俺たちのころ、スキーはこうだった

スキーは昨シーズンは120日滑りました(2時間滑って帰る)。今シーズンは何かと忙しかった事もあり未だ20日程度;天気と体調、やる気の3拍子がそろった時のみ出かけています。プリンスのスキー場まで7,8分ですがブーツを履いてトイレを済ませてリフトに乗るまでに30分くらいかかります。人工雪ですが整備が良いので結構固い良いバーンで快適です。競技志向なので前傾、外向傾、外足100%加重の3つしかかんがえないで7割パワーですべっています。今季最初のレースは来月22日志賀高原ジャイアントのマスターズ長野県大会です。高齢者のクラス分けがある大会を選んで参加しますがコロナ騒ぎで中止となるのが多く参加は減少、シーズン15回くらいになっています。板は小賀坂の競技タイプで長さとRが違う3本を車に積んで変えながらつかっています。トイレは1時間毎に常に早めに行くように心がけいますが行きたくなった時に我慢が効かなくなってますので時々立小便です。年は取りたくないものですね。

このメールは35年卒、”級長” こと森永さんからの来信である。まだ12月半ばというのにすでに20日、滑っておられることになる(写真は先回ご投稿いただいた時のもので、詳しくは20年5月13日付本稿参照)。最近スキーの話題が多いが、シニア連中のなか、そのご活躍はまさに群を抜いている。はやばやと降りてしまった編集子などはただ感服するばかりだ(森永さんは小生とは同い年)。

考えてみると ”俺達” がKWV生活を謳歌した昭和30年代というのはスキーというスポーツが日本で一気に花開いた時期だったのだろう。KWVの記録を見ても32年くらいまでのスキーは登山の一部、というような位置付けで、当時はまだひたすら歩いて登るしかなかった八方尾根へのワンデルングがいわばスキーの極めつけだったのが読み取れる。KWVでは32年卒の三枝先輩が国体出場の経験をお持ちだった(編集子とは入れ違いで卒業されたので,雄姿を拝見したことはない)が、このすぐあとごろに例のトニーザイラー 黒い稲妻 によって一気にスキーが一般化、つまりそれまでは ゲレンデスキー、という半分揶揄をこめて扱われてきた、登山ではなくすべりそれ自体を楽しむものに変わっていった。そのころ、われわれの一学年上つまり35年卒の代は、顔と名前が一致するまで1年かかった超大人数の我々とは対照的に人数も少なく男子のみ(野郎会、の由来)でそのなかにはこのスキーブームにあわせたように名手が数多かった。森永さんとならんでスマートな都会的な滑りが自慢だった川鍋さん、山スキーなら酒井さんに森田さん、”外車” といわれたアッテンホーファのスキーを履き、あだ名までアッテン、になった田前さん、それと誰が何と言おうと及ばなかったスキーの帝王、尾崎さんがおられた(過去何年か、後輩諸君の華麗なスキーは楽しませてもらったが、僕の見るところ、尾崎さんに比べられる技量の持ち主には失礼だがまだお目にかかっていない)。

僕らが2年の時、浅貝に小屋が建設され、スキーにも利用されるようになったが、何しろそれまでは林業専一の寒村だったのだから、スキーゲレンデなどというものはなかった。現在、小屋裏の別荘地になっているスロープを毎朝踏みならしてゲレンデにしてから滑る、という今では考えられない環境だったが、この不便さを楽しむグループもたくさんいた。現在, ”月いち高尾” の常連でユカイな話題にことかかない鮫島弘吉郎とおなじ工学部にいた高木圭二が設計、製作したロープトウが小屋裏に設置されたのもころの時期の話だ(鮫島はいろいろ言うが、確か3人くらいつかまると動かなかったはずだ)。一方,西武グループがこの地のスキー場適性を認め、大規模なスキー場つまり現在の苗場スキーエリアの開発が同じころから始まった。そのいわば苗場の創業に先立って、今はホテル前のメインゲレンデになっているタケノコ山からの滑降に挑んだのが34年卒、ドクタードテこと船曳先輩である。船曳さんからとどいたメールを紹介しておく。米寿祝いも視界に入る人とは信じがたい。

 残念ながら筍山からの史上初の滑降の写真はありません。その時ミノが8ミリを撮ってくれたのですが、もう失われてしまいました。 今年1月2日の札幌国際出の写真を貼付します。85歳10か月です。遠藤さんがでモンストレイターとして通用する写真と絶賛してくれました(お世辞も含まれているのは承知していますが)。それに気をよくして3月に万座温泉に出かけ、心・肺機能が適応できず、間質性肺炎急性増悪となってしまいました。今シーズンは無理のようです。となると、来年はもう無理でしょうか。

最後に自慢を一つ書かせてもらう。田中新弥がCLを勤めた浅貝BHで、小生は意地を張ってスキーを担ぎ上げ、吹雪模様だったが平標山頂から三角尾根を経由して上記の小屋裏ゲレンデまで下りた。今とは違って重い2メートル05の小賀坂を履き、春山用具一式のキスリング(”片桐の特大” というやつ)を背負って、だ。とても快適などというべくもなかったが。とにかく、降りたのだけは確かだ。細かいことはわすれて、”平標-小屋間スキー滑走” というのは、その後は知らないが、KWV最初の記録ではなかったか、と思うのだがどうだろうか。

滑走途中、平標小屋、右は川内三千雄

もう一つ。33年卒には 松田道明さん、松田嶺さんという名手がおられた。フレンチメソード対オーストリアメソード、と議論が盛んで、道明さんがフレンチならば、嶺(たかね)さんがオーストリア派、という色分けがあって、ともかくも活気があった。その道明さんが卒業に際して、道明カップ争奪戦、というレースを残していかれた。卒業直前の春合宿の終わりに4年生だけで行われる、格式の高いイベントだった。僕らの代での優勝は浅海昭。その後、数代は続いたはずだが、どこかで途切れてしまい、この栄光あるカップも行方不明になったままである。どなたか、情報をお持ちではないだろうか。”自分たちもやりました” というだけでいいのだが、お待ちしている。

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外は吹雪の中、この時の浅貝BHではこの歌が人気だった。帰宅直後に作った黄ばんだアルバムの1枚。仲間と火を囲んで歌う、というのも俺達のスキーの大切な一部だったが。

(船曳)平標のスキーツアーは、1964年にアサ会の足立(彼がリーダー?)と、+若干名で行っています。彼は晩年全く滑れませんでしたから、信じられないことですが、記録はあります。