という社会を思想史の立場では大衆社会、という。それはエリートが理性で指導する(ことが少なくとも前提されていた)それまでの社会の在り方というものとは離れていく。したがって、フロムを含む社会学者にとって大衆社会の到来、ということはネガティブなものとしてとらえられていた。その末端をかじった小生もそう思ってきたし、今でもそう考える。

デジタル化された社会では、メディアというものの持つ力は、フロムたちが活躍していた時代よりもさらに強力になり複雑化していく。かつては一方的に与えられてきた情報がSNSの存在によって双方向性を持つ、すなわち可逆的なものになっていくのだから、理想的に言えば、このことによって直接民主主義社会が建設できるかもしれない、という途方もない楽観論もあるが、小生はそんな無邪気な受け止め方はできない。フェイクニューズというものがもたらすネガティブ要素を否定できないし、ハッキング行為に代表される、瞬時に完成する反社会行為をふせぐこともほぼ不可能になるだろう。さらに重要なことは、このような現象はいかなる国であっても起きえるし、政治的イデオロギーにも関係ない事象である。これがもしかすると、(著者の意味したこととは全く無関係だが)本当の意味での 歴史の終わり (フランシス・フクヤマ)であるのかもしれない。

(船津)先ずデジタルとは0か1で表す単なる記号にしか過ぎない。非常に便利な二進法。人は文字が無い時代はどの様なコミュニケーションだったのか。人の目を見て心で伝えるしか手段は無い。今回図らずもコロナ禍のお陰で「対面対話」の重要性に付いては気づいては居るが何とか出来ている。
要はデジタルとは単なる伝える手段の文字のへ補助にしか過ぎない。文字が出来て「伝える」事が無限とは言わないが可成り広がった。しかし、本心は伝わったてるのだろうか。小説と言う文学とてフェイクかも知れない。人は虚構の世界を泳ぐことが心と頭の浄化作用に成って居るのでは無いだろうか。

さてデジタル・AI社会ですがそんなに大上段に構える物では無く、単なる伝える技術の進歩-便利な道具-にしか過ぎないのでは無いか。人類は何故か欲望のために拡大し、際限なく欲望を望んでいる。これがそもそもの歴史の終わり かも知れない。ポルノも今では簡単に幼児といえども簡単に観られるし、どんなことでもパソコンを叩くと答えが出来る世である。要は人は「伝える力」の進歩に追いついていない部分が在り、デジタル化とAI社会が進み過ぎなのかも知れない。
その素晴らしい伝える道具を未だコントロールできていないのかも知れない。原子の火をコントロールできていないのと同じかも知れない。「デジタル化社会」はけして否定的な物で無く進歩した「伝える道具」だと思います。

(菅原)船津兄の、「さてデジタル・AI社会ですがそんなに大上段に構える物では無く、単なる伝える技術の進歩-便利な道具-にしか過ぎないのでは無いか。」に大賛成。これ以上難しいことは、ちーとも分からん。

(編集子)”文字の補助にすぎない” というとらえ方そのものが間違っているのではないですか。小生の論議はその効用やプラス面は大いに評価しています。ポイントは伝達の手段という事ではなく、それが伝える情報の膨張・氾濫が起こす事象についての認識の違いだと思っています。

(船津)元々情報はたくさん垂れ流されていたんですが、専門家とか特定の人しか見られなかったが、今やSNS時代。直ぐさま見た感じになれる如何に取捨選択の技を持つかだと思います。ポルノは観ないとか、フェイクかどうかの判断力が求められる。情報量が多くなることは進歩!

(編集子)貴兄の指摘されていることがまさに小生のポイントです。普通の人間には、ご指摘の ”判断” がなかなかできない、できなくなるほど多重的に情報があふれる。”わかった” と思ってもそれが自分で判断したことではなく膨大な情報によって作り出されたもの(かも知れない)。そのこと自体は今既に起きていることですが、これが双方向性をもつ事でさらに複雑化し混乱してしまう。そのことが問題だと思うのですが。