オリバー君の娘

オリバーの娘、といってもエーガの話ではない。

足掛け6年位になるだろうか、ほぼ毎週、英会話のレッスンをしてくれているロンドン生まれの好青年 オリバー・ワトソン君にお嬢さんができた。勿論、大変な喜びようだ。彼の父君がちょうど小生と同じ年だそうで、こちらも何だか父親代わりみたいな気持ちになっていて、英語を習う見返り(?)にわがヤマト民族のことをいろいろと教えている間柄でもある。夫人にはまだお会いする機会がないが、デザイン関係の仕事を持っておられるらしい。この教室(GABA)のインストラクタには、日本人と結婚している人が多い。これからの時代、これからのいわば地球俯瞰型生活のなかで、こうして国を越え、文化の違いにとまどいながら理解しあっていく家族が増えていくのは素晴らしい事ではないだろうか。僕の勝手な想像だが、英国と日本、という二つの国にはそれとなく文化的な要素のところで近いものを持っているのではないか、と思ってきた。この一組の夫婦から新しい時代の種がまかれた。彼が得意になって見せてくれた写真、娘さんの髪は漆黒、生後1週間だというのに ふさふさ という形容詞を使いたくなるような日本髪、であった。

彼の喜びようが55年前、自分が感じた歓喜の感情を思い出させ(父親がわり、と勝手な思い込みもあって)、ちいさな記念品に、わが子誕生の朝に書いた、例によって詩まがいのものをそえた。夫人がどう翻訳してくれるか、申し訳ないが楽しみである。誕生後のレッスンで、名前をどうするのだ、と聞いたら、英語のパスポートには Alyssa 、日本語では ありさ としたい。ただ日本語をかなにするか漢字がいいか、と聞かれたので、僕は漢字がいいと思う、と答えた。かなはやさしいし、読み間違えがない。しかし漢字には意味がある。それが大事なのでは、というのが理由だった。結果として、長女は 有里彩 ちゃん。彩のある(埼玉は彩の国と言っている)ふるさとをもつ娘。何と素晴らしい命名だろうか。この三つの文字を選ばれた夫人のセンスには脱帽である。オリバーはいずれ、国籍を選ぶ時期がきたら、どちらを第一にするか、本人に決めさせる、と言っている。その時期、小生はたぶん、この現世にはあばよ、と言っているだろうが、わが有里彩ちゃんに栄光あれ!

 

 

 

娘よ。

おさなき生命萌え出づるあさ

阿佐ヶ谷の空は おだやかなりき。

霜月にはあれど

ドアより垣間見たる雲は やわらかにして

朝 まだき

うす黄金色に光り居れリ。

このあさ

ふるさと東京は

気温 9.3  湿度 83

しじまをぬらしたる時雨おさまり

いと おだやかなりき。

 

娘よ。

人の親となりたる日

健やかにまどろめる母を置きて

父は街へ出でたり。

日 土曜なれば

道は人にあふれたり。

そのとき

高らかに笑い交わしつ一群の少女父がそばをすぎ

わかき香り

埃せる街をきよめたれば

卒然と心のうちに 父は叫び居れり。

 

われに娘あり

我が娘 また きよらかに生きんと。

 

娘よ。

愚鈍なる父は今こそ悟りたり。

いのちこそは尊きもの

いのちこそはうつくしきものなりと。

 

娘よ。

晩秋の空はすでに暮れ

病室に灯の入りたれば

わかき父とわかき母は

しづかに手とりあい

汝れが名前を語りき。

 

娘よ!

いまいちど

父は心に叫びき。

われに娘あり

わが娘またきよらかに生きんと。

新選組血風録

自粛騒動の結果、小生の日常に今までなかったイベントが加わった。テレビ番組を探す、ということである。従来は 1.気に入った大河ドラマ 2.NHKニュースセブン 3.ジャイアンツが勝ってる試合 4.ときどき映画 しかテレビは見ない、と決めていた。ましてやエンタメと称するお笑い芸人だとか、その連中がバカ騒ぎするやつだとか、グルメ番組と称して味がわかるのかどうかもあやしいタレントがこれ、美味しー、などとのたまう番組(ギャラをもらってる以上、おいしー以外に言えない仕組みだろ、最初から)なんぞが始まると自分の部屋へ引き上げるのが常だったし、このあたりは今後も頑として変えないつもりだが、偶然、”時代劇専門チャネル” で 新選組血風録 をやるとわかって、以来、平日午後4時から1時間、テレビを独占することにした。26編あるそうだから、当分、この体制は続きそうだ。これが終わるころには月いち高尾とハイライトのチョー三密、天狗飯店宴会が再開されてることを祈るだけだ。

さて、新選組血風録。

いわば ”中堅” サラリーマンの日常が順調に回っていた時期。よそ様に比べれば文句の言えないくらいのいい待遇の会社であることは十分承知しながら、(これが俺の人生か?)という暗流が時々顔を出し、なお心底が定まらない時期があった。全国で大学ワンダーフォーゲル活動は絶頂期にあり、”学連” つまり大学間の連絡網が企画した参加全大学のワンデルングがあった4年の初夏、その企画で “主将班” なるものに参加した。能登半島の突先、曽々木海浜でのキャンプで日本海の荒波をみているとき、突然、妙な厭世観みたいなものが自分を襲った。それはその後も続き、高校時代から俺の進路、と決めていた新聞記者になる、という野望がどういうものかすっかり魅力を失ってしまい、結局、デフォルトでサラリーマンになった。なってしまった、という、一種のコンプレックスから抜け切れていなかったのだろうか。そういう、不安定な時期に偶然、”血風録” に遭遇した。まだカラーテレビもなく、当初は全く期待していなかったのだが、2回、3回と見てみて、すっかり、今の用語でいえばはまってしまった。

理由は二つある。ナレーションもよかったが何といっても栗塚旭がまさに適役だったことで、”燃えよ剣” で僕の中にできていた土方のイメージそのものだったこと(すこばかりハンサム過ぎたが、本人も大変もてたそうだからよしとする)で、数年前ブームになった ”新選組!” の山本耕史もよかったけれど重厚さを感じさせず、ほかにも何人かの土方をみたが、司馬遼太郎にほれこんでいる小生の持っている土方像にはマッチしない。近々、岡田准一主演で 燃えよ剣 が封切りされるらしく、心待ちにしているが、たぶん、栗塚には及ぶまい。まさに栗塚の前に土方無く、栗塚の後の土方なし、だと思っている。

もうひとつはこの番組の底流にある、気障に言えば滅びゆくものに殉じる、信じるものに命を懸ける、という覚め切った雰囲気が当時の小生のどっちつかずの、甘え切ったコンプレックスに対しての回答のように思えたことである。春日八郎(知ってる?)が歌う主題歌が、番組が進んで鳥羽伏見の戦いから江戸への退却あたりから、”三つ葉葵に吹く嵐、受けて立つのも武士の意地。鴨の千鳥よ心があらば、新選組のために泣け” という歌詞に変わる。さらに北海道に向かい、最後まで意地を通して戦死する、そのあたりのいくつかのエピソードがなんといってもいい。信じたもののために生きる、というのはこういう事なんだ、今、おれが信じるものはなんなのか、という真剣な問いをあらためて感じたことだった。

放送はもちろん白黒だし、スクリーンの構成もまことに古めかしければ録音も上等はとても言えない。しかし、26回、完全に見てやるつもりでいる。映画、というよりも自分の歴史を紐解いているような感じがしている。

エーガ愛好会 (2) 西部劇だけがエーガじゃないよ!

(小泉)

 金藤泰子様からのメール拝見。ゲイルラッセルについて、インターネットからでしょうか、詳しく紹介いただき有難うございます。拳銃無宿のポスターやらポートレートやら数え切れぬほどあるのですね。拳銃無宿と言えば、スティーヴマックイーンが賞金稼ぎで活躍するTVドラマのこと、映画の方、よくぞ見つけてくれました。それにしても、便利な世の中になったものです(中略)。「昔の映画をビデオで見れば(1990年刊)を今再見しているのですが、発刊当時映画は一回見ればいい、一本勝負の観た映画は生涯忘れないという気持ちから、ビデオの出現がそれを変えた時代だった。今そのビデオもDVDになり、YouTubeになった時代へと変化してきました。映画も封切り後、時間さえ経てば、いつでも見られる時代に変化してきました。 Gisan同様に、過去の映画を推薦するとすれば、何が良いだろう?

あまた数ある中で、英国映画「逢びき」。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が全編に溢れるように流れている映画。この映画を推薦したいです。平凡な中流家庭の人妻のつかの間の初めての禁断の恋。不倫の誘惑への葛藤が、この曲とともに進行する。この映画以降、この曲は勿論、ラフマニノフの作品の虜になってしまったのでした。その後マリリンモンローの「七年目の浮気」、ジョーンフォンティーンの「旅愁」、エリザベステイラーの「ラプソディー」や最近の「のだめカンタービレ」等に、この第2番が登場するが、何れもピアニストが演奏しての場面、この映画では人妻の初めて知っただろう心中の激しい葛藤が、この曲と共に展開するのでした。若しご覧になっていたとしても、このコロナの時期ですし、小生もラフマニノフを聴く積りで、観たくなりました。

(金藤)

「逢引き」という映画 題名は聞いた事はありますが 観ていません。“ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が全編に溢れるように流れている”と言う文章に心惹かれます。 ぜひ、観てみようと思います。
ラフマニノフの曲はフィギュアスケートでもよく使われていますね
他の曲だったと思いますが、パトリック・チャン 安藤美姫等が
ラフマニノフの調べに乗って滑っていたような気がします。

(菅原)貴兄の「西部劇、というだけでそっぽを向く人が多いのもよく知っている。・・・」と言う発言に触発されて、日頃、考えていることを以下に纏めてみた(またもや、小泉先輩にこっぴどくやっつけられることに戦々恐々としている)。

日本人はクソ真面目なことが大好きだ。いや、大好きと言うより、神の如く崇め奉っている。江戸時代の日本人もそうだったのだろうか。でも、落語で代表されるように、そうでなかった可能性が極めて高かったのではないか。何故、クソ真面目になったのかは、明治時代に日本に来たお雇い外国人、特にドイツ人の生き方の影響が多大にあったとのではないかと推測する。勿論、その対象が日本の教養階級であったことは言うまでもない。

今現在、例えば、文学では、直木賞より芥川賞の方が上と見られているし(一平/二太郎が直木賞の受賞者だったように、面白さでは、芥川賞は直木賞の足元にも及ばない。しかし、最近は、直木賞であっても食指をそそられる作品は余りないようだ)、音楽では、中でもオペラでは、「セビリアの理髪師」のG.ロッシーニよりも、「ニーベルンクの指輪」のR.ワググナーの方が上と見られているなど(一方はノー天気であり、もう一方は深遠そのもの)、クソ真面目が上である例は枚挙にいとまがない。

エイガも同じであって、ヨーロッパ、特におフランスのエイガに較べ、西部劇は活動写真と蔑み、一顧だにしない風潮があるのも事実だろう。人生いかに生きるべきか、が主題であるべきであると言う妄想があるからに他ならない(西部劇にも、友情あり、愛情あり、など人生いかに生きるかがちりばめられているかには気づいていないんでしょうね)。

1950年台10年間のキネマ旬報(以下、キネ旬と省略)のベスト10を見ると、初めてベスト10に入った西部劇は1953年7位の「シェイン」であり、あとは1958年1位になった「大いなる西部」のたったの2本に過ぎない(1957年9位の「友情ある説得」は西部劇じゃないと思う)。「黄色いリボン」「赤い河」も全く出てこない。当時のキネ旬が明らかにヨーロッパ、特に、おフランス映画に傾斜していたのは紛れもない事実だ(蛇足だが、左にも大きく傾いていた)。

しかし、良く考えてみると、クソ真面目を崇め奉っている人は、不幸とも言えるだろう。面白い、楽しいことをやせ我慢している面もありそうだからだ。面白いことを面白いと言い、楽しいことを楽しいと言う人生は何と素晴らしいことか!

(小泉) 昨日、KOBUKI(41年卒久米行子)さんから、アマゾンプライスというもので、「旅愁」を懐かしく観て、ラフマニノフの第2番が流れてました・・・のメールを頂戴しました。金藤さんに先日「逢いびき」を推薦いたしましたが、この「旅愁」も推薦したくなりました。ジョーン・フォーンティーンが美しいピアニスト、妻ジェシカ・タンディと息子のいる実業家ジョセフ・コットンが乗り合わせた飛行機が急遽イタリアに降りたっての不倫。こちらはラフマニノフに、セプテンバーソングがからみ、観光も楽しめるという映画でした。

(安田)過去の映画となった旧作を観る基準は、誰でも知っている名画、映画監督作品を辿る、俳優を追うなどでしょうか。

例えば、キャロル・リードの名作「第三の男」の準主役とも云うべきジョセフ・コットンが気になり、彼の出演映画を観ました。「市民ケーン」「疑惑の影」「ガス燈」「ジェニイの肖像」「旅愁」「ナイアガラ」などです。当然、共演のオーソン・ウエルズ、テレサ・ライト、イングリッド・バーグマン、ジェニファー・ジョーンズ、ジョーン・フォンティン、マリリン・モンローの作品にも興味を持ち、彼等彼女等の出演映画を観ることになります。また、演出した監督、例えば、「疑惑の影」のアルフレッド・ヒッチコック、「ガス燈」のジョージ・キューカーの映画を探して観ます。この様に出演俳優、演出の監督作品が絡み合って気が付けば104もの映画を観ていました(編集子注:このリストは長すぎるので残念ながら掲載していない)。

(小泉)安田さん、一つの映画のことから、無数の映画への発展!記憶力とジャンルの知識がなければとても書けないでしょう。

 菅原さん、映画から音楽へ。チェリビダッケのブラームスとは、相当の音楽通です。映画通としては、ブラームスはお好き?「さよならをもう一度」を思い出します。

写真提供:安田

(中司)フランス映画ってのは、望郷、太陽、恐怖、禁じられた遊び、太陽、ジャン・ギャバンやドロンのノワールものもフランス映画なら、あと5-6本見てるかなあ。あまり、見てない、というのが正直なところ。ところで、今、D-day (ノルマンディ上陸)秘話の Double Cross というのを、本当は連休までに読了の予定がまだ半分くらい、200ページまでしか終わってないが読んでる。その中に、ダブルスパイを支援したフランス女優として Simone Simon という名前が出てくる。なんか、関係あるかなあ。

(後藤)シモーヌ・シモンは清純派の女優で戦後の比較的早い時期に日本にも来たことがあります。箱根の温泉旅館で浴室で素っ裸になって(外人は当然ですから)洗い場で小便までやった事から大騒ぎになった話は有名です。シモーヌ・シニョレイほどの大物ではなかったと記憶していますがどの映画に出ていたか覚えていません。

(編集子)妙なエピソードが出てきたところで、今回はこのあたりで。

 

Double Crossについて (普通部時代友人 菅原勲)

524日のブログ、拝見。「ダブル・クロス」は読んでいないが、スパイと聞いて真っ先に名前が出て来るのがキム・フィルビー、そして、ケンブリッジ五人組(詳細はWikipedia参照)。小生、いまだに、ケンブリッジにごまんと学生がいたにもかかわらず、何故、この5人に限って、祖国の英国を裏切り、最後はソ連に亡命までしたのか(小生、見ていないが、「裏切りのサーカス」の題名で映画化された)。フィルビーに至っては、ソ連で国葬までされた(利用価値が極めて高かったのは事実らしい)。ジョン・ル・カレ(スマイリー三部作)、グレアム・グリーン(ヒューマン・ファクター)などの本を読んでも、依然として、何故かは分からない。結局、「人間、この未知なるもの」か。

(ハロルド・エイドリアン・ラッセル・「キム」・フィルビーは、イギリス秘密情報部職員でソビエト連邦情報機関の協力者。 イギリスの上流階級出身者から成るソ連のスパイ網「ケンブリッジ・ファイヴ」の一人でその中心人物。MI6の長官候補にも擬せられたが、二重スパイであることが発覚しソ連に亡命)

(中司)この原文に、奇妙なことにフィルビーの名前が散見される。この当時はとにかくドイツが相手で、ソ連との話はまだ先だ(すでにドイツ側にはこの時期に英国と休戦して、共同して共産主義を防ごうという機運があったようだ)という感じだったんじゃないかという気もする。フィルビーもご指摘の連中も、ダブルクロスに利用された連中とは動機がもっと思想的なものだったのではないか。日本でも戦後のどさくさに紛れて左翼が急上昇したよね。

ま、ご指摘の通り、人間、わからんね。

”とりこにい” 抄 (8) 白馬回帰

高校1年の時、初めて山登りを経験したのが白馬。栂池から大池経由の旅だったが、その翌年、後立山縦走を目指したときが白馬2度目の登頂。KWVに入ってからはほかの山をあさっていたので、3回目に回帰したのは3年の6月、大嵐の日だった。残念なことにすでに鬼籍に入ってしまった村井純一郎や金沢央などとのことがあらためて思い出される。

OBになってからこの時にも一緒だった菅谷国雄などとともに4度目の山頂を踏んだ。その時にもまずい詩のようなものを書いたのだが、残念だが原文がみつからない。メンバーの何人にかはメールした記憶があるのだが(もしどなたかのファイルに残っていればお送りいただけるとありがたい)。いずれにせよ、白馬ー ”ハクバ” なぞでなく、”シロウマ” ー は山歩きの原点としてぼくの心の中にひっそりと座り続けている。

 

白馬にて

 

白馬岳。

厚くよせるガスの波

払いのけ、払いのけ、じっと俺を見つめている

白馬岳。

お前はもう一度、俺にささやく。

はるかな夢、遠い幻 。

 過ぎしかた 越えきしかた

そして今 帰りきたったこの頂。

頂に立てば むら雲、くろ雲、雨、そして風。

歓喜のあらしのなかの その一時のしじまのうちに

お前は唄うというのか 

訪ね歩み 求めつづけた 俺のこの唄を ?

促されてトレイルを下ればお前は早くもガスのむこうにかくれ

俺はただ

前だけを見て歩き続ける。

 

 

エーガ愛好会 (1) “赤い河” をめぐって

事の始まりは月いち高尾の帰途、川名君との会話から始まった、”エーガ” 談義である。たまたまこの記事が小泉さんの目に留まり、お互い,懐かしいエーガ(どうも映画、という気がしない)の時代の話を始めた。小泉さんとは小生にとっては鬼の3年生、現役時代、ワンデルングで何回もご一緒しているのだが、エーガファンであることは全く知らなかった。

いっぽう、コロナ騒動の少し前、会社時代の同僚で時々本稿に投稿してくれている五十嵐恵美が訪日してくることになり、小生がその世話役になった。結局、コロナ問題で恵美の来日は延期になったのだが、この準備で幹事役をやってくれた、かつて小生のセクレタリだった金藤泰子とメールのやりとりを再開、その延長でこれまた彼女のエーガ愛好ぶりが判明。また普通部高校を通じての友人で小生にそもそもミステリとか映画の楽しさを教えてくれた菅原勲、KWVでは後藤三郎とか最近は安田耕太郎、相川正汎などといったところがメール交換の仲間に加わった。KWV以外はお互い、当然面識もないのだが、このような機会でつながりができる、というのは正にSNS時代の産物でもあり、ある意味、にっくきコロナもそのきっかけと言えるのかもしれない。そのうち、”不要不急”でも外出できるようになったら、ぜひともみんなのご対面を実現したいと思っている(本稿でもご紹介したが、掲載投稿がきっかけになってーこれまた小泉さんが主役なのだがー小生横河電機時代の親友、舟橋利信、47年卒の関谷誠、という3人に共通の話題があることがわかり、一夜、居酒屋で痛飲した実績がある。こういうのを気障にいえば セレンディピティ、というんだろうな)。

とりあえず第一の話題は今は少数派になってしまったが西部劇の話、それからエーガファンなら必ず話題になる、トップシーンとエンディングの論議、はたまた永遠の話題だろうが、自分が好きだったスターの話などなど、まあ、若い人、たとえば川名君あたりにすれば老人のたわごとにしか聞こえないはずだが、そんなことをやっている。このメールのやり取りを金藤がいみじくも映画愛好会(彼女はエーガとはいわないのだ)と名付けた。自粛疲れをいやすことになるかどうか、いくつかの話を(ご本人には許可をもらっていると勝手に思っている)メールのやりとりでご紹介したいと思う。ほかにもご参加いただくことがあればうれしいことだ。

なお、時々画像を転載するが、金藤のアドヴァイスでブログに載せていいものかどうか調べてみた。小生の理解では、その写真がメインではなくあくまで本文に必要な ”引用” で ”引用もと” が明記され、かつ、すでに一般に公開されているもの(したがってグーグルやウイキペディアからの転載は問題ないと理解)であれば著作権の問題はなさそうである。本稿転載の2点はグーグルで公開されているものの引用である(念のため、現在金藤に教えてもらった機関に問合せをしている)。

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(BS103チャネルで西部劇が連続して放映された前後のやりとり)

(中司)今日13時、BS3チャネルで 赤い河 をやっていました。この映画がハリー・ケリー・ジュニアのデビュー作でした。ハリー・ケリー本人もいい役で短時間でしたが出ていたのを確認しました(アビリーンでクリフとから牛を買い取る役)。

(小泉)赤い河は勿論、西部劇の中でも大叙事詩的開拓劇の 模範ともいうべき作品ですから大好きな方です。初めて初老に扮したジョンウエインが、苦い過去の思い出からか、よじれた性格の持ち主として描かれ、捜索者と似たようなイメージを思いました。言われてみれば、主題歌が、リオブラボーのライフルと愛馬の原曲だったのですね。黄色いリボンに出ていた女優ジョーン・ドルーが、モンゴメリークリフトの恋人役で出ていたことを思い出したら、急にジョンウエインの恋人だったゲイルラッセルの清純だが、ひきつけてやまない眼付きとかを
また思い出してしまいました。ついでに、去る3月10日、ロックハドソンとカークダグラスのガンファイターに出ていたドロシーマローンが、またゲイルラッセルをより色っぽくした女優で、西部劇に良く出演していたことを思い出してしまいました。

(中司)ゲイリー・ラッセルはあまり印象にありませんが、ドロシー・マローンは僕も好きなひとりでした。だいぶ前のテレビの連続もの、ペイトン・プレースにでてましたよね? 西部劇は沢山ありますが、テーブルロックの決闘 を覚えています。たしか男役は珍しく主演を張ったリチャード・イーガンだったと思いましたけど。

今回、終わり近くになって、バックに流れるテーマ曲が、 Red River Valley と並んで僕の愛唱歌である My Rifle my pony and me  (これもウエインの代表作 リオ・ブラボー で、ディーン・マーティンが歌いリッキー・ネルソンがギターを弾く、なんせ、いいんである)と同じことに気がついた。そこで終わった後、何もあるまいがダメモト、とおもいながらグーグルに ”Red River, My Rifle and Me” と入れてみたら、なんと!一発でアメリカ人の女性が同じ質問をしていて、その道の専門の人が明確に答えをだしているではないか。この広い世界で同じ経験をした人がいるということもうれしかったが、この解説によると、この2本は主演ジョン・ウエイン、監督ハワード・ホークス、音楽ディミトリ・ティオムキンという共通点があり、1959年に作った ”リオ・ブラボー”にティオムキンが原曲をそのまま使ったのだそうだ。

(金藤)My rifle, my pony and me という歌を知りませんでしたのでYouTube で聞いてみました。 Film appearances の中に、「赤い河の谷間」が流れた西部劇がたくさん載っています。「怒りの葡萄」の中でも流れていたのですね。作曲者不詳のアメリカ民謡で、歌われていた場所により題名が異っているようですが北部のネィティブアメリカン発祥説が多いようです。

”赤い河” 原題 Red River

ジョン・ウエインの代表作のひとつで、オールドファンとくに女性に圧倒的な人気のあった、モンゴメリ・クリフトが初めて出演した西部劇である。歴史的背景としては、テキサスから肉牛を中部の消費地まで届けるため、チザムという男がテキサスからカンサスまでトレイルを開拓した。このチザムトレイル(と想定される、映画ではあきらかにしていない)をウエインとクリフト指揮のカウボーイ群がたどった話である。やはりウエイン主演で チザム という活劇ものがあり、これも早晩、BS103 に登場するだろうと心待ちにしている。この話には、実在の人物であるビリー・ザ・キッドが登場し、リンカーンウオーとよばれた大騒動を引き起こす。シリアスな赤い河と違って、あっけらかんとした娯楽大作である。

”赤い河” の Red River と Red River Valley は同じものか?

1.北アメリカ大陸に Red River という河は2本存在する。うち1本はミネソタ、ノースダコタのあたりから始まり、北上してカナダを流れる。この流域には開拓初期、レッドリバー植民地という地域があった。2本目はテキサス、オクラホマにまたがるミシシッピーの支流である。

2.西部開拓時代、牛肉は主として中部諸州から提供され、テキサス牛(ロングホーンと呼ばれる種類)はまだ流通していなかった。一方、大陸横断鉄道が徐々に伸び、カンサスあたりまで敷設されるようになり、ジェシー・チザムによってテキサス南部からカンサスまでのトレイルが開かれた。この道をたどって、テキサスの牛をカンサスまで運ぶという冒険がはじまった。

3.映画 ”Red River” はこのチザムトレイル開拓史をベースにした物語であり、その脚本のベースになった記録もあるのでこのような話は史実として裏書される(これによって成功者となったチザムを主人公にした単純明快勧善懲悪なウエイン作品が前述した ”チザム”(1970年)である。

4.ま、ほかの俳優ならわからないが、ジョン・ウエインが come and sit by my side if you love me,  なんていうシーンは想像もできないし、僕が思い込んでいる Red River Valley  はどう見てももっとロマンチックな場所であってほしいから、たぶん、上記1番目のレッドリバー植民地であるのだ、と結論したい。

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今回の結論。西部劇、というだけでそっぽを向く人が多いのもよく知っている。文句を言う前に、先ず、この映画をみたまえ! DVD1本、自粛費用としては安いもんだぜ。

 

政府のコロナ禍対応策への批判について 

ここのところテレビはコロナ対策についてのいろいろな情報とともに、政府対策についてのコメントが目白押しである。また友人の多くからも同様、政府のやり方に対する疑問論が相次いで送られてきている。編集子にも、(なにやってんだ?)という気持も大いにあるし、感情論として現在の対応に納得できないことも多々ある。ただ残念だがいろいろな対策について、確たる知見があるわけではなく、各論について、たとえばPCRがどうあるべきか、などについて批判できる立場にはない。遅いのか、緩いのか、だめなのか、自分で確信をもって語れるわけではない。

ただ一点だけ、多くの批判論について申し上げたいことがある。それは論者に共通している、”外国はこうやっているのになぜ日本はしないのか” (だから日本はだめなんだ)という見方と、その延長にあってとくに欧米諸国からは日本の対応のまずさが指摘され、はては笑われている、という意見である。小生にはこれらの論点の背後に、いまなお日本人特有の敗戦国―歴史的自虐観が見え隠れしている、と思われてならないのである。

”なぜ日本はほかの国のやり方をやらないのか”、これは事実として確定できる。やっていないのは誰の目にもあきらかだからである。しかしなぜ、という点については、それはわが国の在り方が多くの国(あえて言えばほとんどの国)と、良しあしは別として、違っているからなのだと思う。また、”欧米諸国” の日本に対しての批判とか嘲笑、などと言う点に関しては、マスコミの報道以外、我々が自身で確認すべき方法もなく、あまり生産性のある議論ではあるまい。よしんばされていたとしても結果がどうなのか、をみれば解決することなのではないか。

(また、メルケルや英国女王のスピーチに対して高い評価があり、一国の指導者にはこういう姿勢があるべきで、という意見もある。僕自身、スピーチは拝見し、大いに感激し、元首個人が持っておられる識見というか、知性の高さを改めて認識するものである。安倍首相が同じように話をされれば、それに越したことはない。しかし日本の歴史を振り返ってみて、特に戦後の政治において、誰彼を問わず、このような例はないように思う。これは元首個人の個性というより、日本の元首選出の方法論や行政府の在り方そのものからくるものではないだろうか。天皇親政の時代から江戸幕府まで、庶民にとって ”お上” は疑わざるべき絶対であって、批判すべき対象にはなり得なかった。その反動からだろうが現代にあって、ある意味では極左運動につらなる個人崇拝排除主義が生まれ、個人は選挙運動の段階から元首(になるべき人)の日常のありようを見ることに重きを置き、結局、知性とか見識とか言った属人的なファクタよりも、行政上の公約のみを問うて選挙をしてきた。したがって元首なり行政府には、仕事師、を尊重し、人格や識見は二次的なものとなり、元首の発言・行動を制限するような環境があるのではないか。ある意味では、同情すべき点無きにしも非ず、という気がする。しかし、首相、もっと言ってもいいんじゃん、という率直な感じはあるも否定はしないが。)

以下、三つの点から小生の意見をのべさせていただく。

第一に、法律上、私権の制限について、憲法解釈上の問題について、日本ほど厳重に(逆に言えば時として必要以上に)慎重な国はないのではないか。これは別の言い方をすれば、憲法改正につながる問題であり(もちろん自分は改憲論者であるが),現行憲法を尊重する立場を遵守するかぎり、ゆるいといわれようがなんといわれようが、今回の私権制限の方法はせめられるものではないのではないか。それと、もう一つ、重視すべき点として、今回の一連の規制が日本人の良識を信じて実行されたものだ、という点で、大いに異論はあろうが、小生は素晴らしいものだった、と感じている。今回の連休の結果を見たまえ。強制も、処罰もなくして、国民は政府の要請に見事応えた。国民がやるべきことは実行した。これから問われるのは、われわれが、よし、協力しよう、としてしたがった、その方策が現実に正しかったのかどうか、であろう。その結果は本日時点ではなんともわからない。しかしこれについても、当局は専門家の意見を公開し、尊重した。韓国、中国、欧州諸国は憲法上のプロセスに訴えて、大幅な私権制限・戒厳令、国によっては武力の行使まで行わなければならなかった。たしかにスピード感はあったし、強い政府、すぐれたリーダー、というイメージができた。やり方は州単位になっているとはいえ,迷走を続けるトランプ政権なども同じような印象をあたえた。しかしこれら ”ほかの、外国の” 対応と比べて、わが国の施策は透明度においても、民主主義法治国家としての限界を守ったという意味でも、強制のかわりに国民の良識を信じた、その忍耐と努力はみとめるべきではないのか。何が ”外国のようにしないから” いけないのか、が僕には納得できないでいる。

第二のポイントは、文化の違いについての認識である。日本古来の伝統によって、われわれは家に帰ったら、靴を脱ぐ、という動作を、あたかも呼吸をするように無意識に、当然のこととしてやっている。和風建築は当然として、欧米流を模倣して建てた昨今のモダンな建築においても、玄関、というスペースがかならずあり、そこで靴を履き替えることによって、外部から持ち込まれる異物や病原菌などを、完全ではないにせよ、大幅にシャットアウトする。また日常生活においても挨拶に抱き合ったりする習慣はないし、握手もそれほど日常化した動作ではなく、キスに至っては欧米文化との隔たりは大きい。そのうえ、古来、おそらく、小生の考えでは,神道文化に源があるのだと思うが、汚れを嫌う、その具体的な表れとして神社では手を洗い口を漱ぐ、といった文化、その延長として、国民全体の日常生活の清潔さ、それと現在、まだまだ問題はあるにせよ、国民全体をカバーする医療保険、などなど、一口に言って生活の清潔度が世界一、と言えるくらいのものだ、という事実はもっと認められていいのではないか。ただ経済力か政府の認識かしらないが医療のインフラストラクチュアがそれに追いついていないのは残念だが事実だ。医療関係者の自己犠牲によって戦線が維持されている、という現状はやはり政治の責任であろう。

このような国ごとの特殊性はもちろん日本だけのものではない。今感染状況が深刻な米国、その中でも黒人やヒスパニックの多い南部諸州には、マスク着用を禁じる法律があるという。これはマスクによって顔を隠す犯罪者が多発したためと、それにともなう人種差別行動を抑制するための強行法規であるという。日本人の常識では考えられないが、このことを知って、なぜトランプがマスクをしないのかも明らかになった気がする。同時にここまで選挙を意識した行動を一国の元首がとっていいのか? という、コロナとは関係のない義憤も感じるのだが。

第三、これがおそらく最大のポイントだと思うが、日本人に共通する道義心,公徳心の高さである。深夜、人気のない交差点でも、赤信号なら横断しない、という日本人の律義さをあざ笑ったひともあったが、長い歴史と、近代では明治維新で断行された教育制度の徹底とが、これは外国経験のある方ならまちがいなく納得するだろうが、日本人の民度の高さにつながっている。

以上三点、特に後半ふたつの誇るべき資質、それによって、まだまだ予断は許さないとはいえ、コロナ禍を抜け出られそうなところまで、日本はやってきた。たしかウインストン・チャーチルだったとおもうが、政治とはより悪くないものの選択である、という言葉がある。その選択は国の文化と得られる範囲で最も確実な科学的知見そして願わくば歴史的展望に立って、現実から選択されるべきものであって、決して ほかの国がやってるから なされるべきものではないと思うのだが、諸兄姉、いかがお考えであろうか。活発なご意見、ご反論をお待ち申し上げる(頂戴したものはブログに転載させていただくこともあることをご了解願いたい)。

 

 

自粛また楽しからずや 

各位がこの自粛期間をどうやって過ごしているか、情報交換をお願いしてきた以上、自分がどうしているかも報告しなければならないと思い立った。トピックは三つである。

その前に健康維持だが、ここの所、午前中は小生、午後はワイフ、と時間差散歩をやっている。僕は甲州街道を北上して調布まで、時には旧甲州も歩いたり、突発的に見知らぬ小路を歩いたり、最後は駅前の シャノアール(お気に入りの サンマロ は忠実に休業中) でアイスティ350円、帰りは電車、歩行距離は大体4キロくらいか。オクガタは街道を南下、仙川方面へいく。屋上に腹筋用の器具がおいてあって、毎日、と思っているのだがこれはなかなか日課にはならない。だいぶ暖かくなったので、歩くのを就寝前、に変更するつもりである。

今回、”家に籠る” 羽目になって、趣味をいくつか持っていることをよかったとあらためて思っている。亡父は水彩画にかけては正直、玄人はだしの腕前だったうえ、美術骨董品の収集に眼がなく、謡曲も得意だった。カメラ持参で休日と言えば奈良京都の古寺を尋ね、京都には地元の人もびっくりするくらい詳しかった(僕の小学校時代から大阪に単身赴任)。大の読書家でもあって、その影響で僕にとって本を読む、ということは食事をするのと同様の日常行事になっている。

この自粛生活がはじまってからの読書時間は1日あたり2時間くらいだろうか。1冊目はマーク・ウオルバーグ主演 ”極大射程” で知られるようになったスティーヴン・ハンターの歴史ミステリもの Hunters Honor を読了、現在は第二次大戦の山場、ノルマンディ上陸作戦にあたって英国情報部が仕組んだスパイ活動の実話 Double Cross に挑戦中。浮世にあばよ、とおさらばするまでに原書で10万頁読了という目標はまだ、捨てていない(先月末で約7万2千ページ)。

二つ目はアマチュア無線、いわゆる ハム、の世界である。高校1年のときに自作の送信機で交信ができて以来(この記念すべき第一号交信は、実にKWV 37年卒 国府田君の兄上であった!)、大学へ行くまでは文字通り熱狂していたが、KWVが生活の中心になってからは全く興味を失っていた。在職中、ふとしたことから免許を取り直し、退職後はこの分野での大立者である44年卒浅野三郎君の指導のお陰でほぼ10年近く、仲間内では DX と呼ばれる国外、遠距離との交信に精を出した(ちなみにこのギョーカイでは、浅野三郎といえば大したもので、小生なんぞは彼から声をかけてもらうだけで恐縮し、にじりよってお酌をさせてもらうのが光栄、というくらいなのだ)。ところが、である。

僕が高校時代、日本ではハムと言えば、まあ100パーセント近くの人が手製の通信機と竹竿にひっかけたくらいの原始的なアンテナで通信をやっていた。いま使われているメーカー製に比べればスーパーコンピュータとガラケーぐらいの差があったが、それだけにたとえ隣町の人であろうと、自分でやった、という満足感があった。一方、国外との交信(われわれの用語ではDXという) などはほんの数えるくらいのベテランにしかできない、一高校生にすればはるか遠くの夢でありあこがれであったのだ。それが現在はメーカー製品が当たり前の世界になり、はっきり言えば少し金をかければ、俺でもまあまあのことができるのがわかってきた。そういうなかで、せめてサブローから声をかけてもらえるくらいまでやろう、という気持ちと、どうもなあ、という年寄りのひがみか偏屈かわからないが、今の在り方に少しばかり興ざめの状態に陥っている。それが自粛の間、毎日通信機の前に座っていてもいいのだが、この3ケ月くらいはスイッチをいれたこともない、というありあまる時間の使い方としては妙な具合になっている。

それはひとことでいうと、アマチュア無線の仕組みそのものがいまやほとんど100パーセント、プロのメーカーの製品と、あわせて日進月歩のIT技術との両天秤で進行する、という現実への(これが ”アマチュア” なのか?)という疑問であり、ときとして (これならインタネットのほうがいいじゃん)などと感じる事もあるからだ。1970年代かな、あまり確かではないがトリオ、いまでいうケンウッド、はじめ多くのメーカーが出てくるまで、日本にはハム機器を作るメーカーはほとんどなく、当初はその少ないメーカーが完成品とあわせて自社製の製品に使う主要部品の小売りもしていたから、当時腕に自信のある人はそれを利用して、時としては(メーカー製に劣らないものを素人が作ったぞ!)と自作品がつぎつぎと発表されたりしていた。しかし時代は移り今やハム機器も高度の性能を持った自社設計のLSIやディジタル技術が満載され、自作、ということ自体、ハムの世界からなくなったとは言わないがきわめてまれであり、仮に通信機ができあがったとしても、それが現在の厳しい電波監理局の規制に合格できるかどうかはわからない(というよりできない確率がきわめて大きい)。わからないけど、やってみる価値はないのか。

なぜ、山に登るのか。 Because it is there ,といつもの無茶苦茶精神が起きてきて、何年かかるかわからないが送信機受信機の自作、それもオールドボーイの手の届く、真空管でやろうと実はここ数年、ひそやかにやってきた実験ベースを(ひょっとすると遺品になるかもしれないが)使えるものにしたい、というのがいまの挑戦である。2枚の写真は現在進行中の作品の例で、プリント板、なんてものすらない、昭和のタマシイみたいなものだが、結果、部屋じゅうにアルミの削り屑やらはんだの飛び散りやら落ちたビスやらが散乱、セーターははんだ鏝の焼け焦げだらけ。はじめは ”毎日、掃除して!” と怒っていた我が妻オヤエも昨今はあきらめ(はじめた)たようだ。なまじっか中古とはいえ、昔だったら想像もできない測定器などをそろえてしまった結果、昔ならわかりもしなかっただろう不具合連発発見、しゃあねえ、はじめから組みなおし、と自粛の時間では足りるわけがないのが現実である。しかし、これが楽しい。いつの日か、隣町のひとでもいい、この送信機に俺の声を載せてやる、その意地だけのことだ。

第三、がこれは 自粛生活、が開いてくれた新たな局面、題してSNS(と言えば大げさで、メールとブログにアイフォンだけだが)に目覚めるの記、である。

ブログを通じてOB会メンバー、在職中世話をしてくれた小生のセクレタリー、米人と結婚して現在はいわばメリーウイドウでシリコンバレーにいる旧友、普通部高校と通じての友人、というお互い面識のない間柄で起きている愉快な話がいろいろあり、先だって本稿で紹介した、小泉先輩、47年の関谷君、横河電機時代の親友、という異世界?の友人との出会い、このセレンディピティとでもいうような現象を再現したいと思わせる楽しいパスタイムのひとつを ”エーガ愛好会” として稿を改めてご紹介したいと思っている。月いち高尾” 同様、ご興味お持ちの方の参画を期待する。

小生にとって エーガ と言えばまずこの(左の)人なのだ)

 

 

 

 

 

 

 

 

下村情報への反響-記念館の思い出 (普通部友人  船津於菟彦 ほか)

前掲42年下村兄の投稿に高校時代の仲間から反応が届いた。それぞれに記念館には思い出があるようだ。
編集子とは普通部以来の友人、高校時代は新聞会の仲間だった船津於菟彦から送られてきた、記念館がらみの思いをつづった一文を紹介する。船津は大学時代は慶応義塾新聞・新聞研究所を経て大手商社で情報産業を担当していたことから、現在のIT産業などについて造詣の深い友人である。お互い、結局、高校時代に夢見た新聞記者にはならなかったが。
大学一年の時にこの講堂が建てられ昭和天皇を迎えて、100年祭を開催したのですね。小生、駆け出しのカメラマンとして外回りを撮影。日吉駅はホームには途中までしか尾根が無く、遠くに普通部が見えます。車が総て外車で時代でね。天皇をお迎えするのに地べたに座ってズラリです。
カメラマンとして脚立を何時も下げていました。当時はフィルムも高くて一枚しか有りません。今のデジタル時代と違い、連写などしていないのでボケたりしたらオシマイ。結構良く撮れています。
我々は慶應義塾大学創立100周年に、新聞を作りました。コチトラ駆け出しで隅の方で写真だけ撮りました。その前に未だ復興もままならない、三田山上で創立90年式典が行われたようです。歴史を見ると1947年五月と成って居ますね。昭和天皇が三田山上に来られたようです。
この時にあの素晴らしい歌「慶應讃歌」が平岡養一によって作られ「我らが若き力もて、希望の祖国を打ち建てん」 込められた意気は̶-。
100年祭にも昭和天皇が日吉の新記念館に来られました。この時は迎える方々が地べたに座ってお迎えに成って居ます。我がカメラがパチリ。
まぁ時は移りますね。日吉の駅もホームに屋根の無いむき出しの駅でした。
来賓の車は総て米国車。未だ米軍が残したカマボコ講師や時代でした。
そして、社会人になりましたが創立150年祭が日吉グラントで行われ、「平成
天皇」が来られ、来賓の中では一番感銘深い、心に通じる祝辞を述べられたことを記憶しています。
同じ時代を日吉で過ごした同期後藤三郎から…………
久しぶりに日吉の高校と大学の間にある広場と新しい建物の写真を見せてもらいました(以前この広場で連合三田会のワンゲルのテントもあった)。右側にある我々の通った慶応高校の建物は戦争中に爆撃を避けるためにコンクリートが黒く縞模様に塗られて美しくなくひどく汚い建物に感じました。石原慎太郎が弟の裕次郎の情報を題材にしたと思われる”灰色の教室”と言う短編書は私にはひどく懐かしく感じられます。中味が高校内部の有様をかなり鮮明に描写しており思い当たることが沢山ある内容だからです。例えば、生物の女性教師のこと(当時田村先生と言う美人の先生がおりました)などが登場しております。短編小説ですが若しお読みでない方には一度読んでいただくことをお薦めします。

日吉記念館詳報    (42 下村祥介)

先ほど散歩から戻りました。今日は大学のキャンパスまで足を伸ばし、新装なった記念館の写真を撮ってきました。 どこの仲間も人恋しくなってきているようで、今晩は昔の会社仲間とラインを使ってオンライン飲み会です。

(堀川)
ありがとうございます。前の芝生が無くなっているのですね?
ちょっと、クールですね。

(中司)日吉も僕らのイメージとは様変わりですね。喜ばしい事でしょうが、一抹の寂しさもある、妙な気持ちです。

このあたり、僕らが高校時代はフリーの広場で、マムシ谷へ練習に降りていく連中、山食へ向かう仲間、高校生、大学生がそれとなく交流し時としては雑踏する場所でもありました。そして若干の無頼性?を感じる空間でもあったのです。創立以来の古色蒼然たる慶応高校の、旧制高校由来の空気と新制高校の息吹が重なっていたあの校舎、後何年あるかわかりませんが、その雰囲気がせめて僕らが生存している間はあってほしいもの、と思うのは老人の身勝手でしょうか。昨日の読売のコラムに、”雑踏ということばなじむのが “都会”だが、街路から人影が消えていき、鉱物化したのが ”都市” だ、という文章がありましたが。

も一つ、同じコラムから拾い読みを付け加えたくなりました。中国の詩聖,蘇東坡に
  年々 春を惜しまんと欲すれども 春去って 惜しむを容れず
と。