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グレン・キャンベルのこと  (40 武鑓宰)

人の誠意は国境を越える! (32 伊豆山康夫  47 関谷誠)

(関谷誠君からの便り)

ご存知かと思いますが、KWV32年卒の伊豆山康夫さんは若くしてブラジルに渡り、CIS Eletronicaという電子部品メーカーを起業され、かの地で成功を収められている大先輩です。先日、「日本ブラジル中央協会」なる団体の会報に伊豆山さんが添付を寄稿され、それがブラジル関係者の間での情報ネットワークで流れてきました。

小生その昔、ブラジル各地の拠点で総勢5千人を超える従業員を預かっていた時代、常時200件を超す労働訴訟を抱え、苦労させられました。莫大な費用と時間を費やしましたが、伊豆山さんレポートのテーマでもある最近の労働法の改正で、多少は改善されているようです。

伊豆山さんはこの仲間内のネットワークで「個人の生き方も、会社経営も、所詮、人間の為すもので基本はブラジルであろうと、日本であろうと、何処の国であろうと変わらないとの思いを伝えたく書いたものです」とコメントをされています。伊豆山さんの長年のご苦労とこの人間に対する深い思いに感銘を受け、斯様なKWV三田会会員がいらっしゃることをご紹介いたしたく投稿します。

 

ブラジル新労働法に思うこと

執筆者:伊豆山 康夫 (CIS ELECTRONICA社 会長) 

Manausに本格的工場を設立したのは2015年、既に2年半になりますが、弊社とパートナーを組み、生産委託をしてくれる会社が現行数社あります。(TornozeleiraのSpacecomもその一社です。) お蔭さまで、順調に推移して参りましたが、CIS Eletronica(サンパウロ)の工場は仕事がどんどんと減少し、工場閉鎖も止む無き状況になりました。従来より出来るだけ従業員を減らして参りましたが、遂に採算維持上、サンパウロに セールス、サービス、管理、技術開発部門を残し、サンパウロの生産工場は、閉鎖せざるを得ない状況に陥りました。何しろ操業34年と長い間、弊社の生産を支えて来た工場なので、15年~20年勤務の工員(大半は女性)が大勢いて、解雇には大きな費用が掛かりますし、万一争議になれば、収拾が困難になることも予想されました。

既に新労働法が議会を通過し2017年11月に発効が決まりましたので、リストラ断行を先延ばしして、新労働法発効に合わせ11月30日とし、実行の準備、検討をして参りました。工場閉鎖に当たっては、弊社の弁護士が、新労働法に基づき、4通りのリストラ案を提示しましたので、それらを役員会で検討し、その一つである労組の仲介案の採用を決めました。そして、労組と交渉を開始、漸く11月末日をリストラ条件提示の日と決め、当日、辞めさせる人、残って貰う人両方合わせ全員に集まってもらいました。

私は今でも名目社長を務めていますが、実質社長の長男は、労組代表が弊社のリストラ案を全社員に提示する前に、自分からどうしても全社員に伝えたいメッセージがあるからと、事前に労組代表の了解をとり、檀上にあがり、リストラに至るやむを得ない事情を話し始めました。ところが何時も強気な長男が檀上で声が詰って話せない状態になりました。  彼の断腸の思いは皆に伝わり、皆涙ぐみ、冷水をコップに注いで持ってきてくれる者もいて、会場は静寂に包まれました。私は内心、誰か拍手をしてくれないか、そうすれば、全員から拍手を貰えるのにと、拍手を期待しましたが、残念ながら拍手は起こりませんでした。CISにはもう一人、息子の学友で、技術、生産部門を担当してくれている役員がいます。 彼は、声を詰まらせた息子を見るに見かねて立上りましたが、彼も又、言葉を発することが出来ない状況でした。

見るに見かねた私は、止むを得ず立ち上がり、「私の最も嬉しく思った思い出話」として、少々場違いの感はありましたが、次の話をいたしました。

それは、ある日の家族を含めた会社のパーティーの時、工員さんの一人が、未だ小さな自分の子供を私の処に連れて来て、「この私の子を、将来、CISで働かせたいので、この子を覚えて下さい」と云うのです。(実は同じ様なことは過去、何回か、別の従業員からもあったのですが、)この社員の気持ちは私にとって、忘れられない、とても嬉しいことでした。 そして「どうか皆さん、会社を辞めても、それはCISファミリーからの縁切りではないので、年末のパーティーや社内の慰安旅行にはこれからも参加して下さい」と締めくくりました。その後、労組代表から辞めて貰う社員名、退職条件の発表、承諾の是非、等々、詳細に入りましたが、去る者、残る者、皆明るく、終了後は笑い声が絶えず、何時もの社内パーティーの如き雰囲気になりました。

この結末は労組代表の女性弁護士さんにも強い感動を与えたようでした。彼女の言葉は「私は100社近い集団解雇の交渉に立合って来ましたが、CISの様な会社に初めて出会いました。もっと早くに知り合いたかったです。」とのことでした。

私はつくづく考え込んでしまいました。 従業員、いえ、人間の気持ちは日本もブラジルも変わらない。誠意は通じるものだと改めて思うのでした。ブラジルでの労務対策は他国と比較して決して難しいものではない。むしろ易しいのでは無いかと今は思い直しています。 労働者、貧困者、身体障碍者などの権利、義務を主張すること自体、決して間違っているとは思いませんが、度を超すと人間の善意を妨げる結果に繋がることもあり得るわけで、理想郷を造るのは如何に難しいことか。真の優和を求めるには宗教に依存する道しか人間には残されていないのだろうか? 深く考えさせられます。

現地三田会で塾森常任理事

(伊豆山さんの関谷君あて返信)

関谷さん

ご連絡有難うございます。関谷さんも同様かも知れませんが、私には、今となっては、KWVの仲間が一番大事です。私の帰国に合わせ32年の仲間が集まりますが、帰国時の一番の楽しみです。関谷さんはじめ、後輩の方々も同じだと思います。現役の方々にも、この伝統は伝わっているのでしょうが、是非、そうであって欲しいです。お申し越しの件、承知しました。どうぞ皆さんにご披露下さい。

今年のカーニバルも、リオのMarques de Sapucaiに行き Mangueiraに参加します。皆さんにご紹介出来るような参観記が掛けましたらお送り致します。

伊豆山

 

 

3000を愛した人の会 

3000、と言っても何のことか、と言われるのは当たり前だが、ヒューレット・パッカード(今HPとして知られている会社は僕らの愛していた会社とはあまりに掛け違う別物なので、あえてこの略称は使わない)が70年代後半に発表した ”汎用(まだ当時は技術用とは区別されていた)“ コンピュータの名前である。電子技術においては世界で一、二を争う超優良会社がなぜこの業界に挑んだのかは興味あることだが、まさかIBMですら苦戦を強いられていた日本のコンピュータ市場に進出するとは、当時の常識でいえば考えられなかった。しかし日本での総代理店であった横河ヒューレットパッカード(YHP)では立場上、親会社の意向には逆らえず、苦戦覚悟で1980年から準備がはじまった。その時に招集された仲間が久しぶりに集まる会合が2月2日夜、設けられた。僕は2年ほどたってからかかわったので、オリジナルメンバーではないのだが、席に呼ばれる光栄に浴したわけだ。

当時新入社員であった瓜谷輝之によると、配属前に “運の悪いやつがひとりだけ3000に呼ばれる” といううわさが流れ、よもや俺ではないだろうなと思っていたそうだ。配属が発表された日には同期の仲間が残念会をやってくれた、というから、だれの目に見ても勝ち目のない戦だったのだろう。僕のほうはその2年前、別の企画があってもう片方の親会社横河電機に出向していた。期間が終わり、”このまま残れ”と言われたのだが、どうしても戻りたい、と言ったら、”戻るなら3000の部署しかないぞ“といわれた。”しか“ である。どのらい ”しか“ だったかは、ワンダー時代の仲間や経済学部F組のクラスメートで当時同業にあった連中のほうがよく知っているだろう。

が、ま、とにかく言った以上は引っ込みがつかず、1981年からこの場所での仕事が始まった。その後の苦戦具合についてはいまさら話をするつもりもない。ただ、今日の席を設けてくれたオリジナルメンバー、その後、この今考えても困難な企画に参画してくれた後輩たちとは、これ以上ない、貴重な経験をさせてもらった。僕自身についていえば、3年を費やしても結果が出ず、当然ながら担当をクビになったのだが、誠に幸運なことに会社自体は日の出の勢いだったから、ポジションができ、まもなく営業の一線に戻してもらえた。その後の時間を含めて、3000と過ごした時間は、僕にとっては第三の青春、といってはばからない、苦しかったが楽しいものだった。甘酸っぱい思い出のつまった慶応高校時代から大学ではワンダーフォーゲルで過ごした4年間が第一の青春であったとすれば、第二の青春、はYHP八王子工場の生産現場で “一工員” として過ごした2年間だった。そしてこの第三の青春、のほとんどは新宿、第一生命ビルの6階で燃焼しつくした。

さて、今回は瓜谷の骨折りで昔の仲間が久しぶりに集まったこの席、いろいろと話が弾む中で菅井康二から聞いた話が僕を感激させたので書いておきたい。。

3000の最大のユーザは何と言っても全国の工場の生産管理用にと採用してくれたT社で、当時の永島陸郎社長は同じゼミの仲間だった。当然僕も足しげく彼のもとに通い、最終的に採用してもらったわけだが、菅井が永島の親戚筋に当たるY氏と知り合い、ある席でこの話がでたそうだ。Y氏によれば、当時永島のスタッフはほとんど全員が3000の採用に反対だったが、彼の ”俺はコンサルタントより学友の言うことを信じる“ という一言で話が決まったというのだ。永島とは卒業後も親交があったが、そんなことは何一つ、言わなかった。寡黙だが誠実、という印象そのものの男だったが、改めて深い感謝の念を新たにする。痛恨の極みだが彼は2年前、病を得て急逝してしまった。いまとなってはただ、合掌するのみである。

当日、新宿で会が終了し、出席した9人と別れた後、ひとりでこの思い出深いビルを訪れた。僕の退職記念パーティーは関係者の心づかいで、ここで開いてもらったのだが、それ以来、実に20年ぶりである。もちろん、すでに働いている人は当然いない時間で、エレベータを降りた6階はただしんとしていた。フロアを歩いてみた。僕が座っていた”支社長室“のあったところはなんと新宿区の税務事務所。ほかにいくつかの会社。何の音も聞こえない、三角形のフロアをひとめぐりするうちにいろんな記憶が錯綜し、殺到し、共鳴する。なんともいいようのない時間だった。

“明治は遠くなりにけり”と詠んだのが中村草田男だったか、久保田万太郎だったか忘れてしまったが、その句が心に浮かび、平成も終わろうとしているいま、時間の冷酷なありようを改めて感じて帰ってきた。

笹岡さんのこと    (元日本HP   東栄一)

TQCって覚えてますか?

正月早々に、勤務先であった日本(創立時点の“横河”のほうがいいのだが)ヒューレット・パッカード社元社長,笹岡健三さんの訃報が届いた。京都大学出身、横河電機時代測定器技術部門のエースとよばれた方だったが、京大スキー部のファウンディングメンバーでもあり、仕事のほうは当然として、スキー仲間として目をかけていただき、プライベートにもいろいろとお世話になった先輩である。

このようないわばプライベートな事柄を書くのは、笹岡さんとTQCという活動が切っても切れない関係だからで、同氏の訃報を聞き、一番に思い起こしたのがそのことだったからだ。80年代後半から90年代まで、日本の実業界、特に製造業の有為転変に深いつながりをもった“TQC”, ご存知ない方に解題しておくと、Total Quality Control、 日本語訳が何だったのか、忘れてしまったが、モノづくり、ひいては企業経営の中心軸に”品質(Quality)”という概念を据え、”品質”とは出来上がった製品の出来栄えのことだけを指すのではなく、そのような優れた品質を生み出すすべての(Total)企業プロセスが最終顧客の要求に合致することを目標に組み立てられるべきだ、とする経営思想、というべきものだ。それが、登り坂にさしかかり、世界市場を相手にすることになった日本の、とくに製造業の経営陣にアピールし、その思想の発案者である米国のデミング氏にちなんで”デミング賞”なるものが設けられ、各社がその獲得を一つのメルクマールとしてしのぎを削った。日本(当時は横河)HP社は、”外資系企業“のデ賞一番乗りを果たした。その牽引車が笹岡さんだったのである。

先回、“CLASH”ということを書いたときに触れておいたが、当時の我々のあいだにわだかまっていた米国企業崇拝思想のゆえか、デミング理論そのものが米国における先進的な理論であるように受け取られていた。その中に据えられていた数理的な取り扱いがいわゆる伝統的な”日本的経営”(なんだかよくわからないものの当然視されていた)に対するアンチテーゼとして技術者出身の笹岡さんには大いに共感するものがあったのだろうと思われる。ただ、誠に面白いというか今振り返れば皮肉としか言えないのだが、デミング氏が言いたかったのはそれまでの、フォードに始まるベルトコンベヤー的、機械的なアメリカ企業の生き方に対して、より人間的な、ソフト面を重視した考えの必要性であって、それを立証する一つのすべとして、米国人に受け入れやすい”数理”を持ち込んだのだ、ということ、その意味ではデミングが日本的経営の在り方を高く評価していた、ということもかの“CLASH” を読んで初めて理解した。

その意味では、この“TQC”の咀嚼方法が、当時運動の展開に取り組んだ経営学、経営工学の学者たちによる啓蒙活動ではじまり、もたらされた展開手法が時として現実離れした理想追及第一になり、専門家(とわれわれは信じ込まされていた)先生方の権威主義的な”指導“だったことは、実は”日本的経営”の手法そのものだったと思える部分もあった。そのありように反抗し、僕のもともとのアマノジャク性格が災いして、マネージャ層にあって“ジャイはアンチQC人間だ”と危険視されていたことは否定しない。このあたりの事情は、CLASHの項について投稿してくれた坂東正康君がいみじくも喝破したように、戦前の“八紘一宇”的だった、というのは正鵠を射ているかもしれない。

しかしこんなことはどうでもいいので、ここで話題にしたいのは、昨今の重大問題である大手企業のいわば“品質詐称”とでもいえる行動のことである。僕が知る限り、対象となっている”被告“はいずれもTQCの洗礼を受け、多くの場で我々の先輩的立場にあった企業だから、また、大規模なプロセス管理を実施しているところだから、”製品そのもの“が粗悪なものである、とは考えにくい。問題は”実績重視“、といえば格好いいが、要は数字を割り付けられた中間マネジメントが苦し紛れにとった、数字合わせのための一種の反逆的行動だということだ。これが日本のみならず、”ドイツ的品質”と礼賛されたヨーロッパにも同様のことが起きている、ということも、現在世界を席巻している”グローバル企業”の在り方、その根源にある”アメリカ的“な経営、というか思想の問題ではないのか、ということである。

僕が尊敬する大先輩横河正三さんがかつて”アメリカ人てえのは英語をしゃべるキリストだからなあ”と慨嘆されたことがある。デミングが指摘したように、アメリカの社会、”国民”のアイデンディを持たない人間の集まりで唯一通用するのは”数字“である。それが確かにある場、ある時代には先駆的な思想であった。そのことが”グローバル”であることは”アメリカ的“である、あらねばならない、というのが、今の先進的(と思われている)企業の”グローバリゼーション”の現実である。その先駆者のひとつであった、より詳しく言えば創立者ヒューレット、パッカードが率いていたころのHPはThink Global,Act Local ということを標榜していたし、我々も大いに納得していたものだ。 しかし”グローバル企業”の先頭を切ったHP、まだ規模の小さい時点ですでに”ワールドワイド企業”とされていた、僕らの知っていたHPという会社、かつてはアメリカ企業の社会的責任も含めて、“Most admired company” ベストテンの常連だった会社は変貌してしまった。というか、発展的解消なのか四分五裂なのかわからないが、なくなってしまった(社名だけは残っているが)。この事実もまた、問題になっている企業群が示した”数字”一人歩きの結果のように思えてならないのが、引退してほぼ20年、一OBの取り越し苦労ならいいのだが。

笹岡さんご自身、本体のHPにTQC思想を喚起しようと懸命に努力されていた。当時のHPには経営のバイブルとして”会社の目的”(Company Objectives)というものが存在した。その一項目にはじめて Quality という単語が記載されたとき、”巨艦ついに動けり”と喜んでおられたのが鮮明な記憶としてある。

先輩、安らかにお眠りください。

スー・グラフトンが亡くなった

大晦日、読売新聞はスー・グラフトンの逝去を伝えた。年の終わり、惜しまれつつ旅立った人の話が特集されるのが常であるが、僕にとって今年はグレン・キャンベルとともに惜しまれる、二つ目の別れだ。

女性のミステリライタは大御所アガサ・クリスティをはじめ数多いが、ハードボイルド・タッチの作品を書いた人としては筆頭に挙げられるだろう。八恵子は女流作家の本を中心に読んでいるが、本棚の一角はルース・レンデル、サラ・パレッキとならんでグラフトンのシリーズが並んでいる。グラフトンは本のタイトルをすべてアルファベット一文字ではじめたことで有名で、彼女の本箱にはAからRまでが並んでいるのだが、Sを探すあたりでどういうものか翻訳が出なくなってしまった。シリーズ翻訳者の都合なのかどうか、はたまた、原著者が約束通りZまで書き続けるのか、二人でやきもきしていたところだ。 A is for Alibi (アリバイのA、嵯峨静江訳)で始まったシリーズは完成まであと一冊、Yで終わったようだ。本人もさぞかし無念であったろうと思う。人間、いろいろと計画をたて野心を抱いてはついえ、あるいは絶望し、あるいはまた次の目標にむかうものだ。グラフトンの人生計画に比べればなんともささやかな挑戦ではあるけれど、目をつむるまでにミステリ原本10万ページ読了、という2013年3月1日にはじめた僕の計画は本日で55、630ページまできた。来年はグラフトンシリーズAからY(Y is for Yesterday)までを目標にすることにし、さきほど、アマゾンに第一回の注文を入れた。AからCまでの合本,5、841円。さあ、お立会い。かかりつけ医のI氏によれば、脳に刺激を与え続けることが認知症予防に最大の効果があり、なかでも外国語を読む(話せればさらに効果あり)ことがイチオシだそうだ。ほんとなら3冊で5000円なにがし、25冊で4万円ばかりの投資はやすいもんだ。18年末に結果がご報告できることを念じて。

つたないブログ、お読みいただいた友人各位に感謝。2018年がいい年でありますように。

CLASH !

ふた月ほど前、読売新聞の書評欄で”日米の衝突”という本のことが出ているのを見つけた。米国企業に籍を置いた日本人の一人として、この種の書にはどうしても目が行く。この本の原題が CLASH とあったので、早速グーグルで当たってみて、著者ウオルター・ラフィーバーという人が米国でも権威のあるバンクロフト賞を受賞したことを知った。

同時に、CLASHという単語が英語の知識啓蒙をしているホームページ (talking-english.net)に誘導してくれた。”衝突”を意味する語にCLASH、CRASH、CRUSHという発音だけでは日本人にはまず識別できないものが三つあり、その差がよくわからなかった。この悩みはどうも僕だけでないようで、このHPは三つの違いを、実に写真入りで解説してくれた。いわく、

CLASH は“ぶつかる”のだが、双方とも深い傷を負わない程度“であるとき

CRASH は”ぶつかって相手も自分も深く傷つく“とき

CRUSH は“ぶつかって相手を完全に押しつぶしてしまうとき

に使うのだそうで、以下の3枚の写真がそえてあった。実に明快な回答であった。

このHPで得た知識で判断すると、この本が扱っている主題がおぼろげながらわかり、それが勤務の間にいやというほど見聞きし、ある時は渦中にほうりこまれた”日米の衝突“のイメージのように思えてきて読書欲をそそられた。だが書評にあった翻訳を読むとなるとどうしても翻訳者の主観がはいってしまい、自分の感覚とずれることもあるような気がして、思い切ってアマゾンで原書を入手した。届いた本は予想以上に分厚く、多少知っていた歴史的事実もあって、思ったよりも楽だったがハードボイルドのように斜め読みもできず、今日(11月19日)までほぼ3月をかけて何とか読了。ほっとしてテレビをつけたら、真珠湾、文字通り”日米の衝突“(この場合はCRASHだったのだろうが)そのものをとりあげた”トラ・トラ・トラ”をやっているではないか。この映画を見るのは3度めになるのだが、読み終えた内容が心にしっかり残っている状況で最後まで見てしまった。そんなこともあって、映画評はともかく、僕がこの本をどう読んだか、ということを書いてみたい(日本語版は彩流社から出ているとのことである)。

本書は12の章に整理され、最後に結論として9ページの記述があり、76ページにおよぶ参考文献と18ページにわたって項目別の索引がついている。その前半はペリーの来航からはじまり明治維新をへて列強の一角に加わるまで、日本史の教科書にでてくる事実の確認になるのだが、当時の日本人が鎖国にかかわらず世界情勢や科学技術に関して広い知識を持っていたことや、ペリー一行が日本人を驚かそうとして持ち込んだ欧米の先進的な技術が、数年後の再来日の時点ではすでに日本人の手で複製されていたことに驚愕した、というような記述がある。当時の日本人エリートの高い知識・知性のレベルがそのあとに続く明治維新を可能にしたのだ、ということ、わずか半世紀でどうして日本が列強入りするまでの国になり得たのか、今まで理解できなかった疑問が氷解したような気がする。

この時点でのアメリカの立場は、天皇あてフィルモア大統領の親書にあるように、日本がアメリカ合衆国との間に自由な貿易を開始することを促すものだったそうだ。ところがそれから半世紀たった1989年、当時の国務長官ベイカーは,米国の対日政策は日本を内向き(inward-looking)の重商的な経済大国から外向き(outward-looking)で経済的政治的強国にさせ、アメリカと強固な同盟関係を結ばせることである“と言っている。この間、日米の間の立ち位置・関係は全く変わっていなかったのではないか、というのが著者がその結論の章で述べていることの一つであるし、それが本書のタイトルを”CLASH”とした理由ではないか、と思われる。

このような日米間の交流の始まりがそれからどのように展開していったのか、本書の中では数章を割いて述べている。西部の開拓がおわり、カリフォルニアの先にある太平洋に目を向けたアメリカが必要としたのは実は自国の製品のマーケットとしての中国であり、日本はそのためのいってみれば都合の良い出先として必要だっただけだのだ、ということが重要である。そのアメリカにとって予想外だったのが日本という国の成長の早さであって、明治維新後、日本は西欧技術をすごい速さで消化し発展させた。その技術的展開によって、それまでの技術・国力の水準では必要なかった資源が必要になり、それが日本国内には存在しなかった、ということが日本の眼を外部にむけさせた。その結果、当時の世界の行動原理であった帝国主義にのっとり進出の対象になったのが中国の資源であった。”外向き“にはなったのだが、その理由が中国、アジアを自国製品の市場としてとらえていたアメリカとは全く違った。中国を必要としながら二つの国が同床異夢を見ていたわけだ。その間の展開、中国での戦争、そして真珠湾にいたる過程はすでに僕らの知っている通りである。

しかし第二次大戦の終了、アメリカによる占領から今日までの展開については、(ああ、そういうことだったのか)と感じることが非常に多い。第九章から第十二章までの部分がそれで、僕が特に感銘をうけたというか、なるほど、と感じたことをいくつかあげる。

第十章には、The 1950s: The pivotal decade (転換期となった1950年代) という題がつけられていて、ポイントになる何人かの名前があげられる。いわゆる冷戦の初期で、アメリカ外交の立役者だったダレス国務長官の名前が出ているのは納得できるのだが、実にその次に”デミング”という名前があるのには本当に驚かされた。80年代から90年代にかけて、日本産業界を席捲した、かのQCブームの生みの親であり、僕自身、勤務先でその洗礼を受けたので名前はもちろんよく知っていたが、その人物が日米外交史に登場するのは一体なぜなのか。著者がここでデミングについて触れたのはその理論を実現する素地があるのは、米国企業ではなく日本企業であって、そのことが実はひいては埋めきれない日米の溝なのだ、と言いたいからのようだ。事実、デミングは米国産業界では異端と言っていい存在であって、結果的には日本だけが彼の議論の影響を受けた。それがなぜか、ということがこの本を読んで納得できた。我々はデミング中の数理的技法だけにとらわれているが、著者はデミングが主張したのは職場、グループが一体となって働き、個よりも集団のもつ知恵や士気の高揚によって生産性を上げることであり、数理的な技法はそのための共通の問題点やその解決方法を発見し共有することだったのだという。そしてそれが日本の文化(著者はたびたび wa=和 ということをあげている)になじみ、欧米との技術格差に対抗し得るすべとしての“品質”という武器になり、驚異の高度成長にむすびついたのだ、と主張する。著者はこの影響が朝鮮戦争によって国連軍の兵站基地となった日本にタイミングよく導入されたのだ、ともいう(この主張は多少誤解・誇張があるように思える)。もうひとつ日本経済が飛躍した大きな原因として keiretsu=系列 という概念の存在もくり返し出てくる。これもたしかにアメリカには存在しえないものであって、いずれも個人より帰属するグループを意識する日本伝統の文化のあらわれであり、それは形や程度こそ変わったものの、現在も厳然として存在している事は我々はよく知っている。このような差異に関連して、アメリカが唱えている資本主義と日本のそれが名前こそ同じであっても、政府や公的機関による調整の在り方などにおいて、決して同一の基盤に立っているものではない、ということも各所にでてくる。そしてそれがもたらす間隔は日米両国に今後もあり続けるだろう、というのが著者の結論のひとつであるようだ。

経済的な面での議論のほかに、(やっぱり、なあ)と思ってしまうのが、人種差別問題である。ウッドロー・ウイルソンは国際連盟の提案者として、その主張は人道的であり平和第一の人格者であると教わってきたが、彼自身は米国金融界の中国市場進出欲を代弁し、かつ日本人に対する反感が非常に強い人物であったとされる。日米開戦時の大統領だったルーズベルトは芯からの排日主義者で、日本にまず手を出させればアメリカの正義が定まる、ということを考えていて、真珠湾攻撃も事前にわかっていたにもかかわらずあえて攻撃をさせたとされている(このことは “トラ、トラ、トラ”にも出てくる)。また近年、正式な国としての謝罪はあったというものの、戦時中、日本人だけが強制収容された事実、公民権運動までつづいた(いまでもなくなったとは言えぬ)黒人などへの差別、また理由は違うかもしれないが最近の移民問題など、わが国では理解できない問題が依然存在する。

また前に見たように、中国の存在が日米共通の問題であることは変わっていないが、この本を読むと、米国指導層の対中国観が揺れ動いていることもよくわかる。ただその動きの底流にあるのは、やはり対決姿勢であって、その理由は依然共産主義に対する反感、恐怖であり、日本との間に存在する“間隔”とは異質のものであろう。その意味で、日本と米国のCLASHは今後もありつづけるであろうが、中国米国の間のそれはCRASHに変貌する危険を持っている、といえるのだろうか。

以上のこととは別に、改めて意識したのが、米国によって占領され、武装解除された日本が、平和主義国家として再生(多少ひっかかることはあるが)しつつあった50-70年代、米ソ冷戦のただなかで、日本の地理的位置から(アジアのことはアジア人同士で戦わせよ)という思想のもとで日本を再武装させようという、まったくもって身勝手な議論があったことである。憲法論議もいろいろあるが、この理不尽な要求を歴代の内閣がいかに苦労してやめさせ、そのエネルギーを経済再生にむけてきたか、という過程はおぼろげながら理解していたつもりだが、この本はそれを実に鮮やかに解説してくれた。佐藤栄作がなぜノーベル平和賞をもらったのか、その理由も初めて分かった気がする。

今、日本はこれまでたどってきた道の、歴史的転換点にいる。そしてその最大の焦点が依然として中国問題であることは、ペリーが来航して開国を迫った時以来、日米間に存在してきた事実であり、歴史のアイロニーであると思わざるを得ない。願わくば日中関係がCRASHにならないことを祈ろう。

PS

やけに言葉にこだわるようだが、昨日、書店で一時有名になったハンチントンの”文明の衝突“の新装版が並んでいるのを見つけ、そのタイトルが CLASH であることに気が付いた。ずいぶん以前に読んだのでよく内容を覚えていないが、今回新たに学んだ知識によれば、これは CRASH であるべきではないか ? 残念ながらハンチントン氏に聞くわけにもいかないのだが。

 

冒険小説への招待

”アメリカ人が冒険小説を書くとハードボイルドになる”ということがいわれるが、これが単に文体とかスタイルのことをさすのか、作品の本質をいうのかはよくわからない。ただ、島国として常に海洋と向き合ってきた単一民族イギリス人と、内陸開拓に邁進した多民族国家のアメリカ人とでは、”冒険”ということの本質が大きく異なっていた(きた)のではないだろうか。いろいろな理屈を考えて美化をしてみても、双方とも弱肉強食、他民族の征服の結果今日があることに相違はない。ただ確固とした社会通念と階級社会が存在し,騎士道精神というものを誇りとするイギリス人にとっては、その”冒険”の結果を単に物質的な利益のみならず大英帝国の威厳ということに帰結させる意識が常にあったように思えるのに対し、先住民族を殺戮することによって得られる物質的利益のみが、ありとあらゆる背景を背負ってこの国にやって来た異文化人をつなぐ唯一の共通項であったアメリカ人の”冒険”とでは、社会的、文化的な背景が大きく違ったのではないだろうか。

”大西部”の征服が終わり、太平洋に顔を向ける時代になっても、銃のみが共通言語であり、金銭的成功のみが社会的地位を決めるという文化、その結果として人々の間に生まれた一種のニヒリズムはアメリカ社会にそのまま残っただろう。このような社会にあって、”冒険”とは国の威光とか騎士道精神などといったものは無用の、常に実利を求めることに他ならなかったはずだ。この大変動の結果に生まれた西部の諸都市、特にゴールドラッシュの中心であったサンフランシスコ周辺において、それまでの汎欧州的文学に対抗して、いわば無頼の匂いをただよわせる”ブラックマスク派”の文学が生まれ、ハードボイルドへ展開していったのはそういう意味で当然だったように思えるし、そのような環境の中ではここで議論する意味での”冒険”ということに価値を見出す機会もなかなか生まれなかっただろう。そのあたりが識者をして”アメリカ人に冒険小説は書けない”といわしめたのではないか、というのが僕の論点である。

知識不足と論理の飛躍を承知でいうと、このような環境に一石を投じたのは、僕らの時代では”レッド・オクトーバーを追え”だったのではないか。アメリカが世界をリードしている軍事技術をテーマとする、という発想がこの後から続々と新しい作家作品をもたらしたことに間違いはない。ヨットを操ってひとり大海に挑む、という発想から、軍という巨大組織が活動する大規模なオペレーションの中での個人の物語、というあざやかな展開の中に、”アメリカ人の冒険”が位置づけられたのだ。トム・クランシーの軍事オタクぶりには多少抵抗もあって、この本を読んだ直後、仕事仲間の一人が米海軍で潜水艦の艦長だったことを知り、この話はどこまで信用できるのかたずねたことがある。詳しいことは忘れてしまったが、彼はある一点をのぞいてはクランシーの話は全く誤りがない、これは本物だ、と保証してくれた。それで一気にクランシーファンになってライアンものを次々に読んだ。クランシー作品は何本も映画になったが、やはり”レッド・オクトーバー”が一番躍動感があって面白かった。ライアンが少しハンサムすぎたのが難だが、007とは大違いの重厚さがあふれたショーン・コネリーもよかったし、サブキャラクターではスコット・グレンが印象に残っている。

前述した北上次郎は、現代の冒険小説作家は”70年の壁”というものを経験したのだという。米ソの対立が激しかった時代はそれを中心とした物語や人物造形(典型的な例が007シリーズ)ができたのだが、それがなくなった後の設定が非常に難しくなった、ということを指すらしい。クランシーが作り出した軍事技術もの、というのがもしかするとその”壁”を破壊したともいえるのかもしれない。

クランシーの成功のあとの大きな転換点として、ステファン・ハンターのボブ・スワッガーのシリーズが出て来た。退役したスナイパーの個人中心の話であり、軍事ものとは思えない心理描写も優れて、僕の定義による”ハードボイルド”に数えてもいいくらいのものだ。ただこれもやはり第一作が一番よく、最近の作品は無理してシリーズ化しているせいか、あまり感心するものがない。映画”極大射程”は原作に忠実だが、主演のマーク・ウォルバーグのアクションばかりが目立ちすぎな感じがして、僕のイメージする冷静なスワガーではなかったように思われる。銃器に関する描写は精緻でそれだけでもマニアには歓迎されたのではないか。

相前後していろんな軍事もの、FBI・CIAものなど、かなり乱読した結果、現在のお気に入りはリー・チャイルドの”ジャック・リーチャー”シリーズである。第一作”キリングフロアー”に引き続き、”アウトロー”など、このシリーズは現時点までで合計13冊だが、すべて原文で読んだ。文体論議になってしまうが、原文で読めた理由は”わかりやすい英語で書かれている”の一点に尽き、実は僕が”ポケットブックを3万ページ読む”

という”冒険”に乗り出すきっかけになった。その後、翻訳があまりでてこないが、そのうち2作が映画化されていてトム・クルーズの当たり役になるのではないかと思っている。

”軍事もの”のとなりにあるのがスパイもの、謀略ものといえる。007シリーズはあまりにも娯楽的で、”冒険小説”に入れるのはどうかと思われるが、フォーサイズの”ジャッカルの日”や”戦争の犬たち”、映画も素晴らしかった”オデッサファイル”も面白かった。相前後するころに流行ったのがロバート・ラドラムだが、何しろ筋立てが複雑で登場人物を理解するのが大仕事だった。複雑な割には僕にはジェイソン・ボーンシリーズ以外、あまり印象に残るものはないのだが、このシリーズは映画化したものもマット・デイモンがはまり役で楽しく見た。最近はデイモンが変わってしまって残念だが。

軍事もの、スパイものなど、大組織を背景にした作品とは違って、アメリカ人好みの一匹狼的人物が登場するのがデヴィッド・バルダッチのシリーズであるが、あまり翻訳を見かけない気がする。ほかには最近はマーク・グリーニーの”グレイマン・シリーズ”というのが人気のようだ。大組織が出てくるのは同じだし主人公がその組織に追われるという設定はラドラムのボーンシリーズに似ているが、どうも二番煎じの感を免れず、あまり気に入ってはいない。

ここまで書いてきて、大変な事を書き忘れたことに気がついた。冒険小説論議がまた後戻りするのだが、”これぞハードボイルド”と言わせる二人の事である。一人は冒頭に名前だけ触れておいたがジヨージ・ペレケーノス、もうひとりはごく最近あらわれたジョン・サンドロリーニ(John Sandrolini)という人である。ペレケーノスのほうはかなり登場は古くて、翻訳されたものも沢山あるが、サンドロリーニのほうは第一作が”愛しき女に最後の一杯を”というえらく長いタイトルで出ている。

現題は  One for our baby といたって短いのだが、翻訳者のほれこみようがうかがえる気がする。 第二作はまだ翻訳を見かけないが、”My kind of town” で、同じ主人公の設定である。この2冊はアマゾンで原本を入手して一気に読んでしまった。ただリー・チャイルドの場合と違って、イディオムやスラングが多く,週1度通っている英会話スクールへ持ち込んでインストラクタを質問攻めにしたこともあった。物語の設定としてあのフランク・シナトラがサブキャラクタで登場するのはご愛敬だが、まさにチャンドラーを彷彿させる傑作だと確信して、次を心待ちにしている。実に素晴らしい。

話を戻す。僕が読んだ”アメリカ人の書いた冒険小説”はここにあげたほかは伝奇ものめいたものが多いクライブ・カスラーくらいで、ほかにもミステリー系はたくさんあるのだが、ストーリーの面白さといった表面は別にして、印象に残るという意味では、”冒険小説”というジャンルに関する限り、”イギリスもの”に太刀打ちできるような作品にはまだ出会っていない。一番初めに仮説をたてたわけだが、やはりアメリカという文化に”冒険”というテーマはしっくりこないようだ。したがって僕の乱読リストにもイギリス人によるものが圧倒的に多い。先回書いたことと重複するが僕の遍歴を書く。

 

まず、大御所とでもいうべきなのがアリステア・マクリーン、かの”女王陛下のユリシーズ号”の著者である。これはHBミステリにおける”長いお別れ”に匹敵する、冒険小説の古典的傑作であり、翻訳もすばらしく、冒険小説というジャンルを離れても特記されるべき傑作だと思っている。映画にもなった”ナヴァロンの要塞”と”荒鷲の要塞”も同じ第二次大戦ものだが、”八点鐘の鳴るとき””黄金のランデブー”のような、本来の海洋冒険ものもある。

マクリーンと並び評されるのがデズモンド・バグリーで数多くの作品が日本でも広く紹介されてきた。中でも僕のお気に入りは”敵”と”ゴールデン・キール”、それと”バハマ・クライシス”。特にあとの2冊は爽快さを満喫できる、本来の”冒険小説”で、きざってみれば、デッキチェアでジントニックなどやりながら読むのに楽しい部類である。

日本のややハイブラウな(と自称している)読者に人気があるのがギャビン・ライアル、特に”深夜プラスワン”が、”ユリシーズ”と肩を並べる傑作だといわれている。ほかにも”ちがった空”とか”もっとも危険なゲーム”など多くの翻訳がでているがどうも爽快感にかけるようで、あまり僕の好みとは言えない。

筋書はともかく、本流ともいうべき大自然相手のスケールの大きいものはハモンド・イネスにとどめをさす。うるさいことを言わずにただイギリス流冒険小説、と言えばこの人の作品になるのではないか。”銀塊の海””大氷原の嵐””失われた火山島””蒼い氷壁”など、代表作のタイトルを並べるだけでも作風の想像はつく。ただ僕の読んだのは”メリーディア号の遭難”〝特命艦メデュ―サ”の2冊だけであるのであまり多くを語る資格はない。

イギリス伝統の海洋小説といえば英国海軍の伝統に関する”ホーンブロワ―シリーズ”とかそのほかのものが有名だが、僕は全く読んでいない。この系列かどうかわからないが、さすがブリティッシュネイビーと名高い国だけあって、第二次大戦ものにしても圧倒的に海軍さんのものが多い。ニコラス・モンサラットのThe Cruel Sea という大作は感動的だった。

余計なことかもしれないが、ここに挙げた作品は多くがだいぶ年期が入っているので新刊を買うのは難しいけれども、ブックオフで探すとハヤカワ文庫の中古本がたくさんあり、同好の仲間がいるんだなあと妙なところで嬉しくなる。大体100円前後で買えるし、是非お勧めしたい。原本に挑戦する場合はやはりアマゾンが便利だが、新宿高島屋に隣接する紀伊国屋書店は今までの新宿通りの店に比べてずっと在庫も種類も多いようで、立ち読みの楽しみが増えた。読書の秋を迎えて、”年甲斐もなく”冒険小説にカタルシスを見出す仲間が増えることを希望する。

さらば愛しき女よ    (36高橋良子)

黄金の15年へ  (51 斎藤邦彦)

KWVを(大学を)卒業して41年が過ぎました。卒業後、子供達が小学生の頃までは時々家族で山歩きを楽しんでいましたがその後ほとんど山に接することなく仕事に(職場関係のつき合いに)どっぷり浸かって年を重ねてきました。KWVとの関わりも卒業30年目に連合三田会の世話役年次に日吉の講堂前で幹事をした程度で何の貢献もできず過ごしてきました。

一昨年あたりから同期の間で「春ワン・秋ワン」の世話役年次が回ってきそうだという話が持ち上がり担当できるかどうかの相談を始めました。取り敢えず「春ワン・秋ワン」の幹事役を51年度卒業組で引受けることにしたものの私個人的には体力に全く自信はなく昨年春から精力的に山歩きを再開し「山慣れ」に向けて取り組んでいます。毎月のように山歩きをし、年末には三国山荘の越年祭に参加し雪の三国山とムラキに登ってきました。

私は現在64歳で来年6月にはサラリーマンを卒業する予定ですが同期のメンバーも次第に仕事から離れようとしています。先輩方から伺うと「これから同期の集まりが増える。」「黄金の15年が始まろうとしている。」と楽しそうなお話が多く今後に希望が持てます。

同期の間では取組みの当初は半ば義務的に引き受けた「日帰りワンデルング」幹事でしたが、卒業後あまり交流のない友人も次第に輪に入るようになり、在学中に退部した人の再加入もあって同期も14人に、さらに秋ワンには11人が参加するという今回の最多勢力になってきました。秋ワンも具体的な準備段階になると結構気持ちが高揚します。

今回感じたのですが、我々はKWVという継続する大組織の偉大さと不思議な魅力と年齢的な活動タイミングの良さを併せ持った「洗練された仕組み」を享受しています。多くの先輩方が培ってこられたこの組織・運営体制・企画力等に改めて感謝いたします。