9月のたわごとです    (39 堀川義夫)

今夏は自分でもあきれるほど頑張って山に行きました。そこで9月は完全休養月として、山には一切行かないことにしてひたすら体力の回復に専念しています。

そんな折に、北海道の幌尻岳に同行したSさんから待ちに待ったカジカの骨酒用に乾燥して燻製にしたカジカを送って来てくれました。このカジカは、幌尻岳登頂後に立ち寄った札内川園地キャンプ場(帯広の南約15km)で私と孫が遊びで釣り上げたものです。Sさんが旅行中もこまめに乾燥させ大阪に帰り完成して送って来てくれたものです。

酒は辛口が良いというので秋田の高清水にしました。じっくりと温めて味わいました。ぬる燗より少し熱燗目の方が香りも良く、味わいも良いように思いました。孫と夏の思い出を話しながら楽しい時間を過ごすことが出来ました。Sさん。本当に山でもご迷惑を掛けましたが、こんな素晴らしい思い出をさらに演出してくれてありがとうございました。

今日の肴は、かつをの刺身、へしこ鯖、寄せ豆腐、ポテトサラダを用意しましたが、カジカの骨酒にはへしこ鯖がぴったりの感じでした。

 

台風の後は秋ですね       (普通部OB 船津於菟彦)

今日の錦糸公園の夕方の散歩では彼岸花・桔梗。百日紅の落花など「風立ちぬ」秋到来の感じですね.

(小田)私も歩いていましたら、あちこちに、(我が家の庭にも)彼岸花を見かけました。明日の雨風で倒れないと良いのですが。

(安田)僕の故郷の田舎(米も作っていた)ではあぜ道に彼岸花を植えていました。根に毒があるのでモグラやネズミなどを近づけないため。姿の華奢な美しさからはとても想像できません。桔梗、百日紅の写真もありがとうございます。孫に百日紅の読み方を教えなくては。
(編集子)19日、八ヶ岳南麓ではヤマモミジのてっぺんがちょっと色づいていた。なんとなくカッコつけて撮ってみた庭の端っこの風情。
‘PS 船津兄の引用した 風立ちぬ はこの本かい、それともアニメ?
(小田)夫は大学時代は岳文会(山&文学)というサークルで、何年か前、若い後輩に”堀辰雄”と言ったら、”え!掘りごたつですか?”と言われたそうですが、これからの人は”掘りごたつ”も分からないかもしれませんね。

 

日本人のお名前!

サラリーマン生活引退後、外資系企業勤務の間に多少は使えるようになった英語をなんとか無駄にしたくないと思い、会話學校へ通ったりいろいろやっているのだが、たまたま、偶然の機会から読んでみたジャック・ヒギンズの The Eagle has landed (鷲は舞い降りた) の印象と読後の一種の充実感とから、ビジネス文

この道に誘い込んだヒギンズ。30冊くらい読んだ中でおすすめは East of desolation (廃墟の東)である

書では得られなかった英語の面白さにいわばはまってしまった。そのころ読んだある本に、ポケットブックを百冊読めば英語の達人になれる!と書かれていたのにうまうまとのってしまい、それに挑戦しようと思い立った。 この本の著者は百冊を1年でこなせというのだが、これはとてもできないとあきらめた。年に百冊、となれば1年を50週として1週に2冊、つまり3日に1冊は読まねばならぬとわかったからだ。そこで目標をもう少し長期にとって、目が黒い間に10万頁、読んでやろうと思い立った。ペリカンなど一般的なポケットブックは1冊300頁くらいのものが多いので、ま、300冊読めば何とかなるという勘定である。

ヒギンズをアマゾンで徹底的に探し、20冊くらい読み終えてから、思い立って読書の記録を取り始めたのが2013年3月13日読了のリー・チャイルド “Killing Floor” という、トム・クルーズ主演の映画 アウトロー の原作、主人公ジャック・リーチャーシリーズの第一号作品である。以後、ハードボイルド中心のミステリ、英国伝統の海洋冒険ものなどを読み、その結果、特に第二次大戦(欧州戦線)の戦史に興味が湧いてきて関係する記録文学など(これらはポケットブックには入っていない単行本)を中心に今月すなわち2021年9月まで、ちょうど8年で256冊累積82,178頁を読み終えた。今年は無理だが来年中には9万の大台に乗りそうで、これなら何とか初期の目標は何とかなりそうな気がしている。

読んでいる対象がやれドストエフスキーだフォークナーだなどという世間体のいいものではないし、そもそも動機がそういう意味では不純?なので、興味も妙なことに行く。今面白いと思い始めたのが物語に出てくる人物の名前である。ミステリだとか冒険小説だとかいうジャンルの作品の主人公は、エラリー・クイーンにはじまってエルキュール・ポアロにせよ明智小五郎にせよ、大体変わった名前のものが多い。間違っても中村一郎だとか山本太郎なんていう名前は出てこないし、ポケットブックにしてもやれスミスだのブラウンなどという探偵にはお目に書かれない。前に述べたリーチャー、という名前は著者がどうしようかと夫人に相談しながら、棚の上の本に手を伸ばした(reach した)とき、夫人が、ああ、それ、reach がいいなじゃない?といったのでReacher という主人公が誕生したのだそうである。いずれにせよ、著者にはそれぞれの思惑があるのだろうが、主人公はともかくとして、なんといってもミステリ物はいわば人間関係が主題の本だから、登場人物は数多い。筋が込み入ってくれば混乱も起きる。特にロシア人とかアラブ系の名前は満足に発音さえむずかしいのが多いのでなおさらである。だからどうしても名前、に注意がいかざるを得なくなるのである。

一体、どんな名前が多いか。このあたりは当然グーグルの出番になる。検索結果の一部を転載してみよう。

アメリカの名字ランキング

1位~10位

順位英字カタカナ表記由来
1位Smithスミス鍛冶屋
2位JohnsonジョンソンJohn(ジョン)の息子
3位WilliamsウィリアムズWilliam(ウィリアム)の息子
4位JonesジョーンズJone(ジョーン)の息子
5位Brownブラウン黒い髪の人
6位DavisデービスDavid(デービッド)の息子
7位Millerミラー粉屋
8位WilsonウィルソンWilliam(ウィリアム)の息子
9位Mooreムーア沼沢地・高地の荒野に住んでいる人
10位Taylorテイラー仕立屋

ほんの初級レベルだが、恐る恐る読み始めたドイツ語(前記のページ数には3冊ばかりドイツ語のものも入っている)で言えば、第一位がミュラー、以下シュミット、シュナイダー、フィッシャー、メイヤー、ウエーバー、シュルツ、ワグナー、ベッカー、云々となるそうだ。                    これら人名の文章の中での現れ方だが、英語ではご承知の通り、固有名詞は大文字で始まるので、パターン認識といえば大げさかもしれないが、ページを開いた時に人名と地名が無意識に頭に入る。ところがドイツ語はすべての名詞は初めの文字を大文字で書く、という厳格なルールがでんと居座っているので、そういう意識が働かない。ぱっと見たときには文面のイメージがえらくごちゃごちゃしている。いわばパターン認識が難しいのである。

日本語ではどうか。日本人の苗字の代表は周知のとおり佐藤が第一位はゆるがず、以下、鈴木、高橋、田中、伊藤、渡辺、ついで山本、中村、小林、加藤となり、吉田、山田、佐々木、山口、松本、井上、木村、林、云々となっている。だいぶ以前(僕らが高校のころ)、“おーい中村君” という歌が流行ったことがあった。この時点では中村姓が日本人の代表だったらしいのだ。だがいずれにせよ、これらの名前がほかの品詞と混乱することはまずない。大文字で表記されなくても、また100%とはいえないまでも(地名もあり得る)人名だということはとっさに認識できる。かな漢字交じりの文面は混乱しているようでもあるが、この意味では混乱することがない。

さて、この “日本人のお名前“ で言うと、代表的な姓がほとんどすべて、環境とか植物とか日本という国の自然を表す文字を含んでいることに気がつく。上記したいわば代表もそうだが、とっさに思いつくだけでも、山、川、原、岡、林、森、木、沼、田, 野、水に沢、さらに松、竹、梅,藤といった日本固有に近い植物の名前が使われるケースが圧倒的に多いように思える。これが英語では、たとえば Woods なんて例もあるが、一般的には人名はそれ自身、一つの体系というかルールというようなものを持っていて、ほかの名詞から隔絶した存在を主張しているように思える。もちろん、歴史を先史時代までさかのぼれば、名前というものは世界どこでも同じようなやり方で発生し、それぞれの国や地方の歴史とともに変わってきたのだろうが、何らかの形で自然とのかかわりあいを持ち続ける日本人の名前には、やはり自然との共生をよしとする民族性がつながっているのではないだろうか、と想像する。日本に生まれはぐくまれてきた、すべての自然に神が宿る、とする宗教観、逆に言えば特定の唯一の神のみを信じる狭隘なものの見方にこだわらない思想、という背景につながるのではないか、と感じるのである。

ところで、自分の苗字は珍名とは言わないまでもあまり多いほうではない(山口県や広島県あたりでは決して珍しくない)が、関東地方では少ないほうなので、時として特に電話などでは聞き返されることがしばしばある。英語ならば、戦争映画なんかによくでてくるフォネティックコードというやつで、ノヴェンバー、アルファ、云々とやればいいのだが、日本語では漢字を説明しなければならないうえ、このコードのように標準化されたものがない。一昔前は、中原ひとみのナカに司葉子のツカサに青山恭子のキョウです、とやって結構面白かったが昨今はいい方法がない。キョウはある時どこかの店で女子店員に教えられて、深田恭子のキョウ、とやれば通じることが分かったのだが苗字については目下研究中。

また日本びいきのアメリカ人は何にでも興味があって、名前が持つ意味は何だ、という連中が多かった。いろいろやったが、中は central, 司は administer,  恭は respectful 、という意味だから、俺の名前の意味は Respected Central Headquarters だ、どうだ、とやって喜ばれたものだった。

潜水艦物の始まりはやはりレッドオクトーバーを追え!だった

ところで今週読んでいるのは現在売り出し中のジェラルド・バトラーが主演した映画、ハンター・キラーと同じ著者の書いた潜水艦物語で Arabian Storm という本だが、当然とはいえ発音に苦労するアラビア人とか、著者の趣味なんだかどうだか知らないが潜水艦の乗り組みにやたらとヒスパニック系が多い本で、またまた名前に苦労しそうだ。次はあまり名前に苦労しなそうな本がいいのだが、さすがのアマゾンもそこまでのインテリジェンスは持ち合わせていないようだ。

コロナ対策ーまとめ   (34 船曳孝彦)

 

前回、医者であり科学者として、菅退陣に際しての「コロナ対策に専念するために総裁選には出馬しない」という声明に敢えて正面から、ではどう総決算するのかと問いただしました。政治については、ここでこれ以上述べませんが、総決算に当たってコロナ対策に限ってその失政は追及しておきたいと思います。

当初の観光船感染でも、水際作戦として不十分でしたが、ウィルスが上陸した後も、感染症予防法にこだわり、PCR検査をあたかも国の特権のごとく、発熱者に絞り、限定した検査しかしなかったことが第一の失敗です。この時から広範に徹底的に検査をしていれば、感染者数はずっと少なく抑えられたはずです。

予防策として、マスク着用、3密対策が柱となったのは良かったと思いますが、感染者激増の第2、3,4,5波に対して、緊急事態宣言、さらに蔓延防止対策が施行されました。しかしその期間中に政府首脳や官吏たちの飲み会、会食がバレて、政府に本気度が感じられず、次第にオオカミ少年のごとく只々発令中というムードとなってしまいました。さらに信じられない政策がGo-Toキャンペーンです。一方で感染抑止政策を採りながら、蔓延促進政策を採るという矛盾した策で、感染者増加に拍車を掛けました。人流と感染者数は完全に比例します。連休、お盆、正月などと関連し、大きなダメージとなりました。オリンピック・パラリンピック開催にも医療側からの強い反対があったにもかかわらず、開催ありきで突っ走りました。

感染者対策で、政府、メディアはすぐに病床確保を叫びます。格好いいですから。しかしこれまで何度も指摘してきましたが、コロナ専用病棟が右から左に出来るものではありません。さらにコロナ発生前の厚労省の基本政策は病床削減で、別の病院を無理やりくっつけて減床させるほどのことまでやっていました。減床、取り壊しが遅れていて、今回たまたま間に合ったという病院もありました。一方で、非コロナの一般病棟を圧迫して非コロナ患者の死亡率を上げてしまうことは許されません。

医療側も国と協議し、前回《27》で述べたような住み分けをキチンと表明すべきだったと思います。最大のポイントは自宅待機患者です。原則としてあってはならない対応です。家庭内感染のもとですし、単身者では発見時死亡していたという不幸が潜んでいます。これはまさに医療崩壊です。

生命線として頼ったのがワクチンです。ワクチン担当大臣が生まれましたが、彼はワクチン接種に貢献したでしょうか。接種開始に当たっては予め接種計画を立て、人材面、資材面、施設面、予約面、接種記録面、など全てに早急に対策を立てねばならないと、今年初めに私は指摘しましたが、何一つなされず、自治体に丸投げされ、高齢者にネットで申し込めなどという無理強いの自治体が大部分でした。日本の選挙人名簿は世界一だそうです。それに従い高齢者には通知すれば済むことです。またワクチンの実際の供給にも支障をきたしました。これでは担当大臣として失格です。 さて、ここへきて感染者数は減少してきました。政府の発言も急速に緊張感が解けているように感じます。確かに実効再生産数が1を割っていますので、この勢いで行けば収束へ向かうはずです。しかし、デルタ株ばかりでなく、ミュー株(ワクチンの効果が1/7と怖い)、ベータ株、イータ株などに対するチェックはどうやら手付かずのようです。第6波となりかねません。

新型コロナウィルスは、当初考えられたよりエアロゾル感染(空気感染に近い)が主体のようで、デルタ株では特にウィルス量が多いようです。不織紙マスクを隙間なく着けての外出が必須となります。換気が最も重要になってきました。ミュー株が流行ってこない限り、ワクチン2回接種者の感染の可能性はありますが、重症化は少なく、それほど問題にならないでしょう。

 

シルバー川柳入選作     (普通部 田村耕一郎)

(小川さんのご投稿で “老は迎え入れない!” というのが仲間内の流行語になりそうな気配。思い当たらないかな?)

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物好きな友人から送ってもらった川柳の傑作をごらんください(今回の入選20作と前回の第20回応募作から選ばれた傑作68句を収録した「シルバー川柳11」が9月7日、ポプラ社から発売されるそうです 税別1000円)。

全国有料老人ホーム協会が毎年「敬老の日」に合わせて公募している「シルバー川柳」の2021年の入選作20句が決定。今回もコロナ禍の世相を反映しつ
つ、それをとぼけた笑いで吹き飛ばす切なくも笑える作品が目白押しです。
21回目の今年は過去最多となる16621句が寄せられました。応募資格には制限が一切設けられておらず、今回も下は16歳から上は106歳という幅広い年齢
層からの応募があったということです。

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「『密です』と言われてみたい頭頂部」(62歳)

「薄味にしたらコロナとわめく祖父」(56歳)

「食卓に俺の席だけアクリル板」(66歳)

「全集中しても開かない瓶の蓋」(66歳)

「リード持ち散歩に出たが犬忘れ」(69歳)

「目の検査「丸」と答えるお爺ちゃん」(44歳)

「じいちゃんが暗証番号暗唱し」(74歳)

「名を呼ばれ誰も立たなきゃたぶんオレ」(58歳)

「YouTube履歴は演歌と百恵ちゃん」(19歳)

「さり気なく背後に賞状オンライン」(54歳)

「午後八時酒提供を止める妻」(58歳)

「お互いに返事はするが動かない」(60歳)

「お見舞いにぞろぞろきたらそろそろか」(52歳)

「どなたですそういうあなたはどなたです」(59歳)

「伸びすれば足が攣る攣る寝起き前」(66歳)

「ワクチンのネット予約でひ孫借り」(81歳)

「BTSテレビ局だと思ってた」(40歳)

「ペイペイで払うと後ろ行列に」(65歳)

「へそくりは一度仕舞うと出てこない」(58歳)

「おはようのラインがくるのは朝の五時」(17歳)

エーガ愛好会 (88) 陽のあたる場所   (44 安田耕太郎)

映画「陽のあたる場所」はセオドア・ドライサーの小説「アメリカの悲劇」(An American Tragedy) を原作としており、陽のあたる場所は成功した上流階級の人々の生活する場所を意味し、その場所を象徴する存在が、その家族の娘エリザベス・テイラー演じる美しいアンジェラ。共演のモンゴメリー・クリフト演じるジョージは、貧しい家庭に育ち教育もまともに受けていない陽のあたる場所とは対極の謂わば日陰の場所を象徴する存在。陽と陰の好対照とその絡みを描いた映画でもある。アメリカン・ドリームを達成するかに見えた展開が「アメリカの悲劇」の結末で終わる。

映画公開は1951年、エリザベス19歳の時だが、撮影開始時、彼女は17歳。子役として「若草物語」出演など既に映画界では脚光を浴びる存在であったが、「陽のあたる場所」は彼女にとってそれ以降のハリウッドにおける名声と存在価値を決定づける映画となった。「赤い河」1948年、「女相続人」1949年の成功でスターの仲間入りしていたクリフト31歳の時の公開作品。

筋書きと話の展開は短兵急で粗く今ひとつであるが、映画の見どころは、若い主演二人の演技かと思う。「エリザベス、あんなふうに男を誘惑する手管をいったいいつ覚えたの?」と関係者が唸ったティーンエイジャーの彼女の演技は絶賛された。ニューヨーク・タイムズ紙は「裕福で美しいアンジェラを演じたエリザベスの演技は、彼女のキャリヤ中で最高だった」とまで書いた。批評家たちは「陽のあたる場所」を傑作と評価し、中には映画史に50年以上残る作品だとする者もいた。一方、クリフトはこの映画を観て、NYにあるエリア・カザン主宰のアクターズ・スタジオに共に学んだジェームス・ディーンをも彷彿とさせる。ディーンが11歳年下。余談だが、カザンはクリフトに「エデンの東」主演キャル役を申し出たが、クリフトは断る。また、やはりカザンがメガフォンを執った「波止場」でアカデミー主演男優賞を獲得したマーロン・ブランドもアクターズ・スタジオのカザン門下生の一人であり、彼も「エデンの東」出演を断っている。最終的にディーンに決まったというエピソードがある。

そのクリフトは、NYでの舞台歴も長く確かな演技力を備えた、哀愁があり影のある、ある種の暗さが映画の末路を暗示しているかのような俳優というイメージを感じる。この映画でも、或いは「女相続人」、「地上より永遠に」、「終着駅」、「私は告白する」でも然りであった。暗く憂いを秘めたクリフトの陰とは対照的に輝くばかりに明るいエリザベス・テイラーの陽の好対照はこの映画を特徴づけたハイライトであった。なお、アリス役で好演したシェリー・ウインタースは出演当時29歳。1959年の「アンネの日記」と1965年の「いつか見た空」ではアカデミー助演女優賞を、1972年の「ポセイドン・アドベンチャー」でゴールデングローブ助演女優賞を、それぞれ受賞している。

(船津)もう封切り以来何度見ているでしょうかね。
格差社会。裁判のあの弁護士の怖いですねーぇ!
エリザベステラーの可憐さが目立つ!何と言ってもモンティ!母が伝道している設定もーー! しかし、やや深みが無いですね!

(編集子)タイトルが A place  であって The place ではない、ということはこのような場所が一つきりではない、と英文解釈できる。それが アメリカの悲劇、という意味なのだろうか。この作品には関係ないが、シェリー・ウインタースといえば ウインチェスター銃73 を思いだす。

(菅原)昔、陽の当たる場所」見ました(S.ウィンタースが、とっても可哀そう。結局、事故だったのか殺人だったのか?)。と言えば、日活の「陽のあたる坂道」(1958年)を思い出す。原作が、石坂洋次郎。勿論、石原裕次郎、北原三枝、芦川いづみ、など。陽が当たったところが、場所と坂道で、こうも違って来るものなのか。「陽の当たる場所」の原作が「アメリカの悲劇」と来れば、「場所」が真っ暗になるのも致し方ないか。

コロナ対策―医療従事者からの提言   (34 船曳孝彦)

菅首相は『コロナ対策に専念したく自民党総裁選に出馬しない』と表明しました。文字通り受け入れましょう。プラスもマイナスも含めての安倍・菅政権でコロナ対策を担って来ての総決算を示し、次期首相にバトンタッチしようといういわば引退に当たっての遺言に相当する重い決意と思います。昨年春からの『コロナ情報』で発信してきたことと一部重なりはしますが、現時点で下記のように考えます。

政府、官僚、日本医師会、全国大学医学部長病院長会議、全国病院関連団体等代表などが一堂に会する緊急会議を持ち、専門家の意見を尊重すべきです。従来この姿勢が見られなかったのが残念で仕方がありません。

CoV-2ウィルスの徹底的検査 最近の新規感染者数は減少傾向にあります。しかしウィルス保有者が正しく捉えられているとは言い難い現状です。接触を疑われても全員検査とはなっておりません。陽性者の分子は分かっていても分母が分からないのではどうしようもありません。少しでも疑わしい人、希望者、出来ればワクチン未接種者には全員PCR検査を行うべきです。新規戦闘機購入を1機減らすだけで賄えます。

デルタ株は勿論ですが、ラムダ株、ミュー株など新変異株についての分析、対策が採れていません。これでは今日現在の新規感染者数が減っているからと言って決して安心できません。下げ止まりとなって、やがて次の第6波がやってきますし、もっと恐ろしいことになるかもしれません。

④ワクチン情報公開  何時、どれだけの量が各自治体に配布できるのか。正しい情報、スケジュールが示されなければ国民は安心できません。渋谷での例のように少数では話にならないし、予約制度も明示しなければなりません。このことは既に1月に指摘しています。ワクチン接種開始とともにあるべきものです。

⑤医療側への注文 ①での会議で医療側の新型コロナに対する住み分けをはっきりと打ち出し、国民が安心して一般疾患治療、コロナ治療を受けられるよう、国民に明示すべきです。

  A 重症者受け入れを含めて対応 コロナ病床増設は限界でしょう

  B 中等症主体に受け入れ 同じく増床は限界にきているでしょう

  C 入院は出来ないが軽症者、中等症に対応 発熱外来

  D 臨時医療仮設施設への協力

  E ホテル、選手村など待機収容施設への協力 酸素センター

  F 在宅患者への対応 (家庭内感染予防のため本来自宅待機は不可)

  G ワクチン接種への協力 (校医として経験豊富)

  H 新型コロナ以外の治療に専念 

これは非難されるべきことではありません。コロナ以外にも重傷者、要治療者は数多くいます。  新型コロナ死亡者は累計 16.4万人(1.5年)ですが、癌による死亡 34.4万人/年、心血管系死亡 18万人/年、東北大震災死亡行方不明 16万人弱です。これらの人の治療を疎かにしてよい筈はありません。

緊急事態宣言、蔓延防止策などを出しても、もう効果は期待できませんが、応の基準は必要です。感染対策を確りしたレストラン、食堂は人数を制限して営業認可してよいと思います。1組の人数は5人程度に増やしてもよいのでは。アルコールは楽観ムードとなってしまうのでもう少し我慢せざるを得ないでしょう。

国民は不織布マスクをつけて出来るだけ外出自粛(近隣県までは可とする

(⑥⑦はウィズコロナへの段階処置を考えました)

エーガ愛好会(87)   運び屋   (34 小泉幾多郎)

クリント・イーストウッドの10年ぶりの監督主演作。                         第二次世界大戦に従軍した退役軍人がデイリリーという植物の栽培で成功し、園芸家として名を馳せるが、その後時代の変化に取り残され。自宅を差し押さえられたりした頃、得意としている車の運転だけすればよいという仕事を持ちかけられるが、実はメキシコ麻薬カルテルの運び屋だった。このやばい稼業に手を染めながらも、家族を顧みなかったことを改めて反省し、家族との絆を再生するという話。NYタイムス紙別冊の記事「90歳の運び屋」に着想を得たとのこと。

娘の結婚式にも出席せず、妻や娘から総スカンを食いながらも、運び屋になったからには、新しい仕事に熱心に取り組むサマがいじらしい。全体的に、運び屋とそれを追う警官たち、緊迫感溢れる題材ではあるが、逆にゆっくりしたテンポで進み逆に心地よい。警官に追われ、麻薬探知犬が覗いても、臭い消しのようなクリームを塗り付けて防止したり、黒人の若者夫妻がパンクで困っているのを見
付け、「タイヤ交換ぐらいできなくてどうする」と活を入れながら手伝ったり、麻薬組織の連中も優しく付き合うところ等ユーモアも交える。これが最後に近く、組織のボスが代わり、仕事を強制され、妻が急に亡くなることにより、これまで逃げてきたことや眼を背けてきたことから向き合うことになり、運び屋の間違いと家族を悲しませてきたことへの反省、若干ありきたりの結末ではあるが、人間ドラマは刑務所に入って終わる。最後刑務所で植物デイリリーを育てる場面で終わるが、これまで運命から逃げ続けてきた罪滅ぼしか。

閉幕後、スタッフの字幕に歌が重なる。・・・老いを迎え入れるな、もう少し生きたいから。老いに身をゆだれるな、ドアをノックされても、ずっとわかっていた、いつか終わりが来ると。立ち上がって外に出よう、老いを迎え入れるな。数え切れぬ歳月を生きて、疲れ切って衰えたこの体、年齢などどうでもいい、生まれた日を知らないのなら。妻に愛を捧げよう、友人たちのそばにいよう、日暮れにはワインで乾杯しよう、老いを迎え入れるな。老いが馬でやって来て、冷い風を感じたら、窓から見て微笑みかけよう、老いを迎え入れるな。・・・クリント・イーストウッドの気持ちが込められている。老いの身に、しみじみと突き刺さる。

(編集子)小泉先輩、感情移入の具合がしみじみと突き刺さりますなあ。

(小川) 小泉さんの名解説とジャイさんのコメントをブログで見て、「運び屋」をアマゾンプライムで検索して観ました。

クリント・イーストウッドの爺さん、自分に照らし合わせて観て、我々もあんな爺になっているのかと、何となく寂しい想いで…。それにしても同世代が観るにはなかなか深い想いが残るエーガでした。名解説に引き込まれる気持ちで2018年という新作でも実に感動した作品でした。「老いを迎い入れるな!」は将に我々同世代へのメッセージ、デイリリーは一夜花、実に素敵なメッセージがありました。ご紹介有難う。

*「風立ちぬ」が冒頭にありましたが、来月信濃追分にある堀辰雄の住まいに娘たちの運転で出掛けるつもりです。 老いは迎い入れな~い!

乱読報告ファイル(9)  大佛次郎 帰郷 再読

我が家の家系にはいわゆる理系の人間が少ない。東大理学部で半導体の基礎理論を専攻し、防衛大の教授だった母方の従兄弟が一人いるだけである。それとどちらかといえば女系家族で、これはまたワイフの家系も同じである。女系を蔑視したりするつもりは毛頭ないが、なんとなく理系の女性、というイメージが湧いてこなかったのだが、なんと孫娘の一人が志を持ってこの道へ進み、現時点では大学院に在学中である。嬉しい誤算,といえば本人は怒るだろうが、祖父としては大満足している。彼女の専攻は建築なのだが、中でも環境問題とか都市問題とかいった現代的な問題意識を持ちながらこれからの進路を考えているらしい。

きわめて標準的なサラリーマン生活を過ごした自分自身のこれまでを振り返ってみて、それなりに企業なり社会なりにささやかながら貢献してきた、とひそかに自負は持っているのだが、それがなんだ、と言われても他人に理解してもらうことはまずできない。その点、建築とか土木という分野では、その結果が万人に、専門家でなくても自分の目で見て、感じて、理解してもらえる。かつてテレビの番組で青函トンネルの掘削で土工をやっていた、という年配の人が、新幹線に乗ってトンネルを抜けるとき、”ここを俺は掘ったんだ、って誇りを感じる”、と言っていたのを見て、つくづくうらやましく思ったことがあった。

そんなわけで、彼女の将来には限りない期待をしているわけだが、その結果が街であれ建物であれ、人々に共感を呼ぶものになるには、(もしそれが日本に存在するのならば)日本人の心のありかたというものにマッチしたものでなければならないだろう。それが何なのか、人によって解釈は違うだろうが、冷静な目で、距離を保ちながら日本人の心、一口にいわゆる日本文化、などとくくってしまえないような心情のひだ、というか、そういうものを理解する機会をいくつも持ってほしい。そういうつもりで、自分なりに日本人、というものの解釈をさせてくれたこの本をプレゼントしようと思い立った。正確な記憶があるわけではないが、たぶん高校1年の時、人並みにヘッセだとかシュトルムなんかをかじり始めた時期、どちらかといえば地味なこの本にどうしてたどり着いたのかは覚えがない。しかし外国文学にはない”何か”を、それを日本人の心というのが正しい表現かどうかわからないが、そういうものをこの本から得た。そのことを彼女に伝えておきたい、と思ったのである。とりあえずアマゾンを探してみたら、この本の英訳版があることを知ったので、(外国人が日本文化のありようをどう訳すのか)を見てみたいと思って、最新版を2冊と英訳版を合わせて購入した。英訳版はまだ、手を付けていない。

”帰郷“ は第二次大戦直後、混乱の真っただ中にあった日本、全国民が心の支えを求め続けていた時期に書かれ、昭和25年度芸術院賞を受賞した作品である。事情があって罪を自分で被り、そのために祖国を去らねばならなかった主人公、旧帝国海軍の将校守屋恭吾が、敗戦後の日本へ帰ってくる。妻はすでに他人に嫁いでいるし、そのありようも全く違った世界になっている。ただ、自分が知っているのはほんの幼女にすぎなかった娘を一目見たい。その思いを彼に好意を持ち始めた女性(高野左衛子)の助けを得て、実現させる。娘には自分の正体を明かしたくない、と思っているのだが娘のほうは実情を左衛子から聞いて、父の存在を知っている。二人は京都の古刹で再会するのだが、父のほうは娘が実情を知っていることを知らない。この場面は原作ではこう書かれている(手元にある昭和25年10月、第六版から引用)。

 

父親は何も知らずに云ひ出した。

”私も海軍にゐたことがある。あなたぐらゐのお嬢さんのある方だと、兵學校もあまり違ってをらんはずのやうに思ふが“

伴子は不意にそれを遮った。

”お父さま“

と、素直に、すらすらと口に出て、

”あたし、伴子なんです“

恭吾は伴子を見返してゐた。無言のままでゐる。

 

“ひとを驚かさぬことだ”

と、穏やかな聲で、低く云った。恭吾は、伴子を見詰めたままであった。その目の色が、止めどもなく深くなって行くやうに見えただけである。

唇が微かに慄へた。

この場面が、もし日本語以外の言語で書かれたら、つまり日本文化の外にある人が書いたとしたら、このような静かな描写になっただろうか。逆にもし原作が、ここで恭吾が仰天し、二人が抱擁するような描写になっていたとしたら、この “帰郷” が日本人の、少なくとも戦後の混乱で自らを失ってしまっていた日本人の、心を揺り動かす名作にはならなかったのではないか。

人間、生きている間にいろいろな場面に遭遇する。そのときどんな感情が吐露されるのか、もちろん千差万別だ。Rocky Mountain, high ! と爆発することもあるだろうが、富士の高嶺に雪は降りつつ、と詠嘆することもある。戦後の混沌の中では、日本人の心の動きには失ったものをいとおしみつつ、あるものをそのまま受け取っていく、このいわば詠嘆に近い、そんな心情が共通項としてあったのではないか。この作品が静かに語るものがそういうものに共鳴したのではないか、と思えるのである。そして思うのだがそれが日本人の心の奥底にある ”何か” なのではないか、と。

アメリカ人の友人と日本文化、について議論を戦わせた記憶は枚挙にいとまがない。そういう場面で、日本文化の根底にあるのは feeling of resignation なんだと思う、と言ったらえらく納得されたことがあった。諦観、という単語が思い浮かばなかったので即興の造語だったが、明確に、ときには冷酷に時を刻む四季の移ろいが作ってきた日本のなりたち、そしてそこに生きてきた ”日本人” の感情の一番下にあるのは唯一の神の救いなどではなく、自然というものに対する絶対的な―うまい単語が見つからないのだが―信頼みたいなもののような気がするのだ。

作品の筋としては、恭吾は自分の過去を辿りながら、京都の旧所や古刹を巡り、騒動の中にもなお静寂に生き続ける日本文化の背骨を辿り続ける。しかしなお、自分が帰り着く場所を見出すことはできず、ふたたび、思いを寄せる左衛子を振り切って再び、故郷を捨てる。彼女に残した手紙の書き手は エへエジユルス、という名前になっていた。この小説は次のように完結する。 

左衛子は忘れて了つてゐたが、刑場へ曳かれて行く基督を辱めた劫罰で永久に死の安息に恵まれることもなく、地上をさまよって苦しんでゐる傳説の猶太人の名前であった。エへエジユルスの寂しさ切なさを彼はこの署名に込めてゐたのである。

この結末が引き起こす感情、すなわち戦後の心の荒廃がもたらした結末、あるいはそこに見えてくる将来へのわずかな希望にもにもまた同化できない、一人の男の人生の始末の仕方が高校1年生、17歳の心に何をもたらしたのだったか、人生行路を振り返る年になって、あらためて見詰めてみたい気がしている。 

アフガン情勢から導かれる話    (普通部OB 田村耕一郎)

友人から送られてきた、フランスの思想家ジャック・アタリのメッセージをご紹介する。

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私たちは8月のアフガニスタン政権の崩壊から、忘れられがちな法則を思い返す必要がある。実現の可能性が非常に高いと考えられることは、一般的な予想よりもずっと早くに起こるという法則だ。米軍がアフガン撤収を発表すれば、イスラム主義組織タリバンが首都カブールなどを制圧するのは明らかにも思えたが、1年以上かかるとの見方が一般的だった。
1988年秋ごろには、東欧民主化やドイツ再統一などが「いつの日か起こる」ことが明白になった。当時の米国のブッシュ(第41代)大統領が89年12月、私と
の会話で「ドイツ再統一までには少なくとも10年はかかる」と語っていたのをおぼえている。ところが、実際には1年もかからなかった。

もちろん、法則が当てはまらなかったこともある。フランス革命は十分に予想できたが、一部の啓蒙主義者の予測よりも後に勃発したといえる。だが現在、状況は変化し、歴史の歩みが加速した。理由はたくさんある。例えば、民衆を制御することや矛盾を放置することが難しくなったことが挙げられるだろう。

まず、歴史の歩みの加速は、気候変動から実感できる。気候変動が現実であることは繰り返し発表され、科学的に証明され、記録に残っている。しかも、気候変動の影響は5年前の見通しよりも切迫していることが日々実感できる。対策を講じない限り、2050年に起こると言われていたことが、25年にも起こりうる。
次に、新型コロナウイルスの感染拡大だろう。現在よりさらに危険な変異ウイルスの出現を防ぐには、少なくともワクチン接種を義務付けるしか方法がなさそうだ。わかっていながらも認めようとせず、対策を先延ばしにし、強制しないふりをする。何らかの別の対策を打つべきでも傍観する。するとある日突然、ワクチン接種を義務付けることになってしまう。

社会や政治などの面で深刻な問題に直面する中国共産党が、台湾への軍事的な賭けに出ることで、問題を先送りしようとすることもわかっている。わかっていながらも、実際には起こるはずがないというふりをする。しかし、中国の武力行使は我々が思っている以上に早期に起こるかもしれない。

米国が現在の同盟国を保護しようと思っても、能力を失い、欧州など世界各地から軍隊を撤収させることも明白なようにみえる。しかし、どの国も準備をしていない。一方、米軍の撤収により、特に欧州連合(EU)は自衛権について考え防衛力を整備するきっかけを得られるのかもしれない。

国際情勢だけではない。仕事や友人、家族など、自分の身の回りも同じような状況に置かれているかもしれない。「出来事はすぐには起こらないだろうし、まったく起こらないことも考えられる。従って心配しなくてもよい」と考える。ところが倒産や死別、言い争い、破局といった直視したくない出来事は往々にして予想より早く起こる。予期していなかったのに、「自分は予期していた」と語る者まであらわれる。さらに多いのは、準備不足で苦しむ者たちだ。

こうした出来事を探してみよう。自分にとって望ましい出来事なら、到来を早めるために即座に行動しよう。恐れている出来事なら避けるために、あるいは少なくとも備えるため、自分に何ができるかを考えてみよう。
地政学から私生活まで、やるべきことはたくさんある。気候変動問題はまだ回避可能で、中国周辺の海域で戦争が起こると決まったわけでもない。公私を問わず、多くの場面でサバイバルの鍵となるのは、先手を打つことだ。

ジャック・アタリ(Jacques Attali)

フランスの経済学者思想家作家、政治顧問。旧フランス領アルジェリアの首都アルジェ出身のユダヤ系フランス人ミッテラン政権以後、長きに渡り、仏政権の中枢で重要な役割を担った人物として知られ、つづくサルコジオランドマクロン大統領にも直接的な影響を与えており、フランスのみならず欧州を代表する知性のひとりと目されている。仏国内において経済、思想から伝記、小説、回顧録に至る幅広い著作で知られ、 『ノイズ──音楽・貨幣・雑音』、『アンチ・エコノミクス』、『2030年ジャック・アタリの未来予測(原題ーVivement après-demain)』など50冊以上もの本を出版している。日本では教養・思想面の著作翻訳が多く出版され、広く読者を得ている。