”海底ケーブル” 今昔物語       (普通部OB 船津於菟彦)

海外との電話やメールはもちろん、インターネット、SNSのやり取りも、今では気軽に行えるようになった。国際通信は飛躍的に便利になったが、その裏には先人たちの挑戦の歴史があった。日本における国際通信は1871年(明治4年)に開始され、2021年は150年目の節目となった。国際通信を可能にするには海底ケーブルによる電気通信ネットワークが大西洋や 太平洋といった大洋を越えなくてはならない。1850 年にはすでにドーバー海峡の海底にケ ーブルが敷設され、北米大陸とヨーロッパをつなぐ大西洋ケーブルは 1858 年から 1866 年にかけて結ばれている。

それに対して、アメリカとアジアを結ぶ太平洋ケーブルが結ばれたのは、1902 年になる。1871 年に長崎と上海の間に引かれた日本最初の海底ケーブルを引いたのはデ ンマークの大北電信株式会社(Great Northern Telegraph Company)。さまざまな外交上の不平等条約と同じく、この海底ケーブルについても日本 にとって不利な契約が交わされ、大北電信は日本の国際通信を独占し、1913 年に独占権は 撤廃されたものの、大北電信が関わらない日中間通信でも日本の収入の 64.6%を大北電信 に支払うという不均等分収が第二次世界大戦後まで続いた。

通信用の衛星として最初に実用化されたのは、1962 年 7 月にアメリカが打ち上げたテ ルスターである。さらに、1962 年 12 月 13 日には、リレー1 号衛星も打ち上げられた。こ のリレー1 号は 1963 年 11 月 23 日にジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領の 暗殺事件を日本のテレビ視聴者に伝えた。それは初の日米間テレビ伝送実験中のことであ った。通信衛星リレー1号による日米衛星実験が始まる。太平洋をまたいでアメリカから中継された第1回の実験放送は、ケネディ大統領暗殺という衝撃なニュースだった。

ただこれは現在の静止衛星の衛星放送とは違い、地球を周回する通信衛星で僅かの時間しか日本上空には居ない代物だったが、その後も衛星による映像伝送が暫く続いた。36千㌔上空にある衛星なのでどうしても往復の時間が掛かり時間のずれが生じる一方、国際通信はきわめて割高で、庶民が気軽に使えるものではなか った。業務においても節約しながら使うもので国際電話など商社と言えどもよっぽどのことが無い限り使用できず、テレックスというアナログ通信による伝送通信に頼っていた。大容量の光海底ケーブルが引かれたことで、やがて衛星通信と海底ケーブルの関係が逆転することになる。

通信の自由化と共に日本電電公社(NTT)と国際電信電話株式会社(KDD)に対して民間の通信会社が設立された。小生が設立とそれ以降の営業担当役員として出向させられた日本国際通信株式会社(ITJ)が1986年7月21日 – 大手商社各社や松下電器産業など出資で設立。1989年10月 – 識別番号「0041」で国際電話サービスを開始。 1997年10月1日 – 日本テレコムに吸収され、会社は解散。もう一つ伊藤忠などで国際デジタル通信株式会社(IDC)が 1987年9月に設立された。それまでは日米にアナログ回線しか無く、ツートンの通信と僅かな回線の電話しか出来なかったのだ。

日本ではKDDが1964年(昭和39年)に『TPC-1(第1太平洋横断ケーブル)』を敷設し、初めて太平洋横断といった長距離の国際電話が可能になる。『TPC-1』は当初電話換算で128回線で設計、運用開始後142回線まで拡張された。これは、100人程度が同時に通話でき、更に電信回線が600回線以上設定できるというイメージだった。1975年(昭和50年)に『TPC-2(第2太平洋横断ケーブル)』が登場し、845回線に、そして我が民営化部隊も参加して1989年(平成2年)には、光ファイバを使用した『TPC-3(第3太平洋横断ケーブル)』、1992年(平成5年)に『TPC-4(第4太平洋横断ケーブル)』が登場した。『TPC-3』が7,560回線、『TPC-4』が15,120回線と大幅に容量がアップし、民間会社との競争により電話通信料金は大幅に低下して使い安いモノになってきたわけだ。

1995年(平成8年)、『Microsoft Windows 95』が発売され、インターネットが急激に普及しはじめたこの年に、『TPC-5CN(第5太平洋横断ケーブルネットワーク)』が登場。『TPC-5CN』で画期的だったのは、中継器による光信号の増幅だった。光ファイバといえども、大陸から大陸の数千kmを一気通貫で到達するのは難しい。そこで、光海底ケーブルには数十kmごとに、光信号を増幅させる中継器が設置されている。

1996年に行われたアトランタオリンピックでは、世界で初めて光海底ケーブルを使用したテレビ伝送が行われた。この頃、国際通信の主役は衛星通信から光海底ケーブルに逆転、衛星のパラボラアンテナは無用の長物扱いになり、世は光ケーブル一色の時代となったのだ。
海底ケーブルは日本海溝などの底まで敷設するため、一度切れると、又元の陸揚げ地点から手繰り寄せて、繋ぐという大変な作業になる。敷設もKDDが所有していて特殊な専用船が行ったが、今やGAFA等が巨大ケーブルを敷設して運用開始している。これら巨大IT企業が参画するプロジェクトが年間の世界の海底ケーブルの総延長に占めるの割合を求めたところ、実に5割近くを占めることが判っていいる。日本の国際通信が始まり150年。もはや通信会社のケーブルではなくここでもGAFAが覇権を握る時代に成り、広帯域の高速通信が当たり前の時代になってきたのだ。

(安田)掲題のブログ記事大変興味深く拝読いたしました。知らない事ばかりでした。なかんずく、欧米間のケーブル敷設がそんなに早い時期とは驚きです。人間の発想と技術は思いのほか凄いですね。これから先、何が起きるか想像も出来ません。

 

エーガ愛好会 (143)  星のない男    (34 小泉幾多郎)

題名「星のない男」の意味は、夜道を歩くのに星を頼りに進むべき星を持たない風来坊、延いては、行くべき方向に背を向け、気儘な気質を持ち続ける男という意味か。

名匠キング・ヴィダーが、カーク・ダグラスを主演に据え、西部劇の中に、主人公の過去のトラウマと哀しみを深く掘り下げ、人間の本質を広大な原野に描き出したと言える。ダグラスも過去の個人的な魂の開放をもたらし西部的精神の再生を図る男を好演している。銃の扱い、馬の扱いは一級品だし、陽気な男気でありながらもその裏は暗い過去を持つ男。

冒頭からフランキー・レインが歌う主題歌Who knows who knows man without
star・・・ に乗ってタイトルが流れ終ると蒸気機関車が驀進してくる。駅に停車すると乗ってきたカーク・ダグラスが、失神して轢かれかけた若者ウイリア ム・キャンベルを救い、二人とも女牧場主ジーン・クレインの三角牧場に雇われる。広大な牧草地ではあるが、牛の増大と共に、隣接するライバルの丸C牧場が有刺鉄線を張ることになった。ダグラスにとって、この有刺鉄線こそが過去に殺し合いがあり、そのことで弟を死なしてしまった苦い思い出があり、ある日、仲間の一人が有刺鉄線に傷ついたことから、此処から出る決心をする。しかし三角牧場のカウボーイ頭になった過去因縁のあったやくざのリチャード・ブーンがトラブルの種をまき散らすようになり、しかもダグラスが懇意の酒場女クレア・トレバーに借りた拳銃を返却した後、リンチを受けることになった。このクレア・トレバーの十八番、粋も甘いも噛み分けた演技は巧み。この時ダグラスにバンジョーを投げると弾き語りの熱唱The moon was brighter and brighter 。主役が挿入歌として歌うなんて珍しく異色のこと。ダグラスはライバルの丸C牧場側につき、リチャード・ブーン一派との戦いに進展し復讐することになる。

全般的に放浪者としてのダグラスの心理的描写や若者キャンベルとの友情とか牧場での雰囲気描写や牛の暴走とか西部劇らしき描写に好感を持ったが、ただ一つ牧場の経営者ジーン・クレインの性格だけが、スッキリしないで終わってしまった。女性牧場主という荒くれ男の中で、身体を張って生きている存在をもう少し掘り下げてもらいたかった。しかし67年前の映画ということからすれば、こういう女牧場主を設定したことでも画期的だったのかも知れない。

(飯田)「星のない男」を観終わって、小泉さんの名解説を読み納得しました。

この映画のカーク・ダグラスはガン捌き、ガンベルトの扱い、バンジョーの弾きがかり、馬上の姿など、彼の演技の個性が十分に出た代表作の一つだと改めて思いました。カーク・ダグラスと言えば、古くは「チャンピオン」(1949年)のボクシング試合の迫力ある映像が「ロッキー」シリーズが出るまでは、ボクシング映画のベストだと思っていました。そして、ウイリアム・ワイラー監督の「探偵物語」(1951年)の鬼刑事役と彼の妻(エリノア・パーカー)との愛情の
物語の演技も、あのしゃくれた顎と顎のくぼみで、非常に印象に残った俳優でした。その後もこの映画「星のない男」(1955年)、「炎の人ゴッホ」(1956年)、エーガ愛好会では「荒野の決闘」に比して、評価が低い「OK牧場の決闘」(1957年)、「バイキング」(1957年)、「スパルタカス」(1960年)と
映画のタイトルを聞くと、主役のカーク・ダグラスの個性的な顔が直ぐに浮かぶ役を沢山演じてきました。

彼は俳優として珍しく長寿で103歳で2020年に亡くなっています。アカデミー賞とは縁が薄く、アカデミー名誉賞を受賞していたのですね。

(編集子)小生も飯田兄と同じで、初めて見たダグラスは探偵物語だったと思う。いわゆる歴史スペクタクルものはダグラス主演に限らず一切見たことがないが、西部劇では本作のほか、ロック・ハドソンとの共演作 ガンファイター と飯田君ご指摘の OK牧場の決闘 が代表作だろうか。いずれも小泉さんの御慧眼通り、なにか過去を持つ、表面にあらわれない衝動を画しているような役、つまりジョン・ウエインものなんかには出てこないシチュエーションが設定されていた。特に ガンファイター は日本版のタイトルが全く作品の陰影を覆い隠してしまっていて、一般的にはカツゲキものとみられているようだが、原題の The Last Sunset という含みを現したタイトルにふさわしい、重厚なものだった(もちろん、助演がドロシー・マローンだった、という事も小生の印象に深い理由なののだが)。 OK牧場のほうは確かに飯田兄ののたまう通り、過小評価があるかもしれないが、作品自体が大掛かりなしかけで、同じ史実の脚色の 荒野の決闘 とか 墓石と決闘 なんかにくらべて、言い過ぎかもしれないがけばけばしすぎてその分、損をしているように思える。

もう一つ、小泉解説にある ”星” の意味だ。西部劇でいう ”星” は保安官の星型の記章を意味することが多い。スズで作られた安物のはずだが、この星に正義と真実を見るのか、あるいは現実に多くの保安官がそうだったようだが単なる拳銃使いのはったりだったのか、によって作品の見方も変わってくる。著名な作品で言えばクーパーの 真昼の決闘 はこの星章に誇りと使命感をいた抱いていた男の話だし、もう一つ、あまり評判にはならなかったが、あのアンソニー・パーキンズの 胸に輝く星 は題名からして Tin Star だった。ただ、作品の意図というか主題がこの正義の象徴の星章をどうとらえるか、によって結末は違ってくる。真昼の決闘 でも 誇り高き男 でも主人公が退場するシーンではこのバッジを放り投げていく。OK牧場の主人公ワイアット・アープにしても、荒野の決闘 のフォンダと ワイアット・アープ のケヴィン・コスナーではイメージが全く違う。正義のしるしのはずの星、にもそれぞれの立場があるということか。

 

エーガ愛好会 (142)  見知らぬ乗客    普通部OB 船津於菟彦

怖いですねーぇと淀川長治が言いそうな映画。光の明暗も中々のもの。ミステリーとしてレイモンド・チャンドラーらが脚色しているとかで「ハラハラ」ですね。
眼鏡が色々なシーンで物を言う。根性の悪い妻が殺されるシーンは、サングラスに映るという巧みなショット。そして恋人の妹の眼鏡。あのテニスのシーンとライターを落として溝に手を伸ばして取れそうで中々取れず、フラッシュバックでハラハラ。そして回転木馬の暴走。おじさんが潜り止めに行くシーンもハラハラですね。
『見知らぬ乗客』(Strangers on a Train)は、1951年のアメリカ合衆国のサイコスリラー映画(英語版)。監督はアルフレッド・ヒッチコック、出演はファーリー・グレンジャーとロバート・ウォーカーなど。パトリシア・ハイスミスの同名小説(英語版)をハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーらが脚色して映画化した作品。
アマチュアのテニス選手ガイ・ヘインズは、浮気を繰り返す妻ミリアムと離婚したがっていた。そうすれば上院議員の娘であるアンと再婚できる。ある日、ガイは列車の中でブルーノという男性に出会う。ブルーノはガイがミリアムと別れたがっていることをなぜか知っており、彼の父親を殺してくれるなら自分がミリアムを殺そうと交換殺人を持ちかける。そうすればお互いに動機がないので、捕まる心配もないという訳だ。ガイはブルーノが冗談を言っていると思い、取り合わなかった。しかし、ブルーノは勝手にミリアムを殺してしまう。根性の悪い妻が殺されるシーンは、サングラスに映るという巧みなショットらしい「エーガ」,しかし、活動写真という感じで感動も何も残らないゴラクエーガですね!こう言うエーガってエンタメ快作と言うらしい。アルフレッド・ヒッチコックの作品としては上位に入る作品だと思う。

”保健所所長人材不足” の報道について   (会社時代友人 齋藤博)

2022年05月07日の読売新聞朝刊に、保健所に関連する記事が2つ,ともに、保健所長になる人材の不足について掲載されていました。

”全国の467保健所のうち、1割以上にあたる計62保健所で所長が不足し、他の保健所長が 兼務している状態であることが、読売新聞の全国調査でわかった。新型コロナウイルスの流行で 保健所の重要性が高まる中で兼務が増えた地域もあり、1人で四つの保健所を担当する所長もい る。感染症対策の現場の司令塔となるべき所長の「なり手不足」に拍車がかかる恐れもある”

”保健所長は地域保健法の施行令によって、原則、医師が務めると定めている。新興感染症や テロなどの発生時に医学的知識に基づいて的確に判断する能力が求められるためだ。新型コロナでは、感染者の入院の必要性などを判断する”

という2点です。現在の地域保健法は、平成6(1994)年に制定されました。
それまでの保健所法の下では850ほどの保健所がありましたが、保険業務、サービスの内容が分類整理され、現在の地域保健法では、機能的に2つに分けられ、保健所と保健センターという組織がつくられています。令和4年4月1日現在、保健所数は前出の通り467箇所、保健センターは2,435箇所となっています。
両者を足すと旧法のそれより、数が多くなりますが、保健センターという組織が皆さんの近くであれこれと仕事がやりやすくなったのかと思います。
一方保健所は、許認可指導、立入り権を集中させて、より衛生面の充実を図り、さらに、各種統計をして、保険業務の戦略・戦術の立案を充実させようとしたと解釈できます。都道府県に1カ所程度で良いというわけです。しかしながら、全体的なパンデミックへの対応指針は、貧弱だったのではないかと思っています。唯一、東京の墨田区保健所は、第5波で重症者を一人も出さずにうまく乗り越えられました。区の上層部と保健所長などがうまく協力して迅速に対策をうっていったと聞いています。旧法でも新法でも、保健所長は原則、医師でなければなりませんが、保健センター長は医師である必要はありません。本来は都道府県が保健所を設置するのですが、人口の多い指定都市、中核市、その他政令市、特別区単位では都道府県の業務の一部を代行して、保健センターは、各保健所のもとで設立できます。保健所、保健センターとも名称は様々です。保健所、福祉保険事務所、厚生センター、保健センター、地域保健課、保健福祉センター、健康センター、母子保健センター、農村健診センター、保険相談所、すこやか福祉センター等々です。保健所と保健センターの役割(細部は自治体により異なる)を以下に示します。

◎ 保健所
・こころの相談
・感染症の相談・検査
・飼い犬の登録や狂犬病予防
・野良犬・ねこ・アライグマ・ハクビシンをはじめとした動物の捕獲
・ねずみや害虫の駆除

・食品営業許可の受付
・医療機関の開設許可申請
・医薬品や劇物の販売業の許可
・浴場・理容室・美容院の開設指導許可
・墓地などの設置の開設指導許可

・飲料水の水質調査
・食中毒の予防

・人口動態統計
・栄養改善
・医療監視
・公共医療事業指導
・精神保健
・伝染病の予防

◎ 保健センター
・乳幼児健診
・小児予防接種
・健康相談
・成人病検診
・がん検診
・予防接種
・訪問指導
・機能訓練教室

・母子保健(母子手帳交付)
・老人保健

現況について、実務経験をしたものとしての考察を述べます。保健所長になる医師はどれだけいるか、医師の序列はあるのでしょうか。

かつては、医師はその所属する診療科によってランキングされていました。昭和50年代、私が研究室に通っていた頃は、そのランキングは「まだ」明確でした。
切った張ったの第一外科や、製薬会社から沢山の研究費をもらう第一内科がトップで、産科や婦人科は下位の方でした。クチの悪い先輩には、「股の間から世の中を覗くような奴には何もわからん」と言われたものです。
私の通っていた研究室のランクはもっと下で、数字や文献を読みまくって、いろいろな統計や予測、情報、これからの動向をまとめていたのですが、ランクは、ほぼボトムでした。教授や助教授は医師としてどこでも診察をし、処置もしていたのですが、上位に登ることはありませんでした。

さて、厚労省のデータ「医師・歯科医師・薬剤師統計」の令和2年3月31日現在を見ると、歯科医師、薬剤師は含まない医師総数は339,623名に対して、8,888名(比率では2.6%)が診療をしていない医師で、その業務は医療とは関係ないところに従事(6,000)、行政機関(1,805)、保健衛生業務(1,083)です。
医療とは関係ない所とは、臨床以外の研究機関、製薬会社、法律家などを、行政機関勤務というのは、医系技官のことで、厚労省ばかりでなく、財務省や文部省などの医務室にいる方も含まれています。

この分類で保健衛生業務に勤務とれている1,083名(0.3%)の医師たちが、保健所に勤務されているわけです。大学入学後、10年も勉強してようやく医師免許資格をとって、他の医師たちとは比べ物にならないほど低収入(はっきりとした統計があるわけではないですが)で、医師よりは数段上の激務の保健衛生業務に、どんな方が職を求めて来るのでしょうか。保健所長だけでなく、課長レベルの方でも医師がいます。
私はこのコロナ禍のど真ん中で保健所に勤務していました。感染者・濃厚接触者の健康観察も兼務でやっていましたが、強く感じたことは、パンデミックの対応指針が末端の私達に示されなかったことです。上意下達の強制力で乗り切ろうとしたために、考えることが否定されていました。余計なことは聞いては駄目、相談されても駄目でした。

保健所長の役割は、情報も整理し職員全体に届くようにする責務もあります。誰かが感染症関連機関や海外情報をキャッチアップして情報として整理する業務をこなす人も必要でした。そのためのハイブリッド組織になっていたはずですが、そんな事もできないほど、上司たちは焦っていたのでしょう。ハイブリッド組織は機能していなかったのです。行政職がゴロゴロしている現実の保健所に、希望をいだいた、知識と技術を持った医者がどうして来るでしょうか。私はそのように思います。根本的な改革が必要です。

大船を散歩する      (34 小泉幾多郎)

鎌倉

ゴールデンウイークの5月4日、大船フラワーパークに出掛けました。大船駅から徒歩約20分。入場料400円だが65歳以上は150円。季節を問わず何かしらは咲いていると聞いていましたが、入場した途端に、眼前が蓮池で、噴水と草花で色彩豊かな憩いの雰囲気へ。5月はシャクヤクが見ごろとかで、色とりどりのシャクヤクが今を盛りと咲いてました。

マリアカラス

案内書によれば210種2000株の規模を誇るとか。全て品種の名前が名札に記載されていた。珍しい黄色の鎌倉、マリアカラスとカトリーヌドヌーブを名前に釣られて紹介しますが、花を眺めてイメージが湧くとこところまでは行きませんで
した。帰りはバスが運行されていることを知り駅まで乗車。いつもは電車の中から眺めるだけの大船観音。折角来たので、立ち寄りました。入場料300円老人割引なし。

カトリーヌドヌーブ

眼前で仰ぎ見る観音様は、整った慈愛に満ちた顔で見つめられているように思われ、ちょっとした登りはあったが、立ち寄ってよかったと思った次第。

(編集子)センパイ、お元気ですなあ。その一言であります。

 

閑のあるまま―”三大” 何とかの話 (4)

昨晩テレビで ”三大” を ”四大” に広げられる候補を選ぶ、という番組に遭遇した。やはりこの世の中、洋の東西を問わず、big three というのは人間の心に響くもののようだと改めて思って…….いたら今度は5月1日夕刊に ”三体核力”という原子核物理学上の現象があって、それの解明に成功した東京工業大学の関口教授の話が載っていた。関口さんがこの研究にあたって、老子の教えの一節にある 三は万物を生ず という一節を意識してこられたそうだ。なんにせよ、三、という数というか言葉には神秘性があるようだ。

先回までで、”場所” がテーマになった話題と、その ”場所” から連想される味覚の話題をまとめてみた。一応アルコールからデザートまで来てみると(面白いことに今まで、肝心の食事、についての話題は出てこない)次はエンタテインメントがトピックになる順番だろう。”エーガ愛好会” というメル友グループでは、よくあるように自分の選ぶ映画ベストテン、という企画をやった。しかしグループ名を映画、でなくエーガ、としたのはユーチューブもサブスクもなく、テレビの連ドラと映画、しかなかった、いわば昭和中期に青春を謳歌した年代の話なので、もう一世代若い人たちの話も是非聞いてみたいものだ。 とにかく、この企画が選んだ映画のベスト10は次のようなものだった。         1.ローマの休日   2.カサブランカ     3.第三の男                     4.シェーン     5.風と共に去りぬ    6.アラビアのロレンス    7.ニューシネマパラダイス 8.駅馬車     9.我谷は緑なりき   10.荒野の決闘

1939年公開時のポスター

現在の若い世代にとってはいかにも古臭いものかもしれない。次回はぜひ、次世代の選んだベストテン、をどなたかに企画してもらいたいものだが、時代はエーガ館で見る映画からテレビやSNS 上で展開されるものに移っているはずだ。テレビの上での代表的なエンタテインメントとして大河ドラマをとりあげてみよう。まずは評判の良かったベストスリーは何だろうか。

エーガ評論ではエースの小泉さんは(どうも昔のほうが感激していたようだ)と述懐しながら

1.花の生涯    2.赤穂浪士    3.樅の木は残った

 

を挙げ、”若手(?)” を代表して武鑓君は                1.竜馬伝     2.西郷どん    3. 篤姫

を、安田君は                             1.真田丸     2.軍師官兵衛    3.樅の木は残った

を推している。NHKの大河ドラマはエンタテインメントというよりも歴史回顧みたいな部分が多いので、高評価が見るほうの歴史への関心の違いなのか、ドラマとしての出来栄えなのかは判然としていない。小生の場合は、大河ドラマという形態はとっていないが、特別番組だった 坂の上の雲 に好印象を持っているし新撰組! は同じ司馬原作で愛読書の 燃えよ剣 との関連もあって熱心に見た。出来栄えというよりも内容に関心を持つ立場から言えば、時代劇もので会話が現代語で使われているものには感心しない。小泉さんの場合はもっと立場が明快で、”大河ドラマどは評価しないとしている。その展開で、”大河ドラマ ワーストスリー” はどうか。

武鑓君は早くも 鎌倉殿の13人 をワーストワンとやり玉にあげ、いだてん、平清盛、も評価しない。安田君のワーストは おんな城主直虎、いだてん、花燃ゆだそうだ。

”がっかり” のことについて、岡沢君は別の観点から書いている。なるほど、こういう感覚もあるのだと妙に感心した。

”三大がっかり ”ではありませんが 私としては今でも大がっかりの話は伊藤左千夫の「野菊の如き君なりき」のことです。
中学生頃だったと思うが  小説が映画化され  有田紀子主演で民さん(タミさん)  政夫       本当に大感激したものです。が 、  作者の伊藤左千夫の顔写真をあとで見た時「えツ この作品の作者ってこんな顔なの」で大がっかり        幻滅の悲哀を感じました。小説の内容と作者の顔のイメージがまるで違ったので。今でもはっきりおぼえています。

 

今回のテーマとは関係ないが、各位から引き続きいろんな 三大 話をいただいているので順不同でご紹介しておく。

(菅原)小生、さしたる食通ではありませんが、以下、二つばかり。一つは、「利庵」(トシアン)と言う日本蕎麦や。高輪からはちょっと歩きますが、目黒通りを外苑西通り(通称、プラチナ通り)に折れて、ガソリンスタンドの手前。ただし、予約は出来ません。もう一つは、ご存知「シェラトン都ホテル東京」のシナ飯屋「四川」(陳健一の「四川飯店」とは関係なし)。最近、良く行くのは、こんなところです。

(保屋野 エーガ愛好会の”断崖”のついての議論のついでに)サスペンス感もイマイチで、ハッピーエンンド風のラストもイマニ。(真逆の原作は面白そうですが)K・グラントの容貌で、「ミステリアスな紳士風ダメ男」の役は似合わない。J・フォンテーンはまあまあですが、これでアカデミー主演女優賞?

断崖ついでに、私が選ぶ「日本三大断崖(海)」
①隠岐・西之島 国賀海岸・摩天崖(高さ日本一256m)
②陸中海岸・鵜の巣断崖(高さ200m)
③伊豆諸島・青ケ島の南 ソー婦岩(高さ100m)~写真・映像で判断+

観光地では
①福井、東尋坊
②陸中海岸 北山崎
③和歌山・白浜 三段壁

(斎藤)
■蕎麦屋で名前が出てくるのは2つ。
○水内庵(外苑東通り−南青山一丁目:現存)
社会人になった私の胃袋を満たしてくれたお蕎麦屋さん。お店のお姉さんにも随
分かわいがってもらった。会社で仕出し弁当(嵯峨野)が支給されるのだけど、それじゃ足らなくて、頻繁に通っていました。六本木交差点の角にも水内庵がありますが、兄弟店だそうです。信州蕎麦だったと思います。
近くに青山ツインが出来て、その地下1階に「くろ麦」という手打ち蕎麦屋が出
来て、ざるそばが1,500円と言われ皆でおどろいた。

○国田屋(水戸二十三夜尊近く旧大宮街道沿い:廃業)
ここは、私の蕎麦人生の師匠的な存在。
茨城の地粉を使う、いわゆる田舎のそば屋。そば打ちから、汁作りまで、全てこ
このおばあちゃんに教えてもらった。体育科の教授にそば打ちを習っていて、や
がてここに連れて行かれ、のめり込んでしまって留年の思い出あり

○布恒更科(品川区南大井3:現存)
地元の有名そば店。蕎麦はとても美味しい。大森駅からもそれほど遠くないので、繁盛しているようです。天ぷらはごま油の香りが強く、好き嫌いがありそうだけど、アナゴの天ぷら蕎麦は最高です。

■カレーライス
1軒です。YHPの方々を連れて行ってます。
○アジア会館(港区赤坂8)
ここのカレーライスは、日本の昔ながらのカレー。安かったので、来てくれた営
業さんとよく行きました。宿泊客は、ホテルの名の通り、アジアの方が多かったのですが、昼時はサラリーマンが多かったですね。今はホテルも改装されているようで、もうカレーライスは提供していないかもしれない。

(小田)外国旅行をしていて、困ることが三つあります。

①古い宿の鍵
共通の入り口と、個々の入り口2つの鍵があり、昔風の鍵でコツがなかなかつかめない。
②宿の駐車場:
一台ずつ壁で区切られていて入るのが大変だったり、駐車場の出入口の扉の開閉の方法がいろいろでわかり難い。又、中が空いていたので停めておいたら、2日分チャージされた。(外は只でした)
③レンタカー
教えてもらい発進した時はよいが、次に駐車したあとで操作が分からなくなる。
聖なる数字3にこだわると話題は尽きないようだが、今回はこのあたり。おあとがよろしいようで。

 

 

 

エーガ愛好会 (141)  リオグランデの砦   (34 小泉幾多郎)

ジョン・フォード監督の騎兵隊三部作の最終作。この連作は、太平洋戦争を軍人として戦ったフォードのアメリカ軍に対する讃歌とも言えるが、「アパッチ砦」では、ヘンリー・フォンダが演じた辺境の隊長の突撃戦法に対し、ジョン・ウエイン扮する副官は良識ある人物、「黄色いリボン」でのウエインも退役真近の老大尉に扮し、敵インディアンの良き保護者でもあったが、この映画のウエインは勇猛果敢な騎兵隊長となり、アメリカ領内を荒らすアパッチが、騎兵隊が踏み込めないメキシコ領内に逃げ込んでしまうのに怒り、国境のリオ・グランデ川を渡り、メキシコ領内のアパッチを殲滅してしまうタカ派の大佐を演じる。フォードのアメリカ軍への賛辞は、従順な弱者には極力寛大であろうと努めるが、相手が執拗に敵対して来るならば容赦なく相手を叩きのめすことを示していると言えるようだ。

南北戦争中、北軍だったウエインが、妻モーリン・オハラの南部の生家を焼いたため、戦後15年、妻と一人息子クロード・ジャーマン・ジュニアとで別居中。その息子が士官学校を落第し、志願兵となり、その息子を除隊させるために、後を追ってやって来たのだった。モーリン・オハラは白い肌に赤い髪、グリーンの瞳が映える美女で、当時総天然色カラー女優と言われ、時代活劇のヒロインとして華やかに彩ったが、これは残念乍ら白黒、それでも魅力的なやさしさやアップでの表情の美しさ。gisan お気に入りのウエインと再会してテントの中で帽子をとって話始める場面からその美しさは最後まで変わらない。

全般的にアクションを主体に、息子の教育問題で対立しながらも、ウエイン、オハラ夫妻の愛情か任務かの葛藤を絡ますシンプルな構成になっている。前半は、ウエイン、オハラ、ジャーマンの親子が再会による愛情が、叙情的に描かれると同時に、騎兵隊の仲間たちの絆、騎兵隊3部作で老軍曹長として重要な役割を演じてきたヴィクター・マクラグレンとのやりとりや、ベン・ジョンスンやハリー・ケリーjrが馬2頭に立って乗るローマ式騎乗、ジャーマンも含め三人とも練習して本人が実際に騎乗したようだが、ケリーだけはスタントとのこと。騎兵隊ものだけに馬が生きて使われていた。息子ジャーマンの一人立ちするためへの努力等も目立つ。後半になると、アパッチとの対決になり、馬車を襲うアパッチとの戦い、捕われた子供たちを救出すべく敵地へ乗り込む騎兵隊。アパッチを単純な悪として勧善懲悪になっているが凄まじい活劇で盛り上がる。中でも、ベン・ジョンソンが格好良い、馬上で岩山に不意に現れ、斜面を一気に駆け下りると食事をいただいた後、騎馬のインディアンを3人撃ち落とす連動感。戦いから帰還する騎兵隊を待つ家族、オハラのアップで無事か否かを確かめる場面、最後の表彰式で音楽に合わせて、オハラが日傘をくるくる回す場面等々印象的な場面が数え切れないうちに終幕。

音楽がヴィクター・ヤングだけに、優雅な旋律に纏われ、情緒豊かに描かれながら、騎兵隊専属のサンズ・オブ・パイオニアーズが歌いまくる。挿入曲は9曲とのこと。I’ll Take You Home Again, Kathleen 等を聴くと傾聴してしまい、ミュージカル映画かと見間違う場面も。このシーンを聴くウエインが「私の選んだのではない」オハラが「そうだったら嬉しかったのに」と答える。何とも言えないシーンとなった。その後二人は夫婦役で多くの名作「静かなる男1962」「マクリントック1963」「100万ドルの決斗1971」を残すことになった。

(安田)ジョン・フォードは抒情性豊かな作風から「映像の詩人」と評された。ひと昔(ずっと若い時)、この映画を観た時はそれほど感じなかったフォードのの詩情豊かな場面と映像を、今回は印象深く感じた。歳を重ねるとは“そういうことなのか”と悪い気はしなかった。ネイティヴ・インディアンを悪玉にして徹底的にやっつけるのは、現在の視点で観ればちょっと悲しいが、それを除けば、詩情ゆたかなアクションもあるさわやかな西部劇だった。

  1. 初老の指揮官役ジョン・ウェインは、豪放さと繊細さを併せ持ち、不器用ながら自然体で演じているのが良かった。
  2. 15年振りで会う妻(モーリン・オハラ)とは、別居の原因にお互いわだかまりを感じつつも、夫婦の微妙な愛情を随所に見せる“恥じらい”にも似た表現・演技は見応えがあった。「静かなる男」での共演でもこんな雰囲気であった。騎兵隊キャンプに到着してテントの中で二人きりのシーンは本映画のハイライトの一つ。
  3. 妻を歓迎して軍楽隊が歌うシーン、幌馬車隊が砦を出発する時、最後の表彰式での軍楽隊演奏など、要所でヴィクター・ヤングの音楽が感動的ですらある。
  4. ベン・ジョンソンとハリー・ケリーJrの二人が、裸馬2頭に立ったまま乗りグランド一周を疾駆する場面は、西部劇映画では他には見たことがない、名場面だ。ベン・ジョンソンはスタントなしで本人が演じたという。さすが、カウボーイの父親に育てられ、本人もロデオのチャンピオンになったことがあり、ハワード・ヒューズに馬の調教師として雇われたことが映画界に入るきっかけとなった事だけはある凄技だった。
  5. 幌馬車隊がインディアンに追われ逃げる場面や、ベン・ジョンソンが馬で疾駆する場面の迫力は、「駅馬車」や「荒野の決闘」などと同様、ジョン・フォード、ツボを心得ているな、と唸った。
  6. エンディング近く騎兵隊の突撃シーンはクライマックスを盛り上げる効果抜群。
  7. フォード一家のイギリス俳優の古株ヴィクター・マクラグレンは名前からしてフォードと同じIrish系であろう。フォードが初めてアカデミー監督賞を獲得した1935年制作の「男の敵」では、彼は主演男優賞を獲得した。それ以来のフォードとの付き合いであろう。世話係の伍長役を人情味とユーモアに溢れ、独特の風貌と演技で見事にこなして、印象深い。南部出身の妻(モーリン・オハラ)からは、北軍の兵士だった彼はからかわれるような、虐められるような絡み合いシーンがあり、大変面白かった。
  8. 息子ジェフ役のクロード・ジャーマン・ジュニアはどこかで覚えのある顔だな、と思ったら、グレゴリー・ペックの「小鹿物語」に続いて2作目だった。ナイーブでありながら騎兵隊生活になじんで逞しくなっていく様を見事に演じていた。
  9. 南部気質が顔を出すモーリン・オハラの頑固さや直情の感情表現はオハラの芯の強い逞しい南部女性を見事に演じていた。「風と共に去りぬ」のヴィヴィアン・リー演じるIrish系の南部女性スカーレット・オハラにも通ずるところがあった。
  10. 好きな場面は、エンディング近く表彰式に臨席した、ヨーク中佐(J.ウェイン)の横に並んだモーリン・オハラが白い品の良い日傘を頭上でくるくる回しながら、にこにこと笑いながら眺めているところ。この映画の温かさと優しさが象徴されていると感じた。フォードの詩情性豊かな感性の面目躍如たる場面。
  11. 男たちは勇敢で、純真で、女たちは可憐だが逞しく。家族愛、仲間愛に溢れ、古き良き時代のアメリカが見事に描かれた映画だと思う。ジョン・フォードの騎兵隊三部作の中では一番好きだ。最終作でもあったので有終の美を飾った感。

(小田)この何日かは、身内の出入りで、民宿のオバサン状態?でしたので、途中からですが、見ました。*この映画のキリッとしたジョン·ウエインは他のに比べ良いと思いました。

*西部劇の中の子役達…教会の鐘をならす女の子や息子役のクロード·ジャーマン·Jr.など好演していました。安田さんご指摘のクロード ジャーマン·Jr.は(’34 9月生)87歳で健在、起業家で、サンフランシスコ国際映画祭元事務局長やサンフランシスコ市の元文化局長も務めたようですね。
*馬の扱いについて話題にされていましたが、馬を一回で倒し、銃撃戦の楯にするシーンにも感心しました。
*小泉さんの御解説に有りました、❬I’ll Take You Home Again,   Kathleen❭ はElvis Presleyもしんみりと唄っています。

(編集子)この作品に登場するサンズオブパイオニアーズ。まだカントリという呼称が流行らず、ひっくるめてウエスタン音楽、と言っていたころ、上品なコーラスが印象深かった。いろいろ買った中から捨てきれずにとってあった ”レコード” がこれ。まだ残っている何枚かを聞きたくて、アンプも何台かつくったが、そのたびに今入手できるプレーヤが高価かつ超高性能でバランスが取れず、手軽にできるCDをソースにしたものばかりだ。そろそろ半田鏝とおさらばするのがいつか、というところまで来てしまったので、”最終作”にとりかかって、目をつぶって高いプレイヤーを買って,この ”レコード” を聞かねばなるまい。

皐月徒然・上野東照宮の春牡丹 (普通部OB  船津於菟彦)

時は巡り皐月です。「冬牡丹」についで「上野東照宮の春牡丹」満開とかで訪れてみました。

上野東照宮は、寛永4年(1627)、藤堂高虎と天海僧正により東叡山寛永寺境内に創建されました。藤堂高虎は津藩主で築城技術に長け、江戸城を築城した人物としても知られています。天海僧正は、徳川家康公のブレーンとして有名で、江戸の町の設計にも大きく関わりました。江戸の町づくりに大きな影響を与えた2人が創建に関わった上野東照宮は、寛永寺とともに江戸城の東北、鬼門の方角を守護する役割を果たしてきました。

現在の建物は慶安4年(1651)に造営されたものです。社殿・唐門・透塀は、金色に輝く大変豪華なもので、度重なる震災や戦火をくぐり抜け、現在に江戸建築の真髄を伝え、国指定重要文化財にも指定されています。

また寛永10年(1633)に酒井忠世が奉納した大石鳥居や江戸期に全国の諸大名が奉納した48基の銅灯篭も同じく現存し、国指定重要文化財に指定されています。
春の桜、秋も紅葉をはじめ季節折々の美しい風景を楽しめることも魅力ですが、中でも上野東照宮ぼたん苑では、冬牡丹が40品種なのに対して、春牡丹は約110品種ほどありますが、やはり春が一番の牡丹の時期になりますので、ボリュームも品種も多くなっております。冬は、1月から2月の二ヶ月程、春は、4月の中旬から5月の中旬までの一ヶ月程、開苑致しております。別な所で温室で栽培して植え替えているとのことです。
牡丹の花は「富貴」の象徴とされ、「富貴花」「百花の王」などと呼ばれています。日本には奈良時代に中国から薬用植物として伝えられたとされ、江戸時代以降、栽培が盛んになり数多くの牡丹の品種が作り出されました。中国文学では盛唐(8世紀初頭)以後、詩歌に盛んに詠われるようになり、日本文学でも季語として多くの俳句に詠まれ、絵画や文様、家紋としても親しまれてきた花です。
我がパートナーの一句 「天つ日へ緋の牡丹のためらわず」 聖子
「冬牡丹」2022年1月10日に撮影 冬牡丹は薦被りで風情があります。

”ウクライナ侵攻とグローバリゼーション” 補論  (53 林岳志)

「ウクライナ侵攻とグローバリゼーション」に関する私見です。

1985~1988にロンドン、2009~2012に北京に駐在した経験を踏まえると、グローバリゼーションは米国多国籍企業が自分の都合の良いように幻想を振りまいただけのような気がします。

各国・地域にはそれぞれ固有の歴史があり、それは様々な形でその民族に受け継がれ、繰り返しすり込まれています。英国(特にイングランド)は大英帝国の栄光が忘れられない、例えば、彼らにとって the Great war というのは米国が勝った第2次世界大戦のことではなくて、自分たちが主導した第1次世界大戦のことです。

中国では清朝末期に西欧・日本に食い物にされた屈辱が繰り返し語られます。このように、それぞれの国には栄光と屈辱に彩られた長い歴史があり、それはその民族共通の記憶になっていますが、米国にはそのような長い複雑な歴史的背景はなく、物量に物を言わせた(豊富な資源を背景にした)キリスト一神教的、もしくは西部劇的な「我々は十字軍(騎兵隊)であり、異教徒(インディアン)を征伐する」的な発想があるのではないかと思います。

ロシアのウクライナ侵攻は決して許されるものではありませんが、ロシア(ロシア人)もナポレオンやナチ・ドイツに侵略された苦い歴史(記憶)があり、かつ欧米に対する抜きがたいコンプレックスがありますので、NATOが自国に攻めてくるという恐怖が常に存在していることが今回の侵攻に背景にあるのだろうと思います。

言うまでもなく「歴史に学ぶ」「失敗から学ぶ」ことは大変重要ですが、米国もロシアも西欧もそして日本も、最近、この点が欠けているように思えてなりません。

(編集子)Can’t agree more  という反語的な言い回しがある。グローバリゼーションについては林君の定義についてはまさにそう感じる。小ぶりながら多国籍企業、のひとつだったヒューレット・パッカードでこの言葉が独り歩き始めたころ、これを金科玉条と振り回すパロアルト本社のいやな奴に、globalization なんて Americanization じゃねえか? それとも Californiazation か? と食って掛かったら、そうかも知れねえな、と一瞬黙ってしまった。そのあとどう言い訳したかは全く覚えていないが。

 

エーガ愛好会(140)  アンネの日記  (44 安田耕太郎)

あまりにも有名な日記の映画化。邦訳の日記を先に読んで、その後に映画を観たと記憶している。1960年代のことである。アムステルダムのアンネ・フランクの家にも2度足を運んだ。「アンネの日記」の英語訳は文字通「Anne‘sDiary」だが、原題オランダ語「Het Achterhuis」(ヘット・アハターハウス) は「後ろの家」という意味で、隠れ家を実際訪れてみると、オランダ語原題の方が言い得て妙だと思った。監督は、「陽のあたる場所」「シェーン」「ジャイアンツ」の名匠ジョージ・スティーヴンス。

 

アンネ・フランクはドイツ・フランクフルトの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。ナチスが政権を取り、ユダヤ人に対する迫害から逃れるため、一家はオランダ・アムステルダムに移住する。平穏な生活はほんの数年間で終わり、オランダでもユダヤ人連行が頻繁に行われるようになると、一家は、アンネの父親オットーが経営する、街の中心に近い運河沿いにあるジャム工場の建物の奥3階・4階と屋根裏部屋を改築して、一家4人と友人等4人、計8人がそこに身を隠すようになる。

隠れ家への入り口は本棚でカモフラージュをされた。フランク家の4人以外にも4人のユダヤ人が住んでいたこの隠れ家は、何者かの密告により、194484日にドイツのゲシュタポ(秘密国家警察)に発見されアンネたちの隠れ家生活に終止符が打たれた。

隠れ家にいた8人全員は収容に送られる。収容所は栄養と衛生状態が極度に悪い。戦後まで生き延びたのは父親のオットーフランク1人だけ。残りの7人は全員収容所で死亡する。アンネと姉のマルゴットは、収容されて7〜8ヶ月後の‘45年の2月から3月にかけて同じ収容所で相次いで死亡。死因はチフスだった。

アンネの日記は1942年6月から約2年余りに及んだ。ゲシュタホに逮捕される3日前の8月1日が最後。アンネ13歳から15歳の間の隠れ家での出来事、思ったことを素直に書く綴ったもので、特別なストーリーがあるわけではない。過酷な隠れ家の環境下、勉強・読書漬けとラジオが中心の生活の中で、いつか戦争が終わったら、「作家になりたい」、「ジャーナリストになりたい」という夢を膨らませていく。その目標に向かって修養を積み続ける、知性豊かな女性へと成長していく。日記の文体と語彙の豊かさにはとても13〜15歳の少女のものとは思えない成熟度と非凡な才能が伺われる。

映画は、戦後の1945年に収容所から解放された、一家で唯一の生き残り父親のオットー・フランクが隠れ家に戻るところから始まる。かつての支援者がフランクに声をかけ、アンネが残した日記を手渡す。フランクは「1942年・・」から始まる日記を読み、はるか昔のようだと回想を始める。映画は2年間の隠れ家生活を描いている。主演の新人女優ミリー・パーキンスのデビュー作。英国女優ジーン・シモンズに大変似ていて驚いた。「若草物語」・「陽のあたる場所」出演のティーンエイジ時代のエリザベス・テイラーにも少し似ている。監督のジョージ・スティーヴンスはリズを「陽のあたる場所」と「ジャイアンツ」で起用しており、彼女に面影が似ているミリー・パーキンスを新人ながら抜擢したと勝手に思っている。さらに本物のアンネにも似ている点も理由の一つであろう。

実在のアンナ13〜15歳にしてはパーキンス21歳の時の出演。成熟度など年齢差にはやや無理があったかとは思う。恋仲になる隠れ家で同居した男性ペーター役は2年後の「ウエストサイド物語」1961年制作のトニー役で脚光を浴びたリチャード・ベイマーが演じた。ナタリー・ウッドとのきらびやかな共演の「ウエスト・・・」に対して、悲惨な状況下での白黒映像のパーキンスとのラブストーリーも悪くなかった。

隠れ家に同居した家族の夫人役はシェリー・ウインタース。以前観た一昔前は馴染みがなかったが、それ以後彼女の出演映画「ウインチェスター銃‘73」「陽のあたる場所」「狩人の夜」「動く標的」「ポセイドン・アドベンチャー」を観てすっかり顔馴染みになっていたので安心して彼女の「アカデミー助演女優賞」の演技を楽しんだ。彼女自身ユダヤ人である。

物語りの深さと行き詰まる緊張感は「日記」の迫力に敵わないが、映画は極限状態の中に置かれた8人の人間模様を淡々と描く。母親とアンネの確執、同居する2家族間の諍い、隠れ家の狭い部屋の中で物音を出せないストレス、ゲシュタホが建物を調べに来て壁一つ離れて身を潜める家族の恐怖と緊張感・・・・、当時の実情は想像を絶するに余りあったのことが容易に窺い知れる。

ひとつ印象的なシーンは、隠れ家に潜んでほぼ2年が経ち絶望感が支配する中、ラジオで連合国軍のノルマンディー上陸作戦「D Day」成功のニュースを聞き皆 歓喜雀躍と飛び上がる。それから僅か2ヶ月も経たずナチスに逮捕されるとは、運命の残酷さを知らされる。インターミッションも途中に入る2時間半の、歴史を改めて思い起こさせる映画だった。ウクライナのことも頭をよぎった。

(船津)見ましたがやや長い!途中でタンマしました。淡々と描き、最後は劇的でもなく終わる!ミリーパーキンスがかわいので許す。

(菅原)同意。ミリー・パーキンスは可愛いだけが取り柄で、他には何もない。Wikipediaによれば、作品に恵まれなかったそうです。こういう言い方もあるんですね。この映画見ましたが、さしたる感銘は受けませんでした。

(金藤)「アンネの日記」は、確か中学生の時?にクラスの女子の間で話題になり皆で読みました。 表紙か裏表紙にアンネの写真も載っていました。先に読んだ人の反応を見て、怖いのかもしれないと緊張して読み始めたのを思い出します。 乙女ではなかったと思いますが、お気遣いありがとうございました。最初の30分位観ましたが用事があったので中断しました。気持ちが元気な日に映画の続きを観ます。

(編集子)我が国の終戦が決まった日、小生は小学校2年生、家族とともに満州の首都長春(当時は新京と言った)から集団疎開の途上で、鴨緑江を越えた車簾館という町に到達していた。その後平壌でほぼ10ケ月、まさに難民生活を送った。古い味噌蔵に恐らく十数家族と、たぶん脱走兵だと今では思うのだが屈強の若者数名と一緒に過ごした。衛生状態なんかはおそらくロシアの収容所以下だったのではないかと今になって思い出す。南北朝鮮に分割されて国境が閉鎖されてしまい、貨物列車だとかトラックだとか、どうやって調達されたのか分からないがその国境までたどり着き、深夜に歩いて38度線を越えて開城へ脱出した。そんな経験をしたのが11歳の時だったから、アンネとは二つ違いか。改めて戦争の悲惨を考えてしまう。