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八ヶ岳南麓から   (グリンビラ総合管理ブログより転載)

現在の外気温18度、曇り空となっています。9時頃には雨の予報、台風影響は今夜から明日になりそうです。

さて、葡萄の作業もあと少しで袋掛けとなります。袋掛けが終わると、収穫まで防除作業となりますので、一息つけるようになります。現在、葡萄の粒は硬いのですが、収穫期が近づいてきますと葡萄の粒に水が廻り柔らかくなります。

エーガ愛好会 (158)  アウトロー    (34 小泉幾多郎)

クリント・イーストウッド監督主演の西部劇。
冒頭父親であるジョージ―・ウエルス(イーストウッド)と息子が楽しそうに農作業に励み、自宅から母親の呼ぶ声が聞こえると銃声がとどろき家は焼かれ、母と息子は殺され、父親も大怪我を負う。南北戦争末期から、北軍の名を借りたならず者集団が略奪を繰り返していたらしい。この父親、もともと銃の腕はあったのか訓練したのか、復讐の鬼となって南軍ゲリラ部隊に所属し活躍する。戦争が終わり、南軍は北軍に投降するが、ジョージ―だけは従わない。こんなことがあったのは信じられないが、北軍は約束を無視し、投降した南軍を皆殺しにしてしまう。その場に駆け付けたジョージ―が負傷した若者(サム・ボトムズ)を助け、復讐の旅が始まる。

南北戦争終結のミズーリからテキサスへ。北軍から逃げながらも、西部の景観を堪能しながらの動きは、晴れ晴れとした気分を 満喫させてくれる。最初にチェロキー族の元首長(チーフ・ダン・ジョージ)と親しくなるが、老人の息子として生まれ直していくような感情を覚える。この原作がネイティブアメリカンのフォレスト・カーターということも、イーストウッドの先見の明が窺われる。この元首長、インディアン女、廃れた街の人々、老人の女性とその娘(サンドラ・ブロック)等様々な人々との絆が深まっていく。最大の絆は、白人に騙され続けられた先住民コマンチ族との対立もあるが、酋長テン・ベアーズ(ウイル・サンプソン)は、ジョージ―の心からの言葉を信じ、平和に共生を誓うことになるところは、「ダンス・ウイズ・ウルブス1990」以前に、インディアンとの平和的接触による解決が示されているようだ。

アウトロー、ジョージー・ウエルズであるが、どうやらアウトローは一人ではない。旅で出会った人全てが、アウトロー。法の下で保護を受けない人達を指しているようだ。差別、偏見を持たない男として描かれている。何故かいくら撃たれてっも彼には弾が当たらない。仲間の素人の撃つ弾は悪人連中にはよく当たる。ということで復讐は成功する。最後ジョージ―・ウエルズは死んだことにされ、賞金リストから外される。家族を失った復讐鬼が新たな家族を得、平和と共存と融和の中に生活していくハッピーエンド

自分なりの終活。体力・知力・意欲の維持に心がける (36 大塚文雄)

85歳が近くなり、世の中の流れに押されるように終活を始めた。

1.墓じまいからスタートした。

我が大塚家の墓は東京都が松戸市に作った遊園地墓地「八柱霊園」にある。子供は娘3人なので大塚家は私の代で幕を閉じて、いずれは無縁墓地になる。そうならないようにしなければと前から思っていた。八柱霊園には合祀墓がありこれを活用することにした。合祀墓は個々の墓地に眠っている霊を一つの墓に集めて霊園がみとってくださる制度で、他にも広く普及しているようだ。今回は父・母・幼くして亡くなった二人の姉妹が合祀墓に移り、いずれは妻も私も合祀墓で4人に会うことになる。

父親の代からお世話になってきた「石やさん」に墓じまい全体のとりしきりをお願いして、いまは東京都公園協会と手続きを進めていただいている。

2.次は、ダークダックスにワンゲルの借りを64年後に返した話。

50年以上も昔、New York赴任中に集めた300枚ほどのLP Recordの整理・処分に着手した。New Port Jazz Festivalやカントリーの総本山Nashvilleで手に入れたものとか、小澤征爾さんのご活躍に刺激されて聴きまくったクラッシなど名残り惜しいものばかりで手放したくはないけれど、LPプレーヤーがなくなり、聴けないものをいつまでも保存しているわけにはいかない。整理をしていると、1968年と1969年にダークダックのメンバー4人がマネジャーもつけずにNew Yorkにこられた際にいただいたたサイン入りLP Record3枚と、一緒に観たMusicalのPlaybill(プログラム)が目についた。

ジャケットを眺めているうちにこんな会話が記憶によみがえってきた。ケネディー空港から市内に向かう車の中で、私がワンゲルOBであることが分かると、ゲタさんが、「ワンゲルが山小屋建設の資金集めのために開催した”映画と歌の会”で何回も歌った。出演料は ”小屋ができたらご招待します”だった。今日まで招待されていないな。ダークダックスはワンゲルには貸があるよ」。

いまがその借りを返すときと考えて、「特定非営利活動法人 ダークダックス館林音楽館」に経緯を書いて寄贈したいと申し出ると、喜んで受け取ってくださった。昔のLPが結構な人気を博しているようだけれど、大事にしてくださる方の手に渡るのが一番。Countryも「涙がでるほど嬉しい」と言う方に引き継いでいただいた。ダークダックス館林音楽館は「株式会社館林うどん」が地域活動の一環として設立したらしい。同社の社員や地域ボランティアの手で管理・運営をされているようで、ネット検索してみると「株式会社館林うどん」の小暮社長が代表者を務めておられる。後日、小暮社長より「館林うどん」を返礼として頂戴した。戦時中に群馬県の北方に疎開して、うどん、そば、お焼きが主食の2年間を過ごしたこともあり、うどんは大の好物で、舌も群馬の味を覚えている。「館林うどん」は格別の味だった。

  1. いまは現役時代にいただいた名刺の整理と本の処分に取り組んでいる。

78歳まで仕事をしていたこともあり名刺の枚数は半端でない。殆どはゴミ箱行きで、ときたま手元に残すものがでてくる。「二度と読むことはないな」と思う本は読後に捨てる習慣でやってきているので、それほどの量はない。しかし、まだ生きているのだから全部処分することはできない。着るものもそうだ。

  1. ここまで断捨離まがいの終活をしてきて、終活マニュアルを開いてみた。

自分の考えている終活とはずいぶん違っている。あるいは昨年の夏から今年の春まで激痛を伴う左股間接拘縮症で苦しんだために、自分の終活観が生まれたのかもしれない。

それぞれの人にそれぞれの終活があるはずで、自分の終活には過去の整理と、今から死ぬまでの間の活動があると考えるようになった。過去の整理は断捨離をして、終活マニュアル通りに書き残すことだから、始めればすぐに終わってしまう。これから死ぬまでの間の活動が難しい。いつ終わるか分からない人生終盤の活動が難しい。自分にとって大切な終活は、可能なかぎり人の手を煩わせずに日常生活を過ごせる体力・知力・意欲を維持することだと思っている。左股間接拘縮症で苦しんでいる間に、日常生活で人の手を借りる申しわけなさと、自分に対するはがゆさを何度も感じたことからのレッスンでもあろうか。

  1. 体力・知力・意欲のうち、経験的に最初に来るのは体力で、3か月後の今日の体力が今現在の体力と同じであることを目標にしている。

しっかりした食事をとり、億劫がらずに体を動かして体力を維持すれば、知力と意欲は自然とついてくると思っている。長年、厚生省推奨の「一日30食材を食べる」を目安にバランス良い食事を目指していて、「体力の基は朝食にあり」と思っている。何故なら、朝食に15種類は食べないと30種類は絶対に無理なことが経験で分かっているからだ。

2~3年ほど前にフォミュラーを確立したけれど、毎日30種類はとても遠くて、多いときでも28種類程度だ。これにカルシュームとビタミンCのサプルメントを入れてごまかし30種類にしている。朝食以外ではユックリと食べることと、ベジファーストを習慣にしている。加えて、ジャイのブログから学んだ朝食後の体温測定を欠かさず行い記録し、1週間ほどさかのぼって変化の有無をみている。そのついでに血圧も計っていて、「体調管理完璧」と自己満足している。こうしたことが残り僅かな人生をどれだけ豊かにしてくれるか分からないけれど、真正面から取り組んでいきたいと思っている。

(追記:体調は8割がた回復し、今は週1回ずつ、体幹矯正の骨盤体操、筋肉回復の機械体操と、楽しみのテニスに通っています。写真は自宅でストレッチボールを使い骨盤体操の復習をしているところです。)

エーガ愛好会 (157) セーブゲキのトリビアふたつ

小泉さんの最近の投稿 マグニフィセントセブン の注記で、ローズバーグを架空の街だ、と書いた。これを書いた時には、かの 駅馬車 で御者のアンディ・ディヴァインが行先をローズバーグ!と怒鳴るのだが、これが ROSEBERG かROSEBURG のように聞こえ、こういう町はない!と思い込んでいたのが先入観としてあった。ところが先日、読売新聞に今回の米国での妊娠中絶違憲論の記事で州別にその対応を色別に著した地図があり、州名がわからない部分があったので手元にあった米国地図と見比べていた時、偶然にローズバーグという記載があるのに気がついた。この地名は LORDSBURG という綴りで、現在のニューメキシコ州の、アリゾナとの州境に近く、メキシコとの国境とも同じくらいの距離にある。フォード作品によく出てくるリオグランデ河からもあまり遠くないから、西部劇の舞台としてはうってつけの場所だろう。。

米国版グーグルによると、この街はヒダルゴ郡の州都で街の創立は1880年、現在の人口は3000人くらいであるそうだ。1880年、というタイミングだが、駅馬車 のイントロ部分で “カスター将軍の全滅が西部に伝わり現地で不安が高まっている” という時代背景が説明され、そのニュースを伝える電信のモールス符号が効果的に挿入される。ダコタ州リトルビッグホーンで第七騎兵隊が全滅したのは1876年6月25日だから、この時点でこの街にいく駅馬車路線があったかどうかは分からないが少なくとも架空の街だった、と決めつけたのは小生の早とちりだった。

米国版ウイキの記述によると、この街は第二次大戦中ここに住んでいた日系人二人が虐殺されたという史実で知られている、というが、西部劇映画に登場した、という記述はない。念のため同じUSグーグルで、あらためてROSEBERG または ROSEBURG を探してみたらオレゴン州はそういう街があるそうだ。もし 駅馬車 が オレゴントレイルでの話だったら(リメイクのアレックス・コードものは舞台をがらりと変えてワイオミングの森になっていた)、この推理(?)は成立したかもしれない。荒野の七人 シリーズはメキシコと切り離せないストーリーだから無理だろうが(ただし、コメント後半のサンタテレサにかかわる話は正しい)。

今日(7月1日)放映の リバティバランス、後半の1/ 4 くらいなんとなく見てしまった。たぶん4回目くらいになるのだろう。以前書いたがリー・マーヴィンが決闘に出かける直前、ポーカーをしていて、最後にできた手がエースと8のペア、deadman’s hand であることを確認した。US版グーグルにはさすがに詳しく解説があったが、そもそもは開拓期の西部の英雄だった ワイルド・ビル・ヒコックが1876年8月2日、ダコタ州デッドウッドで裏切り者に背後から撃たれて死んだとき、持っていたカードがそう呼ばれるようになったのだそうだ。その組み合わせは ダイヤとクラブのエース、クラブとスペードの8,それとビルの血に染まったスペードのクインだったという。この話は 駅馬車 でも同じく使われたことは以前にも書いたことだが、フォードは小道具としてこういう伝説に忠実だったようだ。

駅馬車とこの映画はほかでも縁があるようで、名ばかりの善人保安官をやるのはおひとよしの御者だったアンディ・ディヴァイン、最後近くに議員選挙で敵側の演説をするいかさま紳士が過去を背負った南部の貴族を演じたジョン・キャラダインだった。ついでに言えばマカロニウエスタンのヒーローになったリー・ヴァン・クリーフも出ていた。”フォード一家” の出演だが、フォードが気に入ったリー・マーヴィンとウエインは全く気が合わなかったそうだ。どうでもいいことだが、それをいったらおしめえよ、というのがトリビアの世界だわな。

 

”エーガ愛好会” 初顔合わせ開催

いつが正式?なオープニングだったかすでにあやふやなのだが、念願の顔合わせ会を開いた。猛暑の中、ほぼ全員が楽しい時間を持つことができた。同窓会とかなんとかのよくある集まりではなく、うまい例がみつからないが、かの あしながおじさん の結末のように、メールでしか知らない仲間と会って、(あ、こう言う人だったんだ!)という、小生が細々と続けているアマチュア無線でいう Eyeball ミーティングであった。次回は忘年会で鍋でもつつこうか、という話が不思議ではなかった。

写真後列左から 安田・林・関谷・小泉(KWV OB), 齋藤(筆者会社時代友人)、保屋野(KWV), 菅井(会社同僚)、レストラン ”ヴァンサン” オーナシェフ城(じょう)悦男氏、前列小田・金藤(会社同僚)、児井(大学クラスメート)、筆者、菅原(普通部時代友人)、飯田(大学クラスメート)。

色覚異常 ということについて   (会社時代友人 齋藤博)

色盲、色弱、色神異常、赤緑色盲と言う言葉をご存知だと思います。
私が大学に入る頃、理学系の学部を志す人たちで、これらのような人たちは受験できないとか、自動車運転免許は取れないとか言われていました。入社試験でも、この件は聞かれました。

2005年に日本眼科学会は、色盲とか色弱などの言葉をすべてやめ、「色覚異常」に統一したそうです。それでも、ネガティブな印象があるため、もっとよい言葉を検討しているようです。

この日本眼科学会のウェブページでは、目の病気「先天性色覚異常」(https://www.nichigan.or.jp/public/disease/name.html?pdid=33)の項目で、詳しい内容を説明しています。
一方、日本眼科医会のウェブページ(https://www.gankaikai.or.jp/health/50/index.html)には、「色覚異常と言われたら」というページがあって、詳しく説明されています。その最初に、「ゴッホやウイリアム・ターナーなどの有名な画家も色覚異常だったといわれています」と記載されています。

一般色覚者の見え方
色覚異常の見え方

20年ほど前に、ウェブ上で動くアプリケーションを開発する仕事をはじめました。その頃に、カラーユニバーサルデザインという言葉に気付き、例えば赤色を赤色と見えない人たちも同じアプリを使えるようにと、色合いの設定に腐心していました。色々なツールを使って画面がどう見えるかを確認しながらアプリを開発していたのですが、ずっと気になっていた事が、一つのテレビ番組を見ることで、腑に落ちました。数日前、録画していたNHKの「ヒューマニエンス クエスト」の「”目” – 物を見抜くセンサー」の回を見て、「色の見え方も個性があって、共通性がありながらも多様性がある」と知りました。

生物学的には、ヒトの眼球の網膜の奥には、2種類の視細胞(桿体と錐体)があって、その中の錐体細胞というのが色を識別する細胞だということ。
・その錐体細胞は、色を示す波長域によって3種類の細胞があるということ。長波長(L)、中波長(M)、短波長(S)を感じる3つ。
・3つの錐体細胞の、どれかの錐体が機能していない、あるいは、なかった(欠損)ことで、色の見え方は変わるということ。

すなわち、
それぞれが持つ錐体の特質によって、ある人は赤く実る果実を見つけやすいが、草むらに潜む天敵を見分けにくいと言う特性が生まれるので、果実を見つける役割を分担して生きてきた。つまり、人類に進化してゆく過程で、
「いろんな色覚型がいた事で、人類は絶滅を免れて生き延びてきた」と言う話がされていました。う〜ん、認識を新たにしました。LGBTQではありませんが、色覚の異なりも、認識すべきことなのですね。実際、血液型のABO型と何ら変わることがないのかもしれません。

エーガ愛好会 (156) 山猫   (44 安田耕太郎)

舞台はシチリア島、時代はガリバルディによるイタリア統一を目指し歴史が回天する1860年代。革命軍は貴族支配の終焉を目指す中、没落を宿命づけられた山猫の紋章を持つ300年の栄華を誇った名門貴族サリーナ家の公爵(バート・ランカスター演じる)が、時代の変化に翻弄される姿が描かれる。同時代のアメリカ南北戦争時代の南部の奴隷制に基づく白人貴族社会の凋落を描いた「風と共に去りぬ」1939年を彷彿とさせた。両映画は、バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ vs  ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、オリヴィア・デ・ハヴィランド、レスリー・ハワードの豪華な出演俳優の顔ぶれ、壮大なスケールの映像美、時代背景と没落してゆく貴族階級の人々の生き様など、多くの共通点があると感じた。

監督はミラノの貴族階級の末裔ルキーノ・ヴィスコンティ。1936年にココ・シャネルの紹介で知り合った巨匠ジャン・ルノワール(画家ルノアールの次男、先日「大いなる幻影」を観た)の監督作を手伝うようになり、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(‘42)で監督デビュー。第二次世界大戦中は共産党に入党、「赤い貴族」と呼ばれた。戦後はイタリア・ネオリアリズムの旗手として「夏の嵐」(’54)、「若者のすべて」(’60)などを手掛け、本映画「山猫」ではカンヌ国際映画祭パルムドール受賞。後期は先日放映された「ベニスに死す」(’71)、「ルードウィヒ 神々の黄昏」(’72)など独特の美学に基づく名作を残した。

シチリアの乾いた風景と色彩が潤いのある国土に住む日本人には新鮮で強烈な印象を与えてくれる。やはりシチリアを舞台にした映画「ゴッドファーザー」「ニューシネマ・パラダイス」「マレーナ」などと空気感が当たり前ながら大変似通っていた。原色の鮮やかな映像タッチは絵画を見ているかのようだ。額縁に入れて飾りたくなるような瞬間を捉えた場面はそれ自体ヴィスコンティの美意識が反映させているとさえ思った。自身、イタリア貴族の血統を引くヴィスコンティ監督が唯一自身を語った作品とも云われた。1860年代と云えば、日本でも幕末の動乱期。ドイツは鉄血宰相ビスマルクが首相となり(1862年)、軍国化を押し進めた激動の時代。フランスはナポレオンの甥ナポレオン3世の第二帝政の治世でパリ・コミューンの共和政へ向けて動乱の時代。世界各地で同時代を特徴付けた大きな政治・社会変革のうねりを伴う歴史を俯瞰する楽しみがある映画だった。

シチリア島の名門貴族の当主(バート・ランカスター)は、永年仕えてきたブルボン家がガリバルディ革命軍の世に名高い赤シャツ隊に排除されるのを目の当たりにする。当主の甥(アラン・ドロン)は反対勢力の赤シャツ隊に合流し、新興勢力のブルジョアである市長の娘(クラウディア・カルディナーレ)と婚約してしまう。彼女が初めて登場する晩餐のシーンで、彼女はアラン・ドロンの冗談に大笑いする。周りの貴族の人々は大変白ける。しかし、貴族の出ではない彼女はへっちゃらで、大笑い続ける。このシーンは、それまでの社会や習慣がそれまで通りでなく、変化せざる得ないことをヴィスコンティは暗示している。映画の1/4を占めんばかりの舞踏会のシーンにもヴィスコンティの言いたいことが暗示されているようだ。大舞踏会は長く盛大であればあるほど、次第に人が減って行き終わりに近づくにつれて寂しさが一層募る。元気に踊る若者達に対して、一人、孤独や老いを噛みしめる主人公の深い想いが、観る者の胸に迫ってくる。ヴィスコンティは舞踏会の場面を通して、動と静、盛と寂、昇と降、多と独、を対比させることで、没落してゆくシチリア貴族の現実を描き、時代の変化、社会の変化に翻弄された貴族の物語は、永遠に続くものはない、人間も老いや死からは逃れられない、のだと観る者に語りかけてくる。

革命が成功してガリバルディ軍も解散し、新しい国王の政権が始まり、ランカスターは新しい政府の貴族院議員に推挙されるが、古いしがらみの中でしか生きられないと固辞する。悲惨なシチリアの現状を改善しなくて良いのかと更に懇願されるが、「シチリアは変化を望まない、眠りにつきたいだけだ」と断り、代わりに甥を推薦する。彼の屋敷で大規模な舞踏会が催された。大盛会の舞踏会が終わった明け方、彼は家族を馬車で帰らせ、一人街を歩きながらつぶやく、「いつになれば永遠の世界で会えるのか」と語り掛け、路地に消えて映画は終わる。

この映画の大舞踏会ほどの豪華絢爛で長時間にわたる舞踏会を他の映画では見たことがない。撮影場所はパレルモに実在の貴族の館「パラッツォ・ガンジー」。この館は先日、イタリアの貴族の館の一つとしてテレビ番組で紹介されていた。電球を一切使わず撮影の明かりは全てローソクに頼ったということで、室内の暑さは殺人的だったとのこと。出演者が大汗をかき、扇子で風を送るシーンが多く見られたが、実際とても暑かったそうだ。最後に出演俳優について。デボラ・カーとの波打ち際のラブ・シーンが忘れがたい「地上より永遠に」、ワイアット・アープを演じたOK牧場の決斗」、アカデミー主演男優賞を獲得したエルマー・ガントリー」、いぶし銀の演技が光った「フィールド・オブ・ドリームス」などで貫禄の演技を魅せたバート・ランカスターは、現在の我々からかけ離れた現実感がない没落する貴族役を見事に演じたのは流石だった。ヴィスコンティ監督作品では「若者のすべて」に続いての出演だった容姿も立ち振る舞いも美しい若きアラン・ドロンは映画のテーマの一つ、激動の世に於ける若者の生き様を繊細に演じた。「刑事」「ブーベの恋人」が印象的だった、映画の題名「山猫」のような野性的な容姿の魅力的なクラウディア・カルディナーレも若者のすべて」に続いてのヴィスコンティ作品の出演。いかにもイタリア南部シチリア島の物語に相応しい雰囲気を醸し出す女優であった。舞踏会でのアラン・ドロン、バート・ランカスターとのダンスシーンは圧巻であった。


マカロニウエスタンで活躍したジュリアーノ・ジェンマ(右端)もガリバルディ革命軍・赤シャツ隊将軍役で出演。左端はアラン・ドロン。

(保屋野)ガリバルディーの活躍で、悲願のイタリア統一がなされた直後のシチリア貴族と甥っ子そして婚約者の物語なのですが、当初、中々筋立てがよく分らず期待外れ?、と思いながら観ていましたが、次第に人物像や時代背景が理解出来て、最後の舞踏会場面も素晴らしく、特に、ランカスターとカルディナーレがワルツを踊るシーンは圧巻でした。俳優陣では、ドロンとカルディナーレも魅力的でしたが、やはり何といっても、初老の(時代に抗う)公爵役を見事に演じきったランカスターの存在感に圧倒されました。ただ、歴史を背景とした大作としては、私には、昨年観た「ドクトル・ジバゴ」の方が面白かったですが・・・・

乱読報告ファイル  (25) 居眠り磐根江戸双紙

この本のことが話題になっていることはだいぶ以前から承知はしていたが、万事、流行には反発することにしている生来の天邪鬼気質が邪魔して、最近まで見向きもしなかった。ところが偶然にテレビで山本耕史出演の番組に出合ったのがきっかけで文春文庫版を本屋で手にしてみた。ただ全51冊、と言う分量に多少腰が引けていたら、スガチューから、51冊、なんて三日三晩で読めらあ、とけしかけられて(考えてみるとミステリーというものを吹き込まれたのもこの男なのだ)読み始めたのだが、本心、どこまで続くかと不安でもあった。しかし始めて見るとまさにはめられて、そのほか積んである本には見向きもせず、昨晩、51冊目 旅立ちの朝 を読了した。これで気になっていたポケットブックのほうに戻れそうだ。

これまで、いわゆるシリーズ物にはまった経験は、たとえばロバート・パーカーのスペンサーものとか、北方謙三のブラディドールとかはたまたスー・グラフトンのキンジー・ミルホーンシリーズとか結構あった。これらの場合はまず当初目に触れた1冊が気に入って次のを待つ、という時間的ずれがあったのだが、今回はすでに全巻が本屋に並んでから読む気を起こしたので、週に2回は立ち読みに出かけると常に存在が眼に入って、はい、つぎ! とせかされるような気分だった。そのことがほかの本には目もくれず、といったペースを生み出したのかもしれない。

このシリーズの魅力はなんだろうか。

第一に、全体を通じて感じられる、日本人らしさというか、表現は変だが清潔さ、みたいなものだ。主人公はやはりスーパーマンではあるのだが、いつも堅苦しさを持ち続けこの話の背景の時代にはすでに崩れかけていた武士の在り方を追いかける、昨今の小説ではおよそはやらないテーマだからだ。作品が扱う爛熟した江戸時代の社会が、ある意味では現在の表面は派手だが中には耐えきれない逼塞感があるような日本を思い出させて、人々が求めようとしている生き方を暗示するからではないだろうか。ミステリではいわゆる本格物は非現実的だからハードボイルドがあるのだ、などとうそぶいている人間にしては殊勝かつ自己矛盾的な言い方ではあるのだが。

第二はシリーズ物につきものの、主人公以外のいろいろな登場人物や背景に対する親近感が絶えず感じられるストーリーであるからだろう。”どてらの金兵衛さん” などはテレビ番組で好演の小松政夫のイメージがすっかり定着していくのがいい。ほかのシリーズ、たとえばスペンサーにしても北方にしてもストーリーは面白いがバイプレイヤーについての書き込みがあまりない(その点、グラフトンのABCシリーズはよくできている)。また江戸(この本が描く江戸が発展拡大して東京になった、などは決して思えない)というたぐいまれな文化や人間関係が、今となっては一種の羨望さえ抱かせるように書き込まれていることがあるだろう。

第三には、これは作家としては当たり前といえばそれまでだが、時代検証が行き届き、江戸の地理地名が詳細に書き込まれていて、現在と比べてみる楽しみがある。当時、水路がこれほど発達していたとは知らなかったので、日本橋さえ埋め立ててしまった東京の、ある種の貧困を感じさせる。また頻繁に当時の食べ物の描写も懐かしさを引き立てることが多い。この本に出てくる献立に郷愁を感じられるのも小生たちの時代までなのだろうが、(明治は遠くなりにけり)という言葉が浮かぶ。

ま、今晩は金曜日、とりあえず、読了した満足感と開放感みたいなもの、スガチューにどうだ、と言ってやりたい気持ち、そんなものを感じながら時代劇専門チャンネルで磐根くんとおこんちゃんにお目にかかろう。

 

エーガ愛好会 (155) マグ二フィセント・セブン    (34 小泉幾多郎)

七人の侍」のリメイク「荒野の七人」は今や西部劇の古典となり,その続編も4本制作された。この「マグニフィセント・セブン」は、どういう訳か観たことがなかった。これは続編でなく「荒野の七人」のリメイク版だった。主演は黒人のデンゼル・ワシントンということからも、最近の映画らしいのだが、他の6人は殆んどの俳優を知らない。正編の方は何回も観てきているから、ユル・ブリンナー以下その個性的な役柄が夫々発揮され、お馴染みとなったが、初見の時は、殆んどが知らない俳優だった筈だから、致し方あるまい。

冒頭、大資本家というバーソロミュー・ボーグ(ピーター・サースガード)が、暴力を背景に町民に立ち退きを迫り、動揺する町民たちの中、反論したエマ・カレン(ヘイリー・ベネット)の夫が撃ち殺されてしまい、また町のシンボルである教会までも、見せしめのため焼いてしまう暴挙には最初から驚く。  エマは煮え切らない町の男たち差し置いて、町の用心棒を探しているとき、偶々その町で、サム・チザム(デンゼル・ワシントン)というカンザス州ウイチタの委任執行官で7つの州の治安官が銃でもって解決する姿に惚れこみ、住居地ローズバーグの用心棒になることを懇願する。ストーリーの骨格は、正編へのリスペクトが感じられるリメイクで、同様に6人の用心棒たちを順に誘っていく。訳ありのアウトローたちは次の通り。先ずは流れ者のギャンブラー、ジョシュ・ファラディ(クリス・ブラッド)、スナイパーのグッドナイト・ロビショー(イーサン・フォーク)、怪力の山男ジャック・ホーン(ヴィンセント・ドノフォリ)、ナイフの名手東洋系のビリー・ロックス(イ・ビョンホン)、メキシコ人で二挺拳銃の使い手バスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)、ネイティヴアメリカンの弓矢とトマホークの名手レッド・ハーベスト(マーティン・センズメアー)。人種的には、主役に黒人、、白人二人だけであとは諸々。唯一の女性エマ役が用心棒集めや戦闘への参加等活躍するが、胸の露出が目立つ衣裳だが、恋愛関係なしの儘。最後悪役リーダーバンソロミューに、とどめを刺すだけでなく、七人と一緒の活躍を見せても良かったかも。

山場は二つ。ローズクリークでの、バーソロミューの部下達を殲滅させる戦いと最後の激戦。ただピストルの音がパンパンと空砲のような音が気に入らない。何か規制でもあるのだろうか?最後は敵対する相手が軍隊規模の数百名?多彩な武器での派手な動き、今の核兵器ガトリング銃の恐怖、それをダイナマイトで爆破する等、正編を大幅にスケールアップしている。最後の最後に「荒野の七人」のメインテーマが流れ、死んだ4人の墓標と共に、崇高な男たちを讃えるエマのモノローグが入り、生き残った3人(黒人、メキシコ人、ネイティブ)が再び荒野へ去る。

(編集子)リメイクというのは賛否それぞれあるだろうが、シエーン のリメイクである ペイルライダー は別として小生が気に入ったものはあまりない。デンゼル・ワシントンは人種差別と闘う戦士としてよく登場するが、そういう意味ではハリウッドの優等生なのだろうか。ジーン・ハックマンと共演した クリムゾン・タイド でやはりそういう重圧に耐える役の抑えた演技の印象が残る。 この作品の現場がローズバーグという架空の街になっているが、これはかの 駅馬車 でも使われた地名だ。HB作品ではロス・マクドナルドとスー・グラフトンがカリフォルニアのある街、として、たぶん偶然なのだろうが サンタテレサ という街を創造した。マクドナルドのほうはわからないが、グラフトンの創造したサンタテレサは、たぶんサンタバーバラらしい、という事が熱心なファンの間の定説らしいのだが。こういうトリビアが結構面白い。

 

 

乱読報告ファイル (24)  佐伯啓思 ”さらば、欲望”

本のタイトルだけを見ると、小生得意のハードボイルド小説の話か、と思われた人も多いかもしれないが、これは極めて明快な文化・経済についての識者の解答である。小生、幸いなことに多くの友人に恵まれてきたが、佐伯、という苗字の友人はあまりいない。たまたま、今回、ふたりの佐伯氏 に続けて出会うことになった。一人は今や国民的作品とされている 居眠り磐根 の著者であり、もう一人が独特の理論で小生も共鳴するとこの多い京大名誉教授である本書の著者である。

経済学部を出たことになっているが、本筋の経済理論には興味がわかず、いわば傍流の社会思想史、という事を少しばかりかじった小生が散発的ではあるが多少読んできた佐伯教授にひかれるのは、同氏が経済理論を文化論の立場から論じられることが多いからである。本著は同氏が今まで発表されてきたエッセイをまとめたものだが、その冒頭に現在世界が注目しているウクライナ情勢にかかわる一文を持ってきたのは、さすが商売上手の幻冬舎、という感じがしなくはない。

その第一章で佐伯教授が ロシア的価値 という単語を選び、それを20世紀初頭に書かれたドイツの思想家シュペングラーの 西洋の没落 という本から始められたところが小生の興味を引いた。仕事を辞めた後、社会思想をかじった手前、今まで名前だけは知っていたこの本に挑戦したが、膨大なトピックと西欧思想全般にわたる大著で、何とか最後まで読むのがやっとだった。佐伯氏はこの本の持つ意味は、当時の西欧文明が生み出した新世界の典型がアメリカ合衆国とソ連(当時)であるとし、いずれも土着の文化を無視して合理性と技術による経済発展を目指したこの二つの文明によって、それまでのヨーロッパの文明は没落すると論じたことなのだ、と言っておられる。小生が納得したのは、同氏が 文化とはある特定の場所に根付き歴史的に生育する民族の営みであり、それはアメリカ文明とソ連が掲げた普遍的抽象的理想などという観念とは相いれない、というくだりである。同氏はさらにナチスによって破壊されつくしたヨーロッパ文化の後に現れたのが、ともに近代的な人工的文明であるアメリカとソ連の対立だった、と定義される。そして生き残ったアメリカ文明は、歴史は普遍的価値の実現に向けて動くものであり、その実現こそがアメリカの使命なのだ、と主張し続けている。そしてこれはまさにほぼ毎日、新聞に登場するいわゆる西欧側の理屈そのものであり、今を盛りのインド太平洋戦略なるものの骨格でもあるのは周知のとおりだ。

本著の主題、すなわちこの西欧側の主張の根幹をなす、民主主義、法の支配、個人の自由、といった価値観を実現する体制とされている資本主義、それはどうなるのか、あるいはなっていくのか、という疑問に対しての佐伯氏の考え方を一つにまとめてしまえば、人間の欲望とそれを満たす機構としての資本主義とその実現形態である市場経済を通じて人間の欲望とそれを満たすための仕掛け、硬い言葉でいえば資源の希少性をどうやって満たすか、と云う仕組みが成り立たなくなっている、という点に尽きるのだと思う。資本主義・市場経済の混乱はグローバリゼーションという、ただ単に利潤と効率の追求が文化すなわち ”歴史的に生育する民族の営み“ を無視して拡大した結果であり、それはゆく先々に効率のみを重視する姿勢を強要し、その結果として必然的に発生する経済格差と社会の分断を伝染させているからだ、とする。この主張に小生は全面的に同意する。

その資本主義・市場経済というメカニズムを支えるイデオロギーとしての民主主義の現実についての佐伯氏の考え方は、乱暴な言い方をすれば、そのよって立つ基盤であるはずの民意、とか、国民主権、といった観念そのものに対する疑問として表現される。昔日のアテネのように、”市民“ すなわち日常の生活は奴隷に任すことができ、政治に全うすることができた選良たちのみが行政を行った時代はともかく、現在ではその ”市民” 的存在であるとされているはずの ”国民“ は、ありとあらゆる欲望をそれぞれ勝手に主張する群衆にすぎない。その欲望に応える企業側はこの欲望の是非を判断することはなく(できないから)ただ規模の拡張のみを主張し続ける。今の政治家が決まり文句にしている ”民意“ などという正義は存在しないのだ、ということだ。このことは(一応社会思想史なるものをかじった経験で言わせてもらえば)現在の社会はすでに大衆社会、すなわち群衆がものごとの実像を理解することなく、かつてオルテガが唱え、フロムが名付けた ”匿名の権威“ 現在の用語でいえばフェイクニューズによって情緒的な反応に終始する段階に来てしまった、という事だと思う。そして同氏が(不本意だろうと勝手に想像するだけだが)、民主主義とか国民主権などと称する幻想をすてて、いわば ”手続きとしての民主主義“ に徹するしかないだろう、という結論を引き出されたことに、自分でも不本意ながら、この結論は正しいと思うのだが、各位の感想を伺いたいと思う。

また、戦後の日本、押し付け憲法だとか政治の貧困だとかあいも変わらぬ外国崇拝主義だとかいう現実のもとで、過去80年間、ただ一人の若者も戦争で失っては来ていない国の在り方を結果論なのだろうが ”日本という国の政治” の成果と考えると、この史実は将来の歴史書によってがどう判断されるだろうか、そのあたりの佐伯氏のお考えを聞いてみたいものだ。