エーガ愛好会 (22) The Big Country

予想もしなかっためぐりあわせから米国企業で働くことになった僕は、シリコンバレーには相当回数足を運んだが、東部や中部を訪れる機会は少なかった。その少ない旅の途上、ジェット機の上からその国土の果てしないうねりを見て、”でっけえ国だなあ” という印象はもちろん持っていたが、実感としてそれをあらためて実感させたのちょっとしたドライブだった。

コロラド・スプリングスは米国空軍士官学校の所在地として、陸軍士官学校のウエストポイント、海軍兵学校のアナポリスとともに知られているし、NORAD(北アメリカ航空宇宙防衛司令部)の所在地でもある、いわば軍都、とでもいうべき街で、幾度か訪れることがあった。1970年2月の訪問のとき、デンバーから通常のルートを避け、地図を頼りに回り道をしてみたことがある。つたない詩もどきを書き留めている とりこにい にその時の感情が書いてある。

 

 アクセルをぐうんと踏んで フォードLTDは小さな峠を越えた

 視野の果てまで きつね色のコロラド溶岩台地の遠く

 早春の平野の第三象限を限るロッキーの稜線があった

 インターステートハイウエイが越えるこの峠

 百年の昔 人は馬で越えた      

 この峠に立って 幾人の旅人が      

 かぐわしい夏の夕風 暮れていくロッキーに問いかけたか

 幾人の騎兵隊兵士が 幾人のファー・トレイダーが 吹きすさぶ雪に吠えたか

 ・・・・おれはなぜ、ここにいるのか、と。

 彼らが帰り着いた土 この峠に立って

 ひとりの異邦人はつぶやくのだ

 この広い天と この ただ果てしなくひろい地のはざまに

・・・・ おれは いま 生きている! と。

 

 

思わせぶりな前説が長くなった。ウイリアム・ワイラー、大いなる西部。

(写真提供 安田耕太郎君)

(小泉) 監督ウイリアム・ワイラーで「西部の男1940」以来18年ぶりの西部劇、主演グレゴリー・ペックとは「ローマの休日1953」以来5年ぶり。最近BSPで放映されたペックの西部劇「続ガンヒルの決闘」「拳銃王」とは異なり、その人柄が醸し出されるような東部の紳士で、インテリ風でありながらも船乗りから船長に登り詰めた強靭な肉体も持ち合わせる主人公を颯爽と演じている。

開巻から東部と西部の対立の様相を見せつける。婚約者のキャロル・ベイカーとその父チャールズ・ビックフォード経営の牧場へ向かう途次、対立するチャック・コナーズの仲間に、手荒い西部的歓迎を受ける。父ビックフォードは、そのことを娘から聞き、やられた仕返しに、コナーズの父パール・アイヴィスの牧場を襲う… 両牧場対立の根源でもある水源地を所有するジーン・シモンズに会ったりしているうちに、ファザコンであまりにも古い西部的な女性ベイカーとの気持がズレて行くことから、シモンズへ心が移っていく。最後は、ビックフォード家とアイヴィス家との峡谷での戦いで幕を閉じることになる。脇役とは言え、アイヴィスとビックフォード二人の爺様の演技が光る。アイヴィスは歌手出身ながら、貫禄ある振舞の中に進歩的考え方の持ち主でもあり、筋の通った男ぶりから、卑劣な息子を射殺し抱き締めざるを得ない父親を演じ、アカデミー助演賞に輝いた。

 駅馬車の遠景で始まった大いなる西部、構図が古い西部から新しい西部へ移り変わり、広大な平原を見渡す展望が、すべての場面で、ロングショットが活用され、大いなる西部の景観が浮かび上がってくるのだった。広大な大自然に、ぴったりした優雅でダイナミックなジェローム・モロスの音楽も懐かしく聴かれた。各場面夫々に、登場人物夫々に、適切に合致した音楽、昔はサウンドトラックのレコードで、画面を振り返りながら、音だけで聴いたものだった。終演は重なった二人の古き西部の鳥瞰のロングショットから谷間へ去るペックとシモンズの若者の後ろ姿に大西部の景観が浮かび上がる。新しい西部の幕開けか。

(菅原)映画館で見ているから、これが、二度目です。それにしても、覚えていないもんですね。ペックは、終始、あまりにも恰好良すぎました。ヘストンと殴り合いをやり互角に見えましたが、最後に、ヘストンの「別れの挨拶が長すぎる」でヘストンの判定勝ち。チャールトン・ヘストンは、眼光鋭く、苦み走った良い男。全米ライフル協会の会長だった時は、その眼光の鋭さで、銃規制派もすくみ上ったんじゃないかな。

小生のお気に入りのC.コナーズ、ちょっとどころが、だいぶ可哀そう。せめて一度ぐらい見せ場を作ってから、B.アイヴスに殺されても良かったんじゃないか。それだけの値打ちもなかったか!ジーン・シモンズは、イギリス人で、東部の女であり、西部の女ではありませんが、キャロル・ベイカーは、正にピッタンコ。1931年生まれで存命中だから89歳か。どんなお婆さんになっているのか。

C.ビックフォードは、あれだけ豪華なお屋敷があり、しかも、ごまんといる牛を飼っているところを見ると、アイヴスが言っていたように、相当な悪さをして来て、ここまで伸し上がって来ている筈です。ですから、最後は、勧善懲悪で、ビックフォードがアイヴスに殺されると思いきや、相撃ちでチョン。余りにも長いので、生理現象がおきましたが、最後まで見たので面白かった。

(安田) 「アラビアのロレンス」 の冒頭に近い場面で、ピーター・オトゥ―ルのロレンスがエジプトカイロのイギリス司令部からアラビアの砂漠の地に赴任して迎えた最初の日の朝、荘重な輝ける 日の出 が悠久な砂漠を黄金色に染めて、その後の波乱含みの映画の流れを予感させるかのような見事なシーンで強烈に印象に残っています。似通ったシーンが 「大いになる西部」 にもありました。グレゴリー・ペックが東部からテキサスの地に着いて、宿泊する家のベランダから眺める光景は、地平線の彼方まで広がる荒野の雄大な景色。正に The Big Country そのもので、映画のスケール感を期待させるに充分な冒頭シーンでした。

 イギリス女優 ジーン・シモンズ 。同じイギリス人の ヴィヴィアン・リー、エリザベス・テーラー にやや似ていて、彼女の黒髪 (或いは濃いブルーネットだったか ) は, 金髪のキャロル・ベイカーとの容姿の対比のみならず、役柄の人物像対比をもより際立たせていて映画の筋に沿っていてとても良かった。最後には、グレゴリー・ペックは許嫁の未熟でわがままなキャロル・ベイカーから離れてシモンズへと気持ちが移って、二人で未来を共に歩むことを示唆して映画は終わります。ペックとシモンズの間では直接的なラブ・シーンは一切なく、それでも気持ちを通わせお互いが敬意と愛情を抱いていることを分からせる演出は、流石ウイリアム・ワイラーです。 

グレゴリー・ペック が荒馬を乗りこなすのに悪戦苦闘するシーンはとても印象的。東部の都会男が西部男になっていく忍耐と勇気の決意が描かれていて、映画のテーマと彼の人となりを側面から見事に描いたシーンだと思います。それにしても、あの荒馬も見事に演技(?)したものです。それだけプロの調教師によって手名付けられたのでしょう。あの場面以外、ペックの乗り物用の馬としては登場しませんでしたから、あの調教のシーンだけの為に準備されたのだと思います。これとて見事な映画作りの一端を垣間見る思いがします。

また、ペックが船乗りの経験を活かして荒野を探訪するのに磁石と地図を駆使して、荒野を迷わず歩くことが信じられない陸の荒くれ男達を驚かすシーンなども斬新で、それまでの西部劇にはなかった面白い発想を網羅した演出になっていました。さらに、腕力に物を言わせて争いの決着を血を見ることでつける旧来のやり方に代わり、近代的な和と平等な仲裁方法を導入しようとするなど従来の西部劇にはない一歩前進したストーリー展開と演出になっていました。190cmの大男 二人、ペックとチャールトン・ヘストンの決闘場面は、語り尽くされているとは思いますがやはり見応えがありました。 

グレゴリー・ペック は ゲーリー・クーパー、ジェ-ムス・ステュアート などと並びアメリカの良心を代表する俳優だと評されていますが「小鹿物語」、「ローマの休日」、「アラバマ物語」 などでもそうでしたが、この映画でも彼の持ち味と特徴が如何なく発揮される役柄を演じています。ラッキーな俳優だと思います。特筆すべきは、アカデミー助演男優賞獲得 は当然だと思わしめた、 争う両陣営の片方の親分、相撲取りのような体躯の バール・アイヴス の迫真の演技でした。ウィキで調べると元々はアメリカで数多くのヒット曲をもつ歌手とのこと。彼が息子役の チャック・コナーズ   (テレビ「ライフルマン」で馴染み) に対しても公正さを貫き、背いた息子を自らの手にかけて殺し、腕の中で息絶えていく息子への父性愛を示す場面での彼の演技は、この映画の白眉のひとつだと思います 最後に、何回聴いても映画のスケール感に相応しい雄大なーマ音楽は素晴らしい。

(保屋野)大作、「大いなる西部」は、劇場で1回、テレビで5回ぐらい観た、ジャイさん同様私のNo1西部劇です。感想等はプロの皆さんのおっしゃる通りで、アマの私が付け加えることはありません。

ちなみに、西部劇に「大作」は少ないと思いますが、昔見た「西部開拓史」ジャイアンツ」も面白かった記憶があります。ただ、誰かが云っていた、少々「グレゴリー・ペックに都合が良すぎる」という安易な点はありましたが、気になるほどではありません。

①   決闘シーンで弾がそれたこと。②   水利権付牧場が簡単に手に入り、しかも買う金があったこと。③   対立する2人が相打ちで死んでしまうこと。④   キャロルベーカーより魅力的な?ジーン・シモンズに上手く乗り代えられたこと。

大西部の雄大な風景、特に水争いの河の風景が圧巻。テーマ曲も絶品。ただ最後に、キャロル・ベーカーとチャック・コナーズがちょっと可哀相。

(編集子)エーガ館、テレビ、DVDなどあわせてたぶん5度目くらいだと思いますが、結局最後までまたみてしまいました。やはり小生の西部劇ベストワン、です。この作品の背景になっている牧場主の間の水の取り合いはよくテーマになりますね。ウエインものでいえば、“チザム” もそうだったし、“”エルドラド もそうでした。

今回改めて思ったのは、”間(ま)” の取り方、せりふのないシークエンスとロングショットが効果的だなあということでした。菅原兄も触れているペックとヘストンの殴り合いですが、ロングショットにひいて、殴り合いの音だけが聞こえるシーンなんか、まさに Big Country の中でわめいている人間の矮小さを表現しているのだと思います。之がこの映画のテーマなんだと改めて感じました。
バール・アイヴスのレコード(!)があったはずですがどっかへ行ってしまいました。正統的な ”ウエスタン” の歌い手だったという記憶があります。またか、と保屋野君なんかに怒られそうですけど、セーブゲキ、万歳(ついでに ジャイアンツ をセーブゲキというのはちょっとジェームズ・ディーンにそれこそ可哀そうかもしれませんね)。

 

 

アメリカの若者の都市離れーシリコンバレーの再形成 (HPOB 五十嵐恵美)

カリフォルニア州でCOVID-19による自宅待機命令が3月中旬に出てから約半年が経過した.米国各州がそれぞれに各種ビジネスを段階的にオープンし始めた結果、経済に活気が徐々に戻ってきているように見える.その状況下でシリコンバレー、マウンテンビュー市に本社を置くグーグル社(グーグルの親会社はアルファベット社でアップルと共にシリコンバレーではよく知られたオフィス志向企業)はCOVID-19の長期化に備えて従業員の在宅勤務(リモート ワークあるいはテレワーク)を少なくとも2021年6月末まで継続する方針を7月末に発表した.COVID-19パンデミック以前からリモート ワークがグーグル、フェイスブック、アップル、等のシリコンバレーのIT産業の巨人たちによって徐々に一般化されていった中で、今回のCOVID-19の影響による長期にわたる在宅勤務が若者の働く環境、および彼らの居住地の選択の見直しを加速している.

世論調査機関のハリス・ポール社は、平均して米国の4割の都市部居住者が、コロナ禍を契機に郊外への引っ越しを検討していると答えており、この傾向は18歳から34歳までの若者世代になるとさらに高くなると伝えている.最近購入または賃貸のために不動産のサイトを訪れた人は、郊外の住民では21%であるのに比べ、都市部の住民ではその倍の43%にのぼっている.通勤渋滞を嫌う若者世代は、ここ20年程、一貫して都心、それもダウンタウンでの便利な賃貸生活を好む傾向にあった.しかしながらCOVID-19収束後もテレワークが続くのであれば、なにも狭くて、高くて、環境、治安が悪い都市部に住む必要性はなく、個人のライフ スタイルにあった、より安価な土地、より広いスペースを選ぶという若者の割り切りが目立つという. 

シリコンバレーで働くことの短所、長所

よく言われているシリコンバレーで働くことの「短所」は、

  • まず、住居を筆頭に生活費が高い
  • 長時間労働が一般的であり、期待もされている
  • 仕事の質、スピードに対する要求が高い、にもかかわらず
  • 雇用保障はないに等しい(競争が激しいと同時に景気、業績に応じてレイオフも頻繁)

シリコンバレー一帯、ベイエリアの一年を通して温暖な気候は世界にも例がない.それに加えて、シリコンバレーで働く「長所」としてあげられる点は、

  • 世界中から集まった非常に優秀な人材と仕事ができる
  • トップ レベルの会社で仕事ができる
  • 給与、ボーナス、その他のベネフィットが良い
  • 無料の食事サービス、ジム、等の多数の特典がある

シリコンバレーの1ベッドルーム アパート家賃の中央値

ライフ スタイル 

Zoomで会議をし、Zoomでヨガのクラスに出て、各種稽古ごとにもZoomで参加する.Zoomの使用は2020年3月に急増し、翌月、全世界での使用者は3億人に上昇した.ちなみに2019年12月のZoom 使用者は1000万人.グーグルも、いままでは法人ユーザー専用だったZoomと同種の会議アプリをGoogle Meetと改称して、一般ユーザー向けにも無料サービスを開始し、SkypeやLINEを含め、ビデオ会議の普及はテレワークの必要性に迫られ大躍進をとげた.

恒久的テレワーク体制に入った企業の中には、従業員の都市部からのUターンのトレンドを若者のライフ スタイルとして捉え、COVID-19以前から テレワークに対応.この若者の都会離れは、米国の古いライフ スタイルを好むという特にミレニアル世代 (1990年半ばから2000年初期に生まれた世代) の価値観でもある.国勢調査によれば、100万人以上の都市は成長率が鈍化、もしくはマイナスに転じている.

実際、共働きが一般的なアメリカでは、テレワークによって(限られたスペースの中で家族全員が家にいる事によって生じる「弊害」も多々あることながら)子供と過ごす時間が増えたことを喜ぶ声は無視できない.一般的に、子供の学校や稽古事への送り迎えなどの負担の分担はいつも夫婦間の問題であり、多くの世帯が、テレワークへの望みを持ちながら、それを公式に上司に打診することは、なにかと憚られていたのが現実だった.

企業の再形成

COVID-19はイノベーションのシリコンバレーを今後どれだけ変えていくのか.アルファベット(グーグル)、フェイスブック、ツイッター、を含むシリコンバレーの巨人達はオフィスが再開した後も、従業員のかなりの数がリモート ワークに留まる計画を発表した.実際、サンフランシスコとサンノゼの家賃は3月の初めから7%以上下がり、サクラメント、リノ、ボイジー、その他の「サテライト コミュニティ」では家賃、不動産価格が着実に上昇している.

フェイスブックのCEOザッカーバーグは(SFGATE)「フェイスブック社の約半分の従業員を今後5-10年の間に永久にテレワークに切り替えていく可能性は大きく、より分散した労働力への移行は会社、従業員両者にとって有益な移行であると思う.フェイスブックの仕事を全米中のより多くの応募者に開放すれば、多くのフェイスブック従業員がメンロパーク本社への長い通勤から解放されるし、それは環境にプラスの影響を与える可能性も高いのではないか」と述べた.

リモート ワーカーが個人のライフ スタイルに合った環境を選び、安価な郊外に移動するに伴い、一部のシリコンバレー企業はリモート ワーカーの給与を既に地元の生活費に合わせて調整している.ブルーンバーグ紙によるとパロアルトのVMWare(デルが親会社)は、テレワークを選択した人のために新たにローカリゼーション ポリシーを作成したと報じている.

例えば、デンバーに移ると、18%の賃金カット、ロサンゼルスとサンディエゴでは8%の賃金カット.ただし、ホームオフィスのアップグレードの資金として$400支給し、2週間の追加休暇を与えるという内容だ.

リモート ワークにより事務所のスペースが以前ほど必要なくなり事務所を統合し始めた企業も少なくない.事務所の統合により、リース料、諸々の経費も軽減でき、今後、本社にいなくてはならない人材のみ本社勤務にする検討も既に進んでいる.

COVID-19以前、シリコンバレーは産業クラスタリングの主要なモデルであり、同様の知識セットを持つ人材が集まって創造性、革新、生産を繁栄させるというパラダイムであった.ベイエリアは、優秀なエンジニア、デザイナー、科学者、投資家の宝庫で、2015年には米国の全特許のほぼ20%を生み出した(ちなみに1970年は全米の4%). 2017年のGDPは$8,380億に達し(世界で18位)、テクノロジー業界の極端なクラスタリングは、生産性の向上にも貢献している.グーグル、フェイスブック、アップル、を含む主要なプレーヤーが、従業員をできるだけ長く会社に留めておくために(あるいは従業員を就業中、社外に出さないために)、キャンパス内での朝食、昼食、夕食、スナック、運動場の提供の他、種々のアメニティが豊富なキャンパスを設計したのも不思議ではない.

(米国労働統計局)

COVID-19後たった半年で、全国平均で10%上がった失業率は、2020年8月時点で8.4%まで下がり、景気も少しずつ平常に戻る道を踏み出したアメリカではあるが、コロナ禍が短期間で経済、国民生活に残した影響は大きい.今後COVID-19収束へはまだ時間がかかるであろうという予想と現実の中で、人々、特に若者は、これまでとは違う価値観を持ち、仕事や住居の取捨選択をしている.アフターコロナに向けて、都会離れとテレワークは、今後増々定着していくようにみえる.

 

コロナ第三波の危険性について   (34 船曳孝彦)

ご質問がありましたので、ウィルス学の専門医ではありませんが、今回はVirusの遺伝子変異と第3波流行の危険性を中心に私見を述べます。

日本をリードしている感染症専門臨床医、感染症疫学の専門家が、最近そろって新感染者増加、爆発的増加の危惧を訴えています。

実際、スペイン、フランス、イギリス、イタリーなどヨーロッパでは可成りの再上昇が報じられ、悪性度もやや高い可能性もあります。早くからCOVID-19のVirusは変異しやすい(RNAが変異しやすい)ことは指摘されてきましたが、現在では細かく見ればおそらく数千に及ぶような多種多様な亜系に分かれているものと思われます。ヨーロッパの新しい感染の波が、どのような種類なのか。それが問題です。各国別々のVirusかもしれません。

今の流行を第3波と呼ぶのか、2波か4波か、スペイン風邪のようにはっきりと命名出来ないのではないかと考えます。コロナ型Virusなので、短期間で次々と変異しすぎし過ぎるので、今や世界中に別々のVirusが蔓延しており、Virusが変異して第何波と名付けることは無理なのではないかと考えます。日本でも世界各地でも、流行し、いったん収まりかけ(あるいは収束した)た後に再流行する傾向が見えますので、これが第2波。次に再流行すれば第3波として扱わざるを得ません。

そうすると、日本にとっては、どのようなVirus株が第3波を起こすのかで、大袈裟に言えば運命が分かれます。伝播力は強いが病原性はそれほど強くない今の日本での流行株ならまだよいのですが、病原性の強い(悪性な)株が大流行となれば大ごとです。武漢のVirus、日本の5月のVirus、9月のVirus、フランスの3月のVirus、9月のVirus、ニューヨークの8月のVirus、韓国のVirus、 それぞれがどう違うのか、ウィルス学的研究が追い付いていません。

全世界がワクチンに期待をかけています。感染症学会ではこの過剰期待に懸念を示しています。ワクチン投与による抗体依存性感染増強という恐ろしい副作用の可能性はともかく、もともとワクチンには一生涯有効なVirusから数か月の有効期間しか得られないVirusまで、さまざまなものがあり、新型コロナVirusはどれなのか、まだ分かっていません。

ワクチンの有効幅を超えるほどの変異は起きていないだろうとは思いますが、Virus株が異なれば、ワクチンは有効か?通用しないという場合も考えられないではありません。とくにこれから海外との人の往来が本格的となります。日本の患者からのVirusをもとに開発せねばならないということもありうることです。杞憂に過ぎなければ結構です。

新首相は検査体制を整備すると明言しました。しかし、おそらく鼻咽頭ぬぐい検体で数時間かけてのPCR検査を行うことに固執するような気がします。そして無症状者への対応は相変わらず厳しいでしょう。Go-To-政策で1兆円を上回る巨額の国費をつぎ込むより、検査体制(無症状者への検査料減免等)にお金をかけるべきではないでしょうか。高級ホテルに1万円で泊まれ、ビジネスホテルに予約が入らないというのはおかしくないですか。保健所に任せられている多種の仕事の分散も未だはっきり出てきません。

第3波の大流行は明日にも始まりかねないのです。罹らない、罹らさない対策を自分で強化、護ってゆくよりほかありません。

エーガ愛好会 (21) ホギー・カーマイケルのこと  (HPOB 金藤泰子)

Giさん

スターダストを作曲したホーギー・カーマイケルは俳優としてピアニスト役、脇役として色々な作品に出演していたのですね。半世紀以上前のTV番組「シャボン玉ホリデー」でザ・ピーナッツが毎週エンディングでスターダストを歌っていたのを思い出しました。 久しぶりでネットを検索しましたら、本当の話かどうかは分かりませんが下記のような文章が出てきました。
“ホーギー” カーマイケルが来日した時 滞在先ホテルの部屋のTVで、ザ・ピーナッツが自分の曲を歌っているのを聴き、嬉しくなって録画スタジオを訪れ、自らピアノ伴奏をした。日本でホーギー・カーマイケルの伴奏でスターダストを歌ったのはシャンソン歌手石井好子とザ・ピーナッツくらい”  だそうです。
また、「ララミー牧場 1959〜」のウイリーおじさんが、ホーギー・カーマイケルだったという記載もありました!
映画「脱出」は観ていませんので、こちらもネット検索しました。
脱出』(だっしゅつ、To Have and Have Not)は、アーネスト・ヘミングウェイの小説『持つと持たぬと』(1937年、原題:To Have and Have Not)を映画化した1944年ハワード・ホークス監督によるアメリカ映画
ヘミングウェイにホークスが、文学に対する映画の優位性を説いていて、「君の作品で最も駄作と思われる小説を原作にしても傑作映画にしてみせる」と挑発した。そうして出来上がったのが本作である、とWikipediaにありました。
Giさんが一番好ましいと仰るハンフリー・ボガートとローレン・バコール出演の「脱出」をYouTubeで見てみました。ローレン・バコールの低い声は、見た目と違い意外でした。以下 ネットからです。
  ”ホーギー・カーマイケルの俳優として(クリケットはスリムに恋をしている)も魅力的だし、作曲家として見たとき、1939年の歌「香港ブルース」はとても30年代のものに聞こえないぐらい、ぶっ飛んで既にロックである。この映画を魅力的なものにしているのは、カーマイケルとバコールの歌声だろう。発声がアルトであるバコールを当時16歳のアンディ・ウィリアムスの吹替と置き換えるか録音を聞いて議論されたが、結局バコールの低い地声を使うことになった。“ ホーギー・カーマイケルの歌とピアノ演奏もYouTubeにありました。

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我がボギーの映画はいろいろ見ました。勿論、若き日は何といっても カサブランカ がいいと思い込んでいましたが、多少長じてからは

裸足の伯爵夫人 の控えめの演技がいいと思うようになりました。今では(つまり見る方も変わってくるんですな、人生観とともに)あまり評判にはならなかったようですが 脱出 のボギーとローレン・バコールが一番好もしいと思っています。ヘミングウエイの To Have and Have Not の映画化ですが、わき役としてかの ホギー・カーマイケル が実名で登場、聞かせるのも素敵です。ケイン号の反乱 のクイ―グ艦長もはまり役だったと思います。”脱出” はビデオテープ(!)でよければお貸しできます。
                                

(安田)

脱出を観たくともビデオテープを再生する機器がないのでお借り出来ず、アマゾン・プライムでテレビ画面で観ました。

仰る通り、ボギー+バコールは、僕は「三つ数えろより好ましいと思いました。バコール、とても20歳とは思えません。独特のハスキーな声と妖艶な容姿には驚きました。有名なジャズのスタンダード人気曲「スターダスト」、「我が心のジョージア(Georgia on My Mind)」の作曲家ホギー・カーマイケルが実名で出演していてビックリしました。彼のピアノ演奏も聴けて儲け物の感じでした。バコールも彼のピアノ演奏で歌いますが、実際彼女が歌っていたのでしょうか?歌っていたとすれば彼女の多才振りには魂消てしまいます。
映画制作は第二次世界大戦中の1944年。舞台はドイツの影響下にあったカリブ海のフランス領マルティニク島。親ドイツのフランス・ヴィシー政権下にある島では自由フランスの反政府運動(ドゴール擁立派)が盛ん。第二次世界大戦の影響の影が色濃く見える映画。そういえば、1942年制作の映画「カサブランカ」も舞台は親独のヴィシー政府の管理下にあるフランス領モロッコ・カサブランカ。両映画とも主役のボガートは、反独の立場から自由フランスのレジスタンスを手助けするという役柄。テーマの芯の部分では似通っていると思います。
(保谷野)

「黄金」、ボガードが主演というので観ました。ただ、あの「カサブランカ」や「サブリナ」の(カッコ良い)ボガード期待したのですが・・・もちろん、新境地として悪役も良いと思うけど、ダブスのような「救いようの無いチンピラ悪役」は勘弁してほしい。

せめて、「赤い河」のジョン・ウエイン程度の(魅力ある)悪役に設定してほしかった。ジャイさんが好きだという「裸足の伯爵夫人」を何時か観たい。

(シャボン玉ホリデーのこととは、やっこ、よく思い出してくれました。同じころの番組でラストが夜の公園になって、植木等がギターでエンディングだすの、あったよね? 光子の窓 だっけ? ああ、白黒テレビの,まったりした時間よ、帰れ!)

 

朝日新聞記事 参考資料

OB会から案内があったはずだが、今月19日、朝日新聞 bee版に ぐんま県稜線トレイル のことが紹介された。このトレイルには、OB会の有志と当時の現役諸君の努力でつけられた、仲間内の通称 “新道” が県の施設事業の一部として組み込まれている。57年卒、朝日新聞記者の畑川君の名文は誠に見事なものであり、さすが、プロの仕事、という感じがするが、この記事をよりよく理解していただくため、特に若手OBや現役諸君にその背景を紹介しておこうと思い立った。36年同期の文集 ナンカナイ会そのふみあと から、該当部分のファイルを発行にご尽力いただいたH7 田所君から送ってもらったので紹介しておく(今考えるに、畑川君の取材前に提供しておけばもっと良かったのか、と、いまさらの後知恵である。畑川君、ご容赦ありたし)。以下、一部修正、抜粋。

 

  *** 20 避難小屋から新道建設まで ***

三国山荘はその建設から、われわれのKWV生活の基本コンポーネントであった。それは卒業後も心の中にとどまり続けているが、それを強固なものにした一つの要素が、児玉博の悲劇的な事故のあとにご遺族の意思を汲んで建設された避難小屋であったことは間違いないだろう。

その位置から”越路避難小屋”と呼ばれた、コルゲートパイプ製の構造物がどうやって建設されたか、については、ご遺族が刊行された追悼書 ”深く愛でにし彼の山” に、松本行弘が書いているので詳細は繰り返さないが、1962年7月、ナンカナイ会の集まりで児玉家からのご意思が示され、遭難地点に避難小屋をつくることが全員一致で決定された。その後、法師温泉岡村氏のアドバイスや、群馬県、湯沢町などとの話し合いから、縦走路の半ばに位置する毛渡乗越への設置が決定され、建築手段についても群馬県庁の紹介で日本鋼管製のコルゲートパイプを使用することになり、9月16日に第一回の現地調査を実施。23日から現地の整備にかかった。その後、週末を利用しては一片32キロに及ぶ資材を土樽から万太郎乗越まで、現役、OB有志の方々の絶大な協力を得て運び上げるという作業を繰り返し、10月15日にようやく資材を集積。雪の降り始めた10月20日、さらに現役の応援やら、現地宿泊した松本、妹尾ら8人が徹夜に近い作業を行ってめどをつける。11月9日、松本、岩沢、酒井、猪股(清郎、S37卒)のチームがすでに霧氷の張った現地で最後の仕上げを行った。”内部を見ると早慶戦の日には早くも未完成の小屋で難を避けた人が居るらしい。とにかく利用者が既に居た事は喜ばしいことである。”と松本は記している。

この小屋は1963年5月、湯沢町に寄贈されたが、やはり老朽化には勝てず、1996年2月、当時湯沢町観光課施設係長だった高橋貞良氏から、田中透(41年卒)に、一般登山客から再三の要望があり、同町として再建を考えているが予算上難航している。KWVとして支援する意向はないかとの問い合わせがあった。田中は当時OB会理事長だった関谷誠(前出)にはかったが、OB会にはその余裕がなく、妹尾(昌次)らと相談して、広くOBに浄財の寄付を募ることになった。趣意書は各代理事を通じて配布され、その結果、270万を超える資金が集まり1996年6月、妹尾(清次)三田会会長らが湯沢町を訪れて再建資金200万円を贈呈することができた。

湯沢町はこの資金の到着を待って撤去および再建作業を開始、資材をヘリコプタで輸送するなどの手段により9月10日11日の両日にかけて撤去、21日に現在の避難小屋が新潟県によって竣工の運びになった。この小屋には ”この小屋は昭和三十七年五月五日仙の倉山にて遭難した当部OB児玉博の追悼のために同年建設され、更に平成八年湯沢町のご厚意により再建された。山を愛する人々にこの小屋のすべてをおまかせする”  というレリーフがKWVの名前で掲げられた。始めの小屋に掲げた文言にに再建の事実を書き加えたもので、オリジナルのレリーフは三国山荘に保管されている。

さて、浅貝の”小屋”すなわち三国山荘に我々が何回行ったのか、到底把握はできないが、勤め人になり、家族を持つようになっても何かといえば”小屋へ行こう”というのが当たり前になっていた。後述する山行記録に詳しく述べるが、家族も含めて主に夏休みに集まる”合宿”形式だけでも合計で8回実施されている。

その後も不幸にして焼失してしまった初代から現在のものに至るまで、山荘は我々のよりどころとしてあり続けたが、サラリーマン卒業者が増え、そろそろ訪問頻度もさすがに落ちかけた1998年、妹尾(昌次)が音頭取りになって、小屋裏の通称三角尾根の道を整備し、同時に案内板を兼ねたプレートをつけよう、というプログラムが始まった。ムラキとよばれるコブから上はほとんど道らしいものがなく、根気よく藪を切り開いてしっかりした道になった。この作業には若手OBの熱血的な協力があり、道が一応完成した時には、その主力でやってくれた関谷誠の名を冠して 関谷新道 と呼んだものだった。その後、さらにひろくOB各位に呼びかけ、個人名の入ったプレートを1枚4000円で寄贈してもらい、何回かの作業で三国峠ー平標縦走路と尾根の交点から西武ゲレンデの裏まで、三色のプレートを設置した。プレート番号1番は、故児玉博の遭難現場を遠望できる通称三角山ピーク直下につけられた。この作業には、後輩たちの多くが加わり、これをきっかけとして、さらに下記”新道”プランなどを通じて、彼らとの濃密な友情関係ができた。これも、OB会という強固な組織のおかげであることは言うまでもなかろう。

この一連の作業ののち、再び妹尾を中心に田中(新弥)、後藤、翠川、中島、山室ら小屋生活を愛する仲間が集まって始めたのが、通称 ”新道” プランである。これは当初の思惑通り、ナンカナイ会メンバーを中核として、田中透、山中泰彦(1969卒)、関谷誠らを中心とした60年代、70年代からはじまる若手との連携を深め、さらに一部現役諸君との交流を深めることにも役立った。

われわれの”浅貝の山”の中で最もよく登られたのが平標であることはまず間違いないが、もう一つの雄が平標と浅貝部落を挟んで屹立(と言っても小屋からは見えないが)稲包山である。戦前の愛好者には割と知られた存在であるようだが、奥深い藪山であり、特に夏季にはあまり人気がない。三国峠からこの秘峰を経て湯の沢をくだり浅貝に出るルートを作ろう、というのが基本計画であった。当初は浅貝部落の青年会組織も乗り気であったがはやばやと脱落、というか意気込みもしぼんでしまい、結局はKWV有志の単独企画になったものである。2000年5月、ルート調査を開始、11月にとりあえず稲包までのルートが完成。翌年からいよいよ難物の三国峠からの稜線開拓にかかり、10月に三国峠―稲包間が開き、県の承認を得て17本の指導標が建てられた。さらにH15年夏、三国スキー場(現在は閉鎖)を経て湯の沢林道との接続が終わった。OB,現役諸君を糾合して延べ229人を動員、総作業日数は延べ37日に及び、その後もメンテナンスのための通称”新道合宿”などが継続的に実施されてきた。この間に費やされた情熱と執念を中心メンバーのひとり田中透は”われわれの第二の青春だった”と振り返っている。ただ、いずれにせよ、初代山荘工事に加わって、”キジ場の穴の深さを知った” あの時から今日まで、半世紀を超える時間の経過の中で、三国山荘生活への郷愁、感慨、甘酸っぱい記憶はわれわれの個人史の中核にの一つになったようだ。

なお、本件に関しては朗報が伝えられた。2016年6月15日付読売新聞は、”県境登山道100キロ直結へ 18年度までの開通目指す”として、新潟県が長野県との県境の尾根に”ぐんま県境稜線トレイル”の整備を進める、と報じた。詳細は添付資料に詳しいが、この一部にわれわれの”新道”が含まれることは明白であり、その完成が待たれる。長期にわたって地域の山稜を紹介しつづけてきたKWV,OB会にとって、その努力が広く報われる日が近い、というべきであろう。.

この企画が進行中、湯ノ沢へ入るルートにあじさいの群生があるのに注目したグループは、”ここをあじさいの名所にする”意気込みで整地を行い、あじさいの移植に狂奔した。このサブプログラムは”アジサイ班”と呼ばれ、トリビアにこだわるメンバーの性格もあって、人気を博した。常連の一人だった翠川は次のように書いている。

2001年9月に「稲包山周回コース完成」をトンベが高らかにうたい上げ、以降はその整備作業が始まりました。しかし、実は一年経つとあれ程(殆ど刈る前と同じ位の高さまで)熊笹が成長するとは誰も想像していなかったと思います。そして開通以降、毎年の刈り込みが始まったわけです。(開通直後に体調不良で休んでいたチビが数年後に復帰し、新道を歩いて見て、余りに熊笹の成長が早いので「トンベ!お前本当に刈ったのか?」と質した由です。

結婚するって本当ですか

変なタイトルだが、フォークソングの話である。今朝、日課の散歩をしていた時にコスモスが咲いているのに気がついた。別に不思議はないのだが、見たときに急に頭に浮かんできたのが、僕らの年代の人なら記憶にあるだろうが、ダカーポ の確かデビュー曲だったと思うが大変ヒットした曲のタイトルで、その歌詞に ポストのそばには赤いコスモスゆれていた という一節があったのだ。人間の記憶力というのは本当に不思議で、夕べ何を食べたかすら覚えていないのに、40年近く前に聞いた曲の歌詞が出てくる。まことに妙な気持である。

中学生の時、仲間にませたのがいて、小遣いで当時来日したザヴィア・クガーの入場券を買った、と自慢した。このころから、それまで聞いたこともないメロディがラジオ番組に登場した(まだテレビなんてものはなかったのだ)のだが、高校のころ、かのプレスリーが現れ、その後はテレビの普及とともに日本人歌手が主としてアメリカのヒットソングの翻訳ものを歌うのが当たり前になり、カントリーだハワイアンだというのが大学時代。このころ、ブラザースフォアだとかキングストントリオだとか、日本製ではムード歌謡なんていうのが幅を利かせた時代があった。いわゆるフォークソング、というジャンル(本来のフォークソング、というものの定義とは少しばかり違っていたのだと思うのだが)はサラリーマンになってからのものだ。数あるヒットの中で、僕が気に入っていたのは 千賀かほる 真夜中のギター、ビリーバンバン 白いブランコ、そしてこの 結婚するって本当ですか だった。

音楽の専門家やホンモノのファンはどういうか知らないが、ある曲が好きになる、というのは僕の場合はその曲を聴いたときのなにかの特別な思い出とか環境がからむか、これは音楽を聴くということからは外れるのだと思うのだが、メロディよりもむしろ歌詞が気に入る、ということが多いようだ。もちろんこれは歌詞が特に重要なフォークソングとか歌謡曲、というジャンルでの話だが。

今あげた三つの曲の場合、真夜中のギター は米国駐在から帰って、工場現場を知るということで2年ほど、当時製造工場の主力であった、中学卒の人たちの中に放り込まれ、はっきり言えば白い眼を意識しながらなんとか職場に溶け込もうと必死だったころの思い出につながっているし、白いブランコ はなじみやすいメロディが気に入っていた。結婚するって のほうは恋人に去られた女性の気持ちをうたったものだが、その中で あなたに寄りそうその人は 白いエプロン似あうでしょうか という一節が気にいっている。この一節はやはり女性だから書けた歌詞だろう。なぜか、と言われても説明できない。ただ悲しい、悔しい、という気持ちを直接に書くのではなく、あきらめの気持ちを 白いエプロン といいう、たぶん自分がかけるはずだったものを誰かが掛けている、という場を思いうかべている。この感情が伝わってくる。

昨今のポピュラー曲にはほとんどなじみがないが、若い層にはメロディというよりもリズムとかテンポという要素のほうが受けるのだろう。考えてみれば、高校時代、あの ロック・アラウンド・ザ・クロック を初めて聞いた時の興奮と同じなのだろうが、曲が訴えたいものが言葉で表現される、ということももっと大事にされていいのではないかな、と思ってしまう。これは僕が言ってみれば乱読家であり、文字入力のほうが自分の中に醸成されるものが豊かに感じられる、という事情もあるのだが。

そういう意味では、文字、書き方、にも訴え方の違い、濃淡、がある。この ダカーポ の一節が旧仮名遣いで 白いエプロン似合ふでせうか と書かれていたらもっと僕の印象は深かったかもしれない。

 

 

 

エーガ愛好会 (19) ”オデッサ・ファイル” 

80年代、僕らがサラリーマン真っ盛り、方や世界情勢が冷戦構造で回っていたころ、いろんなうっ憤を晴らすはけ口の一つがその頃台頭してきた新進作家の一連の冒険小説だった。このころの小説のテーマは、今日のようにドラッグとかムスリム問題ではなく、国際紛争とかまだ色濃く残っていた第二次大戦の傷跡と言ったものが多かった。勝手に思い出すに、ロバート・ラドラム,トム・クランシー、フレデリック・フォーサイスなどがいて、すでにベテランとしての地位を築いていたジャック・ヒギンズなどと読み比べたりしたものだった。ヒギンズにはヴァルハラ最終指令 と サンダーポイントの雷鳴 という2作がこのあたりのうわさや史実をもとに書かれている。

これら一連の作品の中で、しばしば顔を出したのが旧ナチ・ドイツのいわば負の遺産だった、ユダヤ人に対する人道的犯罪が国際的なグループによって追及され、ドイツを逃れて潜伏していたナチの旧幹部らが発見された、という記事もたびたびあった。当時売れっ子だった落合信彦によれば、彼らはなんとバチカンを後ろ盾とする秘密の工作によって、瓦解寸前のドイツを脱出、南米にいる、ということで、彼の著作には実際にその潜伏の現状を取材した、とするものもある。ただこの人の記述には明らかな創作あるいは歪曲があるとして、毀誉褒貶、なかばというのが現実だ。ただ、彼の本の中に 2039年の真実 というのがあって、米国の国内法の規定によって、その年まで公開することができないケネディ暗殺事件の真相が公開される、というのがある。小生がそれを読むことはまずありえないのが残念至極ではあるが。

この一連の流れの中で、オデッサ という組織があった、という話が出てくる。この組織の存在そのものについても疑義があるようだが、わがウイキペディアは明確に 存在した、と記述している。 オデッサ とは ドイツ語の名前で、 Organization Der Ehemaligen  SS-Angehorigen   (旧SS所属者のための組織)の頭文字である。単に Odessa と言えば安田君が後述するように、ウクライナの主要な都市のひとつであり、調べてみるとアメリカには同じ名前の都市が7つ、存在する。おそらくウクライナ近辺からアメリカに渡った移民の人たちが創った街ではないかと想像するが、フォーサイスは(原文は覚えていないが)ヒット作の一つである オデッサ・ファイル の冒頭に、この題名はこれらの都市の名前とは関係ない、と明記していた。

さてこの SS というのが肝で、長くなるのでドイツ語名は省略するが、親衛隊、というヒトラー直属の組織で、最盛期には125万人の規模であったという。中には西欧第一の武力組織だったとされる武装SSや、ヒトラーに最も近い存在だったという突撃隊SA そのほかがあり、有名な情報組織と警察権をもって人々を震え上がらせたゲシュタポとで、ヒトラーの独裁政権の実行部隊であった。これらの組織こそ、ヒトラーの妄想であるユダヤ人種抹殺計画や強制収容所の運営に当たっていたとして、戦後、人間の尊厳に対する罪 に問われ、多くが逮捕処罰を受けた。ODESSA は此の対象となるSS幹部を国外に逃すための組織であった、ということである。

前述したヒギンズの サンダーポイントの雷鳴はその中でも大物中の大物、マルチン・ボルマンのベルリン脱出から始まる話で、当時英国の指導部にはナチと通ずるものがいて、旧悪の暴露に直面する、という話である。英国出の親独派は、ヒギンズの出世作 鷲は舞い降りた や ウインザー公略奪 にも重要な役目を果たす。このあたり、欧州の仕組みというか歴史は誠に面白いものがある(少し前の本稿で ダブルクロス という本について書いたが、これに述べられている史実もまさに奇々怪々、という部分が多い)。

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(44 安田耕太郎) BS劇場で オデッサ・ファイル を観ました。社会人になって間もない1970年代初め、英作家フレデリック・フォーサイスのベストセラー処女作「ジャッカルの日」と「オデッサ・ファイル」を続けて読みました。両方とも面白かったという記憶が残っています。ドゴール大統領暗殺を画策する暗殺者と阻止する権力側の死闘の物語「ジャッカルの日」は映画でも観ましたが、「オデッサ・ファイル」は初めて。

アメリカン・ニューシネマの代表作「真夜中のカウボーイ」でダスティン・ホフマンと共に好演したジョン・ヴォイトが主役ということで注目して観ました。30歳前後と若いヴォイトです。

ヴォイトの第一印象は娘のアンジェリーナ・ジョーリーは父親の彼にそっくりだということ。西独のジャーナリスト役で、元ナチのための秘密支援組織「オデッサ」との間の暗闘を描いた映画。映画タイトルは、元ナチ親衛隊達の顔写真、名前、所在などを記録したファイル「オデッサ・ファイル」の名称にちなむ。そのファイルをひょんなことから入手したヴォイトは元ナチ親衛隊のひとりになりすまし、「オデッサ」組織内部へ侵入する。年配者になりすました彼の変装や所作、表情はなかなかのもの。50年前の映画なので映像的な迫力は今一でしたが、緊迫感を保ちながら魅せてくれた2時間でした。

若い一人の西独記者がオデッサの過去とその罪悪を暴く熱意に「何故そんなに危険を冒してまで」と不思議でしたが、映画のエンディングに彼の執着した理由が明らかになり納得させられました。ファイルの中にドイツ国防軍大尉だった父親が、ユダヤ人強制収容所の所長だった男(マクシミリアン・シェルが好演)に逆らったとの理由で殺害されますが、その詳細が記録としてファイルに載っていたのです。1961年映画「ニュールンベルグ裁判」でアカデミー主演男優賞を獲得した悪役シェルの演技も見応えがありましたし、彼の姉マリア・シェルがヴォイトの母親役を演じているのも、スリルとサスペンスのストーリー映画を何かしら和ましてくれました。

1960年代から1970年年代初めにかけては、第二次世界大戦、ナチ、東西冷戦、西欧旧宗主国に対する旧植民地国の暗闘などに関連する映画が多く造られたが、「オデッサ・ファイル」もその代表作のひとつ。なお、オデッサは現ウクライナの主要都市で黒海に面した港湾都市。元ナチ党員は史実として南米などへ逃避したのは知られており、実際に映画「オデッサ・ファイル」で描かれたいような組織ぐるみで戦犯者を匿い守ろうとする存在があったことに改めてやはり驚かされる。有名な例として、元ナチ親衛隊将校、ゲシュタポのユダヤ人大量虐殺に関わったアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンで逃亡生活の末イスラエル諜報機関モサドによって逮捕され、イスラエルに連行され、1962年、裁判の後、絞首刑に処されました。実際のオデッサ・ファイルの発見はそのアイヒマン事件の2~3年後になりますが、作家のフォーサイスは多分、その辺の動向を興味深く観察し、小説の題材として調べつつ温めていたのであろうと思われます。

(43 保谷野伸)オデッサ・ファイル、ビデオで観ました。ナチ親衛隊の残党を追う、サスペンス&スパイ映画だったのですね。確かに、アイヒマンを思い出します。
私は、この映画も、フォーサイスの小説も全く知識が無く、白紙の状態で観ましたが、ストーリーも面白く、「中級娯楽映画」としてまあまあ楽しめました。
ただ、結末もあっけなく、ヒチコック映画と比べると、少々物足りない気もしましたが・・・・映画観てから貴君の感想読んで、ジョン・ヴォイトやマクシミリアン・シェルのこと等知りました。ありがとう。

 

 

黒部の旅   (39 堀川義夫)

何年振りかで黒部源流を遡行しました。去る9月4日に計らずも今夏2度目の折立から太郎平を登ることになりました。前回は7月30日にソロで折立から太郎平小屋に行き、翌日薬師を超えて立山・室堂までの縦走をしましたが、今回は後輩のクマ&アカズとジェラ(奥本さん)のKWV48年組に誘われ、急に行くことになりました。久しく沢登りなどしていなかったので、沢靴や靴下を新調して臨みました。

初日は、有料林道の開門と同時に折立に行き、太郎平から薬師沢の小屋へ。まあまあのペースで行くことが出来ました。

2日目は薬師沢から黒部川を遡行し、赤木沢出会いから赤木沢に入峡して気持ちの良い、楽しい時間を後輩と持つことが出来ました。とにかくバランス感覚が悪くなっているのと、瞬発的脚力が弱くなっているため、飛び石伝いに行くときなどイメージ通りに上手く行かずに何回も失敗して苦労しましたが、本当に楽しい久々の沢登りでした。細かい説明は抜きにして綺麗な写真をお楽しみください。因みにこれらの私の映った写真以外は、全て携帯で撮ったものです。綺麗に撮れるものと感心しています。

 

太郎平から望む水晶

(編集子)ホリの体力はどうなっているのか、不思議に思わない方が不思議。オヤエいわく、”マグロと一緒で止まってることができないんじゃないの?” と。

 

コロナ第三波に備えよう  (34 船曳孝彦)

第2波が勢いを弱めてきています。完璧には程遠い対策しか打っていないので、感染者0が続くようなことはないかもしれませんが、それでも収束したかに見える日が来るでしょう。そして第3波がやってきます。インフルエンザ流行と重なることが心配ですが、その第3波のためにも、直ちに対策を始めねばなりません。首相交代だからと言って逃げている場合ではありません。

⓵第2波を抑え込むためにも、キッチリ感染者を明らかとして、今からでもヴィールスの封じ込めをしなければなりません。そのためには今まで繰り返してきましたが、PCR検査を概念的には全国民(疑い、接触者、希望者)に行うべきです。今、PCR検査もキット法(しかも一度に多人数同時にできる方法も)や完全自動法、PCRでない方法、抗原検査など色々出てきています。単価も安くなっています。接触者以上は完全公費で、健康希望者には@1,000円程度の自費負担で、1日何十万件もできるよう検査可能拠点を拡大させます。

⓶結果判明まで数時間(できれば2時間以内)に統一する。結果はインターネットにて直ちに(同時に)保健所に連絡する。厚労省がデータを把握する。

⓷保健所では一次のPCR検査自体は行わず、精密検査のみとする。陽性者の病院配布の采配を一任する。保健所業務の現在の業務のうち、陽性者の経過追及、接触者の探求、ならびに検査、病院転院の仲介などは持続する。

⓸軽症陽性者は入院治療、健康陽性者は借り上げホテル等に収容(自宅静養は他人との接触を回避しきれないので原則として認めないこととする)。10日経って検査せず自宅へまたは社会復帰ではなく、必ずPCR検査で陰性化を確認する。それでなければ勤め先との就業の可否論争や、差別、風評被害などが免れがたい。

⓹多人数発生(クラスター)が生じた時は、当該店舗は直ちに休業命令(知事)出来るようにし、国が補償する。

⓺海外からの帰国者、訪日外国人は、全てPCR検査を行い、3時間は空港内に留める。陽性者は入院、指定宿泊施設などへ。

このようにすれば、国費の負担もそれほどかからず(むしろ結果的には安上がりとなる)今のように疑心暗鬼で社会活動することなく、安心して活動でき、経済面ではもっと上向くと期待出来ます。 現在は、3密だ、マスクだ、遮蔽アクリル板だ、大声禁止だ、会食禁止だと、一面大袈裟になっていますが、必要時マスク、そして手洗い、うがいなど、合理的に対処し、楽しい社会生活に近づこうではないですか。

エーガ愛好会 (18)  アパッチの怒り (34 小泉幾多郎)

立派な体格と甘いマスク、1957,1959,1961年、オールアメリカンボーイ即ちすべてのアメリカ人を代表するような男性No.1に推されていたロック・ハドソンが、その人気を得る直前に主演し、インディアンの族長のターザ、ヤングブルに扮した西部劇。

ハドソンは ウインチェスター銃‘73 でも銃に絡むインディアンの族長に扮していた。この頃はまさか後年、健康的で男らしい二枚目が、ホモセクシャルに絡むエイズで亡くなるとは、とても信じられなかった。監督がダグラス・サークとは驚いた。多分西部劇はこれ1本だけと思うが、今回が初見。同監督は、メロドラマの大家として知られ、ロック・ハドソンもこの作品を含め、「風と共に散る」や「翼に賭ける命」等同監督8作品に出演している。西部劇には、合計12本出演しているが、1950~1954年で9本、後は、1961.1969.1973年の3本のみ。

インディアン側から描いた最初の西部劇と言われる「折れた矢1950」の主役、平和主義を志向する族長コチーズが、死の床で、長男ターザと次男ナイーチェ
に、白人とは争わないよう遺言するところから始まる。そのコチーズの顔が、「折れた矢」で、コチーズに扮したジェフ・チャンドラーにそっくりだったが、最後の出演者の一覧を探したが、コチーズの名前は掲載されてなかったので、俳優名は判らずじまい。それにしても、この時代、インディアンを主役にした映画は珍しい。

対白人穏健派と抗争派に分かれ、兄弟が抗争を重ねるが、これに長老の娘ウーナも絡む。居留地における結婚、葬儀等々の風俗・儀式描写も珍しい。インディアンの主役は、白人俳優が色を塗っての出演で、勿論英語を喋るにしても、当時としては、画期的な映画ではなかろうか。居留地の管理を任される警備兵になったターザに対し、抗争派の弟一派に、ジェロニモが加わり、両者の争いは激化を辿る。それに加え、ターザに任せると約束した騎兵隊の将軍が裏切って、インディアンの争いに関与したことから、インディアン対騎兵隊の戦いが、再開することになった。この戦いなかなかの見ものとなって迫力ある最後を飾る。最後は騎兵隊も約束を破った非を認め、抗争派は一掃され、居留地に平和が戻る。

この映画、ユタ州にあるアーチーズ国立公園で撮影されたとのこと。アーチ、尖塔、バランス岩等の様々の景観が素晴らしく、映画の最後に「内務省国立公園局の協力での撮影が可能となった」との字幕が流れた。

(編集子)ウインチェスター銃73 では、置き忘れられた銃をみつけるインディアンのの端役で トニー・カーチス もでていませんでしたっけ? インディアン集落を訪れてそこで恐ろし気な経験をする描写では ”黄色いリボン” のシーンがよかった記憶があります。ロック・ハドソンといえば、ジェームズ・ディーン の出世作 ジャイアンツ を忘れるわけにはいきませんね。