雪の日の過ごし方     

(34 小泉)

1月6日久しぶりに横浜も雪に見舞われ、翌7日溶けぬ間にと近くの大倉山公園を散策しました。

(普通部OB船津)昨日は久し振りの東京は大雪でしたね。窓の下の錦糸公園・朝の散歩。

(44安田)雪の日の翌日7日(昨日)、S44卒・閑人会は正月恒例の七福神巡りをしました(昨年は中止)。今年は元祖山手七福神。JR目黒駅から五反田方面、戻って白金高輪まで約6キロ、15000歩の周遊。例年より少なく8名参加。

 

閑人会 吉例七福神めぐり ー 七つの喜び   (44 吉田俊六)

S44卒の閑人会は正月明けは例年七福神巡りをしていて(去年はコロナで中止)、今年は7日(金)に元祖山手七福神を巡りました。これまでに 谷中、隅田川、浅草名所、深川、柴又、新宿山ノ手七福神を巡ってきました。参加者は、浅野(三)、内村、岡田、渋谷、大江、安田、山中、吉田の8名。

JR目黒駅を出発、全行程6km、15,000歩のコース、目黒駅 → 蟠竜寺 → 瀧泉寺 (目黒不動) → 大円寺→ 妙圓寺 → 瑞聖寺 (布袋尊) → 覚林寺 (清正公) → 白金高輪駅 ・・・神田(懇親会)

1.末広がりの八人で、目の黒いうちに巡り合えている喜び。

2.上述、1万5千歩を(1本の)休みもなく徘徊し続け達成した喜び。行人坂下 八百屋お七井戸前、名残の紅葉の健気さ.。口数が歩数を上回り、<若き日の武勇伝、恐妻・感謝の歴史、入院・手術・克服の戦い、等。

お寺詣で終活話:墓じまい・室内墓システム、また『戒名100万円!!』とか…。>

七草ならぬ道草で「天恩山五百羅漢寺」天恩山五百羅漢寺 (rakan.or.jp)

へ、羅漢さん一体毎の添え書きにも心洗われました。

 

3.メンバー各々の関心領域に応じた「願掛け」機会を得られ,笑顔に“後光”が差して、喜ばしいことでした。未来の年もお礼と参拝を繰り返したく思いました。金沢の鈴木大拙記念館の庭を彷彿とさせる 瑞聖寺(布袋尊)

4.「妙見」さんの御導き…、七福神の多様性を再発見でき、喜びました。(俊六こと、ズン六メは7月7日生まれの77歳。七夕の星のもとに生まれ)、

妙円寺の「福禄寿尊&壽老人尊」:南極星と「妙見大菩薩」:北極星それぞれ神格化させての星宿信仰に道教密教陰陽道などの要素混交の名残を覚知。

5.仏教に帰依し、守護する「天竺出身の3“天”」と「唐・和系の4“尊・神”・さん」を識別した喜び。七福神の中に、弁財(才)天・大黒天・毘沙門天 と「天」のつく3柱あり。毘沙門天は四天王のうち北方を担当する最強の「軍神」とされ、上杉謙信「毘」の幟にも用いられ、清正公との相性もむべなるかな。

覚林寺(清正公)

覚林寺(清正公)仏教世界のヒエラルキー、「仏」>>「如来」>「菩薩」・「明王」>>>「天」。

七福神の諸神は「神」であるが、われわれ「人間道」の衆生と最も近い“守護神”役で

「天」の部に位する。だからこそ、現世利益のお願いをしやすい…とか。ちなみに、“天”竺ならぬ「唐・和系の尊・さん」神々も親しみやすい。道教系の「福禄寿尊」・「壽老人尊」は仙人の出自。一方、「布袋尊」は実在した禅僧で、“堪忍”袋で度量を“視える化”された由。「恵比須さん」は唯一、日本国産の神様。希少・貴重な有難い尊在?古刹目黒不動の明王を守護。①西宮に代表される「えびす」信仰および、②大黒さまの子供で最初に魚釣りをした神様…の流れがあざなえる由来・・・幅広いご利益!目黒不動 三福堂 恵比須さんメデ鯛デカ!

  1. 現世利益…スッポン鍋三昧の愉悦!!

「8人で一連の卓上に2つのスッポン鍋を囲み堪能し、喜びました。

場所は名代・神田鳥千、私達ばかり、美味しい思いをしてしまって申し訳なく思いますが…、“眼福”ご賞味願い上げます。隅から隅までずい~っと…、照覧あれ。本年もよろしくお願い申し上げます。

7.寛大にも“鼻たれ”のS44「閑人会」プラン報告など“他生の縁”あり?のグループ・個人にプラットフォームを開放下さる先輩方を尊崇させて頂ける・・・喜び!KWVS44「閑人会」同期限りでの閑居不善(独断暴飲暴食・・妄言等々)を甘えて、賀詞を装い、(文責:ズン六で)本年も奉納仕りますㇽ。

(編集子)久方ぶりの図ン六節、健在で嬉しい。今後も健筆を期待。できれば写真は2M以内に収めてもらえると助かります(今回は最後の1枚を修正しなければなりませんでした)。

スキーだと? チキショーめ!

(小田) 明日から、スキーのお供で赤倉等に行きます。入社1年目の冬、赤倉で、Giさんにスキーの手解きを初心者チームで受けたような気がします。それからずっと初心者のままです。すみません。

(編集子)赤倉でのスキーには小生にとってはいろんな(甘酸っぱい、高校生の頃の)記憶があります。大学では親友づきあいを始めた仲間が燕温泉に良くいっていた名手で、その関係で燕と赤倉の間の林道に新設【1960年だったかな】された、燕ハイランドロッジの居候をしていたものです。なんせ、懐かしい。関見峠リフトからの長い緩斜面なんて、ほんとに懐かしい。ヒコなんかと一緒に滑らせたくないなあ。

(小川) スキーの話になったら黙っておられない、皆さんお目出とうございます。オミクロンの爆発的な感染者急増で市中は賑やかですが重症化は少ないとか、こうやって数年掛かってコロナはインフルエンザのように沈静化していく段階に入ったと思っています。皆さんは百戦錬磨、罹患しても大したことない、マスコミの過剰な情報に惑わされず、ウイズ・コロナの生活をご計画になったらと思っています。

スキーは昭和25年(1950年)中学3年冬、中・高校の恩師に案内されて、オヤジにイタヤの単板スキーを買って貰い、関温泉に連れて貰ったのが初体験、信越本線関山駅に早朝到着したときは凄い積雪にまず驚き、部落を出て関温泉まで続く元高田師団の練兵場後に出た途端、スキーを履かないと歩行できない状態で、おそらく3m近い積雪だったとは思いますが、スキーの扱い方も全く無知の状態で、何とか履いたものの全く一歩も前に歩けず、悪戦苦闘しながら4時間掛かって関温泉朝日屋旅館に到着したのが午後、途中まで旅館のオヤジが迎えに来てくれていましたが、旅館到着の頃にはスキーの初心者テクニックは既に身について居ました。この旅館の息子さんはオリンピックで活躍した久保選手の実家ということを後で知りましたが、兎に角旅館の二階から出入りする豪雪にビックリするばかり、ツララの太さ・長さにも驚くばかりでした。日本最古のスキー場ということですがリフトもなく数日教えて貰い、5日目ぐらいにオヤジが燕温泉から赤倉に連れて行ってやるということで何とか悪戦苦闘して付いて行きました。赤倉の上部から明るい展望を眺め、快適にゲレンデを滑り降りていき、リフトなんてものに初見参したのも思い出されます。帰りは夕闇のなか燕温泉の七曲りを雪明かりで輝く高田の街の灯りの美しさが強烈に印象に残っております。ボーゲンの繰り返しで何とか旅館に辿り着き小生のスキー初体験は強烈な思い出となって未だに残っております。

夏山は恩師のお蔭でアルプス銀座から槍ヶ岳、それに白馬大雪渓と、慶応入学式当日にはワンダーフォーゲル部入部を申請したのが我がKWV入部の経緯です。在学当時の山行は下宿生活の諸事情により非常に不本意でしたが、夏冬の合宿だけはすべて参加しております。 以上思い出すまま懐かしい思い出を記しましたが、何といっても食事事情の悪い1950年から1958年までの記録ですから悪しからず・・・。

(金藤)初めてのスキーで旅館まで4時間かけて到着!? 大変でしたね!残念ながら 赤倉でスキーをした事はありません。野沢温泉 志賀高原スキー場へ行っていましたが、最後の方には奥志賀高原でタラタラ・スキー、アフタースキー中心で終わりました。 保屋野さん、同じ会社勤務でしたら、華麗なるスキー教えていただけましたか?

(保屋野) 赤倉ですか・・オミクロンはまだ大丈夫えしょう。私も24日から尾瀬岩鞍に行く予定ですが、オミクロンによってはどうなりますか。やっこさん、なお、スキーの件、私は自分が楽しむのが精いっぱいで、教えるのが大の苦手です。もし、HPに入っていたら・・・奥志賀で一緒に滑った後「グラン・フェニックス」でコーヒーブレイクを楽しんだかもしれませんね。

(編集子)3シーズン前、涙を呑んでスキーを捨ててしまった身として、周りの連中のことだけがやけに気にかかるのであります。ワンゲル同期のスキーフリークもひとりまたひとり、スキーシーンからいなくなったが、この男だけは健在なのがなんとも癪に障る。

しかもトマム、なんてしゃれ込みやがって。ただ小生にスキーの履き方を赤倉で教えてくれたのはこの男だったのである。浅海昭、山でもしつこく強い。酒もつよく、女性には常に気を配るのでいつもうけがいい。あ、右端にいるほうです。

(編集子追記)我々がKWVに入部したあたりから、スキーシーンが変わったのではないかと思う。高校時代初めてスキーを経験し、1年のシーズンスポーツでは当然ながらスキーを選択。発哺でアルペンスキーの名手と言われた関さんから、“ア・ペル・ロタシオーン” なんてフレンチメソードの基本を教わり、うまくなったつもりで志賀から五色温泉まで夜行を乗り継いで合宿に参加したら、こんどはオーストリーメソードとやらに大変換をさせられた。その次のシーズンにはかの ”黒い稲妻” で大興奮して同期翠川のひきで燕温泉へ行き、同行した飯田昌保なんかとあらためて指導を受け、いっぱしのスキーヤーのつもりでいたものだ。当時我々が実際にお付き合いいただいた先輩の中では、フレンチメソードの体現者というか、上級者だけが会得していた くらげ の名手前田さん(33年卒)と、スピード感あふれる、完璧な滑りが神業に見えた尾崎さん(35年卒)の二人にはただただあこがれていたものだった。国体選手だった三枝先輩(32年卒)のスキーは残念ながら拝見したことがない。OBになってから数多くの後輩たちとお付き合いさせてもらった中では、基礎の出来具合が違うと感心させられた笹田君(50年卒)と、もうひとり、華麗な滑りという意味では第一と思うのが本稿でおなじみ保屋野君である。笹田君や44年の浅野君(44年卒)たちの豪快さもいいが、華麗な、という意味では彼のヴェーデルンは右に出るものがない、と思っている。ミッキーややっこに見せたいものだが(浅海と一緒で、どういうわけか女性軍に人気のあるのが気に入らないけれど)難しいだろうな。ミッキー、もちろんあなたさまのダンナも名手の一人と尊敬してますぜ。

 

年男が年頭に思うこと   (普通部OB 船津於菟彦)

ある友人の賀状メールに「年男と言われてはやし立てられるいが、永く生きても100歳。後16年」とあって、以前からなんと無く、「寂寥感」を持っていましたが、未だ16年もある。人生、以前は20年間勉学ら励み、40年間仕事に励み、20年間余生を愉しむと言われていましたが、余生は40年間。懸命に働いていた期間と同じです。

さて、こんな歌があります。

聞け全国の高齢者
轟き渡る「敬老の日」の
示威者(じいしゃ)に起こる足どりと                  
 未来をつぐる鬨(とき)の声 
その昔疎開先の信州塩尻村が共産党の拠点になり、野坂参三とか俳優の岸はたえ、タカクラテルなど有名人が来村して共産主義を煽った時代、わけも分からず小学校の校庭で開かれる会合に参加して、歌った歌が
聞け 万国の労働者

とどろきわたるメーデーの
示威者(じいしゃ)に起こる足どりと
未来をつぐる鬨(とき)の声

(ウイキペディアより抜粋)

再開された第17回メーデー

第二次世界大戦敗戦翌年の1946年、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれた(別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」)[13]。 全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まった[14]。5月12日には「米よこせ」を叫ぶ市民が宮城内に入り、同19日には「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、民主人民政府の樹立が決議された[15]

この歌は1911年明治44年)に発表された日本軍歌、歩兵の本領(ほへいのほんりょう)、の替え歌です。労働運動の歌に日本軍の象徴だったこの歌を書き換えたのが誰か知りませんが、戦後解禁されたばかりの共産党関係者の意図はあきらかですね。その原文は次のようになっています(編集子注:小生は 隅田 ではなく、吉野 であったように記憶しているが)。

万朶(ばんだ)の桜か襟の色                       花は隅田に嵐吹く                            大和男子(やまとをとこ)と生まれなば                  散兵線(さんぺいせん)の花と散れ

戦後の混沌から80年、時代は変わり今や超高齢化社会の日本、今が頂点。昭和の初期の日本の人口はまだ6000万人ほどでしたが、今は2倍の約1億2千万人です。人口が2倍となり、働き手、介護の担い手、マンパワーが不足しているで、人口が2分の1の時代で回っていたことがうまく立ちいかなくなりました。今、100歳以上の方は全国に6万人弱。日本は世界一の長寿国ですが、この長寿は今がピークなのではないかと思います。ご長寿の世代はもともと戦前から健康的な生活を送られていて、基礎体力もあり、何里も歩けるような健脚な方が多いですね。テレビ「ぽつんと一軒」を観て居ると10㌔とかを山道を歩いて小学校に通ったとか言う方沢山がいますね。

昨年敬老の日を前に発表された厚生労働省の集計で100歳以上となる高齢者が前年同時期と比べて8%増えて8万6510人、51年連続で過去最多を更新することがわかりました。男性は1万60人で、初めて1万人を超え、女性が約9割を占めて7万6450人。100歳以上の高齢者は2001年と比べて6倍。主要48か国の比較では、20年の平均寿命は女性(87・74歳)が世界1位、男性(81・64歳)が同2位。

一方、今の世代は戦後のベビーブーム、いわゆる団塊の世代。もっとも食糧事情がよくなかった時代です。さらに海外から650万人が引き揚げてきました。食糧事情は、戦前よりも戦後のほうがもっと厳しく、母親のなけなしの母乳をもらって育った世代ですが、高度成長期には外国から新しい食べ物が入ってきて、日本食から次第に離れていきました。20歳までに基礎的な体力をつけるという点でも、戦後世代は劣っています。最近、長寿日本一が沖縄県から長野県に変わりました。これは長寿のピークが過ぎたことを示しているのではないでしょう。

沖縄の長寿県の首位交代の一番の要因は、食生活の変化にあるといわれています。アメリカ軍占領下の1960年頃、肉の加工品などが大量にもたらされました。沖縄の伝統的な食事は理想的な長寿食といわれていますが、食生活が欧米化しても伝統的な食事をしてきた70歳以上の人たちは変わらず長生き。

最近、国立社会保障・人口問題研究所が統計を発表しましたが、男性の生涯未婚率が5人に1人、女性は10人に1人。団塊の世代までは婚姻率が非常に高く、それより下の世代では結婚しない人がどんどん増えています。未婚者は実家暮らしの人が多いので、ゆくゆくは親の介護をすることになり、その人たちが介護される側になったとき、介護をするのは誰かが、これからの大きな課題となります。

2008年から人口減少に転じ、今がその転換期なのでしょうが、経済政策はもっぱら成長・発展を追いかけ続けてきました。利益をとことん追求する経済至上主義のもと、大量生産・大量消費社会、そしてスピード社会へと駆け上がってきました。人口6,000万人だった時代からは想像もつかなかった、この不相応なスピード社会をスロー社会に変えていかなくてはならないと思います。高齢者の層は千差万別であり、われわれ80歳以上の世代から、まだ若い世代までいますが、私たちの世代からみれば、今の社会はスピードが速く、非常に住みにくいのです。

自分がここまで長生きすると予期していなかった人たちが老後を迎えて、親御さんが自分の年でにどうしていたかと考えても、前の世代はすでに多くが亡くなっていて、親の老後を見ていない。このような長期化する老後を歴史上初めて経験し、それを予期していなかったための備えはあるのでしょうか。親の背中を見て、この年になったらこんなふうに生きるものだと考えて、だんだんと年齢を取っていく、そのお手本がないところに初めて到達した世代ではないでしょうか

戦後70年で30年も寿命が延びたのですから、長寿社会の先駆者ではあっても備えがなく老後を迎えた人も多く、高齢者の貧困や経済格差の問題、特に1人暮らしの高齢者の貧困は切実だと思います。自営業や無職の人の年金は低く、もらっても生活保護水準以下です。特に女性単身高齢者の貧困率は5割を超しています。今の制度では、若いときの稼得力の格差が老後に影響するようになっていますが、若いときはたくさん稼ぐ人がよい思いをしても、年齢を取って長生きしたら、できるだけ所得格差を縮めるように再分配するという「老後社会主義」という考え方もあります。高齢者に生活保護受給者が増えると社会保障費を圧迫します。高齢者の貧困問題は社会全体の問題です。生産年齢人口がどんどん減少していますから、高齢者間でも高齢者を支える施策は必要になってくるでしょうね。

特に80~90代の世代は農業人口が多く、1950年代までは第一次産業の就業率が3割を超え、かつ農家世帯が5割を超えています。年金は国民年金のみで、低年金や無年金の方が多いのにその次ははサラリーマン化している世代なので、年金は悪くありません。結婚している人も多く、離婚も少ない。だから夫を見送ったあと、遺族年金をもらって、そこそこの暮らしをしています。

介護という点でみると、備えがなくて老後に入った人たちのお世話をその下の世代がしています。介護負担がこれほどまでに重くなると誰もが思っていませんでしたから、慌ててつくったのが介護保険ですよね。その次の世代が「自分が老後を迎えたときにどのような備えをすればいいか」ということを、今ようやく学習しているのだと思うのです。介護保険が始まって15年が経ちますが、最初は不完全で足りないところがあっても、3年に1度見直しをしながら少しずつ改善していくという形でスタートしました。しかし、最近は、社会保障関連予算が削減の方向に向かっているのが気になるところです。

2014年6月には「医療・介護一括法」(医療介護総合確保推進法)が国会で成立しました。この改革案は利用者にとっては負担増などが盛り込まれ、厳しい内容となっています。医療・介護を充実させていこうと介護保険をつくったはずなのに、この15年の間でどんどん条件を厳しくして使いづらくする方向に進んでいますね。介護保険制度をつくった2000年と現在の社会の間に食い違いが起きていて、時代の流れや変化に介護保険の内容が追いついていないのです。

この15年間で、家族介護力が確実に落ちてきました。これだけ落ちるとは想定外だったと思います。家族介護力を補う方向にいかなければいけないのに、今の制度は逆の方向に向かっているように感じます。日本の伝統的な家族構成を念頭において介護保険制度をつくったけれど、それが崩壊した。支える側の家族の形に急激に変化が起こったのです。

原資が足りないとやっとの思いで消費税を8%に引き上げ、今後さらに2%上げて10%にするはずだったのに、それも先送りしました。福祉先進国のスウェーデンでは消費税が25%で、租税負担率は約5割と高い割合になっています。スウェーデンやデンマークの人たちは、「自分たちのような貧しい国にできたことが、どうして日本のように豊かな国ができないのか」と言います。北欧の国は高福祉高負担。税金を多く負担する代わりに福祉が充実しているという安心感がありますね。日本は低福祉低負担だったのを、中福祉中負担に変えようという選択をしたはずなのにそのようになっていません。なっていないのは、そういう政治を選んできた私たちの責任かもしれません。今の高齢者を見ていると、自分が予期していなかった老後のつらさと切なさを感じます。日本の高齢者はあまり自己主張をしない感じがします。高齢者は数が多いですが、世代的な要因もあって我慢してきた方たち。そして女性が圧倒的に多い。「人の世話を受けて生きているなんて申し訳ない。肩身がせまい」というおばあさんたちが多いのです。高齢者の生活をよくするためには、「高齢者が自己主張すること」が必要だと思っています。アメリカには高齢者運動、シルバーパワーがありますが、日本にはまだまだ少ないですね。

日野原重明先生が立ち上げた「新老人の会」がありますが、会員は1万2千人ほどですから、アメリカに比べたら規模は小さいでしょう。アメリカにAARP( 以前の名称:American Association of Retired Persons・全米退職者協会)という世界最大の高齢者団体があります。会員は4千万人を超えています。この団体は政治に大きな影響力があります。特定の政党支持をしないで、民主党にも共和党にも影響力を行使しているのです。非常にうまい戦略だと思います。日本の高齢者もこのようなムーブメントを起こせないでしょうか。日本には3,000万人という高齢者がいますから、この層の心をつかんだ人はこの国を動かすと私は思っています。これは膨大な力となりますよ。高齢者が1人でも生きて、老いて、安心して最期を迎えられる社会をつくることが私の夢です。

そのためには介護保険をもっと手厚くしてもらいたい。そして、終末期を支える費用を手厚くしてもらいたい。たとえば、医療保険の高額医療費の減免制度と同じように、介護保険に終末期の短期集中ケア費用を支払い能力に応じて減免する制度をつくるということです。これがあれば最期まで自宅で過ごせます。年齢を取ったからといって施設や病院に行くのではなく、自宅で1人で最期を迎えられるための条件、制度をつくってほしい。そのためにはもっと福祉に予算付けをしてもらいたいと思います。

福祉の予算を抑制しているのが今の政治の傾向で、それを座視しているのが高齢者です。若者にお金がまわらないという不満の声もありますが、高齢者を大事にしない社会は、若者が年齢を取ったら同じ思いをするという社会です。老いることに希望が持てなければ、生きている甲斐がないと思うのです。いくつになっても「生きていてよかった」と思える社会。でも夢と言いたくはありません。実現したいと思っています。

3,000万人という高齢者たち叫ぼう。それが次の世代の人たちにも役立つのだ、頑張ろう「寅年・年女・男たち」
🎶聞け全国の高齢者

轟き渡る「敬老の日」の
示威者(じいしゃ)に起こる足どりと
  

未来をつぐる鬨(とき)の声 🎶

ウクライナ問題とは何か?   (44 安田耕太郎)

人類が地球上に社会を造るようになって以来、野生動物社会生存の鉄則「弱肉強食」が支配してきたのが人間の歴史でもあったとの感を強くする。まさに勝てば官軍、である。そこには「正義」などという形而上の綺麗ごとが通用する現実はない。パワーが支配する世界。北方4島、クリミア半島などが好例である。歴史は戦争に勝つ力を持つ国を 「大国」と定義していたし、勝って領土を収奪(確保)した国の行為ととその結果を是認してきたと言ってよい。

それでは戦争の原因は何だったのか? 大きく言って二つある。ひとつは、自らの力に自信を持ち勝算ありと計算して領土的野心や自己の利益を追求する場合。もう一つは、他からの圧力への恐怖にかられて戦争を起こす場合。両者が混在するのが現実であろううが、中国の台湾併合(尖閣・南沙諸島も含む)の場合は前者、ロシアのウクライナ侵攻は前者の要素も少しあるがNATO・アメリカ側との国境線が事実上隣国ウクライナのなるという後者の怖さの要素がより大きい。イランの核を恐れるイスラエルが先制攻撃をかけるとすれば後者の場合であろう。

ウクライナに絡む領土問題も当事者の米ロ・NATO軍は核保有国なので、ウインウインのない全面戦争に突入するほどいずれの陣営も愚かではないだろう。自国を強大国と見せたいプーチンは、フルシチョフとケネディのキューバ危機と同じように、フルシチョフが核ミサイルをキューバから撤収したと同じように、振りかぶった拳をおろしウクライナ侵攻を実行しないのであろうか? 北朝鮮の軍事強大化に頼る戦狼外交(Wolf warrior diplomacy)と似通った意思決定傾向がロシアにも見られるのは憂慮される点だ。一方、バイデンとNATOはロシアがウクライナ東部へ侵攻した場合、一体何をしてそれを防ぐ積りなのか、或いは一体何が出来るのであろうか?苦戦が伝えられるバイデン民主党政権は、起死回生の一打として内政の苦境を外交で一挙に逆転打を狙う誘惑に駆られ行動を起こすのであろうか?外交は時として内政失敗を挽回する切り札ともなり得た来た歴史がある。両者虚々実々のつばぜり合いは予断を許さない。

近世以降の覇権の推移と覇権に挑戦した国々の歴史を振り返ると、アングロ・サクソン勢(昔イギリス、現在の主力はアメリカ)に対する他国の挑戦であったと観ることが出来る。16世紀後半の中南米植民地から富を得た無敵艦隊のスペイン、続いてオランダ、18世紀末から19世紀初頭のフランス・ナポレオンの挑戦、第一次・二次世界大戦におけるドイツの挑戦、冷戦におけるソ連(ロシア)との拮抗。全てアングロサクソン勢の勝利に帰している。そして現在では中国がアメリカの覇権に挑戦しているかのように映る。アングロサクソン勢はAUKUS (Australia, United Kingdom United States,)の豪・英・米の三国間の軍事同盟などに彼らの遠慮深謀な世界戦略を観ることができる。

戦争は依然存続し続けるであろうが、ハードパワーが衝突する戦争の時代から、軍事力・経済力・先端技術力・文明理念や文化発信力が混合してパワーを産み出すことになる、多極的地域における切磋琢磨と競合の時代になると思う。ハードパワーとソフトパワーの高く洗練されたレベルでの融合こそが将来のパワーの源ではなかろうか。その意味では人権と自由を抑圧する中国の独裁専制的国家運営は世界の標準たり得る資格を持ちえるとは言い難い。ロシアの野心的領土拡大戦略も多とはとてもし難い19世紀帝国主義時代の遺物だと思う。ただし、経済学で云う「悪貨は良貨を駆逐する」や、「暴力は怖い、それには抗うな」や、「長い物には巻かれろ」的な一般大衆のポピュリズム的傾向が強まれば、一瞬先は闇の世界にもなるかも知れない。200以上ある世界の国連加盟国政府の半分以上は中国の一党独裁専制的国家運営に賛成している事実は、一筋縄では行かない人間の欲望、打算、損得勘定を如実に物語っている。ウクライナ問題に限らず、民主主義陣営の強力にして健全な世界覇権の維持力を期待してやまない。

(菅原)本日(8日)の日経夕刊の一面に、プーチン大統領は同月(注:12月)に、東欧諸国を加盟させないというNATOの約束が破られ、「ひどくだまされた」と語った。プーチンは日本人が言いそうなことを言ってるな。

プーチンはKGBにいたんでしょ。そこでは、ダマシダマサレルのは日常茶飯の出来事。東で、日本を「とんでもなく騙したら」、西でNATOに騙されるのは当たり前の話し。それとも得意の二枚舌か。と言っても、「北方四島」は、鈴木宗男が言っているように、「取り戻す」ことは出来ないのか。残念無念。

”シルバラード” ってどこだ? ”エルドラド” は?

”エーガ愛好会” の仲間と西部劇 ”シルバラード” について書いた時、この仮想の町はどこにあるのか? となんとなく書いたところ、さすがその道の識者から早速ご連絡があった。本稿ではだいぶ前に、”赤い河” を話題にしたとき、Red River Valley  とはどこか? と書いたことがあったが、結構面白い話題ではあるな。

(安田)ウィキによれば、シルバラードはゴルフ場の名前になっているナパヴァレーの一角のようです。映画でも最後は加州に行くことになっているので、ここがその場所なのでしょうか?確かに緑の多さはネヴァダやアリゾナ、はたまたニューメキシコでもありません。ウイキにいわく:

ナパバレーでも特に名高いシルバラードトレイル。オークが立ち並ぶのどかなトレイル沿いには世界クラスのワイナリーが連なり、1週間かけても回り切れないほど。ナパカリストガを結ぶ最初の常設道路であるシルバラードトレイルはおよそ48キロメートルにおよび、ほぼ平行に走るハイウェイ29号線の代わりに使われるのどかな小道です。

(小田)(映画の中で)黒人男性が、シカゴから来たと言っていることから、舞台は安田様の仰るように、ルート66上のように思います。ルート66の最終地点、サンタモニカからヨセミテに行く途中、ローン パインに寄りました。前にも書きましたが、ここには、Western Film History 博物館があり、この周辺がロケ地のような気もします(編集子注:黒人男性、とは可哀そうに。ダニー・グローヴァです)。

エルドラドについてですが、サクラメントの知り合いの日本人女性を訪ねた事があります。その時ついでにエルドラド郡を周りました。ひとつは、戊辰戦争で破れた元会津藩の40人+ドイツ人(シュネル)とその日本人妻と娘2人で作った、Wakamatsu Tea and Silk Colony。日本人初の入植者達です。しかし2年後、シュネル家族は資金調達にドイツに行ったまま帰って来ず、日本人達は又々大変な目に会いました。その中に娘2人の子守りとして来た、”おけい”がいました。19歳で亡くなりましたがお墓が作られ、今も皆に守られています。この時は記念碑だけでお墓は見られず、その後、会津に行った際、東山の景色の良い所に立つレプリカを見てきました。この記念碑のあるGold Trail小学校と東山小学校は姉妹校になっています。
(安田) 1960年代、GMのキャデラック最高級車に「エルドラド」(El Dorado ― 黄金郷)、1990年代、GMのシボレー・ピックアップトラックに「シルバラード」(Silverado)がありました。片や金、一方は銀。ゴールラッシュ時代の19世紀から由来しているのでしょうか?南米コロンビアの首都ボコタの空港名は「El Dorado」です。16世紀征服したスペイン人が伝え聞いたとされる南米に存在すると言われた伝説の黄金郷が由来。

(船津)日本にエルドラドは無いのかなぁ。

日本の農家は大分以前と変わり一家に4台の車が在るとかね!豊かには成りましたね。でもほんの一部だと思います。

(編集子)なるほど、クルマにありましたね、確かに。当時たまたまカリフォルニアにいた僕にとってはやはり マスタング が憧れでしたけど。

初代マスタング(ムスタングとは言わないことを現地で知った)。リー・アイアコッカをフォード社長にのし上げた名車。

エーガ愛好会 (109) オクラホマ・キッド  (34 小泉幾多郎)

12月3日BSP放映の「追われる男1955」に次ぐジェームス・キャグニー主演の西部劇。12月24日放映の「シマロン1960」での、オクラホマ州での土地獲得競争が、冒頭から号砲一発で一斉スタートするのだが、まず驚いたことは、こんな昔の映画なのに、インディアン居留地として保証していた土地を二束三文で、入植者に開放するということに、当時のクリーブランド大統領が議会演説で「今回の土地の買い入れはインディアンからの搾取であり、議会に押し切られて致し方なく調印する」という趣旨の演説から始まる。

主役のキャグニー扮するジム・キンケイド通称オクラホマ・キッドも土地はインディアンから安く叩いて取り上げたものと反体制的な言葉を使い、土地獲得には無関心を装い、酒場で酒を飲んでいる。監督はロイド・ベーコン、どちらかというと低予算の職人監督として活躍したが、ミュージカルの傑作「四十二番街1933」や野球映画「春の珍事1949」等印象深い。

キャグニーを取り巻き、父ジョン・キンケイド(ヒュー・サザーン)兄ネッド・キンケイド(ハーヴェイ・スティーブンス)や恋人ジェーン・ハードウイック(ローズマリー・レイン)とその父ハードウイック判事(ドナルド・クリップス)の面々に、敵役は当時悪役でならしたハンフリー・ボガートが黒ずくめの服装で、悪役ホイップ・マコードに扮し、ダンディズム、ニヒリズムの魅力を醸し出していた。

簡単に筋を辿れば、チェロキー族への補償金を強奪したマコード一派から、その補償金を横取りしたのがキッドで、インチキで土地を獲得し酒場と賭博場を仕切るマコードと敵対することになる。キッドの父は町の有力者で人望厚く、町長に立候補するも、マコードに嵌められ、吊るされてしまう。マコードの悪行と仕掛けたマコードの部下たちへの復讐の念に燃えたキッドは次々と部下たちと対決、3人を殺し、1人はマコードの悪行の証言させる。ジョン・フォードの西部劇の常連ワード・ボンドが子分の一人に扮するが、あまり活躍の場がないまま直ぐに殺されてしまう。同じフォードの「わが谷は緑なりき1941」のドナルド・クリップスは判事に扮し貫録の演技を示す。最後キッドとマコードとの対立は格闘となったが、保安官となった兄ネッドが逮捕に現われ射ち合いとなり、射たれるも、瀕死のままマコードを射殺したが、キッドに抱かれながら息絶える。結局キッドの父と兄は法の力で解決しようとするが、キッドの法以外の力でしか解決できなかった西部劇の典型が描かれている。

肉親を失ったキッドだが、恋人ジェーンの父判事のお墨付きもいただきジェーンと新生活に入る。他愛ないと言えばそれまでだが、キャグニーとボガートという名優以下善悪入り乱れての戦いが西部劇の典型で先ずは面白かった。

(編集子)”西部劇の典型” をぜひ見たかったのだが所用があり見損なった。妙な意地だが、どうも録画、というのが嫌いなので。

コロナ第六波到来 !  (普通部OB 篠原幸人)

2022年も新型コロナで幕開けですね。ついに第六波が始まりました。アメリカでは毎日100万人、フランスでも20万人、スエーデンでは国王夫妻も感染したとか。東京でも直ぐに毎日1000人から下手をすると1万人以上の新患が出るかもしれません。沖縄・山口も多いですね。やはり米軍の駐留地から広がった可能性でしょうか。

オミクロンが感染力は強いが、病原性はさほど強くないかもしれないと12月4日に書きました。どうやらその予測は当たっていたようです。しかし、実はもうオミクロン株にはA型とB型が出来ているようです。すなわちオミクロン自体の進化が早くも始まっているのです。皆さんがクリスマスだ、正月だなどと騒いでいる間に、このウイルスは生き残りを賭けて夜も寝ないで必死に働いていたのです。従って近い将来、オミクロン株が次の変異を遂げて、さらに強力な病原性をもつより危険なウイルスになる可能性すら出てきました。

私も再来週17日に3回目の接種、すなわちブースター接種を受ける予定ですが、たとえ受けても感染を完全に防げるとは思っていません。効果がゼロではないでしょうが、多分皆さんの順番が来る頃には3回目接種の効果の有無がある程度わかってくると思います。3回目接種の感想はまた書きます。それよりも接種率の低いアフリカ諸国のことが心配です。アフリカの奥地にこのウイルスが生き残り、何年か先に形を変えて出てくる可能性もありますが、今は当面の我々の問題の解決が先でしたね。

現在の保存に制限のあるワクチンに変わって、保存のきく経口投与のできるワクチンでも開発されれば、世界の隅々までワクチンが行き渡り、朗報となるのでしょうが、将来のことはさておいて何とかこの第六波を日本がどう乗り切るかが当面の問題です。

2022年の年明けー 新しい ”国富論” へ    (大学時代クラスメート 児井正義)

昨年はコロナ禍を始め数々の国難に見舞われ、対応、自粛に明け暮れる不自由な生活を余儀なくさせられた一年でした。ただこの余暇を利して、多くの事に気付き、学ぶことが出来ました。日頃出来なかったことに取り組み、亦人生をゆっくり考える機会にもなり、決して悪いことばかりではありませんでした。

その中で、最大の収穫の一つが、テレビの番組を介して、マルクスの「資本論」と近年公開された彼の膨大な「研究ノート」を学習したことです。経済学部に学んだにも拘わらず、疎遠であった「資本論」の真髄に触れた瞬間にマルクスの卓越した解析力、慧眼と行動力に改めて敬意を表すると共に目から鱗が落ちた思いでした。「資本主義」のメカニズムを徹底的に解析しその矛盾や限界を明らかにした正に名著と云えましょう。

+今世界は「新市場主義]と云う名の市場原理主義が世界を席巻、世界全体の在り方を大きく変えて来ました。しかしこの資本主義の暴走の結果、私たちの生活も地球環境もめちゃくちゃになっています。社会の繁栄を脅かす数多くの危機、金融危機、経済の長期停滞、貧困やブラック企業、新型コロナウイルスのパンデミックと気候変動の影響による異常気象等々。中でも深刻な問題の一つが格差の拡大です。気候変動に代表される世界的な環境破壊も深刻です。マルクスはこうした資本主義の矛盾と限界について約150年前から予見していたのです。今こそ「資本論」は単なる学術論文ではなく、社会変革に向けた「実践の書」と解し、よりよい将来社会を構想するための実践的な道標になるのではと思います。

今年こそは新政権の下,直面する難局に凛然と立を向かうとともに、様々な異質のものを和やかに調和させ、共存を図りながら、穏やかで平和な日常の一刻も早い到来を祈りつつ、そのための実践的構築が求められているものと考えます。

かって梶山静六代議士が「政治の要諦は如何に国民の食い扶持を確保するかにある。」と語った由。この提言こそは我が国の豊かで平和な社会に向けて発展しで行くための努力を示唆するもので、前述の世界的な危機、課題に実践的に立ち向かい解決を図ることにあると思います。そのためにも「資本論」の示す道標が大いに役立つことでしょう。 具体的には、我が国は今でも勤勉で、天然資源の不足を補う知的資源を有するある意味豊で、伝統的な文化を持ち、美しい国土に恵まれた底力を有する世界に誇れる平和な国だと自負しております。

しかしながら前述した世界的な危機、深刻な課題は我が国にとっても全く例外ではありません。世界は今こうした課題解決に向けて「CDGS」18項目を標榜しております。この目標達成のために第4次産業革命が喧伝される中、続々と新しい産業が生まれて来るものと予想されます。そこに我が国の出番が生じます。持てる知的資源を結集してその底力を存分に発揮することで、新しい富を享受することになります。

一方この過程の中で国際的協力、共存が図られ新たな富・資産が生じます。日本版「国富論」と云うべきこうして蓄積された豊かな資産が国民の食生活の確保と「危機管理」を構築し、働き方改革に寄与し、格差是正を図り、自然環境の改善に貢献する等世界に範たる豊かな文化・文明大国として発展し、他国と協調して世界平和に貢献して行くことを確信し祈って止みません。