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アサ会忘年山行  (37 小泉幾多郎)

三国山荘についての提案

少し前に越冬プランの案内を頂戴した。最後に雪の山荘へいったのがいつだったか、現役のスキー合宿へコーチに何人かで行ったのが5年くらい前だろうか。OB,現役が一緒に冬を過ごすという企画ができ、一番盛んだったのがたぶん僕らが卒業した年から数年の事だった。まだあの初代の小屋で、煙いストーブ越しに”ボク、猪股です”とヤブが恥ずかしそうに自己紹介したのが何となく記憶にあるし、僕の愛唱歌の一つ”知床旅情”を石井(小倉〉悠子君から習ったのも越冬の時だった。彼女のあまりにも早い他界が改めて悔しく思われるのも、それが越冬という特別な環境でのことだったからかもしれない。その小屋について投稿してくれた現役渡辺君から、時代は変わっても小屋を愛する仲間がいることを知らされてしみじみと嬉しかった。

だが渡辺君の文章を拝見して、うれしさと一緒に僕が漠然と感じて来たことが指摘されているのを見つけ、ここしばらくなんとなくわだかまってきたことが杞憂ではないと思われてきた。彼が指摘したように、純粋に小屋を愛する部員が減少してきたこと、というか、減少せざるを得ない現実のことである。僕らが現役の頃の部員の数の多さは、今考えれば一時的なものであったと思えるが、その時には、そのままの状況が続くであろうこととして、誰も疑っていなかった。また、活動の基本は可能な限り、多くの人間が多くの機会を得て活動することにあり、一般プランはともかく、合宿は全員が集う機会であった。日頃はあまり同行する機会がなくても、できるだけ多くの仲間と時間を共有することが当然だったからだ。このような基本的な思想と人数の多さ、そのために生じる安全性の確保、といったことから、”夢”や”あこがれ”とともに皆が集える場所、として山荘が最大公約数として存在したのだといえる。

しかし渡辺君が明らかにしたように、この原則はすでに絶対的過去のものである。原因の一つは部員の絶対数の減少であり、もう一つ、我々が夢想だにしなかった部活動の基本思想の変化である。その結果として、現役部員が山荘を利用する機会は激減した。特に後者、すなわち現在の部活動の基本となっている”ジャンル別”方式がその主な原因であろう。すなわち我々の時代に ”ワンデルングそのもの” でもあり得た山荘というものを意識しない”ジャンル”があり、山荘には山荘祭とか飲み会の場所としての意味しか持ちえない部員が多数存在するということである。現役の活動は時代や社会環境を反映するものであり、その結果山荘がもはや活動の中核になりえないということは認めたくはないが理解はできる。OBにも山荘に対する意識の差が出てくるのは当然だし、高齢化とともにその傾向はますます強くなる。このことは冷厳な事実として受け止めるべきで、いたずらに山荘離れを嘆いても致し方のないことである。

だが、山荘の維持には労力と費用がかかる。”山荘”が常に意識の上部構造にあった時代は何があっても人手を集めることは可能だった。我々多人数世代が卒業しても、その流れはOBに受け継がれ、少し前まで、”新道プロジェクト” や ”あじさい班” などの形で存続していた。しかしその現実はOB主体、というよりも一部OBだけの活動であって、現役の参画はないに等しかった。費用の方も、年の経過や浅貝部落の変貌とともに増えこそすれ減らないし、部とOB会の負担は継続する。このことはすでにOB会においてもいろいろな検討がされてきたし、各種のシミュレーションも公開されてきた。だがOBにも会費免除が増え、その収入の先細りはすでに現実のものであるのに、その現実に明確な対策が論じられているようには思えない(僕の認識が間違っていれば謝らなければならないが)。

僕が恐れているのは、このまま推移すれば、わが三国山荘はそのまま、現役にとって、利用価値も少なく費用だけがかさむ、負の遺産となってしまうことだ。36年代は衆知のように最大の人数を擁したが、すでに卒業時のメンバーの四分の一は鬼籍にはいってしまった。OBの数も急速に減少に向かっているのだ。ここ辺りで、山荘をどうすべきか、真剣な議論が必要なのではないか。我々をはじめ、小屋に特別以上の感情を持つ人が多数おられるのはよく承知しているが、センチメントと決別して、山荘の永続性を考えるべき時にいる、と僕は確信する。

僕らが慶応高校時代、スキーシーズンになると赤倉にあった医学部の山荘に泊めてもらうのが常だった。風呂と蚕棚ベッド、薪ストーブだったが食事も出してくれ、大学生の先輩が数人、当番で常駐してなにかと指導してくれた。一緒に近くの旅館に神戸女学院の生徒がいると知って窓の外まで行って大声で歌を歌ったり、積雪をかき分けてゲレンデを作ったりした思い出もある。しかしヒュッテには厳然とした”慶応大学医学部”の権威と雰囲気があった。このような形で、三国山荘を維持していくことはできないか、というのが僕の提案である。

世話人やコックを常駐させることはできないだろうが、厨房に手を加えトイレと洗面台を改修すれば、安価に泊まれる、自炊可能な場所ができる。大学のゼミの合宿とか、塾職員の研修とかを目的とした施設として、塾に山荘の一元維持管理を要請する(財務上はもともと塾のものなので管理面をいわば”返還”することになる)。KWV関係者の利用には、費用や日程(たとえば合宿とか山荘祭などでの独占使用)など、いくつかの優遇措置を条件として明確にする一方、或る時期にはKWVから小屋番を常駐させる、といった協力は当然のこととしてだ。

再来年には改元があり、憲法改正も視野にはいっている日本の大きな転換点をのぞんで、我々も新たな決意をするときではないだろうか。本稿がきっかけとなって、OB各位、現役諸君を含んだ、政治の用語でいえば ”国民的議論” が展開されることを希望する。公開の目的のご意見ご批判は小生あてメールで頂戴できれば本ブログに転載するので、それをひとつの材料として議論が深まり、しかるべき過程をへて新体制の速やかな実現につながれば嬉しい。

 

 

 

多摩ニュータウン創設の頃 (37 初田正俊)

ことしの12月、寒さが続く師走としては珍しい暖かい晴天の1日、多摩丘陵の「府中カントリークラブ」でワンゲルの仲間とゴルフを楽しんだ。府中カントリーは昭和34年(1959年)戦後多摩丘陵に最初にできた老舗コースだけに、落ち着いた雰囲気で手入れも行き届いている。

「今日はいけるかな」。久しぶりのゴルフに勇んでOUT1番ティーに立つ。ドライバーをおもいきって振ると球は見事な左カーブを描いて崖下の白杭を越え池の中へ消えていった。こんな調子でこの日も18ホールを終えるとお約束どおりの“ライオンズクラブ”(110以上)入りとあいなった。

というわけでゴルフの話はこの程度でご勘弁いただき、コースの外側に見え隠れする「多摩ニュータウン」の思い出話に切り替えることにしたい。今の府中カントリーは多摩ニュータウンの住宅やマンション、オフィスビルに取り囲まれているが、昭和40年のはじめ頃まで多摩丘陵といえば東京近辺にある小学校の遠足の定番コースだった。

昭和30年代の高度経済成長を背景として、東京への人口集中が加速、東京圏で働く人の住宅不足や生活環境が悪化してきた。東京都心から近い緑地としてい親しまれてきた多摩丘陵も京王線に沿った八王子や日野市の丘陵地帯が次々と宅地化され、虫食い状態の乱開発が進んでいった。

このままでは、丘陵全体がまとまりのない市街地になるのを防ごうと東京都は昭和39年(1964年)5月、多摩市を中心に八王子、町田、稲城市にまたがる多摩丘陵約3000㌶を生活環境の整った人口33万人、日本最大のニュータウン計画を決定した。実際の建設は日本住宅公団(現在の都市再生機構)が担当、昭和43年頃から大量のブルドーザーやパワーシャベルが投入され丘陵を削っての宅地造成が始まった。

そして46年3月、永山地区で公団住宅の第一次入居が始まった。その頃新聞社で東京都庁を担当していたので、多摩ニュータウンは誕生の時から取材を続けてきた。今でも忘れられないのは、3月26日209戸の第一陣の入居風景である。この日は朝から春一番の南風が吹き、引っ越し荷物を満載したトラックが土ぼこりを巻き上げながら次々に新築の公団住宅に到着した。

当時はまだ京王線も小田急線も開通しておらず、トラックの行列は遠く甲州街道方向から関戸橋を渡ってやってきた。しかも入居を急いだため、住宅各棟への取り付け道路はまだ舗装が間に合わず、トラックが巻き上げる砂塵が新築住宅を覆っていた。 翌日の新聞各紙には「多摩ニュータウン入居始まる 砂塵の中、引っ越し第一陣」」の見出しが大きな写真付きで載っていた。「これはまるで西部劇の幌馬車隊の到着だね」。当日取材に集まった報道陣が皮肉ると、ある公団幹部は「50年後を見てくださいよ」と息巻いた。

50年後まで生きていないと思ったが、あの日から46年を経た今日、ニュータウンの中心地、大企業の本社ビルや高層マンションが林立する多摩センター地区を眺めなが、隣接する府中カントリークラブでゴルフを楽しんでいる。“19番ホール”は多摩センター駅地下のすし屋である。店内は勤め帰りのサラリーマンで大賑わい。半世紀前の幌馬車隊の光景からは想像できない新都心になっていた。

うらやましい話

出版や書籍関係の方ならばあるいはご存知かもしれないが、装丁の専門家で平野甲賀という人物がいる。小生の小学校時代のクラスメートで、幼少のころから天才的な男だった。恩師も健在なクラス仲間で折あるごとに集まっていたうちの一人だが、数年前、突然、小豆島へ移住してしまった。さすが芸術家だなあ、ゴーギャンばりの余生を過ごすのか、とおもっていたが何年振りかでメールが届いた。そのHPを一読、やられたあ!という感じである。こういう老後もあるのだな、というご参考までに夫人からのメールを転載する。ぜひURLをご参照ありたし。彼の活動にご興味あらば、直接夫人あてご連絡ください。

From: 平野 公子 [mailto:haru@jazz.email.ne.jp]
Sent: Friday, December 1, 2017 11:01 PM
To: 早川 仁
Subject: 平野甲賀

 

毎度お騒がせです。

平野老人組 来年からの活動のお知らせ

モーションギャラリーのファンデイング始りました。
是非、お友達に広めていただければ有り難いです
よろしくお願いします。
https://motion-gallery.net/projects/sonofuneninotte_ba

近況です! (47 水町敬)

CLASH読みました (元日本HP 坂東正康)

CLASHとCRASHとCRUSHの意味の違いは、 とくに写真が、参考になりました。

「CLASH !」の投稿者は、ぼくよりもひと回り年上の、 あるグローバル企業における元上司ですが、彼の米国の原像は、 ぼくの眼には、「ジョン・F・ ケネディが大統領になったときの米国」と映りました。 ぼくにとっての米国とは、 テレビドラマを通じてやってきた華やかな米国というのもありまし たが、「ベトナム戦争の責任国としての米国」でした。 二人の原像は、けっこう違うとは、折々に感じていました。

最近の北朝鮮問題も、 朝鮮戦争は現在休戦中といった事情は別にして、ぼくにとっては、 米国による気に食わない外国への脅し、介入という、 ベトナム戦争の延長線上のできごとです。 イランやイラクやアフガニスタンと同じです。そういう意味では、 日米安保条約と日米地位協定が、 日本国憲法のスーパーセットになっている現状と本質的な構造は違 わない。 ペリーのころのクジラ脂ビジネスの食料基地としての日本がそのひ な形です。そういうスーパーセット構造を選択したので、 とりあえずは余裕ができ、デミングのQCブームの土壌が成立しま した。

デミングのQCブームに関してはぼくはたいした意見もないのです が、太平洋戦争中の「八紘一宇」や「非国民」 というもののサブセット的な雰囲気を、 業界や社内でなんとなく実感させてもらえたのが、 ぼくにとっては幸いでした。「八紘一宇」や「非国民」は、 日本では、間欠泉的に現れてきます。たとえば、4年前に発表され た「日本国憲法改正草案(現行憲法対照)自由民主党」には「 八紘一宇」と「非国民」という発想が強く漂っています。 聖徳太子の十七条憲法の第一条と明治憲法の一部と治安維持法が戻 って来たような草案です。フロムの「自由からの逃走」 はまだ生きているようです。

「CLASH !」という投稿記事を読みながらそんなことを考えていました。