コキアを見に行っていました (42 保屋野伸)

海浜公園のコキア見学をしてきました。コスモスと共に丁度見頃で、大満足でした。まだ1週間ぐらいは大丈夫だと思います。今年が無理なら来年はぜひ訪れてください。

(下村)みごと! 写真の撮り方、構図が良いですね。癒されそうです。

(斎藤)昔の西部劇に出てくる転がる枯れ木はコキアか?と、ネットを探してみました。大外れかも。
西部劇の転がる枯れ木は、タンブルウィードという、名前もそのままに、回転草だそうで、特定の物を指すわけではないとWikiに書いてありました。枯れて風に転がる植物を言うそうです。風が強い日に、コキア(ホウキギ)が転がって飛んでいく姿を見ていたので、そんな回転草のイメージで思っていました。まあ、間違いではなさそうです。ホウキギは、薬草みたいな使い方もされるんですね。

ところで、国営ひたち海浜公園と言うと、私が学生時代、何人もの知り合いがそこに潜んでいました。米軍の水戸射撃爆撃場と呼んでいました。彼らの住処は、この水戸射撃爆撃場と、百里基地でした。射撃爆撃場は、ひたち海浜公園に姿を変え、百里基地は、茨城空港が間借りをしています。日本への返還は確か昭和48年か、49年です。

(保屋野)ひたち海浜公園の情報ありがとうございます。そう、昨日も風が強かったですね。公園から東海村の原発が間近に見えましたが、昨日一緒に行ったのが秋田時代の中学の友人(水戸在住)で昔東海村(動燃)で働いていました。

確かに、この公園は米軍の射爆場跡に誕生したのですが、その的の位置は春のチューリップ畑となっています。この公園は昭和記念公園によく似ていますが、チューリップはキューケンホフの庭師が設計した昭和記念公園の方が優れているかも。なお、昭和記念公園にもぜひ「コキア」(ほうき草)を植えてほしいものです。

(編集子)Tumbling Tambleweed は西部劇にはなくてはならない要素です。馬鹿にすると小泉さんに叱られますよ。落日ももうすぐという時間、街はずれで主役二人が対決する。その静寂の中をタンブルウイードがからからと音を立てて画面を横切る。これが紅葉だったり桜の花びらだったりしてはいかんのであって、あくまでこの草でなければならん。Tumbling Tumbleweeds というカントリーバラードもいい曲です。昭和公園にはむかねえだろうなあ。

円楽師匠の急逝と脳卒中について  (普通部OB 篠原幸人)

三遊亭円楽師匠が亡くなられ、テレビでもその追悼番組が行われています。しかし、何かその原因がはっきりしません。師匠が肺がんで急にテレビから姿を消されたのは皆さんよくお存じですね。その後、治療を経て高座に復帰されようとした矢先に今度は脳梗塞で倒れられました。その後、リハビリに精力的に取り組んでおられたようですが、お亡くなりになったのは脳卒中の再発なのか、肺がんの転移や悪化なのか、報道でははっきりしません。テレビの『笑点』の大ファンだった私はあの毒舌がもう聞けないかと、残念でしょうがありません。

脳梗塞は脳出血やクモ膜下出血とまとめて“脳卒中”と総称されます。“卒”は突然倒れることを”卒倒“というように”突然“の意味、”中“は毒に当たることを”中毒“というように”当たる”という意味。だから脳卒中は“脳の病気で突然なにかに当たったように倒れる病気”ということになります。この”卒中“という言葉は、本来は中国から来たのかもしれませんが、西暦760年、そうです、万葉集の時代ですが、その頃のわが国の書物にもう使われています。今から1200年前の日本人もすでにこの病気で倒れる人が多かったと思われます。日本人の国民病の一つですね。

この脳卒中のなかで、脳出血は大体高血圧をほっておいた方が罹りやすい病気です。クモ膜下出血は脳の動脈にできたコブのような動脈瘤が破裂しておこります。動脈瘤は事前にMRAという検査をすれば発見できます。だから脳出血とクモ膜下出血は現代では予防可能な病気に分類できると言っていいでしょう。

脳梗塞は脳の血管が詰まったり細くなったりして、その先に血液がいかなくなり、脳の一部が酸欠状態になっておこります。原因は多様で、高血圧・糖尿病・心房細動・脂質異常症・高尿酸血症などの他に、「がん」などがあって血液が固まりやすくなってもまた腫瘍細胞が脳に飛んで行って詰まっても起こります。円楽師匠もこんな状態だったんでしょうか?

脳梗塞は、更に、心臓にできた血塊が脳に飛んで詰まる心原性脳塞栓症、脳内の比較的太い血管が動脈硬化などで詰まるアテローム血栓性脳梗塞と、非常に細い脳血管が詰まるラクナ梗塞の三つに分かれます。このような分類がされるのは、それぞれで救急処置も再発予防法も大きく異なるからなのです。これが重要な点です。詳しい治療法の違いは、説明しませんが、どのタイプの脳卒中かは素人には区別付きませんし、医師でも専門家でないと、またMRI・MRAなどの装置がない病院でないと、診断は難しいことが多いのです。また血栓を薬で溶かすか、手術的に取り除くかの決定は、専門病院や大きな病院でないと困難なのが現状です。

片方の手や足が急に動かなくなった、顔が急に歪(ゆが)んだ、急に呂律が回らなくなり喋りにくくなった、急に体がふらつきまっすぐ歩けなくなった、突然今までに経験したこともない金槌で殴られたようなひどい頭痛が起こった、などは脳卒中のサインです。素人さんはすぐ「少し様子をみよう」とか、一瞬そのような症状が起こったが1-2分で軽快したので「まあ大丈夫だろう」と考えがちですが、脳は血流低下や僅かな出血にもとても弱い臓器なのです。

若し貴方が指を少し切って出血しても、暫く抑えているか、輪ゴムでも巻いて止血すれば、30分もたてば出血のとまり、一件落着でしょう。しかし脳の一部に出血が起こったらしいと首にロープをまいて締め上げれば5分と持たずにその方の脳機能は元に戻らず、亡くなってしまいますよね。この例でも分かるように脳はとても繊細で酸欠に弱い臓器です。だから心臓や肝臓と違って、頭がい骨という硬い骨で完全に覆われて守られているのです。おかしいと思ったら一分でも早くすぐ専門病院へ、そして適切かつ早期に治療できれば現代医学は脳卒中での死亡を激減出来ますし、また再発もかなり予防できることを知っていただけたらと思います。これだけは忘れないでください。

コロナワクチンの4回目以降の接種についての質問が来ています。しかし特に最新型コロナに対する最新のワクチンの功罪はまだデータ不足です。少し時間をください。またインフルエンザワクチンも打つかどうかの質問に関しては、私は今年も打つ予定であるという事が私の回答です。

エーガ愛好会(172) 西部劇のリメイクについて (34 小泉幾多郎)

「シマロン1960」は2021年12月17日放映済につき感想は提出済。1931年に制作された「シマロン」は監督ウエズリー・ラグルス、主演リチャード・ディックスとアイリーン・ダンで、西部劇最初のアカデミー作品賞を受賞した映画だった。これを名匠アンソニー・マンが監督し、主演グレン・フォード、マリア・シェルでリメイクに成功したということから、西部劇の主なるリメイク映画を回顧してみた。

先ずは、ジョン・フォード監督の「駅馬車1939」は、ゴードン・ダグラス監督により、モニュメントバレーからワイオミングに背景を移して、主役級アレックス・コード、アン・マーグレット、ステファニー・パワーズやビング・クロスビー、ヴァン・へフリンといった名優揃いにも拘らず、ジョン・ウエイン役のアレックス・コードと背景の緑のワイオミングがミスキャストだった。ゲーリー・クーパーの「ヴァージニアン1929」はジョエル・マクリーの「落日の決闘1945」へ、ジョン・ウエインの「勇気ある追跡1969」はジェフ・ブリッジスの「トウルー・グリット2010」へ、何んと言っても白眉は、黒沢監督作品のリメイク。「七 人の侍1954」がユル・ブリンナーの「荒野の七人1960」、デンゼル・ワシントンの「マグニフィセント・セブン2016」、「羅生門1950」がポール・ニューマンの「暴行1964」、「用心棒1961」がマカロニウエスタンになり、クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒1964」へ、何れも成功している。

またリメイクとは言えないが、OK牧場を決闘の場に設定したワイアット・アープを主役とした映画は、数限りない。製作順に、ワイアット・アープとドク・ホ
リディの役を連記。1.「国境の守備隊1934」ジョージ・オブライエン、― 2.「フロンティア・マーシャル1939」ランドルフ・スコット、シーザー・ロメロ 3.「荒野の決闘1947」ヘンリー・フォンダ、ヴィクター・マチュア 4.「法律なき町1955」ジョエル・マクリー、 5.「OK牧場の決闘1957」バート・ランカスター、カーク・ダグラス 6.「墓石と決闘1967」ジェームス・ガーナー、ジェイソン・ロバーツ 7.「ドク・ホリディ1972」ハリス・ユーリン、ステイシー・キーチ 8.「トウム・ストーン1994」カート・ラッセル、ヴァル・キルマー 9.「ワイアット・アープ1994」ケヴィン・コスナー、デニス・クエイド。

ほかに、無法者集団ビリーザキッド、ダルトン兄弟等取り上げればキリがないが、ジェシー・ジェームスをほぼ主役にした映画、日本に公開されただけで18本もあるというから驚き。題名、制作年、俳優名を羅列すると下記の通り。

1「ジェス・ジェームス1927」フレッド・トムスン、2「地獄への道1939」タイロン・パワー、3「復讐の六連銃1941」アラン・バクスター、4「地獄への挑戦1949」リード・ハードレー、5「平原の勇者1949」ディル・ロバートソン、6「命知らずの男1950」オーディ・マーフイ、7「無法一代1951」マクドナルド・ケリー、8「荒野の三悪人1951」ローレンス・ティアニー、9「私刑される女1953」ベン・クーパー、10「拳銃が掟だ1953」リー・バン・クリーフ、11「無法の王者ジェシイ・ジェイムス1957」ロバート・ワーグナー、12「地獄の分れ道1957」ヘンリー・ブランドン、13「腰抜け列車強盗1959」ウエンデル・コリー、14「ミネソタ大強盗団1972」ロバート・デュバル、15「ロング・ライダーズ1980」ジェームズ・キーチ、16「ワイルド・ガンズ1994」ロブ・ロウ、17「アメリカン・アウトロー2001」コリン・ファレル、18「ジェシー・ジェームスの暗殺2007」ブラッド・ピット。

(編集子)ジョン・ウエインの後半生には主題歌でもヒットした ”リオ・ブラボー” をはじめ、”エルドラド” ”エルダー兄弟” など大型の、肩の凝らない作品が多いが、実在した人物を題材にした ”チザム” にはビリー・ザ・キッドが話のつなぎ役的な脇役で登場し、最初は友人だったが最後にはキッドを射殺した保安官パット・ギャレットも出てくる。ビリー・ザ・キッド、実名ウイリアム・ボニーもいくつかの作品でおなじみの人物だ。

ドク小泉は触れておられないが、”シェーン”と”ペイルライダー” もそのひとつではありませんか?

 

 

九合目に到達!

富士山に登ったという話をしているわけではない。実は去る2022年10月6日、退職後の挑戦として始めたプログラムが、当初は東京オリンピックの時までに到達する予定だった90%のラインに到達したからだ。そのことを書きたい。

サラリーマンを卒業して、さて、これから何をするか、と考えたとき、まず一番に考えたのは、全くの偶然から外資系会社へ勤務することになった結果、一応のコミュニケーションには事欠かないレベルになった英語を理解する能力を、別に英語を生かして商売をする気もないのだが、維持していこうという事だった(それがどうした、と言えばそれまでだが、(なぜ山に登るのか)という問いと同じだ)。そこでとりあえず、肩の凝らない小説でも読もうかと行き当たりばったりに挑んだのがこの稿でたびたび引き合いに出してきたのだが、ジャック・ヒギンズの Eagle has landed だった。しかし読み始めて早々、自分で多少は自信を持っていた英語の能力が実は限られたビジネスの一部だけに通用するもので、小説一冊読むのにどれだけ無力なのかを悟らされた。意地になってヒギンズばかり10冊以上読んだところで、(ポケットブックを年100冊読めば英語の達人になれる)という説に行き当たった。なるほど、と思ったが、年100冊といえば週に2冊は読まなければならない。これは無理だという事は納得したがそれでも何か目標があれば、と考えた結果、(ポケットブックを10万頁読む)という目標を立てた。1冊がざっと300頁として300冊読むことになるから、上記の基準から考えても時間軸はちがうがそれなりの刺激にはなるだろう、と、それまで漫然と読んでいただけだったのを1冊ごとに記録をつけることにして、今まで、意地になって続けている。

記念すべき第一冊目を読み終わったのは 2013年3月13日、リー・チャイルドの Killing Floor (トム・クルーズ主演の映画 アウトローの原作)。10冊目は 5月30日、ジョン・ル・カレの The spy who came from cold (寒い国から来たスパイ)100冊目が15年8月24日 デヴィッド・バルダッチ の The Escape ,200冊目は スティブ・ハミルトンの The hunting wind ときて、以後、同じようなぺースで読み続けている。途中からポケットブックという限定をつけず、また内容もミステリ・冒険ものという制限を外し(とにかく英語なら何でも) にして、第二次大戦の参考書とか学生時代から興味を持ち続けてきた米国論なんかも加え、さらに範囲を広げて、3年ほど前から再挑戦をしはじめたドイツ語についても、いくつか読んだので、現在はとにかく外国語10万頁、に目標を再設定した。そしてメルクマールとしてきた9万頁、つまり九合目にに到達した。ここまでくれば、残り1万だから、3年あればなんとかなるだろうという事になったのだ。9万の大台を記録した本は、先日読後報告をアップしたばかりだが、”スリラー” の新人、ジャック・カーの第二作、True Believer 450頁、通算275冊め、累計90,132頁となった。

ここまでくると後は意地と体力の問題だが、幸い健康にもあまり問題はなさそうだから、後は気力あるのみ、か。”ミス冒” ものでも、有名なところではフォーサイズとかフランシスとか、全く読んでない作家もあれば今回のカーなども加わって、乱読の楽しみは当分つきそうもない。とりあえず一段落で、Makers Markでも飲もうか(斎藤さんのアドバイスというか警告を尊重してジントニックから変更)、などと思っている次第だ。

なお、この挑戦を後押ししてくれているのがかかりつけ医の、認知症予防の根本はとにかく脳の活性化であり、そのためには外国語を学ぶことが最も効果的だ、という一言だった。それが立証できればいいのだが。

 

 

 

コロナについての参考情報   (会社時代友人 齋藤博)

新型コロナワクチン接種とインフルエンザワクチン接種の副反応は、子供で10倍と言われています。そのようなデータをどこかに保存しておいたのですが、みあたりません。

野中しんすけという元ER看護師の方が、デルタ株への感染者についてまとめた表(下)があります。80歳以上の73%の感染者は、無症状か軽症で、死亡したのは14%です。同様に70歳以上の81%の感染者は無症状か軽症で、5.2%の方が死亡しています。
この表を見ると、39歳以下の方は、ほとんどの方が無症状か軽症で、死亡者はいないと言っても過言ではありません。死亡した方は、恐らく基礎疾患をお持ちの方だと考えてもいいと思います。

オミクロン株では、重症化する例はデルタ株より少ないということなので、この表と同じような結果になると類推します。

炭素文明論 その3    (会社時代友人 齋藤博)

前回の「炭素文明論 – その2 砂糖の起源と西欧への伝播」で、砂糖で蓄えられた富が、産業革命への扉を開く原資になったということまでをまとめました。炭素文明論には、記載されていませんが、砂糖がどのように日本に伝播して、広まったかを簡単にまとめておきたいと思います。こうして歴史を調べてまとめてみると、日本でも砂糖が社会の重要な糧となっていたことがわかります。

誰が伝えたかは別として、他を調べてみると、756年、正倉院の献納目録「種々薬帖」の中に「孝謙天皇・光明皇后が東大寺盧舎那仏に蔗糖(中国で砂糖の意)を献じ」の記録がありました。当時は大変な貴重品であった砂糖は、ごく一部の上流階級が薬用としていたと推測できる文章です。つまり、イスラム世界やキリスト世界と同様、日本でも、当初は薬として認知されていたようですね。砂糖は、西欧への伝播と同じ頃、日本にも伝来したと考えるのが妥当なのかもしれません。鎌倉時代末頃(14世紀前半)には、大陸貿易が盛んになり、砂糖の輸入も増加したと思われると記載している文書がありました

砂糖が伝わって約7、800年後の頃、正確には鉄砲伝来の6年後の1549年に、ザビエルにより、砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子がもたらされたそうです。薬としてではなく、お菓子として伝わったのですね。つまり、西洋では、もはや薬ではなかったのでしょう。この後も砂糖は国外からもたらされていたようですが、奄美大島の直川智(すなお かわち)が琉球に渡航中、台風に遭い中国福建地方に漂着し、その地でサトウキビの栽培と砂糖の製造法を習得し、1609年に密かに持ち帰ったとされています。意味が明確でないのですが、恐らくサトウキビを持ち帰ったのでしょう。1610年に黒糖を製造したのが、日本におけるサトウキビの栽培と製糖の始まりとされています。
その後、琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島などにおいて、さとうきびは増産され、江戸幕府のもとで管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。

江戸時代の中期(18世紀)以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的に取り入れられ「和糖業」として広まりました。1798年に讃岐(香川県)の砂糖(和三盆)が始めて大阪の中央市場に登場します。明治時代に入り、不平等条約の下(輸入品に対する関税決定権がなかった)で輸入砂糖が国内に流れ込み、沖縄・奄美を除き、零細な和糖業は相当なダメージを受け壊滅してしまったそうです。

日清戦争(1894〜1895)後、日本の一部となった台湾経済の中心として製糖業が位置付けられるとともに、機械化された大工場による近代製糖業が確立され、続いて国内にも精製糖の近代工場が建設、我が国の砂糖の生産体制が整備されていきました。しかし、太平洋戦争(1941〜1945)の前後頃、台湾で生産された粗糖を国内に輸送することが困難となり、国内の砂糖不足は深刻なものとなったということです。戦後も、我が国の砂糖は不足し、1952年まで配給制だったそうですが、やがて戦後復興とともに、多くの商社が砂糖の製造・輸入に動き出し、需要を賄えるまでになりましたが、それでも不足が発生することもあり、合成甘味料なども多く開発されるようになりました。一時期ズルチンやチクロなどの人工甘味料が使われましたが安全性の面から使用禁止となりました。その後の研究で、やはりズルチンとチクロは毒性があり、アメリカ食品医薬品局(FDA)では使用禁止、サッカリンは使用可能と判断されています。

最盛期の1973年には、1人あたりの年間消費量は29kgほどです。2021年になると、14kgほどまでに消費量が下降するのです(農林水産省「令和3砂糖年度における砂糖及び異性化糖の需給見通し(第4回)」)。その差15kg、それでも一人1日39gほどの砂糖を使っている計算ですね。WHOは、1日当たり糖類摂取量を25g(ティースプーン6杯分)程度に抑えようと、ガイドラインを発表しています。

乱読報告ファイル (31)ジャック・カー ”ターミナルリスト”

冒険小説、といえばロビンソンクルーソーやら十五少年漂流記などといったクラシックから始まって、僕の射程範囲でいえばアリステア・マクリーン(ナヴアロンの要塞・女王陛下のユリシーズ号)やギャヴィン・ライアル(深夜プラスワン)、ジャック・ヒギンズ(鷲は舞い降りた)などなど、世に知られた(大人向けの)冒険小説の傑作はすべて英国人作家のものしか思い出せない。推理小説ならば米国にもヴァン・ダインありエラリー・クインあり、さらにハメット、チャンドラーにマクドナルドなどHB物にも事欠かないのだが、どうも米国人の冒険マインドは常にウエスタンものにあるようで、ロマンの香りが高い冒険小説、というジャンルには思い当たるものがすくない。しかしトム・クランシーに端を発する軍事ものになると、今度はアメリカ勢の作品のほうがはるかに多くなる。しかし例えば レッドオクトーバーを追え を冒険小説と位置付けるのには多少の疑問があり、さらに最近立て続けに読んだ、ハンターキラーシリーズの潜水艦物などは読み物としてはよくできているがこれはなんというジャンルに区分するのか、迷っていたところ、いつもの夕方の散歩に立ち寄る立ち読み場のハヤカワ文庫の棚で見つけたのがこの本だ。解説を立ち読みするとなんでも凄い新人だ、というし、カバーについているいつもの推薦文が僕の好きなリー・チャイルド(ジャック・リーチャーシリーズ)だったのでアマゾンから取り寄せて読んでみた。その報告である。

まず、この本の持つ迫力、というか吸引力みたいなもの、の凄さに圧倒された。英語の本のお定まりの広告文句に pageturner という単語がある。息をつかせずページをめくっていく(ほど面白い)というやつ、あれを今回ばかりははっきりと実感した。それほど、面白かった。

ストーリーはSEALの優秀な少佐である主人公が派遣先で、従来とは違うルートで降りてきた命令に従ってテロリストのアジト殲滅に出陣するのだが、その動きが完全に読まれていて反撃を受け、救援に要請した部隊も巻き込んで全滅に近い打撃を受ける。なんとか主人公は帰還するのだが,隊長としての責任を問われ軍法に従って帰国させられてしまい、その上、重度の脳腫瘍があると宣言される。さらに帰国してみると我が家にたどり着く寸前、家を爆破され、妻と娘が犠牲になってしまう。それに妻は妊娠していたのだ。此処に至って、彼は彼と部下たちが何か巨大な陰謀の犠牲者だったのだと悟り、数少ない友人を頼って少しずつ、実態に迫っていく。そしてその関係者すべてを抹殺する覚悟を決め、実行に移していく。最後の一人を殺した後、自分を支えてくれた女性の計らいで外洋ヨットに逃れる。軍の規則を破り、軍の武器庫から武器を調達し、政府の要人や軍の上司を殺した自分にはいかなる法的保護もないし、重度の脳腫瘍があるのだ。それならば自分の死と対決しよう、と海へ出ていく、というところで終わりになる。

このラストは有名な英国詩人ニコラス・ブレイクが書いた推理小説の名作、野獣死すべし (大藪なんとかなどと一緒にしないでほしいのだが) の結末を思い出させるが、たぶん、この男(ジェイムズ・リース)は戻ってくるな、という余韻のある書き方が、やはり米国人の作品だ。実はその後、彼の電話に残されたメッセージが発見される。主治医から、脳腫瘍というのは誤診だった、喜んでほしい、という伝言だったのだ。

著者は米国海軍の特殊部隊SEALのえり抜きで20年のキャリアのあいだにスナイパーから始まっていくつもの難作戦で指揮官を務めた人だそうだ。したがって実践部分の叙述が迫力に満ち、技術面や作戦行動の描写などは当然素人の書くものとは隔絶した臨場感がある。その臨場感がどれだけホンモノか、は、序文で著者が ”この本の出版にあたっては軍当局の検閲を受けなければならず、その結果、原稿から削除を要求された部分がある、と告白していて、その部分は黒塗りされたまま出版されている。また、戦闘場面で使用されるさまざまな武器、情報ネットワーク機器、そのほか軍機密の事項を示す略号がいやというほど出てくるのだが、それの一覧表が文末に付記されているのが面白い。この検閲後の黒線は翻訳(熊谷千尋)でも同じ個所に掲載されていて、興味深々であるが、略号のほうは熊谷訳では一覧表ではなく引用のたびに原語の直後に示される。例えば

” ….ライフルには….暗視装置でしか見えないATPIAL (アドバンス・ターゲット・ポインタ・イルミネータ.・エイミング・ライトの略で、可視光線および….に照射する装置)…..”

という具合である。これが便利という人もあるかもしれないがとにかく数が多いので、原文のほうが結局読みやすかった。どんなものか知らないがなんせ銃だろう、くらいのことで読み進めたからだ。翻訳というのは因果な商売なのだなあと同情してしまうが、いずれにせよ、通常とは全く違った “軍”という社会の規律の中で、この個人の復讐をどうやってやりとげるのか(例えば上官だとか、次期大統領候補なども対象なのだ)?といった疑問とスリルがこの本を pageturner に仕上げているのだと思う。

ある意味で、僕がターゲットにしている ”冒険・ミステリ” 分野の作品であるかどうかよりも、ストーリーテラーとしての見事さに感心した一冊だった。あらためて翻訳の方も読むつもりで買ってはあるが、カーの2冊目がやはり出てきてアマゾンからすでに到着しているのでしばらくは手付かずになるだろう。ご希望があればお貸しできるのでご連絡をお待ちする。

(最後に思い出したのだが、原本の広告はこの本を THRILLER と表現している。この種の本については今後この定義を使おうと思う。スリラーはヒッチコックの専売ではなかったわけだ)

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Navy SEALs(ネイビーシールズ,英語United States Navy SEALs)は、アメリカ海軍特殊部隊である。SEALsという名称は、SEがSEA(海)、AがAIR(空)、LがLAND(陸)と、陸海空のアルファベットの頭文字から取られており、アザラシseals)に意味合いを掛けたものである。陸軍特殊部隊同様、“どこでも活動可能”を意味する。

 

 

 

至仏山  (43 保屋野伸)

昨年、大雪で登れなかった尾瀬の至仏山に、ワンゲル同期3名でリベンジ登山をしてきました。(3日戸倉温泉泊 4日鳩待峠からピストン)この山は、中級者向けの割合易しい山ですが、稜線を「蛇紋岩」が続き、滑りやすく結構苦労しました。(前日も3名大けがをしたそうです。)

山頂からは尾瀬ヶ原が一望でき、紅葉には少々早かったですが、上の方は真っ赤に紅葉した木々もありました。高い山に登るのは、せいぜい後1年ぐらい?・・・体力の衰えを痛感する1日でもありました。

ヌーヴェルヴァーグ概説 2 (普通部OB 舩津於菟彦)

先に書いた、ヌーヴェルヴァーグというジャンルに入るエーガのいくつかを紹介しておく。

①勝手にしやがれ
ヌーベルバーグの記念碑的作品であり、フランソワ・トリュフォーが原案、クロード・シャブロルが監修、ジャン=リュック・ゴダールが監督・脚本を務めた。ゴダールにとっては初の長編映画である。
ハンフリー・ボガートを崇めるミシェルは、マルセイユで自動車を盗み、追ってきた警察官を射殺する。パリに着いたものの文無しで警察からも追われているミシェルは、アメリカ人のガールフレンド、パトリシアと行動を共にする。だが、ミシェルが警察に追われる身であることを知ってしまうパトリシア。パトリシアは、パリで地歩を固めたい駆け出しの記者・ライターであり、ミシェルはどちらかと言うとフランスにいることに執着がない。
やがて一緒に逃げることを断念したパトリシアが警察に通報してしまう。劇中も何度か出てきた「最低」という言葉を最後にミシェルが言う。「君は本当に最低だ」と、かすれ声で言われたその言葉が訊きとれず、パトリシアは「彼はなんて言ったの?」と刑事にたずねると、「あなたは本当に最低だと彼は申していました」と伝えられる。パトリシアは「最低ってなに?」と訊き返す。

ジャン=ポール・ベルモンドはフランス映画に対する強い思いから英語圏の国が製作する映画には出演しなかったことで知られ、ハリウッドから数多くのオファーがあったにもかかわらず辞退していたという
アラン・ドロンとは、キャリア初期から何度も共演するなど親交があり、”永遠のライバル”と呼ばれた。訃報に対しての取材にドロンは「私は砕け散った」「彼は仲間だ。60年前から知り合い、一緒に仕事をして、とても親しかった」と動揺を隠せない様子で語り「私の人生の一部なんだ」と1950年代後半から続いた交流を振り返った
2021年9月6日、フランスのメディアによって、パリの自宅で死去したことが伝えられる。88歳没。

②大人を分かってくれない
フランソワ・トリュフォー監督の最初の長編映画。原題の「Les Quatre Cents Coups」(あえて直訳すれば「400回の殴打、打撃」)は、フランス語の慣用句「faire les quatre cents coups」(「無分別、放埓な生活をおくる」といった意味)に由来する
12歳のアントワーヌ・ドワネルにとって、毎日は苦痛の連続であった。学校では成績も悪く、いたずら好きで先生に叱責される。家では厳しい母親と、稼ぎも少なくうだつの上がらない父親に囲まれた息の詰まる生活。寝袋にくるまって両親のケンカを聞かされる日々。ある日、登校中に親友のルネと出会い、学校へ行くのを止める。午後に母親が街中で見知らぬ男と抱き合っているのを見て視線が合う。母は帰宅せず、翌朝、前日の欠席の理由を教師に追及されて「母が死んだのです」と答えるが、欠席を知った両親が現れてウソがばれる。
そんな彼の楽しみは映画を観ることだけだ。しかしある日、尊敬するバルザックの文章を丸写しして提出した作文がばれて叱られ、弁護したルネが停学になる。アントワーヌも家を出て、金持ちのルネの家に隠れ住む。やがて金に困り、ルネと一緒に父の会社のタイプライターを盗む。換金できず、戻しに行った時に守衛に捕まる。父親が警察へ連行する。非行少年として少年審判所へ送られ、護送車の中で初めて涙が出る。母親が判事の鑑別所送りの勧めに応じたため、束縛された毎日を過ごす。母親がようやく面会に来るが「ここが似合いだよ」と冷たい。監視の隙に脱走。野を越え、海へ、海へ。初めて見る海は大きかった。海辺に立ちつくし、ふとこちらを向いたまま動きを止める

パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるなど、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』初代編集長(1951年 – 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬまで親子同然の生活を送る。彼の勧めにより映画評論を著すようになり、『カイエ・デュ・シネマ』を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を多数執筆した。特に、同誌1954年1月号に掲載された「フランス映画のある種の傾向」という文章は厳しい論調だった。

③去年マリエンバートで
『去年マリエンバートで』(きょねんマリエンバートで、L’Année dernière à Marienbad)は、1961年公開のフランス・イタリア合作映画。アラン・ロブ=グリエによる脚本をアラン・レネが監督したモノクロ映画である。1961年、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。日本公開は1964年5月。
脚本のロブ=グリエ自身の言によれば、黒澤明監督の『羅生門』に触発されて作られた作品である。より正確に言うならば、芥川龍之介の『藪の中』を下敷きにした作品群の一つといえる。
ロブ=グリエがこの映画の仕掛けについて語っている。 それによると、黒澤明の『羅生門』がモチーフとなっており、最初に、
• 現在
• Xの回想(Xにとっての主観的事実)
• Aの回想(Aにとっての主観的事実)
• 過去(客観的事実→Mの視点)
の4本の脚本が作られ、それらをバラバラにつなぎ合わせて、最終的な脚本が完成したという。その際に、それぞれの場面が1から4のどの脚本に該当するのかがなるべくわからないように慎重につなぎ合わされ(時間軸の入れ替えも行われている)、最終的に完成した脚本はダイヤグラムシートを伴う、非常に複雑なものになった。わかりにくい映画だったが何か惹かれるものがあったエーガ。

④二十四時間の情事 日本題名が良くないなぁ
Hiroshima mon amour ヒロシマ・モナムール)は、1959年の日本・フランスのドラマ映画。アラン・レネ監督の第1回長編劇映画作品で、脚本はマルグリット・デュラス、出演はエマニュエル・リヴァと岡田英次など。被爆地広島県広島市を舞台に、第二次世界大戦により心に傷をもつ男女が織りなすドラマを描いた作品である。日本での邦題は当初『ヒロシマ、わが愛』とされていたが、公開時に『二十四時間の情事』へ変更された。ただし近年では、日本においても原題のまま『ヒロシマ・モナムール』と紹介される場合もある。アラン・ルネはヒロシマの悲劇のドキュメンタリー映画を作るつもりだったが、実際を観てこの映画になったとか。
来日し、広島へ反戦映画のロケに訪れたフランス人女優が、日本人男性と知り合い、深い仲になる。2人の情事の際の会話が続く冒頭では、広島の原爆被害の惨状を訴える映像シーンが続く。
2人はともに第二次世界大戦で戦争による悲劇的な体験を有していた。日本人男性は米軍の原爆投下によって家族を全て失っており、フランス女性は故郷ヌヴェールでナチスの将校と恋仲だったが、戦後に周囲から糾弾や迫害を受けた過去を持っていた。非常に良いエーガだったと思いますが、題名のせいか日本では余り評判良くなく後年評価された。

日本のヌーヴェルバーグ映画については余白無くまた、大島渚作品は余り評価しないのでタンマ。