エーガ愛好会(150)  ペンタゴンペーパーズ   (44 安田耕太郎)

映画の原題 「The Post」はアメリカジャーナリズムの代表の一つワシントン・ポスト紙を意味する。WaPo と省略することもある。’70年代初め、ニクソン政権を揺るがした2つの事件の一つを描いた映画。もう一つは1年後に発生したウォーターゲート事件であり、ニクソン大統領辞任の原因となった。共にワシントン・ポスト紙が深く関わっている。監督は民主党支持のスティーヴン・スピルバーグ。

映画の時代はJFKと後継のジョンソン大統領によってベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国民の反戦や戦争に対する疑問の機運が高まっていたニクソン大統領政権下の1971年。ベトナム戦争を分析及び報告した国防総省(Pentagon)の最高機密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)がニューヨーク・タイムズによってすっぱ抜かれる。当時の国防長官ロバート・マクナマラの指示でその作成に関わった軍事アナリストは、彼の勤務先のシンクタンク、ランド研究所から持ち出しコピー機で複写、それをニューヨーク・タイムズに渡し、ニューヨーク・タイムズが機密文書の存在をスクープする。だが、政府の機密文書をスクープしたことで、タイムズ紙は政府から記事の差し止めを要請される。機密文書には戦争の先行きは勝機が薄いことが説明され、戦争継続は敗戦の汚名を着せられたくない現政権の意向が強く反映されていたのだった。これが公開されれば、息子や夫を戦場に送っている市民の反感のみならず世論の反戦機運はより高まるのは必至であった。従って、権力側は機密文書は隠蔽し続けておきたかったのだ。

一方、ニューヨーク・タイムズ紙のライバルであるワシントン・ポスト紙の発行人(社主)のキャサリン・グラハム(メリル・ストリーム演じる)と部下で編集主幹のベン・ブラッドリー (トム・ハンクス演じる) は、極秘のルートで機密文書の入手を試みる。記事掲載を役員と法律顧問から反対され、記者達は彼らと舌戦を繰り広げる。文書を記事にすると自社を潰すことになるのではと危惧し、選択に苦悩するキャサリンは友人のマクナマラ国防長官にアドバイスを求め、その夜、電話でベン達から決断を迫られる。タイムズ紙のスクープの差し止め命令が下されればポスト紙での掲載もできないとキャサリンはベンに警告する。だが、これをチャンスと見たベンは、彼女の注意をよそに文書の入手を部下に命じる。ニューヨーク・タイムズの前例もあり、スクープ記事として新聞に掲載するか否かポスト紙社内でも幹部間で甲論乙駁の激論が交わされた。悩んだ挙句、彼女は記事の掲載を決断する。そしてニューヨーク・タイムズと時に争いながらも連携し、「戦争中における政府の機密漏洩」という事態そのものを問題視し、記事を差し止めようとする政府と裁判を通じて戦う決意を固める。ポスト紙の記事が掲載されると国内の他紙の多くが追随するに至り、キャサリン、ベンは喜びの感慨に浸る。

残された関門は、裁判における判決であった。ポスト紙社内で固唾をのんで社員が見守る裁判所における陪審員の評決は6対3でポスト紙の無罪であった。続いて、判事の読み上げられる判決文を社員の一人が電話で受け、声を上げて仲間の社員に伝える。「建国の父たちは報道の自由に保護を与えた。民主主義における基本的役割を果たすためだ。報道が仕えるべきは国民だ。統治者ではない。」(The founding fathers gave a free press. Protection we must have to fulfill the essential role of our democracy. Press was served govern, not governed.) 。

 

 

 

(船津)スピルバーグは当時のワシントンポスト社を再現するために!当時の事務機器とか印刷機械を取りそろえて、しかもデジタルカメラでは無くコダックのフィルムで撮影するという凝りようです。
あのコピーするゼロックスの機械を探すのに苦労したようです!確かにその昔会社で見た最先端のコピー機・ゼロックスでしたね。
(船津提供)

そして当時は未だ鉛を溶かして、組み版して紙版を作り鉛を流して、輪転機にかけて印刷したのでした。我々も全く同じ方法でやったことを懐かしく見て居ました。日本語の活字を職人さんが目にも留まらぬ早さで拾って当時の新聞は一段が15字でしたので15本揃えては次へ行くという工程でした。そしてゲラ刷りが出来て赤ペンで校正して、組み版する。輪転機が廻るまで可成りの時間がいる。

そんなインク臭い印刷所に籠もり記事を書き直したのいろいろしたことを思い出します。女性が真っ白の夏のワンピースを着て校正していたらインクがこぼれワンピースが台無しになってしまったこととか。徹夜して借りたトラックで出来上がったインク臭い新聞を三田の山と日吉まで運んだりもしました。
(船津提供)