乱読報告ファイル (2) ジャック・ヒギンズ  “謀殺海域”

ヒギンズ初期の作品だが、当初はマーティン・ファロン名義(後述)で書かれたもので、珍しく英国情報部と中国共産党との対決、という形をとっている。主人公のポール・シャヴァスはこのほか数作に登場するシリーズキャラクタである。本作は主な場面が英仏海峡の洋上で起きるが、海洋冒険的な要素は少ない。むしろエンディングの意外さなどが面白いが、翻訳者も言っているように、ストーリーとは別に英国の冬という暗く冷たい雰囲気や、主人公の胸を行き来する思いの描写が心に染みる、ファンの言うヒギンズ節、を醸し出す。このあたりはストーリの新鮮さが話題になったヒット作 鷲は舞い降りた にはない、別の魅力なのだろう。

こういう見方をすれば、この翻訳本のおどろおどろしいタイトルはいかにもミスマッチングであり、せっかくの名訳に水を差す結果になっていると思える。原題は A fine night for Dying となっていて、はかりごとの闘争を何とか生き抜いた主人公が持った一種の虚無感を表すいいタイトルなのだが。下記に引用しておくが ”ヒギンズ節“ のエンディングでこの作品は終わっている。

…….そんな言葉が、まるでロシター本人に耳もとでささやかれたの如く聞こえてきたように思えた。突然、嫌悪感に襲われて、シャヴァスはナイフを放り投げた。ナイフは一度キラリと光って、波の下に沈んでいった。はるか頭上を雁の群れが鳴き交わしながら海へ向かって飛んでいく。シャヴァスは力なく立ち上がり、ダーシイのいる操舵室へと向かっていった (小関哲哉訳)。

The words seemed to whisper in his ear as if Rossiter himself had spoken. In as sudden gesture of repugnance, Chavass flung the knife from him. It glinted once, then sank beneath a wave. Somewhere overhead geese called as they moved out to sea and he rose to his feet wearily and went to join Darcy in the wheelhouse.

ジャック・ヒギンズは本名ヘンリー・パターソン、英国生まれだが、現在はアメリカに移住している小説家である。早くから冒険小説を書き始めたが、実際にヒットして知られるようになったのは本稿で何度も触れたが1975年に発表した 鷲は舞い降りた である。この時ペンネームで使ったのが現在の名前で、それまでにはジェームズ・グレアム、ヒュー・マーロウ、マーティン・ファロン、ハリー・パタースン、と合計5つのペンネームで、グーグルによれば現時点までに短長編あわせて62編の作品を発表していて、そのうち、56編が翻訳されて日本にも紹介されている。退職後、外資系会社勤務のゆえに親しくなった英語を忘れまいとポケットブック版の 鷲は舞い降りた に挑戦、すっかりヒギンズファンになってしまい、今数えてみると英語版翻訳版あわせて51作を乱読していることになった。ご参考までにグーグルに載っている作品リストを添付しておこう。

ヒギンズの作品の中心は第二次大戦中及び戦後の混乱時での秘話、アイルランド紛争にかかわる逸話、数はあまり多くないが海洋冒険小説といえるもの、の三つだが、最近の作品群は欧州対アラブ紛争にまつわる国際陰謀話がほとんどである。ただ、人気作家で富豪となった例にもれず、ヒギンズも昨今のアラブ物の多くは共著が多く(思うに名前貸しであろう)、装丁ばかりは豪華だが内容に薄いものが多くなってしまった。特にIT技術を織り込んだ筋立てでシリーズキャラクタを設定した結果、推理とかその過程での興奮とかいう重要な人間的要素が抜け落ちてしまったものが大半なので、正直、落胆している。人間誰でもそうだろうがやはり若いころの作品のほうがストーリーと言い文体と言い、優れたものが多いようだ。作品のテーマや筋立て、という本来の見方からすると、やはり 鷲は舞い降りた が優れているとは思うのだが、全体に流れる雰囲気、文体、もう一つ、小生の好みである、いわばハードボイルド風味をくわえた突き放したような文体、といった点でもヒギンズはもっと読まれてもいい作家だと思っている。

冒険小説の本筋からいえば  の次に小生の好みを言えば 狐たちの夜 ウインザー公略奪 反撃の海峡 サンダーポイントの雷鳴 などの大戦秘話ものが、ほかのジャンルでは、小生のイチオシは 廃墟の東。 ついで 非情の日 そして サンタマリア特命隊(これまたなんとつまらない訳名か―原題は The Wrath of God で雰囲気は全くちがうではないか)が好きだ。脱出航路 はアイデア、スケール、また文体とも優れていて、ヒューマンな結末が素晴らしい。特に出だしの港町の描写はここだけでも読む価値もあると思うほどである。

これらの作品は  を除くと現時点で翻訳を新刊で入手できる機会はあまりないと思うが、アマゾンで検索するとまだまだ在庫はあるようだし、ブックオフでハヤカワ文庫を探せば結構並んでいるので、コロナ禍で持てあます時間の消化にぜひおすすめしたい作品群としてご紹介する次第。リストご参照の上、次回の散歩がてらにお探しいただきたいものだ。ブックオフなら100円台で買えるし、アマゾンでもいろんな価格帯で新品、中古がならんでいる。

同好の士を募る意味で言えば、小生のかかりつけ医が 認知症予防にきわめて有効と勧める外国語の読書、ということで、原本に挑戦することもぜひ、おすすめしたい。ヒギンズは文体は簡潔だし、ほとんどどれでもアマゾンの洋書欄から入手できる。ただし電子辞書(小生はEXWORD を愛用)がないと、辞書のページをめくる手間が膨大で大事業になってしまうことは警告しておく。自分が最初に読んだ 鷲 のページにはご丁寧に書き込みをしていて、ざっと1頁に2回は辞書を引いていた痕跡が残っていることから、やはり当初は大変だったのだなと思う。現在では今度本書を試してみてその頻度は大幅に減っていることを実感するがこのあたりが万事まーまーで済ませられる乱読のご利益だろうか。子供が言葉を覚えていく過程は要はくりかえしなので、とにかく数をこなすことで語彙は増えていくはずだ。それと会話を志向される向きには、いわゆるハウツー本には出てこない、もっと生きた言い回しや文節のつなぎ方なんかを勉強するにはこういう”現物”でのトレーニングが効果があるように思っている。

(グーグルによる作品リスト)

ジャック・ヒギンズ名義

  • 「廃虚の東」 “East of Desolation”
  • 「真夜中の復讐者」 “In the Hour Before Midnight”
  • 「地獄島の要塞」 “Night Judgement at Sinos”
  • 「神の最後の土地 」 “The Last Place God Made”
  • 非情の日」 “The Savege Day”
  • 死にゆく者への祈り」 “A Prayer for the Dying”
  • 鷲は舞い降りた」 “The Eagle Has Landed”
  • 「エグゾセを狙え」 “Exocet”
  • 「狐たちの夜」 “Night of the Fox”
  • 「地獄の季節」 “A Season in Hell”
  • 「反撃の海峡」 “Cold Harbour”
  • 「鷲は飛び立った」 “The Eagle Has Flown”
  • 「シバ 謀略の神殿」 “Sheba” (”Seven Pillars to Hell” を改稿)
  • 「双生の荒鷲」 “Flight of Eagles”
  • “The Key of Hell”
  • “Bad Company”
  • “Dark Justice”
  • “Without Mercy”「嵐の眼」 “Eye of the Storm”
  • 「サンダー・ポイントの雷鳴」 “Thunder Point”
  • 「闇の天使」 “Angel of Death”
  • 「密約の地」 “On Dangerous Ground”
  • 「悪魔と手を組め」 “Drink with the Devil”
  • 「大統領の娘」 “The President’s Daughter”
  • 「ホワイトハウス・コネクション」 “The White House Connection”
  • 「審判の日」 “Day of Reckoning”
  • 「復讐の血族」 “Edge of Danger”
  • 「報復の鉄路」”Midnight Runner”

ハリー・パターソン名義

  • “Sad Wind from the Sea”
  • “Cry of the Hunter”
  • “The Thousand Faces of Night”
  • 「復讐者の帰還」 “Comes the Dark Stranger” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「地獄の群衆」 “Hell is Too Crowded” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「裏切りのキロス」 “The Dark Side of the Island” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • “A Phoenis in the Blood”
  • “Thunder at Noon”
  • 「獅子の怒り」 “Wrath of the Lion” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • “The Graveyard Shift”
  • 「鋼の虎」 “The Iron Tiger”
  • “Brought in the Dead”
  • “Hell is Always Today”
  • 「勇者の代償」 “Toll for the Brave” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「ヴァルハラ最終指令」 “The Valhalla Exchange”
  • 脱出航路」 “Storm Warning” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「裁きの日」 “Day of Judgment” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • ウィンザー公掠奪」 “To Catch a King”
  • 「暗殺のソロ」 “Solo” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「ルチアノの幸運」 “Luciano’s Luck” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「テロリストに薔薇を」 “Touch the Devil” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「デリンジャー」 “Dillinger” (”Thunder at Noon” を改稿)
  • 「黒の狙撃者」 “Confessional” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「ダンスホール・ロミオの回想」 “Memories of a Dance Hall Romeo” (翻訳版ではジャック・ヒギンズ名義)

マーティン・ファロン名義

  • “The Testament of Caspar Schultz”
  • 「虎の潜む嶺」 “Year of the Tiger” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「地獄の鍵」 “The Keys of Hell” (後にヒギンズ名義で改稿)
  • 「謀殺海域」 “A Fine Night for Dying” (翻訳版ヒギンズ名義)

ヒュー・マーロウ名義

  • “Seven Pillars to Hell” (後にヒギンズ名義で”Sheba” に改題)
  • 「闇の航路」 “Passage by Night” (翻訳版ヒギンズ名義)
  • 「雨の襲撃者」”A Candle for Dead” (”The Violent Enemy” を改題。翻訳版ではヒギンズ名義)

ジェームズ・グレアム名義

  • 「勇者たちの島」 “A Game for Heroes”
  • サンタマリア特命隊」 “The Wrath of God” (翻訳版でヒギンズ名義)
  • 「暴虐の大湿原」 “The Khufra Run”
  • 「ラス・カナイの要塞」 “Bloody Passage” (米国版のタイトルは”The Run to Morning”)

このリストに邦題が示されているものは翻訳があるものだがグーグルの記述は多少古く、このあと、邦訳が出たものも数点ある。太字が小生のおすすめ。