エーガ愛好会(207)  ルイ・マルのこと  (普通部OB 菅原勲)

フランスの映画監督ルイ・マルは、1932年10月30日に生まれ、1995年11月23日に鬼籍に入っているから、63歳で逝去したことになる。その全作品は、共同監督を含め22本だが、その内、小生が観たのは最初の4本に過ぎない。つまり、この後には18本もの映画が控えているわけだ。ところが、僅か4本しか観ていないにもかかわらず、マルを語るとは、それこそ神をも恐れぬ大胆不敵な行為と謗られても返す言葉もない。が、英語で言えば、Better late than neverに倣って、それをまーやってみようじゃないか。

「沈黙の世界」(製作年/日本公開年:1956年)。ジャック=イヴ・クストーとの共同監督で、深海を扱った海洋ドキュメンタリー。つまり、マルは劇映画ではなくドキュメンタリーから出発している。ただし、当時、クストーは、アクアラングの発明者であり水中考古学の先駆者として既に名声を博していたことなどから、その陰に隠れ、マルの存在は極めて薄いものだった。従って、小生の記憶の中では、「沈黙の世界」と言う映画は、クストーの作品であると理解しており、その中でマルの役割がどの程度のものだったかは分からない。

ところが、そのマルは第二作(実質的には第一作だろう)で大変身を遂げる。いや、それどころか第一作であるにもかかわらず、大変な作品を引っ提げて颯爽と登場して来る。それが、「死刑台のエレベーター」(製作年/日本公開年:1958年)だ。原作はノエル・カレフ(ブルガリア出身でフランスに国籍変更)のスリルとサスペンスに満ちた同名小説。彼にはこの他に「その子を殺すな」と言う傑作もある。従って、マルの映画もスリルとサスペンスに満ち溢れたものだったが、それを台詞だけではなく誠に秀逸な白黒の画面/画像で伝えたところに、マルの斬新さがあった。そして、小生は、これがマルの最大傑作だと思っている、時に弱冠26歳。マイルズ・デイヴィスのトランペットも話題になったようだが、ジャズに馴染みのない小生にはそれに言及するだけの素養はいささかも持ち合わせていない。

「恋人たち」(製作年:1958年/日本公開年:1959年)。これもドミニック・ヴィヴァン・ドノンの「Point de Lendemain」(英訳本の表題は「Tomorrow」となっている。が、Lendemainとは明日ではなく翌日と言う意味らしい)が原作で、1777年に出版され、1812年に改訂版が出されている。しかし、その内容は、どうもポーノグラフィーとまでは行かないが、可なりエロティックな内容だったらしい。従って、映画化に当たって、マルはその辺の直接的な描写は避けたようだ。この映画は男女の睦の画面があって、それが話題となり、同時にそこに流れる甘みな音楽が一躍有名になった。ブラームスの弦楽六重奏曲第一番第二楽章だ。小生、その睦に誘われてこの映画を見に行ったのだが、それ以上にその背景を流れるブラームスに甚く感激。早速、レコード屋でそのLPを贖って聴いた。ところが、肝心の第二楽章は、大変、良いのだが、残りの楽章はお世辞にも面白とは言い難い。逆に言えば、これは、特に第二楽章を選んで映画音楽に使ったマルの嗜好とか選曲眼を高く評価すべきなのだろう。

「地下鉄のザジ」(製作年:1960年/日本公開年:1961年)。田舎から出て来た、歯抜けの小生意気な女の子がパリで巻き起こすドタバタ喜劇。これもレーモン・クノーの同名小説(1959年)が原作だ。これは話しの筋がどうのこうのと言うより、ハチャメチャなドタバタ喜劇を楽しむ映画だ。従って、この類のものに拒否反応を示す人から見ると、何が何だかさっぱり分からず、誠にツマラナイ映画と言う人も多かろう。小生、この女の子、カトリーヌ・ドモンジョ(当時10歳)が気に入ったのだが、その後、二三の映画に出た後、19歳で引退し、地下鉄の歴史家になったそうだ(地下鉄はウソ)。

こう見て来ると、小生にとってマルの代表作は「死刑台・・・」となる。勿論、他に20本足らずの映画があるわけだが、それこそ、小生、見ていないから何とも言えない。確かに、4本の全てに原作があるが、誤解を恐れないで言えば、話しの筋なんてものは、本を読んでりゃー良いんであって、映画は台詞に加え魅力的な画面とそれに伴う音楽でその意図を如何に伝えるかがその最大の使命となる。往々にして文芸大作と言われる映画が面白くなくなるのは、ただただ筋だけを追っかけているに過ぎない場合が多いからだ。そこになにほどかの、いやそれ以上の工夫が施された画面/画像が加わって初めて映画となる。その意味では、カレフの本「死刑台・・・」とマルの映画「死刑台・・・」は全くの別物と考えるべきだろう。

それにしても、世に言う新しい波「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは、一体、何だったのだろう。

(安田)僕は「沈黙の世界」以外の3本と「鬼火」を観ました。日本封切り公開時から随分年を経てからです。ということは、僕が青二才の年齢からちょっとばかり大人になってから。「地下鉄のザジ」は先日、管原さんのご推薦もあり後期高齢者の年齢で初めて観ました。「死刑台のエレベーター」「恋人たち」に尽きます。共通点は、ジャンヌ・モローが両方の映画に主演(鬼火にも出演)。共に白黒映画。「フィルム・ノワール」の範疇に入るのだろうか。そして最も感銘を受けたのは主題曲の素晴らしさ。ヌーベル・バーグの旗手と云われたルイ・マル監督26歳の時のメガフォン作品。一つ選ぶとすればやはり「死刑台のエレベーター」でしょうか。

「恋人たち」はジャンヌ・モローの美しさと官能的な映像美、そして何と言ってもブラームスの弦楽六重奏曲第一番第二楽章が映画を惹き立てる全てと云っても過言でない位素晴らしい。これら2つの映画を観てから、ジャンヌ・モローの主演映画「危険な関係」(1959年作)と「突然炎のごとく」(1961年作)を後年続けざまに観たくらいに彼女に興味を持ちました。

(飯田)ルイ・マル監督作品は私も「死刑台のエレベーター」「地下鉄のザジ」他には奇妙奇天烈な「世にも怪奇な物語」程度しか観ていませんが、「死刑台・・」は特筆すべき出来栄えの作品と思います。

その成功は菅原さん、安田さんの評論、コメントで尽きると思いますが、少し付け加えるとするなら、原作ノエル・カレフ、監督ルイ・マル、主演のモーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、音楽マイルズ・デイヴィスに加えて、当時のフランス映画界で名を轟かせた撮影のアンリ・ドカエのモノクロ画面のカットとロングパンの撮影の妙があり、演技者では後半にやっと出てくるあの名刑事役リノ・ヴァンチェラのこわもて顔があって、ラストの写真現像室でのシーンで主役二人が、これから受ける懲役10年、20年の刑の重みが増して締まったと思います。

リノ・ヴァンチェラはこの映画でも、ジュラール・フィリップ主演の画家モジリアーニの半生を描いた「モンパルナスの灯」であの面構えでラストに出てくる悪徳な画商の名演技に匹敵する存在感だと思います。

(船津)このエーガに出て来るカメラは一時入れ込んだミノックスカメラ。独逸の空軍の英雄に送られた。

(編集子)小生も難しいことはさっぱりわからないが、死刑台のエレベータ、あのデイヴィスのトランペットは印象に残っている。映画そのものよりも音楽が記憶に残る、というのはよく経験する。小生の場合はなんといっても 白い恋人たち だが。

エーガ愛好会 (206)熱血教師映画2本   (42 保屋野伸)

昨日、今日と雨だったので、先日放映された、熱血教師モノのエーガ2本をビデオで観ました。

①   いまを生きる

ロビン・ウイリアムスが名門スクールの型破りな新任教師役。大昔、会社の研修で観た映画でしたが、ほとんど忘れていたので、改めて新鮮で楽しめました。生徒の自殺が、教師の「個性を重視する教育」のせいだとされ学校を去るラストシーンで、生徒達のある抗議行動が感動的。

*ルート・ロイベリック主演の「朝な夕なに」を思い出しました。

②   コッホ先生と僕らの革命

ドイツ帝政時代、イギリス留学でサッカーを学んだ教師が、サッカーを教育の一貫に取り入れ、最後に成功する実話。モデルのコンラート・コッホはドイツサッカー界の父といわれた人物。

*熱血教師の映画やドラマは「外れがない」と云われますが、日本でも次のドラマが大ヒットしました。

①3年B組金八先生(武田鉄矢) ②熱中時代(水谷豊)③スクールウオーズ(山下真司)~熱血教師ではありませんが、映画では、二十四の瞳(高峰秀子)

 

誤嚥性肺炎について   (普通部OB 田村耕一郎)

 

友人から、親戚の方に起きた事故に関して、注意喚起のメールをもらいました。参考になると思いますので紹介します。

1.誤嚥性肺炎って?

誤嚥性肺炎は、食べ物や唾液などが誤って気道に入り込んだときに、一緒に口やのどの細菌やウイルスが入り込むことで起きる肺炎で、70歳以上の高齢者の肺炎の7割を占めています。

通常、食べ物や唾液を飲み込むときは、空気の通り道である気管にフタがされ同時に食道が広がるので、食べ物や唾液などは食道にだけ入ります。ですが、高齢者や脳卒中などで体にマヒがある人は、このフタの働きが低下して飲み込むときに気管がしっかり閉じにくくなって「誤嚥」が起きます。このときに、口の中やのどにいる細菌やウイルスが食べ物や唾液と一緒に気管から肺に入り、誤えん性肺炎を引き起こします。

一般に、肺炎を発症すると38℃以上の発熱や強いせきなどが起こりますが、誤えん性肺炎ではそうした典型的な症状が現れにくく、「ハアハアと呼吸が浅く速い」「何となく元気がない」「体が異常にだるい」「食欲がない」といった症状が多くみられます。また「せん妄」といって、話す言葉やふるまいなど意識に混乱がみられることもあります。高熱が出るまで、軽い咳込みと食欲がなくなった程度なのに誤嚥性肺炎を起こしていたというケースもあります。

2.口は万病のもと

誤えん性肺炎が高齢者に多い理由は、主に「えん下障害」「せき反射の働きの低下」「口の中が清潔に保たれていない」「体力や抵抗力の低下」の4つとされています。中でも特に重要なのが3番目の「口腔ケア」です。口腔ケアがしっかり出来ていれば、口の中の細菌が少ないので誤嚥しても誤嚥性肺炎になりにくいです。

口腔ケアは誤嚥性肺炎の防止だけではありません。口の中が不衛生で細菌が多いと、様々な疾患を引き起こすことが分かっています。入れ歯のケアをほとんどしていないと高齢からくる誤嚥に、口腔内の不衛生が重なって、誤嚥性肺炎になることがあります。

3.口腔ケアで万病予防

口腔ケアには、歯みがきやうがいなどで口内を清潔に保つだけでなく、口内の働きを良くして「嚥下機能」を向上させるためのリハビリも含まれます。口腔ケアのうち、口内を清潔にするケアを「器質的口腔ケア」、口や喉の筋肉を鍛えるケアを「機能的口腔ケア」と呼びます。

「器質的口腔ケア」は、日常的に行う歯みがきやうがいで、歯に付着した食べかすや汚れを落とし、虫歯や歯周病、口内炎を防ぐ効果があります。また、歯ぐきや舌、頬の内側などの汚れにも細菌が多く繁殖しているため、口の中にある肺炎の原因菌を減らせます。入れ歯の場合は、はめっぱなしにすると雑菌が増えやすいので、寝る前は必ず外しましょう。

「機能的口腔ケア」は、口や喉の筋肉を鍛えるケアで、食べ物や唾液がうまく飲み込めるようになるほか、円滑なコミュニケーションにもつながります。よく噛み、よく話すことで脳に刺激を送り、気持ちの安定もサポートできます。

機能的口腔ケアの代表例が「嚥下体操」です。下の要領で口周りの筋肉をほぐしたり鍛えたりします。また、「パタカラ体操」といって、「パ」「タ」「カ」「ラ」を組み合わせて発声練習して、口と舌の動きを滑らかにします。

<https://blog.ushinomiya.co.jp/blog/data/blog_img/9488_7_org.png>

口腔ケアは、単に歯や歯茎のためだけでなく、健康長寿とQOL(生活の質)の維持・向上に必要不可欠です。まだ習慣になってない方は、ぜひ今日から取り組みましょう。

“パーソナルコンピュータ” の歩みを思い出そう  (普通部OB 舩津於菟彦)

米インテルの共同創業者で「ムーアの法則」の提唱者として知られるゴードン・ムーア氏が24日、米ハワイ州の自宅で死去した。同氏の設立した財団とインテルが発表した。94歳だった。

ムーア氏は長年の同僚だったロバート・ノイス氏とともに1968年にインテルを設立。79年から87年まで最高経営責任者(CEO)を務め、同社を世界的な半導体メーカーに育てた。「半導体の集積度は2年ごとに倍増する」という同氏の予測はムーアの法則と呼ばれ、長らく半導体やIT(情報技術)産業の技術革新における指針となった。インテルCEOのパット・ゲルシンガー氏は「ムーア氏は洞察力と先見性によってテクノロジー産業を定義した。トランジスタの力を明らかにすることに貢献し、数十年にわたって技術者や起業家に着想を与えた」と声明を出した。

現在のシリコンヴァレーには数多くのスタートアップ企業が存在しているが、もしインテルの共同創業者であるロバート・ノイスとゴードン・ムーアがいなければ、こうした状況にはなっていなかったかもしれない。そう思える理由のひとつは、マイクロプロセッサの大量生産を最初に始めたのがインテルだったからだ。マイクロプロセッサは現在、スマートフォンやパソコン、サーヴァーなど、あらゆる種類のコンピューターを動かす基幹部品になっている。また、もっと詩的で深遠な理由もある。それは、ムーア氏とノイス氏が安定した企業の職を捨て、自分たちの手で会社を立ち上げ、夢を追求した起業家たちの先駆者だった から、というものだ。

そんな中に日本人も負けては居なかった。卓上電気計算機のビジコンの嶋正利は単身インテルに乗り込み卓上電気計算機用の4004の開発した功績は大きい。その後ビジコンを退職しリコーに転職。インテル社は次期製品として8008を開発。その性能向上にあたり特許戦略および他社による競合製品開発阻止のために、当時インテルのCEOだったロバート・ノイスが嶋をスカウトし1972年インテルに転職。8080では当初より主任設計者を務めて4004の時と同様にほとんど一人でロジックを組み上げ、8080のパターンの隅には嶋家の家紋が刻まれている。その後ファジンらCPU開発チームの主力メンバーと共にスピンアウトしザイログ設立に加わり、Z80やZ8000を設計した。Z80は8ビットマイクロプロセッサのベストセラーのひとつである。

嶋正利は1943年8月22日に生まれる.1967年東北大学理学部化学第二学科卒業.ビジコン社に就職し,電算部門で,各種のプログラミング言語に関する教育を受けプログラマとなる.1967年10月に電卓部門に移り,ハードワイアード論理方式を使った電卓の試作を担当する.当時日本は電卓の供給基地であり,OEMビジネスに適した論理方式を導入することを模索していた.嶋は,1968年11月に,10進コンピュータ・アーキテクチャとROMを使ったストアード・プログラム論理方式のプリンタ付き電卓を開発した.1969年6月に渡米し,10進コンピュータ・アーキテクチャを基本にした事務機向け汎用LSIシステムを開発する過程で,インテル社と協同で世界初のマイクロプロセッサ4004の開発を1971年3月に成功させた.16ピン・パッケージという制限のために4ビットの時分割システムバスを導入し,システムを,プロセッサである4ビットのCPU(4004),命令を格納するROM(4001),データを格納するRAM(4002),出力拡張ポート(4003)の4種類のLSIのみで構成した.当時の科学計算機用電卓には入出力機器としてキーボード,表示(CRT),プリンタ,応用プログラムを読み込むカードリーダなどがあった.開発における最も困難で解決しなければならなかった問題は,電卓というアプリケーション・プログラムを実行しつつ,低性能プロセッサと低速メモリという条件下で,プログラムを使って多種の入出力機器の制御をリアルタイムにどのように行うかであった.問題の解決のために命令セットの最適化と簡単なモニタの導入などを行った.CPUには2,300個のトランジスタを使い,750KHzの動作周波数で約0.065MIPSの性能を達成した.チップ面積は12mm角であった.また,嶋は,4004を使ったプリンタ付き電卓を1971年に開発し,世界初のマイクロプロセッサ使用者となった.電卓の命令用メモリ量は1Kバイトであった.マイクロプロセッサは,知への道具である「知的能力」を人類にもたらし,マイコンへの道を拓いた.1971年9月にリコーに移り,ミニコンへのI/Oタイプライタの接続,大型計算機のチャネルへのグラフィック・ミニコンの接続,高速プリンタの電子制御,ミニコンを使ったドラム記憶装置のテスタ設計に従事した.これらの一連の設計を通してマイクロプロセッサ開発の基礎ができあがった.
今の目の前にあるアップルiMac27インチは当時の空調してテープがクルクル廻るオフコン以上の性能になっているし、LSIはナノの単位になり日本はに遅れてしまっている。

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我がpersonal computerの歴史は兄が米国から帰国時でフロッピーディスクて動くアップルⅡ型が最初の出会いで、自分がpersonal computerを購入したのは日本では未だpersonal computerがが生まれて間もないときに、大阪に飛ばされて単身赴任してやること無いのでこれからは何だろうと、当時NECがボトーの上に乗せたようなむき出しのpersonal computerから、NECとか日立がやっとpersonal computerらしき形の物を発売した頃です。日立レベル3は当時としては最先端のCPUモトローラーのHD68091MHzを搭載してメモリーは24KBとい物でした、本体298,000円はもとよりプリンターとかディスプレー(カラー画面の物は高くて買えない)グリーの物とかフロッピーレコーダーなど何か買うと10万円以上の代物でした。また、プリンターは勿論フルファベットとカタカナしか打てない物はドットプリンターで音が猛烈に大きい。寮で夜間打ち出すときなど枕を被せて–
そしてソフトなど殆ど無くて、BASICのみでシコシコ入れたりして遊んでいましたが、何しろ時間がが掛かるスワップ一つやってもトイレに行って帰ってくるぐらい時間を要した。それでも一応未だ少なかったパソコン講座に通ったり居しましたが、これが元で鉄鋼関係から情報産業へと転勤になりました。良かったのか悪かったのか???? あぁ遠い昔の半世紀も前の話しですね。未だその時の本が取ってあります。結局物にならず現在至っています。
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(編集子)サンフランシスコから101号線で1時間ほど南に位置するパロアルトはスタンフォード大学の所在地だが、ここにはラジオ工学の泰斗とよばれたターマン博士がいて、その門下生だったデヴィッド・パッカードとウイリアム・ヒューレットが博士にすすめられてHP社をおこし、ヒューレットが特許を取った低周波発振器の製造を始めた。その性能が当時映画 ファンタジア を作ろうとしていたハリウッドに認められて世に出、その後 (現代のアラビアンナイトだ)とまでいわれた飛躍をとげるのだが、このHPの成功が引き金となって、パロアルトからサンノゼあたり、かつては茫々たる果樹園だった地域が、現在のシリコンバレー、と呼ばれるエレクトロニクスとその延長線上にある情報産業の一大集積地になった。
HPの歴史にはいろいろとトピックがあるのだが、ある日、一人の青年がヒューレットのもとにやってきて、自分のアイデアを説明し、HPで使ってほしいと要請した。その時、ヒューレットはそれよりも自分で会社を興す方がいいと青年を激励した。その青年がヒューレットのァドバイスをもとに作った会社がアップルコンピュータだったのだ。この時、もしヒューレットが同意していたら、その結果はどうだっただろうか。歴史にIFはない、というの、一若造ではあったがHPという組織体の末端で会社の文化を多少は知っていた経験から興味はつきない。
別の話だが、船津の書いているPCの勃興期からその発展、インテルの拡大といった業界の動きを着実にフォローしたHPは関係分野での測定器を続々と送り出し、おおいに業績をのばした。その後、パッカードは、カリフォルニアで起きたいわゆるゴールドラッシュをひいてこう語ったことがある。ラッシュで設けたのはもちろん、金鉱を掘り当てたやつさ。だけど彼らの仕事が増えれば作業着がいり、給料を運ぶ馬車がいり、その給料を預かる銀行がいる。そうやって大きくなったのがリーバイスだとかウエルズファーゴなんて連中さ。HPは金鉱を探すのはほかの連中にまかせてジーンズや馬車を造ろうとしてるんだよ。
この大原則で小生が働いていた時代のHPは米国の Most Admired Company リストの常連だった。HPの変貌はやはり金鉱探しに手を伸ばし始めた時期に始まった。その結果をどう判断するのか、これまた興味は尽きないが。

春の鎌倉散策      (44 安田耕太郎)

啓蟄の時期には人間様も蠢かねばと、鎌倉散策を楽しみ、陶芸にも初めて挑戦してみた。去年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」放映中は混んでいるだろうと敢えて鎌倉行は断念し、春めいて桜も咲き始めた先週久し振りの鎌倉を散策。JR北鎌倉駅から歩き出し、西の方角に位置する駆け込み寺として知られる「東慶寺」へ。境内の墓苑には有名人の墓の多さにびっくり。小林秀雄、西田幾多郎、鈴木大拙、出光佐三(出光創業者)、和辻哲郎、高見順、谷川徹三、野上弥生、安倍能成、織田幹雄、大松博文など。

小林秀雄の墓

法華堂後跡の源頼朝の墓所(裏手には北条義時の墓もある)を訪れる。現在の墓は薩摩藩主島津重豪により、1779年に建てられたという。行く途中、畠山重忠の住居跡を通る。頼朝から北条執権政治への移行期を後追いしているかのようだ。

足利尊氏と対立して捉えられ28歳に若さで非業の死を遂げた、後醍醐天皇の皇子・護良(もりなが)親王を祭る鎌倉宮と親王の墓を足早に通り過ぎ、足利、上杉氏の菩提寺として栄えた報国寺を訪れた。孟宗竹の竹林が有名で、竹の寺とも呼ばれる。竹林を眺めながら美味しい緑茶を堪能。

初めて“ろくろ”を回し陶器の型造りを経験した。素焼きされた陶器に先日、釉薬をかけ窯に入れて焼き上げる作業にはいった。釉薬が陶器の上でどのような色味と模様を創るのか、焼きあがるまで判明せず楽しみではある。

帰路、稲村ケ崎の漁師宅に立ち寄り鎌倉名物「釜揚げシラス」を買い求めた。2万歩の終日におよんだ心地よい疲労感を覚えた鎌倉散策だった。

エーガ愛好会 (205) 不死身の保安官   (34 小泉幾多郎)

 西部劇の巨匠とも言えるラオール・ウオルシュ監督の、晩年に遺作「遠い喇叭1963 」の一つ前の1959年の作品。それは英国の名優ケネス・モアと相手役にあのモンローに匹敵するブロンドのセックスシンボルたるジェーン・マンスフィールドを配し、英米合作のウエスタンコメディを制作したとは珍しい。初めてスペインでロケされたウエスタンとも言われている。

冒頭タイトルバックに流れる歌 In The Valley of Lord(谷あいの心のワルツ)は、マンスフィールドが、画中、谷あいの小道を馬車で走る際にも唄われる。マンスフィールドの歌は他に酒場等で Strolling Round The Lane With Hill や If The Sun Francisco Hills Could Only Talk を唄うが、全てコニー・フランシスが代って唄っていい味を出してミュージカル的味わいも加味されている。

英国からアメリカ西部へ銃を売り込もうと駅馬車で西部へ向かう途中、インディアンに襲われるが何の知識もないまま酋長と判りあったりして仲良くなり、町民に英雄として迎え入れられたり、手首にデリンジャー型の計器を装置していたことが悪漢には剛腕の早撃ちに見られたりして保安官に祭り上げられる要因となる。英国人として何も知らないことが全てに良い方向に進むのだった。最後は牧場同志Lazy SとBox Tの対立もインディアンとの対立もすべて解決。こんなことは有り得ない筈だが、争いごと解決の理想形。他愛ないと言えばそれまでだが、職人技に徹し、肩肘張らず名人芸を見せつけられたと思えばそれで満足。英国紳士と酒場女でありホテル経営者とは、めでたく結婚。新郎の横には、親戚代表?インディアン酋長が。新婚旅行の馬車に矢が突き刺さる。矢に付けられた革の手紙を開けるとThe Endとは、最後まで他愛ない。

(飯田)さて、私もBSシネマで「不死身の保安官」を観ました。
この映画は制作当時、日本で劇場公開されていないことを観終わったあとに
知りました。小泉さんの名解説・コメントにあるように、気楽に楽しめるコメディ・タッチの西部劇で異色でした。私のような年齢になると、気楽に鑑賞できる楽しい映画に出くわすとそれだけで嬉しいものです。

主演の一人、ジェーン・マンスフィールドですが、彼女の名前は何故か有名ですが出演映画が意外に少なかったことを今回、改めて気づきました。
「女はそれを我慢できない」(1956年)の後に、この「不死身の保安官」(1958年)があるくらいで、他の数本はタイトルからして劇場で観たのか、観ていないのか、分らないような2~3流映画の気がします。

彼女が有名になったのは、ケネディ大統領の弟のロバート・ケネディ(当時の司法長官)と深い仲だったとスキャンダルが報じられて、むしろそちらで有名になったのか?と思っています。「女はそれを我慢できない」はトム・イーウエル(「七年目の浮気」でマリリン・モンローの相手役をやった、可笑しな演技をする俳優)との共演で、私は近年も度々観ています。

(保屋野)私も観ました。お二人の名解説に付け加えることはありません。まあまあ楽しいB級西部劇ですね。それと、私は、何でこんな映画にM・モンローが出てるのか不思議でしたが、このソックリさんはJ・マンスフィールドでした。

もちろん、モンローには適わないでしょうが、歌(本人が歌ったどうか分りませんが)を含めて中々魅力的でした。

(船津)確かに娯楽超大作ですね。面白い・可愛い。まるでウクライナ問題を茶化しているみたいですね。原住民の矢でロシアも停戦してくれると良いのですがね。

(編集子)ラオール・ウオルシュの西部劇、という先入観を払拭するのにだいぶ時間がかかった。ケネス・モアと言えば小生がお目にかかった作品は ”ビスマルク号を撃沈せよ” ”史上最大の作戦” ”空軍大戦略” とすべて第二次大戦ものばかりで、あのおっさんがセーブゲキか、という興味が先だった。マンスフィールドの映画はほかには1本も見ていない。ワイフの卒業論文がキャサリン・マンスフィールドだったが、何度も言い間違えて怒られた。無理もなかったと思うんだが。

エーガとは無関係だが、飯田兄のコメントにあるボブ・ケネディが暗殺された日、小生はシリコンバレーに居合わせて、言いようのない気もちになったことを思いだした。それにしても大統領兄弟そろってグラマー女優とのスキャンダルてえのは呆れるべきか、馬鹿にしたもんか、うらやむべきか、これも難しい。もっともこの国の兄貴分英国では皇太子がそうだもんな。皇女がスケコマシと駆け落ちするどっかの国なんか、平和といえば平和だわな。どうせならローマの休日風に落ち着けば万々歳だったはずなのに。しかしこういう場合、ご本人たちを密会の場所まで運んだ運転手とか、警護官なんかは口止め料をもらうんだろうか?

 

私の見た大谷翔平    (普通部OB 田村耕一郎)

日本選手は昨夜試合終了後、夜中に出発しフロリダに到着。スピーデイな世の中になりましたね。もと野球に明け暮れていたものとして言えば、今回、大谷選手の最も優れたプレーは、あのバントでした。大谷シフトがありヒット、長打を警戒している中で、大谷がまさか地味なバントをすると思った人はほとんどいなかったでしょう。
かつて報道の現場にいた友人からのメールを転送します。ぜひご一読ください。

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入団3年目の2015年のオールスター後、当時、私がキャスターを担当していたスポーツニュース番組に生出演してくれた日でした。 大谷選手らと社食に向かい、他の社員さんがいる中で300円の牛丼を食べました。楽しそうに、にこやかな表情を浮かべながら、本当に美味しそうに世界のOHTANIが牛丼をほおばっていました。  時間の使い方を最も大切にしていた大谷選手にとって、お台場からレインボーブリッジを渡っていく食事会場への時間は勿体ないと考えていたのです。20歳前後なのに……感服でした。

“明日やるべきことはすべて決まっている。時間の使い方は考え抜いている。18時にマウンドに上がる時には、そこからすべて逆算して1分1秒を大切に組み立てていく”  これが日本に居る時からの大谷青年でした。少しの時間も無駄にしない。オンエアで出会う大谷翔平は常に時間と向き合っていました

海を渡り、アメリカ大リーグに挑戦してからもエンゼルスのロッカールームでは規則正しく、規律正しく、時間を無駄にしないルーティンを続ける大谷翔平がいました。着替える時間、身体をほぐす時間、ベンチ裏でバットを振る時間、各選手とコミュニケーションを図る時間……無駄な時間は全くありませんでした。その中でもデータを見る時間、映像を確認する作業に時間を費やし、その時間を大切にしている大谷選手がいました。データ、映像を見ながら自分の動き、プレーを想像し、動きのイメージを頭の中で膨らませている姿が見て取れました。リアルに身体を動かす時間以外に、常に頭の中で想像し、頭の中でプレーをしている時間も特段大切にしているのだと気付かされました。今の活躍ぶりを見ていると肘の怪我を乗り越えたこと、トミージョン手術を行ったことさえも忘れそうになります。肘の傷はとても長い。10センチくらいでしょうか、縫い傷の跡が残っているんです。   ロッカールームで「手術跡を少し見せてくれますか?」と聞いたら、にやっと笑いながら「ダメですよ(笑)。絶対に見せません」と答えてくれたのを思い出します。  自分の傷や、苦しみや痛みを絶対に他に見せない。自分の中で閉じ込め、自らと向き合い解決していく。それを力に変えていく大谷翔平もいました。

「僕は二刀流をやっているとは思っていません。打って、投げて、走って。野球をやっているだけです」  キャスター時代、大谷翔平に「二刀流は難しい、困難ですよね?」という質問は愚問でした。野球をやっているだけですから。二刀流という言葉を彼が極力使わない理由はここにある気がします。「二刀流」ではなく「野球」をやっている。野球全てのプレーを堪能している。  だから時間を切り詰める、時間を無駄にしない、動いていない時は頭で想像する、イメージ
する.
辛いなんて言わない、言っている暇はない、すべてプラスに転換させru…だからこそ人の何倍も時間を要するはずの二刀流を成功させている、ピークをこことい
う時に合わせ、パフォーマンスを最大化させることが出来る。久しぶりに日本でプレーしてくれている大谷翔平選手を観て、色んな答え合わせが出来た気がしました。

今でも牛丼を食べると……目の前でにこやかに、楽しそうに食事をしている大谷青年の顔を思い出す。そして、割りばしの箸袋にこんな文字が浮かび上がってくる…「時間は無限ではなく有限」だと。

キミは 長いお別れ を読んだか ?   ハードボイルドミステリへのお誘い

シャーロックホームズものは大英帝国絶頂期の社会を背景にしているが、英国発推理小説はその基盤である階級社会、その中の知識階級の読者を意識して書かれた、知的ゲームだった。ただホームズの成功によってこのジャンルが大衆化してくると、推理というゲームを追求するあまりストーリーが現実離れしていく風潮への反抗からより現実的な作風が生まれる。名探偵の神業よりも、現実の社会のいわば普通の人間の行動を重視したストーリーである。それが米国に伝わると英国とは違った、オープンな米国の社会観や人間像の下で、純粋な推理よりも現実社会の中での行動を前面に出した作品が生まれた。推理小説という一応確立されたジャンルのなかで、従来の潮流と区分するためにこれらの作品にハードボイルドミステリ、という呼称がつけられた。ハードボイルド(以下HB)、とはなにか、をウイキペディアは次の通り定義する。

ハードボイルドは、文芸用語としては、暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体をいう。ミステリの分野のうち、従来あった思索型の探偵に対して、行動的でハードボイルドな性格の探偵を登場させ、そういった探偵役の行動を描くことを主眼とした作風を表す用語として定着した。

HBを定義している文章にHBな性格、という解説があること自体おかしいので、小生の考える定義を書いてみる。それは ”人生に対する確固たる信念を持ち、いかなる環境でも曲げない“ こと、同時に(その結果だが)”一度信じた人間にはストイックに信義を尽くす” ことを ”環境や社会常識を超えて、必要ならば暴力を用いても実行する” ことを重要と考える性格、ということなのだがどうだろうか。だから、僕はHBミステリは犯人を確定するだけではなく、この信念を吐露したストーリーであるべきだと思っていて、それが僕がこのジャンルを好む理由でもある。例えば、先に本稿で紹介した 深夜プラスワン のキャントンは、一緒に戦ったガンマンが知り合った女性と恋に落ちたと知り、彼女が拳銃稼業になやむことのないようにと彼の利き腕に銃弾をぶち込んでしまう。この終末が、おそらく辛口の評論家内藤陳をして、”これぞHB” と興奮させたのではないだろうか。

ただ、HBの定義変数に入ってくるHB的文体、というのは厄介で、何をもってそういうのかが確定できない。識者のあいだではヘミングウエイの文体がそうだというのだが、そうなると英語以外で書かれたり英語からの翻訳されたものはどう評価するのか。ここでは翻訳の重要性というか訳者の個性なり感性が読者にどう響くか、が問われてくる。一時、だいぶ読み込んだ北方謙三は、自身をHB作家、と位置付けたいのではないかと思えるのだが、その文章に苦労したあとが感じられた。短い節や体言止め、と言った独特の書き方である(弔鐘はるかなり さらば荒野 など)。これが英語の世界でのヘミングウエイ調になるのかどうか、素人の小生に判断できるわけはないのだが、正直言うと違和感というか押し付け感が先だったのは否めない。ただ、この さらば荒野にはじまり ふたたびの荒野 で終わるブラディドールシリーズ)は北方特有の衒学趣味が多少鼻につくが、すぐれた国産HBだと思っている。

詳細はともかく、HBミステリ(ミステリ、と限定するのは “行動的でHB的な人物を描く”というテーマはほかの分野でも従来から取り上げられてきたものだからだ)の創始者はダシール・ハメットだということになっているのでそこから話を始めてみる。

ハメットの代表作品は 血の収穫 マルタの鷹 ガラスの鍵 などで、マルタの鷹はハンフリー・ボガートの主演で映画化され、我が国でも好評を博した。このハメットを継いだのがレイモンド・チャンドラであり、その後継者とされるのがロス・マクドナルドであるとされ、ハメット―チャンドラーーマクドナルドスクール、などと言うこともある。事実、日本でのHB創始者とされている大藪春彦のデビュー作 野獣死すべし では主人公伊達邦彦が奪った大金でアメリカへわたってこの3人の研究をすることになっている。

(注:この表題の作品は英国のニコラス・ブレイク=桂冠詩人セシル・ルイスの本格派ミステリにもある。なお、小生は金儲けの戦略はいざ知らず、大藪がHB小説家などとは全く評価していない)。

この”スクール”だが、書かれた作品群を時代的に見ればハメットが米国の興隆期を、チャンドラが第二次大戦時の時期を、マクドナルドは現代のいわば病めるアメリカをそれぞれの作品の背景にしていることになり、その影響は作品にもはっきり表れていると言える。

チャンドラの代表作が本稿のタイトルにした 長いお別れ であり、初期の作品である 大いなる眠り とともによく知られている。彼7冊の長編と数多くの短編を書いたほか、映画の編集にも携わっている。小生は長編は全部読んでいるが、なかでは さらば愛しき女よ(違う翻訳名もある。原題は Farewell my lovely)が特に好きだし 高い窓 プレイバック なんかも推理一辺倒を離れて小説としても優れていると思う。いくつかの作品は映画化されているが、ロバート・ミッチャムとシャーロット・ランプリング主演の さらば愛しき女よ や、大いなる眠り のほうはやはりミッチャムもののほか、ボガートとローレン・バコール共演で 三つ数えろ というタイトルで作られた(ほかにもロバート・ミッチャム主演のものもあって、これは本来の名前になっている)。 肝心の 長いお別れ のほうはエリオット・グールドの主演という、小生からすれば全くのミスキャストのうえ妙な改造がしてあって、評価に値しない駄作としか思えない代物であった。

 さて、本題の 長いお別れ をとにかくお勧めする理由は、ミステリとしてのストーリーよりも作品全体の持つ雰囲気がしっとりと心に響くからである(ミステリというカテゴリを外れても、現代の英語文学としても高く評価されている)。前述したようにHBの決定要素のひとつが文体、という事なので、原作はともかく、日本語訳がどこまでその雰囲気を伝えているかが重要なことだ。今まで出ていたのは清水俊二訳と村上春樹訳の2冊で、最近田口俊樹訳が出たという事だが、これはまだ読んでいない。例によってグーグルに出ている識者の評価では、翻訳の正確さでは村上だが、清水訳は “清俊節” とも言われるとおりファンも多いという事だ。小生は原作も一応読み、悪乗りしてドイツ語版にも挑戦してみたが1日2ページを何とか判読するのがせいぜいで、結局原本を引っ張り出して英独対訳でほぼ半年かけてなんとか読了するのが限界だった。村上訳も期待を持って読んだが、結果を言えば小生は圧倒的な清俊節ファンなようだ。繰り返すが、清水訳の長いお別れ、は死ぬまでに絶対読む本、のリストに載ってしかるべき作品である、と僕は信じている。

世の中には専門家を含めてチャンドラにかぶれている人は沢山いるようだ。スペンサーシリーズで有名なロバート・パーカーはチャンドラの未完の遺作を完成させて プードルスプリングズ物語 という名前で世に問うた(これをいれるとチャンドラの長編は8冊になる)。”ギムレットには早すぎる” というタイトルでチャンドラ名言集を編集したのは郷原宏氏である。同氏はこの本の前書きとして、次のように書いている。ギムレットは 長いお別れ のなかで重要な役割を果たすカクテルである(僕はジントニックのほうが好きだが)。

”ミステリーを教養書として読むような野暮な人と私は友達になりたくない…….さりとて私は。ミステリ―を読んで何も感じないような鈍感な人と、ともに人生を語ろうとは思わない。”

この本はよく知られている一句を紹介するとことから始まる。チャンドラの7作目、プレイバック の一節である。

……”あなたのようにしっかりした人が、どうしてそんなにやさしくなれるの?” 彼女は信じられないように言った。

しっかりしていなかったら生きていけない。優しくなれなかったら、生きている資格がない”  

 

ところがチャンドラの後継者、ロス・マクドナルドの作風は全く違っていて、一言で言えば重苦しく、作品によってはあとあとまで考え込んでしまうものも多い。初期の代表作 動く標的 はその中では気軽に読めるし、映画のほうは主演が何といってもポール・ニューマンとローレン・バコール、脇にはシェリー・ウインタースという豪華版で楽しめる仕上がりだった。この作品は別として、ほかの代表作としては 縞馬模様の霊柩車 象牙色の嘲笑 人の死にゆく道 さむけ ウイチャリ―家の女 などがあるが、いずれも舞台は北カリフォルニア(チャンドラーは映画に関連した関係もあった南カリフォルニアが多い)の上流階級の間での確執や心理といったテーマが多く、チャンドラーに見るような開放感は皆無の作品がほとんどであるが、これはマクドナルドが生きた時代が、すでに米国がかつての栄光を失い、支配層であるべき人たちの間に心理的な混乱が生じ始めた時期だからであろう。

ほかにもHBを標榜する作品はミステリだけでなく(たとえばHB時代劇、なんてのもあった)お目にかかるが、多くはウイキペディアの定義の前半、つまり暴力行為の描写が主題で、主人公の心のうつろいを感じさせる作品はあまりないように思っているし、ミステリ、ではなく冒険小説とか警察小説、と分類すべきものばかりなような気がする。その中で、以前本稿でも取り上げたが、日本でいえば原尞(はら りょう)の作品は素晴らしい。惜しむらくは寡作なひとなので、次作があらわれるのを心待ちにしている。

最近のアメリカ発のものならば、僕の好みは 氷の闇を越えて でデビューしたスティーヴ・ハミルトンと、雰囲気が素晴らしい(残念ながら寡作で翻訳も今はアマゾンの中古に頼るしかない) ジョン・サンドロリー二の 愛しき女に最後の一杯を という2冊になる。そのほか、ずいぶんアマゾンにはご厄介になったが、残念ながらここで定義した、いわばホンモノのHBミステリ、ぼくが読んだ範囲ではロス・マクドナルドを越える作家にはあまり巡り合っていない気がするのが残念だ。

(菅原)大藪 春彦がダメなら、ミッキー・スピレインもダメか。

確かに、スピレインに煽情的な部分はあった(初作:1947年)。しかし、これはその先駆者であったがためであり、今は、例えば、D.ウインズローの「犬の力」(2009年)などは、その描写がもっともっとエゲツナイ。Commies(共産主義者)なんて表現は、まだ鮮明に覚えている。それにしても、スピレインから80年近く経って、コミーは何も変わっていない(特に、日本共産党)。スゴイねー。

閑話休題。と言うわけで、小生、ハードボイルドをハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドなどだけに閉じ込めておくことには違和感がある。評論家であり、小説家でもある片岡義男は、ハードボイルドについて、二つあり、一つは、上記3人のリアリズムであり、もう一つは、スピレインのファンタジーだと言ったそうだが、これも、大いに一理ある。何もスピレインを抹殺しちゃうことはないんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

サクラが咲いた!

(金藤)全国トップで東京の桜開花🌸発表がありました。
見頃は3月20日〜27日頃になるそうです。 平年より早い開花ですね。

(船津)錦糸公園は本日枝垂れ桜は3分咲き。ソメイヨシノはあと一歩。3年振りに雪洞も点き桜祭り開催予定。夜桜が綺麗ですよ。しだれの後ろの縦長長屋が我が家。