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乱読報告ファイル (37) 高峰秀子 ベストエッセイ  (普通部OB 菅原勲)

図書館の年末年始の連休明けに、早速、新刊と言うより新着の棚を覗いてみた。余り食指が動く本はなかったが、その中に一つだけ「おや」と言う本を見つけた。その文庫本は「高峰秀子 ベスト・エッセイ」(2022年、筑摩書房)とある。まー、エマヌエル・トッドよりは難しくなかろうってんで借りて来た。

ところで、高峰に関しては、小生、映画は「二十四の瞳」しか見ていないし、これまでさして興味ある女優ではなかった。従って、その随筆も読んだことはない。この「ベスト・・・」は、松山善三・高峰秀子夫妻の養女だった斎藤明美(元:週刊文春の記者)が、高峰が書いた数多ある随筆の中から編纂したもので、高峰の取っ掛かりとしては、それこそベストそのものだった。と言うのは、「食わず嫌いは損のもと」と言う言葉があるが、小生が正にそれを地で行くボンクラだったからに他ならない。しかし、面白くて面白くて、あっと言う間に読み終わり、こりゃーただものじゃーねーな、ってのが第一印象。月並みな表現だが、目から鱗。

話しは、彼女の父親の妹(高峰の叔母)が子をなさず、その間、貰うあげないなど色々ひと悶着があったようだが、最終的にその養女となる。この養母が最後まで、金銭面を含め、高峰の私生活の足を引っ張りまくることになるのだが、実は、活弁士をやっていたことがあり、その芸名が「高峰秀子」だったことから、平山秀子(本名)が高峰秀子になったと言うことのようだ。
兎に角、売れっ子で売れっ子で、5歳から撮影所に入り浸り、学校には殆ど行っていない、いや、行けなかった。後に「文化学院」に入学したが、禄に学校に行っていないことから、学長から、「俳優か、さもなくば、学校か」と選択を迫られ、即、俳優と答えたから、学歴は全くないに等しい。従って、読み書き算盤ではないけれど、例えば、字を読むことについても大変な努力をしたようだ。
出自が真面でないこと、学歴がないことなど、それが引け目で、ひねくれ、劣等感の塊になっても可笑しくなかったが、そうならずに済んだのは、超一流の人たちとの交流があったからではないかと勘繰っている。例えば、司馬遼太郎、志賀直哉、安野光雅、梅原龍三郎、黒沢明、越路吹雪、有吉佐和子、小津安二郎、池島新平、扇谷正造、などなど。また彼らとの交遊録がこのエッセイの白眉でもある。その一例を挙げるなら、松山善三・高峰秀子夫妻とはならず、クロさんこと黒沢明・高峰秀子夫妻となっていた可能性も充分にあったらしい。

「ベスト・・・」読了後、直ちに、高峰の処女作である「巴里ひとりある記」を読んだ。これは、1953年の出版だから、彼女が29歳の時。確かに、ミーハーのきらいがあるのは否めないが、それははじめの部分だけ。その内、直ぐに、高峰らしい視点で冷静に巴里を眺め、大いに楽しみ、そして、平山秀子を満喫している。だいぶ前に、林芙美子の「下駄で歩いた巴里」(1930年代)を読んだが、何か貧乏くさくて余り面白くなかった。しかし、巴里と言う街は、それほど人を惹きつけるものなのか。それは女だけには限らない、男でも、確か詩人の荻原朔太郎が「フランスへ行きたしと思へどもフランスはあまりに遠し・・・」。これもなんだか寂しいねー(これ、高峰の口調)。一言で言えば、知ったかぶりはしない、カッコー良くも見せない。つまり飾りっけの無さがその最大の美徳だろう。
今現在、高峰に入れ込んで、「わたしの渡世日記」から抜け出せず、この世のものとは思えないヒエロニムス・ボスは、暫しお預けだ。

 

ウクライナ戦争の行方    (普通部OB 田村耕一郎)

友人のジャーナリストから送ってもらった展望記事の一部をご紹介します。

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ロシアのウクライナ侵攻が始まってから2月で1年を迎えますが、停戦や戦闘の鎮静化 の兆しは見えません。電撃的勝利を達成できなかったロシアの目標はもはや曖昧に> なっており、プーチン大統領のこだわり一つにかかっている状態ですが、一方的に 「併合」した4州(とクリミア)を維持する意図だけは明確にされています。
ロシアがウクライナを「戦争」で打ち負かすことは、ほぼ不可能になったと言っても 過言ではありません。兵士と兵器は著しく消耗し、大規模な作戦を行うことは非常に 難しくなっています。新たに動員された兵士を前線に配備し、春に攻勢をかけること は不可能ではありませんが、兵士の練度も装備のレベルも低く、米欧からの軍事支援 を得てさらに強力になったウクライナ軍を後退させることはできないでしょう。

しかしロシアが引き下がることは想定できません。ロシアはウクライナの都市とイン フラへのミサイルとドローンによる攻撃を続け、ウクライナを疲弊させることができ ます。併合した4州の防備を固め、ウクライナ軍の奪還を食い止めることも十分に想 定されます。プーチンとしては、とにかく現状の戦闘状態を続ければ、いずれ米欧の 支援も止まり、ウクライナも音を上げざるを得なくなると踏んでいるのでしょう。

しかしウクライナが譲歩することも想定できません。ウクライナはロシア軍の完全撤 退(最低でも侵攻前のラインまでの撤退)を最低条件と考えており、その決意は国内 で一致しています。また現在の戦況は自分たちに有利であり、米欧の軍事・経済支援 はこれからさらに強化されると期待しているので、長期戦にも耐えられる(さらに有 利にもできる)と考えています。ロシアが何らかの譲歩を見せない限り戦いを続ける ということです。 実際、米欧の支援が今後減退することは、少なくとも今年いっぱいはないでしょう。

米国は十分な予 算と制度的な裏付けを確保しています。またロシアの軍事エスカレーション(核使用 など)のリスクが制御可能な範囲にあるとみて、兵器支援のレベルをさらに上げよう としています。この方向性は下院が共和党の支配下に入ったところで変わりません。 欧州は、たしかに各国には停戦に向けたスタンスに微妙な違いがありますが、独仏を 中心とするほとんどの主要国はロシアを根本的な脅威ととらえています。またロシア へのエネルギー・経済依存が結果的に否応なく解消されたことで(ロシア以外のパイ プラインとLNGによるガス供給の確保、国内のガス需要の抑制、石炭を含む他のエネ ルギーへの切り替えといった努力は実を結び、さらに記録的な暖冬にも恵まれ、少な くとも今年いっぱいは十分な供給を確保できる見通しになりました。想定以上に恵ま れた状況です)、ロシアの影響を受けなくなっています。

軍事支援も、独仏が軽戦車やパトリオットの提供に踏み切ったように、米国と歩調を 合わせるようにグレードアップしています。ただ新型・攻撃的兵器については、やは りNATO(米国)の主導が続き、副次的・補完的な役割にとどまるでしょう。経済支援 は、EUが主導して長期的・継続的なコミットメントを示しています(ただし「マー シャルプラン」の実現は加盟国の合意を得るのが困難)。ロシア制裁も、戦闘の継続 とともにさらなる強化が見込まれます(ターゲット制裁が中心ですが)。
欧州にとって、経済への悪影響は今後も重大な課題であり、特に今年、イタリア(メ ローニ新政権)、ハンガリー(オルバン長期政権)、スペイン(12月に総選挙)では EUとの関係の複雑化が予想されます。一方、政治的には、米国との大西洋同盟が強化 され、政治的アクターとしての欧州の存在感は高まり、EUの存在意義も評価されて、 ウクライナ侵攻はむしろプラスの影響を与えたとも言えます。

ウクライナ軍は、主戦場であるドンバスとヘルソン(それにザポリー ジャをあわせた「陸橋」エリア)において、春に攻勢をかけると予想されます。米欧
からの新たな兵器の供与もあり、兵士の士気・練度と装備の面でウクライナは優位に 立つでしょう。しかし、ハルキウとヘルソンのような大戦果は期待しがたく、小規模 な前進にとどまる可能性が高いと考えられます。ロシア軍が大幅な後退を免れること で、結果的に、ロシアの軍事エスカレーションのリスクは低いままになります。
ウクライナは、国内の主戦場のみならず、クリミアや近接するロシア領内へのドロー ンによる攻撃も行うでしょう。これがロシアに甚大な被害を与えれば、ロシアの軍事 エスカレーションのリスクを増大させる恐れがあります。しかし、米欧との関係の維 持のためにウクライナは過剰な攻撃に踏み切ることはできず、一定の抑制は保たれる と予想されます。
こうした状況が続く限り、和平や休戦に向けた交渉は期待しがたく、トルコをはじめ とする仲介国の出番も限られるでしょう。戦闘が一時的・部分的に落ち着けば、仲介 国の外交は活発になるでしょうが、ロシアが目標を修正する動きを見せない限り、戦 闘の停止に向けた外交が真剣に検討されることは想定できません。ただ、穀物輸出、 捕虜交換、軍事エスカレーションの抑止といった点では今後も成果が期待でき、トル コやインド(G20議長国)も重要な役割を果たすと予想されます

ニ十歳の市民の集いとZ世代    (普通部OB 舩津於菟彦)

成人式、から名前の代わったこの日、錦糸公園は12時に式典が終わった若人が沢山集まりそれぞれグループを作り歓談していました。女性は素晴らしい着物姿が殆どでしたね。不思議とカメラを持って写真を撮っている人は見当たりません。みな携帯電話で撮影ですが、この辺りの年代を最近はZ世代(ゼットせだい)と言っているようですね。

Z世代(ゼットせだい)、ジェネレーションZ(英: the generation Z)とは、アメリカ合衆国をはじめ世界各国において概ね1990年代中盤から2000年代終盤、または2010年代序盤までに生まれた世代のことである。生まれながらにしてデジタルネイティブである初の世代である。Y世代(ミレニアル世代とも)に続く世代であることから「Z」の名が付いている。
この言葉は2021年のユーキャン「新語・流行語大賞」のトップ10に選出された。芝浦工大教授である原田曜平が光文社新書から「Z世代~若者はなぜインスタ・TikTokにハマるのか?~」(2020年11月)という本のタイトルを発売し、メディアで広まった。

ミレニアル世代(Y世代)よりもさらに周囲のIT環境が進展しており、幼少期から“デジタルデバイス(機器)やインターネット、SNS含むソーシャルメディアの存在を前提とした生活”をしているデジタルネイティブ(ネットネイティブ、あるいはソーシャルネイティブ)世代である]。生まれた時からインターネットに接続するための基本的な端末であるパソコンや携帯電話が既に存在しており、インターネットを利用し始めた頃にはADSLやCATVなどブロードバンドによる常時接続環境、SNS含むWeb 2.0、さらにスマートフォンが普及し、個人の情報発信が身近となっていた。

2020年に始まった新型コロナウイルス (COVID-19) のパンデミックの影響で、義務教育と高等教育の両方で、全社会的に実施された遠隔教育(オンライン授業)を受ける最初の世代となった。2020年時点で世界人口の約3分の1を占めており、割合はミレニアル世代を上回る。少子高齢化が世界で最も進んだ日本においては、Z世代を2020年6月時点での10歳〜24歳(概ね1995年(平成7年)4月2日〜2011年(平成23年)4月1日生まれの世代に相当)と定義した場合、それに当たる人口は1752万人であり、総人口の7分の1弱と少なく、約13.9%となる

Z世代とミレニアル世代の違いは育った環境の違いが一番の違いかもしれません。Z世代は不況の時期に育っており、経済的なプレッシャーを受けている環境下で育つ人が多い存在しています。
ミレニアル世代は好景気の時代もあったため、そういった育った環境の違いがショッピングへの投資の仕方に違いが出たり、商品へ求める要素の違いに影響が出るようです。

また、Z世代は「貯金・貯蓄や支出を控える傾向」があり、買い物への意欲は「どれだけお買い得なのか」という点を重視する傾向があると言われています。
それに対してミレニアル世代は購入自体に興味を持つ傾向があり、育った時代の景気が影響していると考えられています。

我が20歳は「成人式」なんてやった記憶もありませんが、どんな時代だったのでしょうか。60年以上前のお話ですね。
日吉から三田へ移る時で新聞研究所に入所させてもらい、三田の研究所へ日吉から通って居ました。日に日に東京タワーが三田通りに伸びていったときでした。そんな主な出来事を拾うと日本の発展の礎が芽生え始めたときのように思えますね。「ソニー」の誕生。日劇のあの「ウエスタンカーニバル。富士重工の「スバル360」が発売。「神様仏様稲尾様」の野球時代。正田美智子さんがご婚約発表。
「エーガはやや冷めたもの、 死刑台のエレベーター(監督:ルイ・マル)• 灰とダイヤモンド(監督:アンジェイ・ワイダ)• めまい(監督:アルフレッド・ヒッチコック)などが思い浮かびます。

卯年の次の2035年はどうなっていますかね。今日の恒例のサントリーの広告「水のようにまぶしい君になれ」とか煽てていますが「何時か命の水で乾杯」は矢張り宣伝ですね。開高健時代のメッセージが懐かしい。

(編集子)サラリーマン初期、一人前にほろ酔で帰宅、テレビをつけると トリス爺さんのコマーシャルが ”なんにいたしやましょう” ”いつものやつよ” ”マテ二イですね?” ”そおおよお” テンテンテン ”ヘルメスジン!” なんてやってた、あれ, 開高健 のやつだよね? 道具仕掛けはデジタルの走りだったのだろうが、あのかおりは昭和のアナログ、だったなあ。

(菅原)柳原良平の「アンクル・トリス」、懐かしいーねー。

小生、最近、テレビは殆ど見ないけど、見てもそのコマーシャルは見るに値しない。誠にツマラン奴が、ただただ押し売りするだけじゃない。何の工夫もない。いまだに「アンクル・トリス」を凌駕するものはない。それにしても、今のサントリーは、恰も新浪剛史しかいないような印象だが、往時は、柳原に加えて、開高健、山口瞳、なーんてのがいたんだから、ツマンネー会社になっちゃったね。

(安田))寿屋からサントリーへ社名変更したのは1963年。横文字・カタカナ名にしたのがいけなかったのでしょうか? それにしても1950年代、一私企業から綺羅星の如く柳原良平、開高健、山口瞳などの逸材が輩出されたもんです。後にも先にもそんな会社は「寿屋」以外知りません。

 

物忘れが気に罹り出したら  (普通部OB 篠原幸人)

正月早々ですが、私と同年配の方々は、最近ちょっとした物忘れが気になりませんか? 毎日、眼鏡や携帯を大騒ぎで探したり、予約の予定をうっかり忘れたり、友人や有名人の名前が出てこなかったり、孫の名前を間違えたり、今日が何日何曜日か忘れて家族に訊いたり、でもこんなことは70歳を過ぎればよくあることです。会社に毎日行かなくなると、曜日が気になるのはテレビの番組探しの時だけだったりして。

でも自分で片づけた重要書類や印鑑・財布や、大事に隠しておいたへそくりの場所が分からなくなったり、更には水道の水を出しっぱなしにして家族に怒られたり、ガスの火を点けっぱなしにして忘れてその場を離れたり。トイレのあと流すのを頻回に忘れて家族に指摘されたり、今まできれいに使っていた洗面所に抜けた髪の毛が何本も落ちてそのままになっていたり、何時も通る道をうっかり間違えたりなどとなると、もう黄ならぬ赤信号ですね。記憶障害ばかりでなく、注意力低下も立派な認知機能障害なのです。

以前に本稿にも書きましたが、家族に同じことを二度続けて注意されたらまず黄信号と思いましょう。これらが始まったと自覚した人は、普通に日記帳をつける気持ちで、新年から「物忘れノート」をつけることをお勧めします。無論、毎日書く必要はありません。忘れものをした時だけ記入すればいいのです。毎日あるようならすぐ病院行きをお勧めします。年月日と何を忘れ、どう解決できたかをメモするだけでいいのです。これを書き溜めて、万一医師に相談する時には、そのノートも一緒に持って行って説明に利用してください。このノートは将来、貴方の健康維持のための財産になるかもしれません。

私も始めました。但しまだ年に数回のみです。これが毎月2回以上とか、立て続けに何回にもなったら、御懇意の医師に相談することです。但し、あまりそのことに無頓着な一般医師は、「お年のせいでしょう」と大体取り合ってくれないことも多いと思います。そんな時は比較的大きな病院の「物忘れ外来」または脳神経内科や神経科の医師に相談されたら良いと思います。

以前本稿でも「MCI」という物忘れの初期症状とその対処法をお話ししました。私の外来にも「軽い物忘れ」を気にして来られる方が沢山おられます。その約半数は検査の結果、「MCI(Mild Cognitive Impairment)」と診断されますが、少なくともその中の1/3以上の方は暫く経つとと良く成られます。但し他の1/3ぐらいの方はアルツハイマー病などの認知症の初期と考えざるを得ない場合があります。但し認知症が全て治りにくいアルツハイマー病ではありません。中には「Treatable Dementia(治療可能の認知障害)」と呼ばれる良くなる可能性のある認知症もあります。

「物忘れ」は年齢のためだけとは限りません。大きな病院では、MRIや脳血流検査、血液検査、神経心理検査やその他の方法を駆使して、物忘れの原因を詳しく調べることも可能です。是非、「物忘れノート」がエピソードで一杯になる前に、調べてもらってください。 もっともその「物忘れノート」を何処にしまったか大騒ぎして探すことにもなるでしょうが。

 

こっちは浅草で七福神めぐりでした   (44 安田耕太郎)

16日、KWV44年同期で毎年恒例となっている七福神巡りは今年は2目の浅草名所七福神に行きました。隅田川の右岸界隈を川向こうのスカイツリーの威容(異様かな)を見上げながら、その昔、花魁も行き来した往時の面影はない吉原のど真ん中を抜け、KWVS44年卒の仲間総勢12名で8kmの行程をノンビリ(というより速く歩けない)と、久し振りに会う仲間も多くお喋りを楽しみながら4時間かけて歩きました。数年前の前回とは真逆のコースを歩き、終点は夕闇迫る幕の内の賑わいを見せる浅草寺。場所柄でしょうか、外国人、艶やかな和服姿の女性も目立ち新年に相応しい風情でした。16,000余の徒歩数でした。

川崎桜本九福神     (34 小泉幾多郎)

恒例の七福神めぐりを長年続けてきましたが、寄る年波には勝てず、一昨年は成田山横浜別院の野毛一箇所七福神、昨年は柿生の浄慶寺の一箇所七福神でお茶を濁してきました。

恵比寿天

今年も一箇所で、と思っていたら、偶々川崎大師の近くに桜本町商店街九福神というのを発見。1月6日に行ってきました。

上向き小僧

川崎駅から大師行きのバスで桜本下車。九福神とは珍しいですが、1999年に設立されたこと、坂本九が幼少期にこの町に住んでいたことが、九福神設立の由来とのこと。本来の七福神のほかに、上向き小僧と福招き猫の二つを加え九福神。上向き小僧は、坂本九の「上を向いて歩こう…」からで、他の七福神の殆んどがあらゆる願いを上向き

福招き猫

にすべく上を向いている。福招き猫は街の入口にある高き門型アーケードに鎮座。写真は省略しましたが、弁財天を除く殆んどの七福神に猫が同居しています。 写真の恵比寿天の上に、「発見、歓喜、じわーっと幸せ。さくらもと九福神」のポスターが見える。写真の弁財天だけが。コミュニティセンターの屋上にあり、琵琶ならぬ三味線を抱え鎮座。三味線は猫皮を使うから。まあのんびり歩いて1時間位か。

疲れも感じず、さくらもと九福神の看板どおり、気分を上向きに帰宅。あとで知ったのだが、この桜本町は、コリアンタウンの一角で、一時はコリアンの佇まいの飲食店等で繁盛していたらしいですが、コロナ禍等で若干勢いがなくなっている感じ。6日ということもあるのかも知れないが、九福神目的の人に会わなかったし、九福神の場所を尋ねても関心のあるような人と出くわさなかったことには淋しさを感じました。

伊豆九島を臨む旅をしてきました  (42 保屋野伸)

瓜木崎

4日、5日と家内、娘、孫の4人で-伊豆旅行をしてきました。(といっても、踊り子号+下田東急ホテル宿泊というJRのプランです)

昨日は、伊豆下田駅前からロープウエイで寝姿山へ、そこから見えたのが、大島、利島、新島、三宅島、御蔵島、式根島、神津島でした。これって「伊豆7島」? 私の記憶では確か八丈島が入っていたはずなのに、とネットで調べたら、式根島は新島と行政が一緒ということで外されていました。実は伊豆諸島にはもう一つ青ヶ島も有人島で、正確には「伊豆9島」が正しいようです。

今日はタクシー観光で石廊崎と爪木崎に行きましたが、思わぬ発見がありました。私は石廊崎には行ったことがありますが、タクシーの運ちゃんが少し先の「奥石廊崎」に案内してくれました。いやー、まさに「絶景かな」・・皆さん南伊豆にご旅行の際はぜひ。奥石廊崎まで足をのばしてください。

奥石廊崎

(安田)あけましておめでとうございます。さすが、フットワークの軽いお方の小旅行ですね。爺婆娘孫三代の旅こちらも温もりのお裾分けを頂きました。真冬とは思えぬ春させ感じさせる水仙とアロエに加えて岬の絶景です。素晴らしい体験話と写真ありがとうございました。下田は行ったことがありますが、岬も伊豆9島も行ったことはありません。

多肉植物のアロエはメキシコの有名な蒸留酒テキーラの原材料・同じ多肉植物のアカベによく似ています。テキーラ酒を産出することからその場所をテキーラ村と呼んだのか、テキーラ村で産出するからその蒸留酒をテキーラと名付けたのかは分かりませんが、首都メキシコシティから北西へ500km離れた砂漠に近い場所をたまたま通りかかった村がテキーラで、一泊して初めてテキーラ酒を飲みました、1968年のことです。アロエの写真を見て思い起こしました。

(編集子)高校時代の恩師、片倉先生は生物学の専攻で、ダンゴムシの研究をライフワークとしておられた。その一環として、八丈島に研究対象があるのだが、というお話があり、当時のクラスメート(KWVの同期3人を含む)で初めてこの島へ行く機会があった。先生は古き良き時代のアルピニストで、1年の夏、僕らを白馬へ連れて行ってくれ、それが縁で大学で片倉学級から4人、KWVに入ったいきさつがあり、皆、恩返しのつもりもあって同行した。年も重ねて時として足元も定かではなく、少しばかり不安はあったが、田んぼや沼地を熱心に探索されて、その結果、みごと新種を発見、その後学会に報告して学名が登録された。当然ラテン語で中にたしか katakura という文字が入っていたはずなのだが、恩知らずのわれわれの中で一人だけ、その資料をもっていた田中新弥がそれをなくしてしまい、その名前をご紹介できないのが何とも残念である。

この旅行では見物を兼ねて八丈富士へ登って(たぶんKWVでは俺たちが最初だ)と喜んだものだ。KWVで登頂(というほどでもないが)経験お持ちの方があれば知りたいものだ。また島では車のナンバーが中央区だったのになるほど、と思った。保屋野君がいうようにこれは青ヶ島でもそうなのだろうな。(興味がないので知らないが、この山は日本百名山には入っていないのか?)

なお、片倉先生は慶応高校ワンダーフォーゲル部の創設者で、残念の極みだが早逝した田中トンべをはじめとしてKWVにもお世話になった仲間が多くいる。東京のこの南国へ行く機会はもうないだろうが、温厚な片倉さんとの思い出とあの海の蒼さが、俺達の高校生活、大げさに言えばパクスアメリカーナに包まれた、いい時代の甘酸っぱい記憶を思い出させてくれるようだ。

 

新年の青空です      (普通部OB 舩津於菟彦)

東京は晴天続きで素晴らしい陽光で新年を迎えることが出来て、人生100歳時代にピョン。元旦は真っ青の空。元旦は来客も無く二人で自家製の細やかなお節料理で「ネアゲの新年」をつつましく過ごしました.

「お雑煮」という名前は、さまざまな具材をまぜて煮合わせたことが語源です。お雑煮に入れる具材はその年の実りと幸せをもたらすと言われている年神様のお供え物だった餅や農作物・海産物などを、さらに新年最初に汲んできた水である「若水」と新年最初に灯した火で煮込んで食べたことから始まりました。 因みにお正月の飾りである門松も年神様を迎え入れるために飾るようになったものです。
年神様へのお供え物には霊力が宿るとされ、そのお供え物を食べることで年神様の力を頂くことができると信じられていました。年神様のお供え物で作ったお雑煮により、 人々はお腹を満たすだけでなく神様のパワーももらっていたのです。 また、お正月の食事やお祝いごとなど特別な席で使われる「祝い箸」にも年神様が関係しています。
「祝い箸」は、箸の両端が細くなっており「両口箸」とも呼ばれ、片方は年神様がもう片方を私たち人間が使う「神人共食」を表しています。「祝い箸」を使うことで、私たちは年神様と共に食事を頂いているのです。ナンダか安田耕太郎さんが書くようなことかいちゃったぁ.

錦糸公園・朝の散歩 ポチポチ紅梅白梅が咲き初めました。春を呼ぶストックとか水仙・野薔薇も——。

ホリカワのたわごとー22年の山行回顧    (39 堀川義夫)

(編集子)誠に申し訳ない。堀川君からの投稿、大部なので編集に苦労していて、順番を間違えました。昨日のアップと前後してしまいましたが、あしからす。それにしてもあいつ、いったいいくつ?

今日は、2022年の12月30日(金)です。明日は大晦日、そして明後日は2023年の新年を迎えます。今年は、私にとっては結構健康面で問題があり思うように活動できませんでした。その中で、9月に出かけたアラスカの15日間の旅は、生涯忘れることのない旅となりました。

この一連のたわごとは、2020年4月にコロナが本格的に蔓延し始めたころに、中司先輩(ジャイさん)から家に籠りがちになる「月いち高尾」のメンバーに何でもいいから情報発信をしよう、と言うことで始めたものです。4月12日に最初のたわごとを発信し、4月だけで7回も発信しています。その後、コロナの波の具合を考慮しながら、また、たわごとの内容も変化し、2020年6月頃からは「月いち高尾 メンバー、家に籠る」から「メンバー、活動開始」と変化しています。以後、段々と私の活動報告みたいに変化していき、当初は月いち高尾のメンバー50人弱に送信していましたが、現在は160名ほどに私が勝手にBCCで送信させて頂いています。発信回数も 2020年23回、2021年25回そして本年2022年は、今日のこのたわごとで20回となり、通算で68回となりました。

今年の私の主なアクティビティ

1月 北海道 山スキー(十勝山麓、旭岳)

2月/3月 冬山、スキーに行く予定がコロナの為、家内のショートステイ先、デイサービスなどの施設が閉鎖になる事態が複数回発生して、私のアクティビティは日帰りのゴルフなど以外は全滅!

4月 100名山の伊吹山と4回目の京都トレイル行で完歩しました。

5月 100名山の恵那山と荒島岳

6月 2回目の国東半島ロングトレイル

7月 北海道 100名山の斜里岳と雌阿寒岳(96座目)

KWV三田会夏合宿 船窪山から針ノ木峠縦走。

8月 夏山は想定外のコロナ第7波が来襲、その為、9月予定のアラスカ行に万全を期して夏山は全て中止。

9月 2年半ぶりに海外旅行でアラスカへ。大自然、野生動物、紅葉・黄葉そしてオーロラに大満足の旅を楽しみました。

10月 体調が悪く、山行等アクティビティ中止

11月 体調に自信なく、山は無理と判断して普通の観光旅行で伊那谷へ。

12月 体調が復調の兆しが見えつつある。ここが辛抱のしどころと自重を重ね、今年のアクティビティは終了。

私の体調こと

5月の連休に近所の寺家ふるさと村周辺でトレーニングをして帰宅、風呂には入って出てきたときに貧血(だと思う)で転倒し意識を失い、気が付いたときは全裸で床に倒れていました。その時に、左顔面を強打したようで腫れていました。この時点から体調が悪くなった気がします。バランス感覚が悪しくなり、耳鼻科で色々と検査をして貰いましたが、特に異常は認められませんでした。そこで、かかりつけ医とも相談して、脳のMRI検査をいましたが、これも異常なしでした。何処かおかしい? でも、検査は異常なしです。7月になりました。日頃通っている整骨院のマッサージ師が、足にむくみがあるので心臓の精密検査を念の為にした方が良いとのアドバイスがあり、かかりつけ医のところでマーカー検査をしたところBNPの数値が180もあり、心不全の疑いありと言う結果が出ました。これは大変だと思い、直ぐに昭和医大の藤が丘病院で精密監査を実施いましたが、これまた、異常は認められず、以後の検査で正常に戻って来ていました。9月には15日間のアラスカ旅行を無事に終えることが出来ました。10月に入り何年かぶりに風邪をひきました。くしゃみ、咳、鼻水、喉の腫れ等通常の風邪の症状でしたが、時節柄、コロナが心配なので自分で抗体検査をしましたが陰性でした。しかし、この症状は11月下旬まで続き、その後、完全に治ったと思えたのは12月に入ってからでした。

8カ月に渡り健康面の不安が結構精神的に疲れました。願わくば来年は、健やかに過ごしたいと心からがっています。こう言う症状を「歳を取った」と言うのでしょうか・・・??

 

 

新しい年に新しい夢を持とうぜ!    (39 堀川義夫)

Challenge 2023 日頃、元気なうちにチャレンジしたいと思っていることを列挙してみました。

達成できそうなアイテム

  • 国東半島ロングトレイル完歩(残り半分)
  • 久し振りの南アルプス。特に赤石岳、聖岳周辺(もう、10年近くに南アルプスにご無沙汰している)
  • 100名山完登 絶対にとは言わないが長年の蓄積であと4座まで来ているので、一応、完登を目指す。
  • 奥秩父全山縦走 テント行で全山を一気に縦走したい。
  • 北アルプス 伊藤新道と読売新道を行きたい。
  • 信越トレイルの一気縦走

条件が整えばチャレンジしたい! こんな夢を見ながら元気に1年を過ごしたいと思っています。

  • 台湾 玉山登頂。何度も計画して実施寸前まで行きながら諸般の事情で中止になったので、何とかしたい、
  • ヨーロッパアルプス花紀行。観光で、スキーで何度も行っているが、最盛期の山の花畑を見たことがない。
  • 最後のネパール 登山でなくて良い。もう一度、世界の屋根を見ながらトレッキングがしたい。
  • アフリカのサファリに行きたい。
  • アラスカに1ヶ月くらいキャンピングカーで放浪したい。
  • シベリア鉄道でヨーロッパに行きたい。これが一番難しくなってしまった。

私の一番の夢

★JOHN MUIR TRAILに行きたい!!

ヨセミテ公園からマウント・ホイットニーまで340kmの山岳ロングトレイルに挑戦したい。何とか、一部分でも良いので・・・挑戦するには歳を取り過ぎてしまったか・・・若返りたい!! 夢でも行ってみたい!

(編集子)JOHN MUIR TRAIL の存在を知ったのは初めてのカリフォルニア駐在時(1967年)だった。ヨセミテは何回か行ったし、当時横河電機にいた同期生山川陽一(塾山岳部)とふたりでほんの少し、一般トレイルをはずしてそのとっかかりまでは行ったことがある。現役の海外遠征の話を聞くたびに、OB会で支援してここを歩かせてやりたい、と思ったものだ。やるなら、現地本部は俺の家にして、などと夢想しているうちに帰国命令が出てしまった。今のOB会の実力なら、実行できないものかなあ。