九合目に到達!

富士山に登ったという話をしているわけではない。実は去る2022年10月6日、退職後の挑戦として始めたプログラムが、当初は東京オリンピックの時までに到達する予定だった90%のラインに到達したからだ。そのことを書きたい。

サラリーマンを卒業して、さて、これから何をするか、と考えたとき、まず一番に考えたのは、全くの偶然から外資系会社へ勤務することになった結果、一応のコミュニケーションには事欠かないレベルになった英語を理解する能力を、別に英語を生かして商売をする気もないのだが、維持していこうという事だった(それがどうした、と言えばそれまでだが、(なぜ山に登るのか)という問いと同じだ)。そこでとりあえず、肩の凝らない小説でも読もうかと行き当たりばったりに挑んだのがこの稿でたびたび引き合いに出してきたのだが、ジャック・ヒギンズの Eagle has landed だった。しかし読み始めて早々、自分で多少は自信を持っていた英語の能力が実は限られたビジネスの一部だけに通用するもので、小説一冊読むのにどれだけ無力なのかを悟らされた。意地になってヒギンズばかり10冊以上読んだところで、(ポケットブックを年100冊読めば英語の達人になれる)という説に行き当たった。なるほど、と思ったが、年100冊といえば週に2冊は読まなければならない。これは無理だという事は納得したがそれでも何か目標があれば、と考えた結果、(ポケットブックを10万頁読む)という目標を立てた。1冊がざっと300頁として300冊読むことになるから、上記の基準から考えても時間軸はちがうがそれなりの刺激にはなるだろう、と、それまで漫然と読んでいただけだったのを1冊ごとに記録をつけることにして、今まで、意地になって続けている。

記念すべき第一冊目を読み終わったのは 2013年3月13日、リー・チャイルドの Killing Floor (トム・クルーズ主演の映画 アウトローの原作)。10冊目は 5月30日、ジョン・ル・カレの The spy who came from cold (寒い国から来たスパイ)100冊目が15年8月24日 デヴィッド・バルダッチ の The Escape ,200冊目は スティブ・ハミルトンの The hunting wind ときて、以後、同じようなぺースで読み続けている。途中からポケットブックという限定をつけず、また内容もミステリ・冒険ものという制限を外し(とにかく英語なら何でも) にして、第二次大戦の参考書とか学生時代から興味を持ち続けてきた米国論なんかも加え、さらに範囲を広げて、3年ほど前から再挑戦をしはじめたドイツ語についても、いくつか読んだので、現在はとにかく外国語10万頁、に目標を再設定した。そしてメルクマールとしてきた9万頁、つまり九合目にに到達した。ここまでくれば、残り1万だから、3年あればなんとかなるだろうという事になったのだ。9万の大台を記録した本は、先日読後報告をアップしたばかりだが、”スリラー” の新人、ジャック・カーの第二作、True Believer 450頁、通算275冊め、累計90,132頁となった。

ここまでくると後は意地と体力の問題だが、幸い健康にもあまり問題はなさそうだから、後は気力あるのみ、か。”ミス冒” ものでも、有名なところではフォーサイズとかフランシスとか、全く読んでない作家もあれば今回のカーなども加わって、乱読の楽しみは当分つきそうもない。とりあえず一段落で、Makers Markでも飲もうか(斎藤さんのアドバイスというか警告を尊重してジントニックから変更)、などと思っている次第だ。

なお、この挑戦を後押ししてくれているのがかかりつけ医の、認知症予防の根本はとにかく脳の活性化であり、そのためには外国語を学ぶことが最も効果的だ、という一言だった。それが立証できればいいのだが。

 

 

 

コロナについての参考情報   (会社時代友人 齋藤博)

新型コロナワクチン接種とインフルエンザワクチン接種の副反応は、子供で10倍と言われています。そのようなデータをどこかに保存しておいたのですが、みあたりません。

野中しんすけという元ER看護師の方が、デルタ株への感染者についてまとめた表(下)があります。80歳以上の73%の感染者は、無症状か軽症で、死亡したのは14%です。同様に70歳以上の81%の感染者は無症状か軽症で、5.2%の方が死亡しています。
この表を見ると、39歳以下の方は、ほとんどの方が無症状か軽症で、死亡者はいないと言っても過言ではありません。死亡した方は、恐らく基礎疾患をお持ちの方だと考えてもいいと思います。

オミクロン株では、重症化する例はデルタ株より少ないということなので、この表と同じような結果になると類推します。

炭素文明論 その3    (会社時代友人 齋藤博)

前回の「炭素文明論 – その2 砂糖の起源と西欧への伝播」で、砂糖で蓄えられた富が、産業革命への扉を開く原資になったということまでをまとめました。炭素文明論には、記載されていませんが、砂糖がどのように日本に伝播して、広まったかを簡単にまとめておきたいと思います。こうして歴史を調べてまとめてみると、日本でも砂糖が社会の重要な糧となっていたことがわかります。

誰が伝えたかは別として、他を調べてみると、756年、正倉院の献納目録「種々薬帖」の中に「孝謙天皇・光明皇后が東大寺盧舎那仏に蔗糖(中国で砂糖の意)を献じ」の記録がありました。当時は大変な貴重品であった砂糖は、ごく一部の上流階級が薬用としていたと推測できる文章です。つまり、イスラム世界やキリスト世界と同様、日本でも、当初は薬として認知されていたようですね。砂糖は、西欧への伝播と同じ頃、日本にも伝来したと考えるのが妥当なのかもしれません。鎌倉時代末頃(14世紀前半)には、大陸貿易が盛んになり、砂糖の輸入も増加したと思われると記載している文書がありました

砂糖が伝わって約7、800年後の頃、正確には鉄砲伝来の6年後の1549年に、ザビエルにより、砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子がもたらされたそうです。薬としてではなく、お菓子として伝わったのですね。つまり、西洋では、もはや薬ではなかったのでしょう。この後も砂糖は国外からもたらされていたようですが、奄美大島の直川智(すなお かわち)が琉球に渡航中、台風に遭い中国福建地方に漂着し、その地でサトウキビの栽培と砂糖の製造法を習得し、1609年に密かに持ち帰ったとされています。意味が明確でないのですが、恐らくサトウキビを持ち帰ったのでしょう。1610年に黒糖を製造したのが、日本におけるサトウキビの栽培と製糖の始まりとされています。
その後、琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島などにおいて、さとうきびは増産され、江戸幕府のもとで管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。

江戸時代の中期(18世紀)以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的に取り入れられ「和糖業」として広まりました。1798年に讃岐(香川県)の砂糖(和三盆)が始めて大阪の中央市場に登場します。明治時代に入り、不平等条約の下(輸入品に対する関税決定権がなかった)で輸入砂糖が国内に流れ込み、沖縄・奄美を除き、零細な和糖業は相当なダメージを受け壊滅してしまったそうです。

日清戦争(1894〜1895)後、日本の一部となった台湾経済の中心として製糖業が位置付けられるとともに、機械化された大工場による近代製糖業が確立され、続いて国内にも精製糖の近代工場が建設、我が国の砂糖の生産体制が整備されていきました。しかし、太平洋戦争(1941〜1945)の前後頃、台湾で生産された粗糖を国内に輸送することが困難となり、国内の砂糖不足は深刻なものとなったということです。戦後も、我が国の砂糖は不足し、1952年まで配給制だったそうですが、やがて戦後復興とともに、多くの商社が砂糖の製造・輸入に動き出し、需要を賄えるまでになりましたが、それでも不足が発生することもあり、合成甘味料なども多く開発されるようになりました。一時期ズルチンやチクロなどの人工甘味料が使われましたが安全性の面から使用禁止となりました。その後の研究で、やはりズルチンとチクロは毒性があり、アメリカ食品医薬品局(FDA)では使用禁止、サッカリンは使用可能と判断されています。

最盛期の1973年には、1人あたりの年間消費量は29kgほどです。2021年になると、14kgほどまでに消費量が下降するのです(農林水産省「令和3砂糖年度における砂糖及び異性化糖の需給見通し(第4回)」)。その差15kg、それでも一人1日39gほどの砂糖を使っている計算ですね。WHOは、1日当たり糖類摂取量を25g(ティースプーン6杯分)程度に抑えようと、ガイドラインを発表しています。

乱読報告ファイル (31)ジャック・カー ”ターミナルリスト”

冒険小説、といえばロビンソンクルーソーやら十五少年漂流記などといったクラシックから始まって、僕の射程範囲でいえばアリステア・マクリーン(ナヴアロンの要塞・女王陛下のユリシーズ号)やギャヴィン・ライアル(深夜プラスワン)、ジャック・ヒギンズ(鷲は舞い降りた)などなど、世に知られた(大人向けの)冒険小説の傑作はすべて英国人作家のものしか思い出せない。推理小説ならば米国にもヴァン・ダインありエラリー・クインあり、さらにハメット、チャンドラーにマクドナルドなどHB物にも事欠かないのだが、どうも米国人の冒険マインドは常にウエスタンものにあるようで、ロマンの香りが高い冒険小説、というジャンルには思い当たるものがすくない。しかしトム・クランシーに端を発する軍事ものになると、今度はアメリカ勢の作品のほうがはるかに多くなる。しかし例えば レッドオクトーバーを追え を冒険小説と位置付けるのには多少の疑問があり、さらに最近立て続けに読んだ、ハンターキラーシリーズの潜水艦物などは読み物としてはよくできているがこれはなんというジャンルに区分するのか、迷っていたところ、いつもの夕方の散歩に立ち寄る立ち読み場のハヤカワ文庫の棚で見つけたのがこの本だ。解説を立ち読みするとなんでも凄い新人だ、というし、カバーについているいつもの推薦文が僕の好きなリー・チャイルド(ジャック・リーチャーシリーズ)だったのでアマゾンから取り寄せて読んでみた。その報告である。

まず、この本の持つ迫力、というか吸引力みたいなもの、の凄さに圧倒された。英語の本のお定まりの広告文句に pageturner という単語がある。息をつかせずページをめくっていく(ほど面白い)というやつ、あれを今回ばかりははっきりと実感した。それほど、面白かった。

ストーリーはSEALの優秀な少佐である主人公が派遣先で、従来とは違うルートで降りてきた命令に従ってテロリストのアジト殲滅に出陣するのだが、その動きが完全に読まれていて反撃を受け、救援に要請した部隊も巻き込んで全滅に近い打撃を受ける。なんとか主人公は帰還するのだが,隊長としての責任を問われ軍法に従って帰国させられてしまい、その上、重度の脳腫瘍があると宣言される。さらに帰国してみると我が家にたどり着く寸前、家を爆破され、妻と娘が犠牲になってしまう。それに妻は妊娠していたのだ。此処に至って、彼は彼と部下たちが何か巨大な陰謀の犠牲者だったのだと悟り、数少ない友人を頼って少しずつ、実態に迫っていく。そしてその関係者すべてを抹殺する覚悟を決め、実行に移していく。最後の一人を殺した後、自分を支えてくれた女性の計らいで外洋ヨットに逃れる。軍の規則を破り、軍の武器庫から武器を調達し、政府の要人や軍の上司を殺した自分にはいかなる法的保護もないし、重度の脳腫瘍があるのだ。それならば自分の死と対決しよう、と海へ出ていく、というところで終わりになる。

このラストは有名な英国詩人ニコラス・ブレイクが書いた推理小説の名作、野獣死すべし (大藪なんとかなどと一緒にしないでほしいのだが) の結末を思い出させるが、たぶん、この男(ジェイムズ・リース)は戻ってくるな、という余韻のある書き方が、やはり米国人の作品だ。実はその後、彼の電話に残されたメッセージが発見される。主治医から、脳腫瘍というのは誤診だった、喜んでほしい、という伝言だったのだ。

著者は米国海軍の特殊部隊SEALのえり抜きで20年のキャリアのあいだにスナイパーから始まっていくつもの難作戦で指揮官を務めた人だそうだ。したがって実践部分の叙述が迫力に満ち、技術面や作戦行動の描写などは当然素人の書くものとは隔絶した臨場感がある。その臨場感がどれだけホンモノか、は、序文で著者が ”この本の出版にあたっては軍当局の検閲を受けなければならず、その結果、原稿から削除を要求された部分がある、と告白していて、その部分は黒塗りされたまま出版されている。また、戦闘場面で使用されるさまざまな武器、情報ネットワーク機器、そのほか軍機密の事項を示す略号がいやというほど出てくるのだが、それの一覧表が文末に付記されているのが面白い。この検閲後の黒線は翻訳(熊谷千尋)でも同じ個所に掲載されていて、興味深々であるが、略号のほうは熊谷訳では一覧表ではなく引用のたびに原語の直後に示される。例えば

” ….ライフルには….暗視装置でしか見えないATPIAL (アドバンス・ターゲット・ポインタ・イルミネータ.・エイミング・ライトの略で、可視光線および….に照射する装置)…..”

という具合である。これが便利という人もあるかもしれないがとにかく数が多いので、原文のほうが結局読みやすかった。どんなものか知らないがなんせ銃だろう、くらいのことで読み進めたからだ。翻訳というのは因果な商売なのだなあと同情してしまうが、いずれにせよ、通常とは全く違った “軍”という社会の規律の中で、この個人の復讐をどうやってやりとげるのか(例えば上官だとか、次期大統領候補なども対象なのだ)?といった疑問とスリルがこの本を pageturner に仕上げているのだと思う。

ある意味で、僕がターゲットにしている ”冒険・ミステリ” 分野の作品であるかどうかよりも、ストーリーテラーとしての見事さに感心した一冊だった。あらためて翻訳の方も読むつもりで買ってはあるが、カーの2冊目がやはり出てきてアマゾンからすでに到着しているのでしばらくは手付かずになるだろう。ご希望があればお貸しできるのでご連絡をお待ちする。

(最後に思い出したのだが、原本の広告はこの本を THRILLER と表現している。この種の本については今後この定義を使おうと思う。スリラーはヒッチコックの専売ではなかったわけだ)

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Navy SEALs(ネイビーシールズ,英語United States Navy SEALs)は、アメリカ海軍特殊部隊である。SEALsという名称は、SEがSEA(海)、AがAIR(空)、LがLAND(陸)と、陸海空のアルファベットの頭文字から取られており、アザラシseals)に意味合いを掛けたものである。陸軍特殊部隊同様、“どこでも活動可能”を意味する。

 

 

 

至仏山  (43 保屋野伸)

昨年、大雪で登れなかった尾瀬の至仏山に、ワンゲル同期3名でリベンジ登山をしてきました。(3日戸倉温泉泊 4日鳩待峠からピストン)この山は、中級者向けの割合易しい山ですが、稜線を「蛇紋岩」が続き、滑りやすく結構苦労しました。(前日も3名大けがをしたそうです。)

山頂からは尾瀬ヶ原が一望でき、紅葉には少々早かったですが、上の方は真っ赤に紅葉した木々もありました。高い山に登るのは、せいぜい後1年ぐらい?・・・体力の衰えを痛感する1日でもありました。

ヌーヴェルヴァーグ概説 2 (普通部OB 舩津於菟彦)

先に書いた、ヌーヴェルヴァーグというジャンルに入るエーガのいくつかを紹介しておく。

①勝手にしやがれ
ヌーベルバーグの記念碑的作品であり、フランソワ・トリュフォーが原案、クロード・シャブロルが監修、ジャン=リュック・ゴダールが監督・脚本を務めた。ゴダールにとっては初の長編映画である。
ハンフリー・ボガートを崇めるミシェルは、マルセイユで自動車を盗み、追ってきた警察官を射殺する。パリに着いたものの文無しで警察からも追われているミシェルは、アメリカ人のガールフレンド、パトリシアと行動を共にする。だが、ミシェルが警察に追われる身であることを知ってしまうパトリシア。パトリシアは、パリで地歩を固めたい駆け出しの記者・ライターであり、ミシェルはどちらかと言うとフランスにいることに執着がない。
やがて一緒に逃げることを断念したパトリシアが警察に通報してしまう。劇中も何度か出てきた「最低」という言葉を最後にミシェルが言う。「君は本当に最低だ」と、かすれ声で言われたその言葉が訊きとれず、パトリシアは「彼はなんて言ったの?」と刑事にたずねると、「あなたは本当に最低だと彼は申していました」と伝えられる。パトリシアは「最低ってなに?」と訊き返す。

ジャン=ポール・ベルモンドはフランス映画に対する強い思いから英語圏の国が製作する映画には出演しなかったことで知られ、ハリウッドから数多くのオファーがあったにもかかわらず辞退していたという
アラン・ドロンとは、キャリア初期から何度も共演するなど親交があり、”永遠のライバル”と呼ばれた。訃報に対しての取材にドロンは「私は砕け散った」「彼は仲間だ。60年前から知り合い、一緒に仕事をして、とても親しかった」と動揺を隠せない様子で語り「私の人生の一部なんだ」と1950年代後半から続いた交流を振り返った
2021年9月6日、フランスのメディアによって、パリの自宅で死去したことが伝えられる。88歳没。

②大人を分かってくれない
フランソワ・トリュフォー監督の最初の長編映画。原題の「Les Quatre Cents Coups」(あえて直訳すれば「400回の殴打、打撃」)は、フランス語の慣用句「faire les quatre cents coups」(「無分別、放埓な生活をおくる」といった意味)に由来する
12歳のアントワーヌ・ドワネルにとって、毎日は苦痛の連続であった。学校では成績も悪く、いたずら好きで先生に叱責される。家では厳しい母親と、稼ぎも少なくうだつの上がらない父親に囲まれた息の詰まる生活。寝袋にくるまって両親のケンカを聞かされる日々。ある日、登校中に親友のルネと出会い、学校へ行くのを止める。午後に母親が街中で見知らぬ男と抱き合っているのを見て視線が合う。母は帰宅せず、翌朝、前日の欠席の理由を教師に追及されて「母が死んだのです」と答えるが、欠席を知った両親が現れてウソがばれる。
そんな彼の楽しみは映画を観ることだけだ。しかしある日、尊敬するバルザックの文章を丸写しして提出した作文がばれて叱られ、弁護したルネが停学になる。アントワーヌも家を出て、金持ちのルネの家に隠れ住む。やがて金に困り、ルネと一緒に父の会社のタイプライターを盗む。換金できず、戻しに行った時に守衛に捕まる。父親が警察へ連行する。非行少年として少年審判所へ送られ、護送車の中で初めて涙が出る。母親が判事の鑑別所送りの勧めに応じたため、束縛された毎日を過ごす。母親がようやく面会に来るが「ここが似合いだよ」と冷たい。監視の隙に脱走。野を越え、海へ、海へ。初めて見る海は大きかった。海辺に立ちつくし、ふとこちらを向いたまま動きを止める

パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるなど、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』初代編集長(1951年 – 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬまで親子同然の生活を送る。彼の勧めにより映画評論を著すようになり、『カイエ・デュ・シネマ』を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を多数執筆した。特に、同誌1954年1月号に掲載された「フランス映画のある種の傾向」という文章は厳しい論調だった。

③去年マリエンバートで
『去年マリエンバートで』(きょねんマリエンバートで、L’Année dernière à Marienbad)は、1961年公開のフランス・イタリア合作映画。アラン・ロブ=グリエによる脚本をアラン・レネが監督したモノクロ映画である。1961年、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。日本公開は1964年5月。
脚本のロブ=グリエ自身の言によれば、黒澤明監督の『羅生門』に触発されて作られた作品である。より正確に言うならば、芥川龍之介の『藪の中』を下敷きにした作品群の一つといえる。
ロブ=グリエがこの映画の仕掛けについて語っている。 それによると、黒澤明の『羅生門』がモチーフとなっており、最初に、
• 現在
• Xの回想(Xにとっての主観的事実)
• Aの回想(Aにとっての主観的事実)
• 過去(客観的事実→Mの視点)
の4本の脚本が作られ、それらをバラバラにつなぎ合わせて、最終的な脚本が完成したという。その際に、それぞれの場面が1から4のどの脚本に該当するのかがなるべくわからないように慎重につなぎ合わされ(時間軸の入れ替えも行われている)、最終的に完成した脚本はダイヤグラムシートを伴う、非常に複雑なものになった。わかりにくい映画だったが何か惹かれるものがあったエーガ。

④二十四時間の情事 日本題名が良くないなぁ
Hiroshima mon amour ヒロシマ・モナムール)は、1959年の日本・フランスのドラマ映画。アラン・レネ監督の第1回長編劇映画作品で、脚本はマルグリット・デュラス、出演はエマニュエル・リヴァと岡田英次など。被爆地広島県広島市を舞台に、第二次世界大戦により心に傷をもつ男女が織りなすドラマを描いた作品である。日本での邦題は当初『ヒロシマ、わが愛』とされていたが、公開時に『二十四時間の情事』へ変更された。ただし近年では、日本においても原題のまま『ヒロシマ・モナムール』と紹介される場合もある。アラン・ルネはヒロシマの悲劇のドキュメンタリー映画を作るつもりだったが、実際を観てこの映画になったとか。
来日し、広島へ反戦映画のロケに訪れたフランス人女優が、日本人男性と知り合い、深い仲になる。2人の情事の際の会話が続く冒頭では、広島の原爆被害の惨状を訴える映像シーンが続く。
2人はともに第二次世界大戦で戦争による悲劇的な体験を有していた。日本人男性は米軍の原爆投下によって家族を全て失っており、フランス女性は故郷ヌヴェールでナチスの将校と恋仲だったが、戦後に周囲から糾弾や迫害を受けた過去を持っていた。非常に良いエーガだったと思いますが、題名のせいか日本では余り評判良くなく後年評価された。

日本のヌーヴェルバーグ映画については余白無くまた、大島渚作品は余り評価しないのでタンマ。

アントニオ猪木と糖尿病   (会社時代友人 齋藤博)

編集子)ここのところ有名人の訃報が多い気がするが、プロレス界で人気の高かったアントニオ猪木も残念ながら不帰の客となってしまった。新聞紙上でも触れていた彼の糖尿病のことについて、斎藤さんから紹介された医師ドクターシミズのひとりごと(https://promea2014.com/blog/?p=20194から転載させていただく。
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猪木さんは、かなり若いころから糖尿病だったようです。39歳で、血糖値はなんと590!一度の食事で、ラーメン丼で10杯以上のごはん、焼き肉を2キロ平らげるくらいは当たり前、日本酒の一升瓶のラッパ飲みなども時々、接待の席の食事も残してはいけないと途方もない量を律義に食べ続けた、そうです。それでも、1991年からやっと血糖値を下げる薬を飲み始めたそうです。その後インスリン注射をするようになっています。インスリンを注射しながら食事をとり、血糖値を測る。分厚いステーキよりも、炭水化物のおにぎり1個の方が血糖値が上がりやすいことなど、自己管理のコツも少しずつ分かってきた、そうです。「分厚いステーキよりも、炭水化物のおにぎり1個の方が血糖値が上がりやすいこと」は糖質制限では当たり前のことなのですが、今でもこのことを教えてくれる医師や栄養士は少ないでしょうから、当時は誰も教えてくれなかったのでしょうね。

猪木さんは2019年に国の指定難病にもなっている「心アミロイドーシス」を発病しています。アミロイドーシスはアミロイドという異常なタンパクが様々な臓器に沈着し、その臓器の障害を引き起こす疾患です。アルツハイマー病は脳にアミロイドが沈着します。以前はこのアミロイドの沈着がアルツハイマー病の原因ではないかと言われていましたが、最近そのもととなった論文の捏造が発覚しています。おそらくアミロイドの沈着はどの臓器でも根本原因ではなく結果でしょう。

このアミロイドが沈着する原因は実際には完全にわかっていませんが、私は恐らくインスリンだと考えています。それはインスリンを自己注射している人で「インスリンボール」と言われている、アミロイドが沈着した硬い腫瘤ができることがあるからです。インスリンはアミロイドを形成することがわかっています。

2型糖尿病のすい臓でもアミロイドの沈着が認められる場合があります。アミロイド沈着は欧米人では90%以上の患者にみられますが、アジア人では低く、中国人の糖尿病患者ではほぼ40%、日本人では28%で膵島内占有面積も17.5%と軽度でした。アミロイド沈着はBMI高値で頻度が高く、インスリン抵抗性と関連していると考えられます。

2型糖尿病、アルツハイマー病、パーキンソン病などはアミロイド疾患とも言われています。おそらくインスリン分泌が大きく増加したり、インスリン分解酵素の相対的な不足または何らかの要因で分解酵素の障害が起きているのではないかと思います。いずれにしてもインスリンがアミロイドーシスの原因だと思います。しかし、根本原因はインスリンの過剰分泌をもたらす糖質過剰摂取でしょう。糖尿病になり、インスリンの注射を使用しなければならない場合も、そのインスリンによりアミロイドーシスが起きてしまうこともあると思います。アミロイドーシスも糖質過剰症候群である可能性が高いでしょう。

しっくりこない新聞記事について

最近、新聞記事(編集子宅では読売)を読んでいて何となく疑問というか違和感を感じることがいくつかある。

そのひとつがAI という用語の氾濫である。AI、とはなにか、といえば、日本語では人工知能、という用語があてられるがもともとは英語であるから、英語版のウイキペディアなどを見てみると、the theory and development of computer systems able to perform tasks that normally require human intelligence (通常は人間の知性を必要とする仕事を行うコンピュータシステムの理論と開発)あるいは intelligence demonstrated by machines, as opposed to the natural intelligence displayed by animals and humans(動物あるいは人間がおこなう固有の知的行動を機械が代わって行うこと)と定義される。またほかの文脈では discernability (識別能力)という用語も用いられている。

現代はITの時代であると言うときのIは information であり、その意味は情報、ではあるが知性、inteligence ではない。

コンピュータが企業などの実社会で使われ始めた時代には information のもとになる data という用語が用いられていた。現在ではどこの企業や組織であっても、コンピュータを扱う部署は情報処理課、とかIT部、などと呼ばれるだろうが、60年代まではデータ管理部とか、ズバリ電子計算機課、などという呼称がふつうであった。つまり生のデータを集めてあらかじめ定めた方式によって処理をするという人力作業の効率化高速化することから始まって、システムの高速化・大規模化によってその処理結果を高度化し、単なるデータの集積から人的判断処理の補助へと効果が、データではなく情報と呼べるものになってきた。そのプロセスがさらに高度化され、人間とのインターフェイスも数字や文字の羅列からグラフィック処理やシユミレーションなどが手じかになった結果、information technology ITという現実ができた、というのが現在の情勢だろう。しかしコンピュータのもたらす効果が intelligence というレベルになっているのは、言語処理とか翻訳とか医療行為の一部などといった限られた領域のそのまた一部である。コンピュータシステムの能力・効果はまだ information process というレベルであり、新聞記事に気安くAI によって処理をする、などと書かれていることの大半はまだまだ人間の discernabiility を置換するまでのレベルになっているとは思えないものがほとんどだと思われる。

僻目かもしれないが読者に誤った期待を抱かせないためにも AI という用語の使用にはもっと厳格である必要があるように思うのだがどうだろうか。もっともコンピュータの使用が一般化されはじめた段階でも電子頭脳、などという用語がまかり通っていたものではあるのだが。

僻目、という事でもう一つ、しっくりこないのが皇室に関する記事の書き方である。ただこれは小生が知らないだけで、メディア界にあっては何か統一されたノームがあると思うので、ご存じの方からご教示を期待して書いている。

今皇室の方々の一般の呼称は例えば常陸宮さま、とか、愛子さま、というように誰でもわかる尊称がつく。このことは皇室の方々にのみ使われるのであって、ほかの個人には絶対に使用されない。現在の国民の象徴、という立場からしても納得できる慣行である。小生が違和感を覚えるのはそのあとの書き方だ。せっかく宮様、という尊称を使っているのに、たとえば何かの会合に ”出席した” と書くが ”出席された” という敬語はもちいられない。文意が曲げられることはないが、どうもこの二つが違和感をもたらすのだが、これも昭和人の末席につらなる人間だからだろうか。

(船津)敬語は戦前の使い方からかなりかなり変わり、色々議論が有り、毎日、朝日、などと読売、産経とは多少異なる様ですが原則同じ様ですね。適切かどうかこんな論文も有ります。

 

(菅原)首件のブロッグ拝読。昭和13年生、諸手を挙げて賛成。

1.今の段階のAIってのは、正確には、まだまがい物だから、AIマガイ。  2.最近の記者は、敬語の使い方を全く知らないんじゃないの。それを咎めないデスクもどうしようもない。こうやって日本語が乱れて行くんだ。

(斎藤)そこいらへんで言われているAIと言う言葉は、殆どの場合流行語にすぎないと思っています。中身がどうであれ、AIを使ったと書くのが、かっこよいのでしょう。広告業界とマスゴミの何でもござれパターンだと思います。DXに真剣に取り組んでこそ、きっとAIを使わざるを得なくなるはずです。

実は、コロナ前まで、データマイニング仲間が集まって、手弁当でAI研究会をやっていました。メンバーには、今林広樹と言う天才的知識と能力を持ったAIのリーダーが参加していました。最後に会合を持てたのが2019年の秋だったと思います。それぞれ、独自に動き出して、皆さん活躍しているようです。
今は、データを機械学習させIntelligenceに昇華させるツール群があります。ですから、何百万、何千万、いや、何億と言う現実の事例を読み取ってマイニングして、もうInformationと呼ぶには適当でない思考”回路”がシステム内に構築できてしまう世の中になってしまいました。そんな事があるので、AIと呼んで然るべきもの、すでに実在していますね。何でもかんでもAIと呼んで欲しくないと言うのはGiさんと同じ意見です。

 

 

エーガ愛好会 (171) 追跡  (34 小泉幾多郎)

この「追跡1947」の監督ラオール・ウオルシュは、西部劇からギャング映画、戦争映画といった男性的な骨っぽい秀作が多いが、これは時代感覚が鋭い、所謂サイコウエスタンの先駆的作品で、ニーヴェン・ブッシュの脚本に、大いに助けられてもいる。主演のロバート・ミッチャムが、あの何を考えているのかわからないような個性が、この作品に合致していた。

冒頭ニューメキシコの岩峰がそそり立つ一角を女性一人馬を走らせ辿り着いた場所が、住んでいた形跡のある牧場跡。エイガは此処で始まり、此処で終わる。この地がそもそも主演者ミッチャムが何故追われる身となったのか、何故彼を悩まさせるのか、随所にインサートされる走り回る銀の拍車とブーツの足元のイメージは何故なのか、謎めいた導入部が興味を駆り立てる。

主演ロバート・ミッチャムが若き頃から、その個性を発揮、テレサ・ライトは、流石のアカデミー受賞女優で有名作品出演の貫録を示し、もう一人の主演者ジュディス・アンダースンは「レベッカ」のダンヴァース夫人の如く不穏の空気を醸し出すのに将に適任。名脇役アラン・ヘイルの賭博場のオーナー、やさしい男ハリー・ケリー・jr等々俳優にも恵まれた。スタッフ面も音楽マックス・スイナーが既成曲を効果的に使っていた。一家団欒のシーンで歌われた「ロンドンデリーの歌」、ミッチャムが唄うシーンもある。家族に亀裂が入るようになると危険なメロディで流れる。賭博場で演奏された「ラレドの通り」はジェブが馬上で口ずさんでいた。ジェームズ・ウオン・ハウの撮影も素晴らしい。冒頭から、馬と共に歩くソーの背景に切り立った岩山の高さ。同じく馬上のジェブの遥か彼方の山の手に人影が見えるといった大地の地形が効果的に取り入れられている場面、其処から撃ち合いが始まる等々。復讐と執念の重苦しさの溢れた西部劇だったが、最後ジェブとソーの命がけの戦いの末ハッピーエンドに到達し、気分は悪くない。

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”ラレドの通り” 「TheDyingCowboy」としても知られる「StreetsofLaredo」は、死にゆくレンジャーが別のカウボーイに物語を語る有名なアメリカのカウボーイバラード、アメリカ西部作家連盟のメンバーは、これを史上最高の西洋の歌のトップ100の1つとして選んでいる。

As I walked out in the streets of Laredo
As I walked out in Laredo one day
I spied a young cowboy all wrapped in white linen
Wrapped in white linen as cold as the clay

I see by your outfit that you are a cowboy
These words he did say as I boldly walked by
Come sit down beside me and hear my sad story
I’m shot in the breast and I know I must die

It was once in the saddle I used to go dashing
Once in the saddle I used to go gay
First down to Rosie’s and then to the card house
Got shot in the breast and I’m dying today

Streets Of Laredo
ジョニー・キャッシュ · 1965年
Cowboy’s Lament
バール・アイヴス · 1944年
The Streets of Laredo
ジェームス・リーヴス · 1961年

大リーグ懐旧談

(菅原)70年以上も前の話しですが、拙宅は「朝日新聞」に加え、何故か「日刊スポーツ」を購読していました。「日刊スポーツ」は、結構、米国大リーグの情報を掲載していました。それとは別に、レフティ・オドゥール率いるサンフランシスコ・シールズの訪日(1949年)。これって3Aだったけど、日本は一回も勝てませんでした。確か、6戦やった筈です。そう言えば、巨人の別所もやってましたね。

その「日刊・・・」で覚えているのが、ボブ・フェラー、テッド・ウィリアムス、ラルフ・カイナー、スタン・ミュージアル、ウォーレン・スパーン、ジャッキー・ロビンソン、後にマリリン・モンローの旦那となったジョー・ディマジオ(両親はシチリア島出身の移民だそうです)。他にもいたけど、全く思い出せない。でも、苗字だけでなく名前まで出て来るほど影響されてたわけです。

ボブ・フェラー

(小川) 大昔の話、懐かしいね~。シールズの試合名古屋で観戦しました。あの時飲んだ薬臭いコーラ、コカかペプシかは覚えてないが、日本初上陸だったようでプログラムの全面広告を覚えています。ヤンキーはこんな臭い物を飲んでるのかと思いました。羅列してある当時の米国名選手は小生もよく覚えています。日本では別所も川上も大下も藤村、若林・・・。懐かしい!

(飯田)懐かしい、ミッキー・マントルとロジャー・マリスのポスター写真を見て思い出したのは、数年前にニュー

テッド・ウイリアムズ

ヨークのセントラルパークのジョン・レノンの墓(イマジン・メモリアル)を観に行った時に、ランチの場所を探して付近を歩いていたらミッキー・マントル・カフェが見つかりランチをしました。あまりの偶然見つけた店だったので、嬉しくなり店にお願いしてメニューを貰って帰り自宅の小さなバー・キャビネトの上に飾っています。

福留孝介が引退しました。ジャイアンツ・ファンの圧倒的に多い「エーガ愛好会」ですから関係ない話ですが彼がシカゴ・カブスで活躍していた年にシカゴでシカゴ・カブスVSシンシナティ・レッツの試合を観戦しました。カブスの球場はチューインガムで日本でも戦後有名だったリグレー社が所有しているとても歴史的な球場で雰囲気のある球場です。福留は中日ドラゴンズに入団しましたが、PL学園から巨人に行きたかったのに中日ドラゴンズに入団したかと記憶してますが。

ジョー・ディマジオ

(安田)> カブスは「ヤギの呪い」から108年振りに解かれて優勝して一安心したのか、> 鈴木誠也が入団してもチームの沈滞から脱せませんね。ダルビッシュも3年間在> 籍して貢献しましたが駄目でした。同じ地区ではカージナルスが強いので勝ち抜> くのは大変です。サミー・ソーサ全盛期もカブスは優勝できなかったですね。> ドーピング・トリオのソーサ、マクガイア、ボンズは何故か全員ナショナル・> リーグ所属でした。特別な理由でもあったのでしょうか?

(保屋野)先日、大リーグのレジェンド達が話題になりましたね。遅ればせながら一言。ボブ・フェラー、テッド・ウイリアムス、スタン・ミュージアル、ジョー・ディマジオ等々懐かしい名前がありました。

記録からは、ホームラン762本の「バリー・ボンズ」とヒット4256本の「ピート・ローズ」が真っ先に名前が挙がるべきなのでしょうが・・方や「筋肉増強剤」方や「野球賭博~永久追放」で、とりあえずは対象外。では誰か・・戦後に限って言えば・・・・

スラッガーは「ハンク・アーロン」(ホームラン755本、ヒット3771本))次点「ウイリー・メイズ」(ホームラン660本、ヒット3283本)リードオフマンは「リッキー・ヘンダーソン」(ヒット3055本、盗塁1406回)次点「イチロー」(ヒット3089本)ではないでしょうか。さて、プーホールズがあと3本でホームラン700本達成です。ヒットも3400本近く打ってます。メイズを超える?。そして、大谷が後10年活躍できれば、総合第一位になるかも、期待しましょう。

まあいろいろご意見はあるでしょうが、この人がやはり一番なのではありますまいか

(編集子)小生目下のコンサーンは桑田がピッチングコーチを首になること、だけであります。読売の最新情報ではどうやらそうなるらしいけど。本日現在わがG はCS進出ならず。昨晩の一戦、8回の無死満塁をなんと三者三振できりぬけた若武者大勢の奮闘むなしく、最後は実に岡本の3ゴロでダブルプレーとは、まさに今年のGの実力そのものでしたな。かの歴史に残る9回裏、江藤のグランドスラムで同点とし、二岡の右翼スタンドへの逆転ホーマー、ああいうドラマがあるものと信じていたのでありますが。