早朝の神社で

今日、日課の朝の散歩ルートを少し変えて、近くにある厳島神社へ行ってみた。

歴史は古いようだが、今は住宅地のど真ん中ですぐ後ろがハイライズの集合住宅という形に押し込められているが、調布のこのあたりは武蔵野原野の面影をとどめて巨木が多く、ここにも樹齢を重ねた古木が何本かある。欅のほかに、はじめてみるのだがソロという名前の樹がまっすぐにのびた欅の隣に何だか拗ねたようにねじれながら高い。境内はごくちいさいのだが、この木立の醸し出すひんやりとした空間が何とも好もしい。

調布といえば深大寺で、スケールも木立もこことは段違いなのだが、同じ自然環境にありながら、また同じ樹でありながら、寺、と神社、というだけでとの空間が作り出す雰囲気がまったく異なってくることがいつもながら不思議に思える。

宗教には無知な自分だが、神道、というのは宗教なんだろうか? 信徒ではないので全くわからないが、仏教にせよキリスト教にせよ一神教はすべからく人間の来世についての約束をしていると理解しているが、神道にはそういう発想はないように思える。科学知識の少なかった昔、当時の人々にとってひとつの石であっても一本の樹であったも、普通なありようではなかったとき、なぜそこにあるのか、それはなぜだ、ということがわからないとき、それは神の仕事である、とされた。そういう事物は日本中どこでも見かける。しかしそれは絶対主としての神がいる、という事ではなく、万物がすべて神性を宿している、という素朴な論理、アニミズムというのかどうか知らないが、我々が知ることもなければ経験することもできない長い時間、ここにあった、だから、この古木は神を宿す神木である、とされてきた。この論理が僕にとってはなんとなく納得できるのだ。そしてそういう意味で、人は死んで神になる。その神はなにをするか。わからない。しかしこの自然の中のどこかに存在する。それでいいではないか。

外資系会社に居合わせた結果、ずいぶん多くのアメリカ人の友人ができた。ビジネスを離れて、真剣に人生論を戦わせたり、文化議論をした人間もたくさんいる。そういう過程で気がついたのは、彼らに日本の文化風物歴史を説明し、納得させることは難しいが不可能ではなかった。しかしなぜ日本には宗教がないのか、なくてもやっていけるのか。生まれれば初詣に行き、教会で結婚式を挙げ、仏教の教えに従って葬られる。なぜ日本人にはそういう事が出来るのか。これを納得させた、という経験はない。

納得はさせられなかったが、何となくそんな気にさせた、という気がしたのは、日本人を支えているのは feeling of resignation なのだと思う、といった時である。Resignation という単語の正しい用法であるかどうかはわからない。我々の言葉で言えば 諦念 という事のつもりで言ってみたらなんとなく納得した、ということなのだが。

生あるもの必ず滅する。平家物語の有名な書き出しは、日本人の心の奥底をそのまま文字にしたのだろう。僕だけの発想だが、春に咲いた花が秋に紅葉するという移り変わりを、四季というものを身近に感じられる温和な自然が育んだ感覚でもあるだろう。壮大美麗な寺院や深遠な経典よりも、ただ立ち尽くす古木が真実を宿す、という素朴な論理を僕は信じる。街中に取り残された、ちいさな神社で感じたことだった。