“パーソナルコンピュータ” の歩みを思い出そう  (普通部OB 舩津於菟彦)

米インテルの共同創業者で「ムーアの法則」の提唱者として知られるゴードン・ムーア氏が24日、米ハワイ州の自宅で死去した。同氏の設立した財団とインテルが発表した。94歳だった。

ムーア氏は長年の同僚だったロバート・ノイス氏とともに1968年にインテルを設立。79年から87年まで最高経営責任者(CEO)を務め、同社を世界的な半導体メーカーに育てた。「半導体の集積度は2年ごとに倍増する」という同氏の予測はムーアの法則と呼ばれ、長らく半導体やIT(情報技術)産業の技術革新における指針となった。インテルCEOのパット・ゲルシンガー氏は「ムーア氏は洞察力と先見性によってテクノロジー産業を定義した。トランジスタの力を明らかにすることに貢献し、数十年にわたって技術者や起業家に着想を与えた」と声明を出した。

現在のシリコンヴァレーには数多くのスタートアップ企業が存在しているが、もしインテルの共同創業者であるロバート・ノイスとゴードン・ムーアがいなければ、こうした状況にはなっていなかったかもしれない。そう思える理由のひとつは、マイクロプロセッサの大量生産を最初に始めたのがインテルだったからだ。マイクロプロセッサは現在、スマートフォンやパソコン、サーヴァーなど、あらゆる種類のコンピューターを動かす基幹部品になっている。また、もっと詩的で深遠な理由もある。それは、ムーア氏とノイス氏が安定した企業の職を捨て、自分たちの手で会社を立ち上げ、夢を追求した起業家たちの先駆者だった から、というものだ。

そんな中に日本人も負けては居なかった。卓上電気計算機のビジコンの嶋正利は単身インテルに乗り込み卓上電気計算機用の4004の開発した功績は大きい。その後ビジコンを退職しリコーに転職。インテル社は次期製品として8008を開発。その性能向上にあたり特許戦略および他社による競合製品開発阻止のために、当時インテルのCEOだったロバート・ノイスが嶋をスカウトし1972年インテルに転職。8080では当初より主任設計者を務めて4004の時と同様にほとんど一人でロジックを組み上げ、8080のパターンの隅には嶋家の家紋が刻まれている。その後ファジンらCPU開発チームの主力メンバーと共にスピンアウトしザイログ設立に加わり、Z80やZ8000を設計した。Z80は8ビットマイクロプロセッサのベストセラーのひとつである。

嶋正利は1943年8月22日に生まれる.1967年東北大学理学部化学第二学科卒業.ビジコン社に就職し,電算部門で,各種のプログラミング言語に関する教育を受けプログラマとなる.1967年10月に電卓部門に移り,ハードワイアード論理方式を使った電卓の試作を担当する.当時日本は電卓の供給基地であり,OEMビジネスに適した論理方式を導入することを模索していた.嶋は,1968年11月に,10進コンピュータ・アーキテクチャとROMを使ったストアード・プログラム論理方式のプリンタ付き電卓を開発した.1969年6月に渡米し,10進コンピュータ・アーキテクチャを基本にした事務機向け汎用LSIシステムを開発する過程で,インテル社と協同で世界初のマイクロプロセッサ4004の開発を1971年3月に成功させた.16ピン・パッケージという制限のために4ビットの時分割システムバスを導入し,システムを,プロセッサである4ビットのCPU(4004),命令を格納するROM(4001),データを格納するRAM(4002),出力拡張ポート(4003)の4種類のLSIのみで構成した.当時の科学計算機用電卓には入出力機器としてキーボード,表示(CRT),プリンタ,応用プログラムを読み込むカードリーダなどがあった.開発における最も困難で解決しなければならなかった問題は,電卓というアプリケーション・プログラムを実行しつつ,低性能プロセッサと低速メモリという条件下で,プログラムを使って多種の入出力機器の制御をリアルタイムにどのように行うかであった.問題の解決のために命令セットの最適化と簡単なモニタの導入などを行った.CPUには2,300個のトランジスタを使い,750KHzの動作周波数で約0.065MIPSの性能を達成した.チップ面積は12mm角であった.また,嶋は,4004を使ったプリンタ付き電卓を1971年に開発し,世界初のマイクロプロセッサ使用者となった.電卓の命令用メモリ量は1Kバイトであった.マイクロプロセッサは,知への道具である「知的能力」を人類にもたらし,マイコンへの道を拓いた.1971年9月にリコーに移り,ミニコンへのI/Oタイプライタの接続,大型計算機のチャネルへのグラフィック・ミニコンの接続,高速プリンタの電子制御,ミニコンを使ったドラム記憶装置のテスタ設計に従事した.これらの一連の設計を通してマイクロプロセッサ開発の基礎ができあがった.
今の目の前にあるアップルiMac27インチは当時の空調してテープがクルクル廻るオフコン以上の性能になっているし、LSIはナノの単位になり日本はに遅れてしまっている。

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我がpersonal computerの歴史は兄が米国から帰国時でフロッピーディスクて動くアップルⅡ型が最初の出会いで、自分がpersonal computerを購入したのは日本では未だpersonal computerがが生まれて間もないときに、大阪に飛ばされて単身赴任してやること無いのでこれからは何だろうと、当時NECがボトーの上に乗せたようなむき出しのpersonal computerから、NECとか日立がやっとpersonal computerらしき形の物を発売した頃です。日立レベル3は当時としては最先端のCPUモトローラーのHD68091MHzを搭載してメモリーは24KBとい物でした、本体298,000円はもとよりプリンターとかディスプレー(カラー画面の物は高くて買えない)グリーの物とかフロッピーレコーダーなど何か買うと10万円以上の代物でした。また、プリンターは勿論フルファベットとカタカナしか打てない物はドットプリンターで音が猛烈に大きい。寮で夜間打ち出すときなど枕を被せて–
そしてソフトなど殆ど無くて、BASICのみでシコシコ入れたりして遊んでいましたが、何しろ時間がが掛かるスワップ一つやってもトイレに行って帰ってくるぐらい時間を要した。それでも一応未だ少なかったパソコン講座に通ったり居しましたが、これが元で鉄鋼関係から情報産業へと転勤になりました。良かったのか悪かったのか???? あぁ遠い昔の半世紀も前の話しですね。未だその時の本が取ってあります。結局物にならず現在至っています。
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(編集子)サンフランシスコから101号線で1時間ほど南に位置するパロアルトはスタンフォード大学の所在地だが、ここにはラジオ工学の泰斗とよばれたターマン博士がいて、その門下生だったデヴィッド・パッカードとウイリアム・ヒューレットが博士にすすめられてHP社をおこし、ヒューレットが特許を取った低周波発振器の製造を始めた。その性能が当時映画 ファンタジア を作ろうとしていたハリウッドに認められて世に出、その後 (現代のアラビアンナイトだ)とまでいわれた飛躍をとげるのだが、このHPの成功が引き金となって、パロアルトからサンノゼあたり、かつては茫々たる果樹園だった地域が、現在のシリコンバレー、と呼ばれるエレクトロニクスとその延長線上にある情報産業の一大集積地になった。
HPの歴史にはいろいろとトピックがあるのだが、ある日、一人の青年がヒューレットのもとにやってきて、自分のアイデアを説明し、HPで使ってほしいと要請した。その時、ヒューレットはそれよりも自分で会社を興す方がいいと青年を激励した。その青年がヒューレットのァドバイスをもとに作った会社がアップルコンピュータだったのだ。この時、もしヒューレットが同意していたら、その結果はどうだっただろうか。歴史にIFはない、というの、一若造ではあったがHPという組織体の末端で会社の文化を多少は知っていた経験から興味はつきない。
別の話だが、船津の書いているPCの勃興期からその発展、インテルの拡大といった業界の動きを着実にフォローしたHPは関係分野での測定器を続々と送り出し、おおいに業績をのばした。その後、パッカードは、カリフォルニアで起きたいわゆるゴールドラッシュをひいてこう語ったことがある。ラッシュで設けたのはもちろん、金鉱を掘り当てたやつさ。だけど彼らの仕事が増えれば作業着がいり、給料を運ぶ馬車がいり、その給料を預かる銀行がいる。そうやって大きくなったのがリーバイスだとかウエルズファーゴなんて連中さ。HPは金鉱を探すのはほかの連中にまかせてジーンズや馬車を造ろうとしてるんだよ。
この大原則で小生が働いていた時代のHPは米国の Most Admired Company リストの常連だった。HPの変貌はやはり金鉱探しに手を伸ばし始めた時期に始まった。その結果をどう判断するのか、これまた興味は尽きないが。