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慶応義塾普通部29年卒業同期会

昭和27年、まだ “戦後” であった時代,戦災のため天現寺の幼稚舎に間借りしていた普通部に入学した我々は翌年、日吉に新設された新校舎に移転、29年にめでたく卒業した。高校、大学へ進み社会に出た我々も 昭和・平成・令和と三つの時代を経験する、”ゴールド年齢層” に加わることになった。

それぞれ、精いっぱい生き、与えられた任務を終えてきた時代を振り返るとき、この普通部での3年間こそ、僕らのバックボーンをはぐくみ、慶応ボーイとして胸を張れる素地を作ったものだったと感じる。皆、80歳を数えたこの年、卒業65年を祝って京橋のレストラン モルチェに集まった。卒業時の5クラス合計は268人、残念ながら鬼籍にはいったもの88名、結果として66名が参加した。幹事として終始奮闘してくれた船津於菟彦、岡野嘉久両君にはあらためて感謝を申し述べたい。

今回の案内状にも書いたが、”中村草田男は

”降る雪や 明治は遠く なりにけり”

と吟じた。3つの時代を生きて、いま令和にはなったが、俺たちの日吉はいまだ遠からず、俺たちのすぐそばにいる。そういう思いを共有した3時間だった。

 

 

喫茶店とのつきあい (1)

今考えても楽しかった普通部での3年を終えて高校に入学するとすぐ、新聞会に入った。当時は全国の主な高校には学生新聞があり、コンテストなども行われていたが慶応高校の Highschool News は常に別格扱いされる、内容も編集技術も抜群の存在だった。編集長のYさんはまるで別世界の人のように大人びていて、それを支える上級生も神様のように見えた。あの、どっしりとしたコンクリート3階建て、冷え冷えとした日吉校舎の2階、206号室の鉄製の重いドアを開け、隅に座って上級生の声がかかるのを待っていたのが懐かしい。

夏休み前になってYさんから、僕ともう一人の1年生、藤本恭(一時創刊間もない“女性自身”の編集長などを歴任した職人肌の好漢だったが、2001年に急逝)の二人(考えてみると藤本ではなくてカメラが職人裸足だった船津於菟彦だったかも)で、喫茶店探訪を命ぜられた。当時の普通部は学外の行動にとても厳格で 保護者なしでは映画館にはいることもできなかったくらいだから、渋谷や銀座の喫茶店を”探訪“するなどおっかなびっくりだった。初めて入ったのが渋谷の”“という店だったのだけは覚えている。ここはまだ同じ場所( 建物は当然変わってしまっているのだが、そうだと思っている)で営業しているのがうれしい)。

これが僕の”喫茶店”というものとの付き合いのはじめなのである。高校時代は日吉駅の北口を出たところにできた“巴里苑”(普通部3年の時までは丸善だった)くらいしか覚えはないが、大学に入ってからは自由が丘が便利になり、ちょくちょくと映画を見に行くことが増えた。南風座とロマンス座というのがあって、横山美佐子とたしか阪田清なんかがいたような気もするのだが、数人で入ったものの座れず、後ろから背伸びしながら“シエーン”を見た記憶がある。そんなことがきっかけで当時まだ珍しかったジュークボックスがおいてあったセ・シ・ボン”という店を見つけた。学部は違ったが授業の空き時間が偶然に一緒だった住吉康子と彼女の友人中島教子など何人かでよく出入りした。サム・テイラーの”ハーレム・ノクターン”や”夕陽に赤い帆” なんかが流行りだしたころである。

三田へ通うようになると、やはり地の利で銀座界隈へ出る機会が増えた。当時あったルノーのタクシーを使うと90円で映画街までいけたから、部室で何人かまとまれば150円で映画を見て、というのが自由が丘にとってかわった。山へ行っている以外には、酒の好きな連中は別として、当時は映画か、僕はやらなかったが麻雀くらいしかパスタイムの選択肢がなかったから、時間を過ごす場所として喫茶店、というのがごく当たり前だった。インテリを名乗る連中は“田園”とか“らんぶる”などの”名曲喫茶“を好んだし、”バッキー白方とアロハハワイアンズ”なんてのが出ていた“ハワイアン喫茶”や”銀巴里“などシャンソン喫茶などいろんなバリエーションが出現、言ってみれば喫茶店文化の絶頂期だったのだろう。このころ売り出し中だった“クレイジーキャッツ”を見に、田中新弥や小川拡、広田順一など高校時代のクラスメートと”ジャズ喫茶“と称する店にも行った。中でも新橋にあった”テネシー“はちゃんとしたポピュラーの生演奏がきける大変な人気の店だった。ここで聞いたなかに ”世界は日の出を待っている“ があって、新弥が偉そうに解説してくれたのをなんとなく覚えている。某日、飯田昌保が通ぶって”ここはいい店だ“というので、”エリザベス“というところへ入ったら、店中女の子しかいなくて、二人で小さくなっていたことがある。出がけによく見たら、”パフエ専門店”とあってふたりで妙に納得したこともあった。ここだけはさすがにその後も出入りはしなかったが。

このころからまだ通っているが昔通りの雰囲気が健在なのが新橋に近い”エスト“(さすがにLPレコードではなくなったが、ウエイトレスの制服からテーブルクロスまで、見かけは全く変わっていない)で、銀座へ出れば3回に1回ぐらいは今でもよく行く。銀座界隈の店も当然淘汰があって、なじみは減ってしまい、最近はこのウエストか、あづま通りの”トリコロール“がお気に入りである。ここは1階のカウンターを担当しているベテランの何人かの店員応対が暖かく感じられて、長居を過ごさせて貰うことが多い。

高校が四谷近辺だったせいであの辺りに詳しい八恵子と良く通ったのが紀尾井町の先にあった”清水谷茶房“だが、ここも廃業してしまった。いい雰囲気の静かな店だったが。当時のまま健在なのが新宿、旧三越の裏通りにある”ローレル”だ。オーナーはまだ変わっていないらしく、昔話をして喜ばれたりした。

会社勤めが始まると最初の勤務地は三鷹だった。同期に入社した曽山光明が成蹊の出身で吉祥寺に詳しく、あちこちとよく連れて行ってもらった。 洋菓子専門の”メナード“とか、”ルーエ“なんかがそれだ。5-6年前の話だがルーエのほうは同じ場所にまだあった。その後、やはり曽山に教えてもらった” 檸檬“は小さくてとても居心地がよく、本を持ち込んで長居したものだったし、いま、第一ホテルのある当たりの裏手にはほかにも”春風堂”とか家庭的でくつろげる小さな店がたくさんあった。最近吉祥寺が住みたい街としてよく出てくるが、僕に言わせると昔のほんわりとした雰囲気は消え失せてしまった、月並みな繁華街としか思えないのは残念だ。

(掲載した写真は新聞のコピーのほかは最近撮ったものである)

”82年同期会―俺達のYHP”

1982年4月、YHP 入社の人たちの同期会があり,お招きにあずかった。光栄なことだ(もっとも ”来賓” でも会費をしっかり取るあたり、いかにも ”動物園”の異名をとった集団だと妙なところで感心)。1982年、といえば小生はその前2年間、親会社横河電機へ出向していて戻ったところ、”エッチピー” 文化、が微妙に変わり始めた時期だった。 人事の親玉だった故青井達也さんが、”ジャイよ、YHPも千人を超えた。これからは大きくかわるぜ” とつぶやかれた記憶がある。青井先輩が言っておられた意味が、古いものへの郷愁だったのか、新しいものへの期待だったのか、判然とはしなかったが。

Ever onward, guys !

1982年入社、大学高専高校あわせて371人の新卒が八王子にやってきた (誠に残念だがうち7人が鬼籍に)。人事担当増田君が ”先着順で採用したようなもんだ” と得意のブラックジョークをとばしたように、受け入れから配置、教育までそれまでの会社組織として未経験の体験だったろう。しかしこれが混乱ではなく、誰かが(今となっては不明だがたぶん故小林戴三君あたりだったか?)いみじくも ”動物園” 世代、と名付けたように、ありとあらゆる ”生き物” が 雑然たる中に暗黙の規律 を保っていたのがこの時入社した諸君だったと思っている。この会合はすでに何度か開かれているとのことだが、公式なOB会組織は別として、”同期” という感覚、おそらく軍隊をのぞけば世界広しと言えどもわが日本の中にしか存在しえない連帯感、がこのような人間集団を生み出したのだろう。

このすばらしい連帯感、これを会社、というメカニカルな組織の文化として作り上げた、そしてそれが日本ではなく個人第一のアメリカという風土の中に生まれた、今では現社員の間では死語になったようだが ”HP Way” のもとで芽生えたものであろう。われわれも”動物園”諸君もその中に育まれたことを幸せに思い、光栄だと思っている。

この ”HP Way” も皮肉なことにヒューレット・パッカードの繁栄の中で、いつしか消失してしまった。青井さんが見抜いておられたいわば歴史の必然だったのだろうか。HPのクラウンプリンスだったジョン・ヤング、そのあとを任されたリュー・プラットは ”HP Way” を常に語ったし、組織の巨大化に伴う無機化、官僚化をなんとしてでも防ごうと努力していたのを僕も何度も見ていた。それが会社の実態の変化(電子計測―プロの市場 から コンピューター 大衆の市場 への)とともに、皮肉に言えば会社実績の上昇とともに退場してしまった。それに拍車をかけたのが ”グローバリゼーション” という魔物だった。

いつのことだったか思い出せないが、ミスター・ヒューレットが ”地球上どこへ行っても電流は同じ方向に流れる” と言われたことがあった。ぼくはこれが”グローバリゼーション”の原点なのだと思っている。その後HPは独自の発想で完成した HPIB の技術を公開し、これが世界共通の基本技術として定着した。科学の世界におけるグローバリゼーションにはいささかの疑問も存在しないことのひとつの証左だろう。経理の世界では税務措置を大前提とした伝統的な会計システムに並行して通称”マネジメント” と略称された管理会計システムがジョン・ヤングのもとで導入され、経営の視覚を明瞭に、公正なものにした。ここまではグローバリズムの成功例としてだれもが認めることだっただろう。しかしその世界標化の流れが、”人間” ないし ”文化” をも包含する域までの話となっていったのが80年代後半から90年代へかけてのhpだった。谷勝人さんがアジアパシフィック本部へ栄転され、のちに社長となられた時期は歴史的に見るとこのような流れの中だったのだ。今度の会の冒頭、次代を振り返って甲谷さんが述べられた事実は当時中堅的な立場にあった82年同期生が真正面から取り組まれた課題であった。いろいろなエピソードを聞きながら当時を懐かしく思い出したことだった。

ただ、その後、人事を担当していた僕には、甲谷さんのご苦労には申し訳ない気持ちがあるが、この ”グローバリゼーション” 志向をすべて肯定し賛同する気持ちにはなれなかった、ということを告白する。一部の方々からは強烈な反対反抗を受けた、伝統的部課長制度の廃止とか、人事部諸君のご苦労の結果できあがった新・給与システムとか、労働組合との関係改善、といったあたりまでは、自分がやろうとしていることが ”グローバリゼーション下のYHP  にとって進むべき道だ”という信念があった。しかしアジアパシフィック本部(この地域性に着眼した管理体系はほかの企業でも同じようだが、僕はこの地域による位置づけをヨーロッパにおける場合と同様に考える、という発想自体が間違っていた、あるいはいる、と今でも信じている)の下部にYHPが位置付けられるようになり、その文化的要素まで世界標準にあわせて考えることが暗黙の要求になってからは、疑問煩悶が絶えず、自分の立ち位置の自己矛盾に悩む日が増えたものだった。このあたりはすでに老人の繰り言に過ぎないが。

そのような悩みに向き合う前、ビジネスコンピュータ部門で苦楽を共にした”いっぱち”の18人や、その後東京支社で ”東部には負けるな” と(今回、元気でいれば当然招かれていただろう片岡嗣雄、あのふくれ面が無性に懐かしい)疲れを知らぬ活躍をみせてくれた ”動物園” 世代の底力に助けられたのがぼくの営業時代だった。その懐かしい面々の還暦顔をまぶしく見た、楽しい時間だった。

”yhp82” スタッフのご厚情に改めて感謝する。

 

 

平成最後の夜に

2019年4月30日の夜をまだうすら寒い(昨夜はストーブを焚かなければだめだった)小淵沢ですごすことになった。今日も小雨で新緑は窓から眺めるだけだったが、そのため、昼間から(ジャイアンツの連敗を含めてだが)テレビを見るという小生にはめったにない一日で、ご退位に関する番組を堪能することになった。天皇家の系譜の話とか、神話にまでさかのぼる事柄とか、各地での今回のご退位という歴史的事実に対する反応とかをつぶさに見て、改めて感ずることが多かった。

まず第一、平成という30年。天皇は政治には関係されない立場だから、我々の知る明治から昭和20年までの史実と比較することはできないが、結果、この30年、世界中で不穏な空気が漂い、各國で数多くの人が(理由はともかく)非業の死に直面した間、戦争という国家的事件の結果亡くなった日本人は僕の知る限りではイラク(だったかな)で事件に巻きこまれた外交官の方をのぞけばいないはずだ。少し前に自衛隊幹部の人がPKOで派遣した自衛隊員の事情をつぶさに語っていたのをテレビ番組で見て、これがほかの国々の軍幹部だったらどのように対応しただろうかと思ったことがある。政治、経済、社会問題、そのほか、日本にも数多くの倫理に欠ける行動や世界観の欠如や、言い出せばきりがない問題課題が山積している。しかし何をおいても、結果として国民を戦争で失うことなく、おそらく世界一安全で清潔な国が30年の間存在したという歴史的事実には変わりはない。僕はかたく信じているのだが、僕らみんなが姿を消した後、後世の歴史家は間違いなく、昭和後半から平成30年の間の日本は最高の時間を持った、と評価するにちがいない。それを実現したのが ”アメリカ追随政治” だろうが ”無定見政府” だろうが (こればかりはとても起きそうにないが)”幸福実現党”だろうが、何でもいい。評価されるべき結果は大多数の国民が肯定し、慈しみ、無意味に異国で命を落とすことがなかった時代だった、ということに変わりはない。世界の民主主義の理想とされているアテネだって経済を支えていたのは奴隷であり、アメリカ人が無条件に崇拝する ”建国の父”たちだって同じことだったのだ。

第二は、番組で紹介された、日本全国で、国民がこの30年という時間を、天皇の在位とともに本当にいつくしんできた(いる)という事実である。繰り返すがこの間、天皇が政治に責任を持たれたわけではない。しかしみんなが”平成”という時間の経過を天皇という存在の中に意義付けていること、それこそが、”国民の象徴でありたい” と努力された天皇の業だったのではないだろうか。そしてその国民が生き方の基本としている基盤はやはり”和”ということにつきるのではないだろうか。そう考えれば、”令和” という年号はどうやって決まったのかは知らないが、全国民が ”和” を尊ぶ、という伝統をあらわしていると思う。

グローバリゼーション、という一種の魔術のもとで、個人の能力、個人の存在、といった価値が何よりも大事であり、そのためには日本人が変わらなければならない、ということが叫ばれて久しい。僕自身、このような主張に反対するわけではない。しかし企業という場ではあるけれども グローバリゼーションなるものの光と影とにいち早く直面した経験からいえば、日本あるいは日本人が守り続けてきて、今後も守り続けなければならない価値、それが ”和” だ、ということを改めて感じたことだった。

(この拙文を ”アップ” するのは令和元年5月1日零時、ということにする。残念ながら明日甲斐の国の空は雨、”元日に霊峰富士を見る”という目論見は実現しないようだが。)

リバタリアニズム とは?

本屋でいつも通り立ち読みをしていて偶然、”リバタリアニズム” というタイトルの本に出くわした。この考え方がいまアメリカの中間層を揺るがしている思想だ、というカバーにつられて買ってきた。著者は渡辺靖氏、最近よくテレビの討論会にも出てくるおなじみだったせいもある。このタイトルを同氏は自由至上主義、と訳している。一言で言えば公権力を極限まで制限し、”他人に影響しない”範囲で個人にはすべてが自由だ、という発想だという。その理想にしたがって、どのようなことが起きているか、についてはここでは繰り返さないが、この発想が現在のトランプ政権の行方にまで影響するという見立てであれば、ことは重大かもしれない。

今までの大まかなつかみ方で言えば、現存する支配層を維持しようというのが保守であり、改変を迫るのが革新、というのが定義であった。欧州では歴史的に見て絶対王権が存在していたわけだから、支配層に対する市民層の自由、という区別がそのまま保守・革新の定義だった。アメリカにはそもそもそういう歴史がないが憲法に明確に自由、ということが書かれているから、その是非・解釈・政策への反映をめぐるのが保守か革新か、ということになる。しかしリバタリアンの主張は今までの保守(共和党)でもなければ革新(民主党)でもなく、個々の問題について論点が異なる。よって、この思想の支持者の行方が、もしかするとトランプの再選か脱落を決定する要素になる、というのが渡辺氏の観察だ。

”リバタリアニズム” なる事象はまさにアメリカという国だからこそ起こり得るのだと思うが、日本の現状との接点について渡辺氏が本の最後に述べられていることについては全面的に同意できる。日本での保守と革新、という対立、その結果導き出される国の方向とか、政策というものがどういう過程を経て論議されているのか、本書の意義で言えば、リバタリアンというようないわば極論が出るよううになるまで、まじめに論議されているのだろうか、ということである。

われわれが在学したころ教わった資本主義国の福祉国家への転換路線、という動きはあちこちでほころびを見せている。昨年、ふとしたことから安田耕太郎君(44年)と一緒に成城大学講座で学んだ ”ポピュリズム” 旋風もその一つの表れだろう。そのような混迷のなかでも社会福祉路線が行き詰まり、少子高齢化という現象にさらされ、真の ”革新” が必要な日本なのに、今の政治で議論されていることの不思議さ、欧米ならば ”革新” 陣営が先導するはずの公権力による施策が ”保守” とされ、対応すべき革新勢力からはなんら実現可能な対案が見えてこない、という不思議さを同氏は憂慮する。参院選が目前に迫るいま、また僕らは不毛の選択を迫られるのだろうか。

やや詳細すぎて多少持て余す感じもあるが、本書(中公新書、定価800円)は決した高くはないと思う。一読をお勧めする。

またまた”ラプソディ”の話 (44 安田耕太郎)

(高橋良子の投稿から映画 ”ボヘミアン・ラプソディ” はKWVOB会仲間のあいだで一種のブームのようだ。まだまだ、”またまた”の知らせが来るのを楽しみにしよう)
遅ればせながら自宅近くの二子玉川でこの映画を観た。当日はiMax劇場のみ開演でど迫力の音響シャワーを浴びた。現役時代に納めた自分が勤務する会社の音響製品のサウンドを楽しんだ。
アカデミー賞主演男優賞を獲得したクイーンのフレディ・マーキュリー役の男優ラミ・マレックはエジプト人両親の二世としてアメリカ生まれ。最後はエイズで45歳で亡くなったフレディはグループの最年長で僕と同年1946年生まれ。同世代のロックグループということで若い時から聴いて知っていたグループだ。
両親はインドからの移民でタンザニア沖のイギリス保護領ザンジバル島生まれ。アフリカの東海岸には南アフリカに至るまでインド人移民が多い。古代ペルシャ発祥のゾロアスター教徒。生後まもなく両親の故郷インドに移り幼少期を過ごす。ピアノを習う。17歳の時一家でザンジバルに戻る。だが翌年ザンジバル革命勃発、身の安全を考えイギリスに移り住む。
クイーンのデビューは1973年のフレディー27歳の時。映画でもハイライトされた1985年の旧ウェンブリースタジアムにおけるライブエイド・コンサートの翌年のラストツアーまで27歳から40歳まで一番脂の乗った時期に活躍した。
日本公演も行っており、親日家であり来日の度に新宿二丁目通いをしてゲイバー「九州男」を贔屓にしていたとのこと。彼の稀有な才能はボーカルのみならずクイーン楽曲の大半を彼が作曲していたことからも伺える。代表作「ボヘミアン・ラプソディー」「伝説のチャンピオン」の作詞・作曲両方も手がける。映画ではこの二曲に「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が素晴らしかった。
ロック曲の中にあって、恋人メアリーと愛を語る時に流れたサン=サーンス作曲の「サムソンとデリラ」、そして違った場面で流れたドビュッシーの曲のクラシック音楽が静謐な雰囲気を醸し出して格調高く印象に強く残った。それにしても現代の映画作製技術には恐れ入る。ライブエイドコンサート旧ウエンブリースタジアムの10万人の観衆の興奮、歌声、音響、動作、演技を、過去の映像を含め全てシンクロナイズさせる手法などは朝飯前のレベルに現在はあるのだろう。主演のラリ・マレックの演技は口パクを含めてなかなかのものだ。
余談であるが、クイーンの伝記映画の主演男優がアカデミー賞を獲得したが、
2010年「英国王のスピーチ」(原題: The King ‘s Speech)で吃りのジョージ6世を演じたコリン・ファース、2014年 不世出の物理学者ホーキンス博士のの伝記映画「博士と彼女のセオリー」(原題: The Theory of Everything)で博士を演じたエディ・レッドメイン、更に2017年  「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」(原題: Darkest Hour) のチャーチル役ゲイリー・オールドマンがそれぞれ主演男優賞を獲得している。全てイギリス人やグループを描いた映画である。過去10年間で4人。大変な快挙だ。全て観たがそれぞれ個性豊かな俳優の名演技が光っていた。クイーンは同世代のミュージシャンとしてクリーム(エリック・クラプトンetc), ローリング・ストーンズ(ミック・ジャガー)などと同じようによく聴いていたので、映画も娯楽として楽しめた。次のイギリスの伝記映画となれば「ダイアナ妃」であろうか?

イチローのこと、映画のこと (44 安田耕太郎)

イチローについて、もとより今回の東京開幕戦が引退セレモニーとして設定されていたのは理解していたが、世界の安打製造機がここまで落ち込むとは予想していなかった。オープン戦での盗塁を見たとき、こんなピッチの上がらない走りなのかと驚いたし、またバッティングのスウィングスピードがまるでスローモーションのようで、三振も多過ぎたし動体視力の衰えは隠すべくもなく、潮時を実感した。
メジャーに行った時現地の悲観論にバカじゃあないかと、彼の成功を確信していたし、実際途方もない成績を残してくれた。レーザービームの強肩、韋駄天の盗塁、幾度と観た5打数5安打。新人でメジャーに行っていればピート・ローズの最多安打数を抜いていたに違いない。但し、華奢で非力な10代後半の少年が入団させてもらえたかは分からない。
生で一度は観てみたい選手がいるものだ。サッカーのマラドーナ、メッシ、ボクシングのモハメド・アリ、短距離走のウサイン・ボルト、バスケットボールのマイケル・ジョーダンなどだ。全盛期のイチローもこのエリート集団に入る。なので、彼はずうっと我らがヒーローである。
映画の話。ボヘミアン・ラプソディーの話題がブログ紙面を賑わせていたが、アカデミー賞授賞式の生中継をテレビで観た。今年2019年のアカデミー賞作品賞を獲得したグリーンブックGreen Bookを観た。
似たようなテーマ、白人と黒人の友情を描いた1967年制作の映画「夜の捜査線」(In the heat of the Night) が印象 に 残っている。南部の白人警察署長ロッド・スタイガーが、東部から来たフィラデルフィア市警警部シドニー・ポアチエを間違って殺人犯として逮捕、黒人に対する偏見と差別意識で侮辱する。やがてポアテュエの身体を張って事件解決にぶつかる姿勢と人柄に敬意を抱く、格調高い映画であった。時代を特徴付けた社会的テーマを両スター俳優が見事に演じた。わずかな仕草でそれが繊細に示されていた。当時は人種偏見葛藤問題を抱えながら、白人と黒人の絆、協調、友情を描いた知的な大人の映画だった。作品賞とロッド・スタイガーはアカデミー賞主演男優賞を獲得。アメリカ映画界の理性を感じた映画であった。
グリーンブックは黒人ピアニストと、雇われた白人イタリア系の運転手が、車で南部地域への演奏旅行に出かける。色々な都市が垣間見えて良かった。時は1962年、人種差別が色濃く残る南部を舞台に二人の葛藤、対立、友情を描く。白人目線で描いて、人種差別問題を爽やかに映画チックに取り扱っているのがやや物足りない。現実はこんなもんじゃあなかったのでは。50年前の夜の捜査線に軍配をあげる。次はボヘミアン・ラプソディーを観に行きます。

G is for Grafton

アメリカの女性ハードボイルド(HB)ライター、スー・グラフトンが惜しまれつつ他界したことについてはすでに書いた。女性のミステリ作家といえばもちろん大御所アガサ・クリスティーだが、HBの分野にもたとえばサラ・パレッキーなどが翻訳も出ていて女性ファンも数多いようだ(わがワイフもそのひとり)。

前にも書いたがグラフトンは ”アルファベットシリーズ” と称して、タイトルがアルファベットで始まる(第一作は A is for alibi)26本の小説を書くと宣言していたのだが、残念至極なことに25本目の Y is for Yesterday が遺作になってしまった。ライフワーク完了目前のことで、さぞ本人も口惜しかっただろうとしみじみ同情を禁じ得ない。最終作になるはずだった Z のタイトルは Zero であったと言われているが、こればかりは今となっては確認のしようがない。生前,彼女は ”自分の作品がクリスティのように愛されるものであってほしい” と願っていたという。クリスティには自分の最期を予測し、代表作 アクロイド殺人事件 に初めて登場させたエルキュール・ポアロを退場させるために、最期の作 カーテン を書く余裕があったのだが病魔はスーにその時間を与えなかったことになる。

このようなシリーズ作品には、愛読者の間に一種の連帯感みたいなものが生まれ、全作品を読み込んでその中からいろいろなトリビアを拾い出したり、それからいろんなことを自分で推理したり研究したりする仲間ができることがある。有名なものはシャーロック・ホームズ愛好者の集まりで、世界規模で協会まで設立されている。日本でも高名な作家やアマチュアにもシャーロッキアン、ワトソニアンを自称して、いろいろな研究を発表している人が数多い。たとえばワトソン博士が戦争で負傷したというがその部位がどこかとか、ホームズが東洋にいたというがそれはどこかとか(題名を思い出せないが、これを事実として書かれた日本を舞台にしたミステリがあった)、ホームズはアイリ―ン・アドラー( ”ボヘミアの醜聞” に登場し、ホームズが生涯ただひとつの敗北を喫する美女)を本気で愛していたのかとか、ありとあらゆることを作品の記述の中から推理するのである。小生横河HP在職中の先輩堀江幸夫氏も関連した論文を投稿されたように伺った記憶がある。

僕はまち中のひとりのHB読者であるにすぎないが、ロス・マクドナルドスティーヴ・ハミルトンあるいは原尞など、同一人物が主人公のシリーズ物は結構読んできた。 ただ、グラフトンはその作品の舞台が僕のサラリーマン生活を通じてなじみのあるカリフォルニアであること、25作すべてが80年代という時代背景であって、スマホだとかグーグルだとかいうおよそロマンのない無機的な夾雑物もなく、すべて主人公キンジー・ミルホーンが数少ない手がかりをひとつひとつひろっていく過程、マクドナルドのクオーターパウンダーが好物という彼女の生活態度などが僕の見知っている限りではまさにカリフォルニアウーマン(それも僕のいたころの、という但し書きがつくが)のスタイルであること、などたいへん気にいって第一作から読み始めた。

訃報に接して、それなら自分の読破計画に沿って全巻読破しようとアマゾンから何回かにわたって25冊、1年かかって取り揃えた。そのうち遺作になった ”Y is for Yesterday” は(なぜだか伺ったが忘れてしまった)1冊余分に持っているから、とKWV35年卒の徳生さんから頂戴した。現時点で T is for Trespas まで素読が終わって一息ついているところである。付け加えると徳生さんからはつい先日、また同じものを買っちゃったから、と今度はバルダッチの新作をもらった。先輩、この調子で行ってください!。

ここまでくると、自分もキンジーアンかミルホーニアンになるつもりでトリビア研究でも始めて見るかと思案していたら、なんのことはない、すでにその集大成みたいな本があることを偶然知った。それが G is for Grafton である。まだ目次をみただけだが、その内容は、キンジーがどんな性格であるかとか、男運が悪いとか、食べ物の趣味はなんだとか、住んでいる部屋はどんなものだとか、まあ面白そうなものだが、これは25冊読了してからの楽しみにしておく。

さて、このシリーズの舞台はサンタ・テレサという架空の街になっていて、熱心な読者の一致するところ、太平洋に面した美しい街サンタ・バーバラがモデルなのだということがほぼ結論づけられている。今まで読んだ中にも、たとえば ”ロスアンジェルスから何マイル” とか、”サンフランシスコは北に何マイル” だとか、頻繁に出てくるハイウエイがUS101(ベイショアフリーウエイ)という著名なものであったり、それを裏付ける記述はたくさんある。さらに面白いのはこの町の名前が HBの大立者ロス・マクドナルドの後期4作品にでてくることであり(代表作 ”動く標的” もそのひとつであることは早速確認した)、ミルホーンが生前、マクドナルドに心酔していたということなどがわかってきて、サンタ・テレサがどんな街か?という興味がわいてきた。25作読むことがまず当面の目的だが、その中から、街の描写とか、通りや施設の名前とか、そういうものをまとめると ”サンタ・テレサ市街図” ができやしないか? というのが今の僕の思惑で、1冊終わるごとに関連項目をエクセルにためこんでいる(全作でキンジー自身は情報管理にはインデックスカードを用いている)。G is for Grafton までたどり着けるかどうか、が当面の心配なのだけれど。

 

 

 

恩師からの贈り物

1月13日、本稿で、小生小学校時代の恩師から頂いた便りを紹介した。40数年前の滞米中、母親に送ったグレープフルーツ(当時まだ珍しかった)のいくつかを母が先生にお送りしたらしい。その種を庭に蒔いておいたところ、実に40数年後,実がなった、という驚くような話であった。

今日、彼岸にあわせて、そのうちの1個をわざわざお送りいただいた。驚くと同時になんとも嬉しく、当日関西出張中で最期にも立ち会えなかった母のことを改めて思い出した。私事ではあるが、ほのぼのとした体験をわかっていただけばと思い写真をとった。同封されていたメモ、先生にお断りはしていないが小生の、いわば時空を超えた、感激を味わっていただけるように転載させていただく。

俺も見たよ

高橋良子からのメールがきっかけになって、昨晩,八恵子と調布に新設されたシネコンで話題の ボヘミアンラプソディー を観た(翠川夫妻の住んでいる西東京市とはやはり住民の文化への関心が格段に違うと見え、座席は完売であったし、ポプコーンをポリポリしてる人もあまり見かけなかった)。

率直に感想を言うと、ま、映画のストーリーはこの種の映画によくあるパターンだったので、多少意気込んでいたが肩透かしを食った気がしないでもない。しかしたとえば、あの ”グレンミラー物語“ だとか、最近でいえばカントリーの大物ジョニー・キャッシュの苦労話である ”アイ・ウオーク・ザ・ライン“ には、何はともあれ、背後には基本的に楽天的なアメリカ文化というかアメリカ観が横たわっていた、つまり最後にはハッピーエンディングが予感できるのに対して(ミラーは飛行機事故で不帰の客になるのだが、愛妻ジューン・アリソンの受け止め方なんかが実にアメリカ的)、このエンディングにはこの、いわば アメリカ的 な救いがない(最後にフレディが現実にAIDSで亡くなってしまったという事実が表示されるが、そのことは別にして)。

ぼくもエンディングに歌われる We are the Champions には感動した。人種を越えて人々が共感する、音楽の力というのか、そういうものを素直に受け止めることができた。しかし、スクリーンに投射される訳詞に、自分たちは笠雲の影におびえて生きている、というフレーズを観て、なるほど、と思った。正直言えば映画そのものの鑑賞というよりそのことのほうを強く感じた2時間であった。

世の中、東西を問わず、戦争という残虐行為に反抗するのは若人の常であろう。僕らの時代ではその象徴は “花はどこへ行ったの Where have all the flowers gone ” であったし、少し遅れてやってきたフォークソング時代では、“戦争を知らない子供たち”や、“坊や大きくならないで” なども思い出される。これらのメロディを好んだ僕らの世代にとって”戦争“というのは身をもって体験した人間世界の”悪“であり、何らかの実態というか存在を自分で感じたり、少なくともそれから類推できる範疇のものだったが、いっぽう、それはあくまで国家間の悪事であり、人間の英知なり理性なりで制限し、あるいは根絶ができるものと思われてきた。だが、日本人にとってみれば、国土の中で戦われた行為は、現地の人たちには申し訳ないが、沖縄でしか見聞きしていない。というかしないで済んだ。第一次大戦では勝利国のひとりでさえあった。

しかし自分の国土が敵国によって踏み荒らされ、軍政と傀儡政府による醜悪な事実に2度も直面したヨーロッパの人たちの戦争観というものはまた違うのではないか。そしてそれが今度は、陸続きの、文化文明や宗教の多くを共有する隣国が核兵器を持ち、おそらく絶えることのない人種問題や一神教同士のせめぎあいを目の前にしているヨーロッパ人にとっては、この ”笠雲“の恐怖、核戦争の可能性が日常化している度合いは、現在の日本とはまた違った切実さがあるのではないだろうか。若者が抱く不安、無力感、虚無観といったものは日本の若者よりさらに深いのではないだろうか。

現実の世界に若者が抱く不満不安幻想は世の常であり、それをどのように考え、発想発散し、ある時には具体的に行動する。その形の一つがその時代に共感を呼ぶことのできる文学作品であり、映画であり、音楽やそのほかの形式が存在する。僕は音楽について多くを語る資格はないが、考えてみれば、”ロックミュージック“ という定義そのものをビル・ヘイリーの Rock around the clock で知り、プレスリーに衝撃を受けた記憶は確かにある。しかしそれはあくまで 音楽というジャンルのなかで解釈できるものだった。

We are the champions は、その意味で、音楽、なのだろうか。核の恐怖、が日常生活の一部として存在するヨーロッパの若者が共感し(余談だがあのラストの群衆シーン、当然CGで作ったのだとは思うが、現実に感じられた。これが映画としての実力だろうが)、AIDSという共通の問題解決への貢献につなぐ。これはむしろ宗教に近いものなのかもしれない。この映画を見て味わったことであった。